(1)佐賀平野の状況
背振山地(北山)は花崗岩からなり、風化した土砂が流出している。また、平野に出 た川は土砂を埋積して河床を高くしていき、洪水ごとに氾濫して新しい流路を造ってい る。そのため、洪水ごとに平野はひろがり、川は年々海を南に押しやっている。
(2)佐賀平野と有明海
有明海(前海)は遠浅の干潟と日本最大の干満の差で知られる特殊な海である。有明 海北部の海底には、南北の海底水道と間の海底砂州がある。また河口に源をもつ澪の延 長部に当る。
(3)佐賀平野と筑後川
大昔、有明海と瀬戸内海を結ぶ海峡で阿蘇の噴火や地殻の変動によって陸続きとなり その名残りといわれていた。地質学上筑後川が有明海に注ぐようになったのは、比較的
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新しいことだとわかった。松山−伊万里構造線上にあって、地溝帯をつくり、筑後川は その中を流れている。
筑後川自身の極めて大きな沖積作用で下流平野のデルタ地帯をつくり、有明海の海退 と共に海を南へと追いやっていった。そのため、筑後川は下流平野の一番低い所を流れ ている。そして、佐賀平野の形成や状況に大きく影響を与えた。
洪水ごとに川は溢れ、溢れた流水は再び筑後川に返る。氾濫、洪水の被害のポイント は、三養基郡三根町、千栗(ちりく)である。
(4)筑後川の洪水と佐賀平野への氾濫影響
筑後川が増水すると、蓮池、今宿方面まで逆流する。そのため蓮池以西及び以北の雨 水は、その「はけ口」がないので、千栗方面から佐嘉水ケ江城附近まで水が停滞し一面 の海となる。
兵庫が考案したといわれる佐賀江の「鑵子(かんす)のつる」(佐賀江の蛇行部)は筑後 川から逆流水の勢いをゆるめるために設けられた。現在は、「鑵子(かんす)のつる」は直 線化され、蒲田津水門で逆流をくいとめている。
(5)佐賀平野の河川
佐賀平野の河川には、かつては堤防がなかった。洪水ごとに佐賀平野を乱流、平野の 左右を流れ有明海に注いでいた。他の川との距離が離れていないので、両方から枝川が 流れ出てどの流域になるか分けにくいのが特徴である。
筑後川が平野の一番低い所を東南に流れるので、嘉瀬川以東の川は筑後川の支流であ る。佐賀江により、嘉瀬川が、一部筑後川の支流として筑後川の勢力圏に入る。
(6)嘉瀬川
嘉頼川は扇状地を流れ、川床は堤防の外の平野より高く天井川となっている。そして 天井川は、一番高い所を流れるので絶えず川の外にはみ出そうとする。そのため洪水面 では不利な状況にある。しかし平野に水を引く点で、佐賀平野では両岸に傘を開いたよ うに流れる性質を持っていて有利である。山麓を出てから原則として流れ込む支川を受 け入れることがないのである。
佐賀江により、嘉瀬川が、一部筑後川の支流として筑後川の勢力圏に入る。筑後川を 除き佐賀平野でたった一つの川である。
西側の堤防は一重、東側は内外二重の堤防で、西側の堤防より高く頑丈に構築されて いる。これは、堤防が決壊した場合、西側が決壊し東側は安全を保つことができる。
また、有明海が南に退いてできた干潟が土地を形成(与賀郡、川副郡)している。
(7)嘉瀬川による佐賀平野の地形特性
かつての嘉瀬川の旧河道(多布施川)の土砂を有明海の押し上げる潮が旧海岸線沿い に堆積させたことにより形成された微高地がある。(多布施川の自然堤防+海岸線東西の 土砂の堆積の結合)
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また、東西の微高地を避け左右に開き川が広がる(天祐寺川)。
・西への広がり:天祐寺川→クリーク→本庄江(江湖)
・東への広がり:小寺川、大溝川→玄海川→巨勢川→佐賀江 →十間堀川→今宿江(佐賀江)
多布施川本流→護国神社前→辻の堂(分流)→(佐賀市電話局)松原川分水→佐賀 城(壕)→(八田江北端と佐賀江の間)七つの水路→川副幹線水路(又は東与賀、
本庄)→クリーク→新川・早津江川・八田江
多布施川本流→護国神社前→辻の堂(分流)→与賀神社→本庄、東与賀 有明海が南に退きできた干潟が土地を形成した(与賀郡、川副郡)。
(8)佐賀平野の水利状況
旧河道(元主流、今支流)は佐賀平野の用水源としての意味を持つ。
「クリーク」、「江湖」と呼ばれる水利があり、また「淡水(あお)」と呼ばれる取水法 がある。
(9)クリーク
①クリークとは
流水を流しながらこれを繰返し利用する。平野の水不足地帯に水を持ち込み、流し てしまわないための容器が必要。それが「クリーク」である。導水路と同時に溜池で ある。
佐賀平野は水源が不足しているのでクリークの密度が高く、平野を南下するに従い、
貯水的意義が増大する。また、平野が極めて低湿のために、排水の必要が大きく、そ のためクリークが排水路を兼ね、また干潟時代の澪に基づく自然発生のクリークを元 に発達した。
洪水の場合、内水排除としての役割となるが、城原川、嘉瀬川に吸収されない山麓 の排水や、城原川、嘉瀬川からの溢流、下流部江湖からの突き上げ水があり、排水負 担が多い。また、時機に応じて、泥土を揚げ、満潮時と豪雨と競合するような場合で も、洪水の氾濫をなくす。クリークから揚げた泥土は、これを乾かして肥料として使 用していた。
②クリークの特性
1)自然発生的クリーク
二千数百年前には水稲栽培が行われ、当時は直播であり、常時湛水していることが 必須であった。そして、この江湖から逆流入して来るあおを水源とした。
自然の水依存を中心としながら用水施設としての溝や畔があり、それが原始的クリ ークである。
2)条里制時代のクリーク
古墳築造技術がクリーク掘さくにも利用され、クリーク網が整備された。
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大化改新事業として条里制が実施され、佐賀市北部一帯に見られる東西、南北の縦 横の構渠は、正に条里制に従って起った。(地名:神埼ケ里、駅ケ里、四条、五条)。
平野を縦横に乱流していた江湖および小河川は、整然とした計画のもとに整理され た。
3)中世荘園制下のクリーク
平安時代も半ば以後になると、力のある者が勝手に土地を開き荘園とした。割拠し ていた土豪達によって、小さな規模で開拓が進められて行った。
4)近世佐賀藩によって作られたクリーク
城下町形成のため周辺に穀倉地帯の用意が必要であった。また、城下町の軍防と生 活用水、周辺穀倉地帯の潅漑用水および生活用水に対する考慮も必要であった。各地 で独立して使っていたクリークは計画の下に、整然とした体系の中に織り込まれる。
(10)江湖
有明海は、日本最大の干満差がある(6m)。満潮時、潮は一番最初の海岸線までのぼ る。かつての干潟の澪、今では川になっている所に、潮が上下し深く広く掘りくずされ る。
有明海北岸低地、筑後川下流平野の特殊の景観となっていて「江湖」(江子)と呼ばれ る。川尻では、江湖と川の区別がつかない。江湖ははっきりした水源を持たない。流路 は極めて短かい。少し流れを遡って行けば、いつの間にか川らしい姿は失われて、上流 はクリークになる。クリークと江湖を断ち切りながら、これを結びつけている樋門があ る。
(11)淡水(あお)
有明海からの逆潮は一度有明海に流れ下ったはずの水をまた、潮の上に乗せて筑後川 をさかのぼり、さらに江湖を伝って、平野の隅々にまで筑後川本流の水を運ぶ。この潮 の上に乗った真水を「淡水」と言う。淡水は本流の形をかえた用水利用の形式である。
あお(淡水)取水で、井樋の場合、樋門でクリーク等に貯水利用するもので、これが 排水不良の一因となることもある。
7.2.2 兵庫時代の水利整備の要請
(1)佐賀城建設と背景
戦国時代には龍造寺家をはじめとする大小の豪族によって、兵糧米確保のための耕地 の開発が進められてきた。戦国時代各地の土豪は、龍造寺氏によって統合されやがて、
鍋島氏にうけつがれ、肥前国の東半(佐賀県の大部分)がその領地となった。
佐賀藩祖鍋島直茂、その子勝茂は、慶長十三年(1608年)から佐賀の現在の位置に城 を造り城下町を経営した。幅四十間の城濠を四角形に掘り巡らし、その東南角に天守閣 を築いた。
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城下町形成には、周辺に穀倉地帯を用意しなければならない。城下町の軍防と生活用 水、周辺穀倉地帯の潅漑用水および生活用水に対する考慮が必要であった。
(2)城下の整備と治水・利水
①洪水に対する四課題
1)背振山地から流れて来る洪水平野への浸入を防ぐ。嘉瀬川および城原川に対する対
策。
2)筑後川対策。
3)高潮対策としての海岸防禦。
4)江湖による下からの突き上げに対する考慮。
以上の四点を組み合わせた上で、クリークによる内水排除の方法を用いる。さらに以 上の洪水対策をうちたてた上で、平野にいかにして水を持ち込むか、それが佐賀平野開 拓の課題であった。平野を拓くことはクリークを拓くことである。
(3) 成富兵庫の登壇と治水思想
①成富兵庫頭茂安公
武勇、秀でた形勢判断、智略、臨機応変の誠意ある対外交渉の功を持つ武将であった。
秀吉は、成富の島津征服や高麗陣での武者振り抜群だとほめ酒盃を与える。加藤清正公 は、人柄、武勇、築城、撫民・治水・治山の功をほめ、一万石で招こうとした。
武人として天下に広く知れわたるが、藩内では高官将位でなかったため知られていな い。大事な作業などの時には、現場で人夫と寝食をともにし、休息も夏・冬の休暇もな く熱心につとめはげみ続ける毎日だった。
また、人を笑わせ、気をそらさず、思いやりの心が深く、人の世話をして皆を満足さ せる人柄だったという。
②民政への転換〜時代を眺める眼力
『最早や天下は家康公のものとなった。戦いもこれまでであろう。世は太平に入り年 とともに華美贅沢となるであろう。随って費用も今に倍加すること必定である。だから 土地を開き、水を理め、生産を増し、その備えをするのがこれからの仕事である』とは、
成富兵庫の言である。
成富の治水築城の巧者ぶりは、自然に自得啓発したものであり、五十歳以降に武人が 利用厚生の道に立ち、一国の治政を計画して国の根本をつくるのは異彩を放つ。
③神としての兵庫
佐賀農業の礎を築いた大恩人であり、農民の間には成富を水の神様と崇める人が多い 樋や井手を改修しようとすれば、「神様が造ったものに手を加えると罰が当たる。」とい われた。他人が造った物でも、良い物は兵庫の事業だと誤り伝えられているくらい崇め られている。
地名で茂安、兵庫地名が多くあり、白石神社は兵庫を祀る。兵庫祭りなど数多い。