これまでの議論において,行列に現れる成分およびスカラー倍の係数,連立1次方程式に現れる係数は いずれも実数であるとしていた. しかし,扱う数を実数に限るべき確たる根拠はどこにもなかった. 仮に
34収束列による連続性の定義を採用すれば,高校数学の範囲で示せることである.
35xn= (an, bn)とx= (a, b)の距離はピタゴラスの定理により√
(an−a)2+ (bn−b)2と計算できる.
36ここでいう対応が「和とスカラー倍の演算に関して整合的である」ことの正確な定義は,線形性を満たすことにほかなら ない.
37命題2.4.1では単位元の記号に1ではなくEを用いている.
あるとすれば,初学者にとってイメージが描きやすいということに尽きるだろう. ここで,行列に現れる 成分を有理数に限ったり,あるいは複素数も認めるといった状況を考えよう.
仮に成分を有理数に限定した場合,行列演算を繰り返し行っても成分に現れるのは有理数に限られ,行 列式の値も有理数である. また有理数係数の連立1次方程式の解も有理数である. 一方,行列の成分に複 素数を認める場合は,やはり行列演算後の成分や行列式の値は複素数となる. 複素数を係数とする連立1 次方程式の解も複素数である. このように実数および有理数, 複素数に共通した現象が生じる背景には, これらが四則演算で閉じているという共通項がある.
したがって,四則演算が定まる代数構造Kさえ与えられれば,行列の成分やスカラー倍の係数,連立1 次方程式に現れる係数にKの元を取ることで,Kに関する線形代数の世界が考えられうる. 四則演算が 与えられる代数構造は体(field)と呼ばれる. その形式的な定義は代数学の専門書を参照されたい38. 例 15.3.1. (1) 実数全体Rおよび有理数全体Q,複素数全体Cはそれぞれ体である.
(2) 整数全体Zは,整数どうしの割り算が整数になるとは限らないゆえ体ではない. 整数を成分とする 行列において, 行列演算後の各成分や行列式は確かに整数となる. しかし, 整数係数の連立1次方 程式は,整数でない有理数を解に持つことがある. これは整数が割り算で閉じていないことに起因 している.
(3) 無理数全体は体ではない. 無理数どうしの和が無理数になるとは限らないからである. 例えば√ 2 および1−√
2は共に無理数であるが(練習15.3.2),その和√
2 + (1−√
2) = 1は有理数である. 練習 15.3.2. √
2が無理数であることを認めたうえで1−√
2が無理数であることを示せ. 解答例: 仮に1 −√
2が無理数でないとすればこれは有理数であり, √
2は有理数どうしの引き算
√2 = 1−(1−√
2)で表せる. したがって√
2は有理数となり, これは√
2が無理数であることに反す る.
体Kに関する線形代数学では,次で定める線形空間を対象とする.
定義 15.3.3. Kを体とする. 集合V に対して和+,およびKの元に関するスカラー倍·の演算が定めら れており,さらに特別な元0∈V が与えられているとする. これらの演算が次の条件(ベクトル空間の公 理)をすべて満たすとき,四つ組(V,0,+,·)を体K上のベクトル空間または線形空間と呼ぶ.
I. 各元a,b∈V に対して和a+b∈V が定まっており,次の性質を満たす:
(1) a+b=b+a, (2) (a+b) +c=a+ (b+c), (3) a+0=0+a=a.
II. 各元a∈V およびr∈Kに対してスカラー倍r·a∈V が定まっており,次の性質を満たす: (4) r·(s·a) = (rs)·a, (5) (r+s)·a= (r·a) + (s·a), (6)r·(a+b) = (r·a) + (r·b), (7) 1·a=a, (8) 0·a=0.
本論で主題とする線形空間はR上の線形空間である. しかし,体としてR以外のものを採用しても,多 くの場合に同等の議論が得られることを頭の片隅に留めておきたい. 実は,体として複素数を採用したほ うが実数の場合よりも理論が綺麗になる部分がある. この点についてより詳しいことは固有値の項目で 述べよう.
例 15.3.4. Kを体とする. KとしてRを考えていた場合と同様に次が成り立つ:
(1) Kの元をn個並べた組(x1,· · · , xn)全体からなる集合をKnとする. これはK 上の線形空間で ある.
(2) Kの元を成分とする(m, n)-行列全体のなす集合をMm,n(K)と書く. これはK上の線形空間で ある.
38Kが可換な環であり,かつKから零元を除いた集合が積演算に関して群となるとき,Kを体という.
発展(体を線形空間と見る)
四則演算が成立する体K自身は,体の演算としての和と積を線形空間における和とスカラー倍と みなすことで線形空間になる. 例えば実数直線Rは座標軸が1つしかない線形空間である. 次に,二 つの体K, Lが与えられており,K⊂Lが成り立つ場合を考えよう. このとき大きい体Lは,小さい 体K上の線形空間とみなすこともできる. 例えばR⊂CであることからCはR上の線形空間とな る. このことは複素平面を通して,CはR2と対応づけられることからも分かる. 一方で,Q⊂Rにつ いてRをQ上の線形空間とみたとき,この線形空間の性質を調べるのは容易でない(実際,無限次元 となる). 一般に,大小関係のある二つの体の間にある対称性(すなわち群)を調べる理論を体論(ガ ロア理論)という.
複素数体Cの定義を思いだそう. 実数の世界に方程式x2 =−1を満たす元を新たに加え,さらに 四則演算が成り立つよう数空間を広げることでCを得る. x2 =−1を満たす数は二つ存在し(これ をa, bとしよう), このうち一方を虚数単位としてiと書き,このときもう一方は−iと書かれる. こ こで一つの疑問が現れる. ある人が虚数単位として数aを選び参考書Aを書き, 別の人が虚数単位 にbを選んで参考書Bを書いたとすれば,参考書Aのiは参考書Bの−iに相当する. したがって, 二つの参考書で述べられている議論を比較しようと思えば面倒な翻訳作業が必要なはずである. し かし,現実にはこのような作業は必要なく, 参考書A, Bを並行して読む際に翻訳を意識する必要は ない. これは不思議なことではないか.
体および群の概念が生まれた背景には,四則演算と根号のみを用いた5次方程式の解の公式の非存 在証明があった. 方程式の解を付け加えた体を考えて,解の対称性と方程式の関係を見極めることで, 解の公式の非存在性が理解されたのである. また,上で述べた翻訳作業が必要ないことは, x2 =−1 の解の対称性を通して理解されている.
16 いろいろな線形部分空間
例15.2.1におけるW[1,−1]とR2の関係や,例15.2.4におけるR[x]nとR[x]の関係のように,より大き な線形空間の部分集合として実現される線形空間の例がいくつも考えられる. これらを総称する概念と して線形部分空間なる概念を得る.
本節にて部分空間の数多くの例を紹介する. このことから,線形空間の枠組みで論じることのできる対 象がいかに豊富であるか理解されることと思う.