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第四部 会 春慶大掛
嘉永六発五歳十一月端日良辰 従 四位下行左近衛 哲 中将
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伊達 藩 における宗教政策を論ずるにあたって ︑
1 ︑宗教政策とするばあい︑仏教とキリスト教をここ では扱か い︑神道は一応︑宗教 仁 属さない伝統的特殊信仰とし て 除外
する必要がある︒
2 ︑伊達 藩 における宗教政策は︑徳川幕府の宗教政策 と すくな くとも前記 1 にい う 範囲におけるかぎり︑異質的なも ありえない︒すな ね ち︑特殊イコール全的要素と形式 ならび
は 行為であることを知る必要があり︑すくなくともこ
当時における 各藩 共通の大前提でなければならない︒
立花 孝全 伊達藩の宗教政策 宗一手平臥 舎津 本城 乎襲恵 封閉 幾由 勅命有夫錦旗 手賜 闘乱闘 内乃 共創高人平平太 征伐 成賜 武士 欲源 敗亡三月升目早吉日出定夫二夜三日
春山寵幸請所轄 仰 顕者 大神等力哉 拙 御稜威 乎 戟塵邦君 仁添賜 地天
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3 ︑幕府の宗教政策のこのような中央集権的総括を基 本 とする
かぎりにおいて︑その政策が各 藩に 対するばあい︑ 絶 射的 服
従を必須とするものであり︑それが逐年︑幕府の成長 に原 | じ
て︑よ り絶対的となる要素を含んでいた︒
4 ︑幕府の宗教政策の本質の了解なしには︑ 各藩 の 宗 教 政策を
了解しえず︑特に伊達 藩 のように雄藩にして︑しかも 所謂 外
様 大名にあっては︑よりこの感を強くする︒
5 ︑宗教政策の本質形成にいたる経緯を了解する必要 ならびに
その解明によって︑徳川幕府およびその所属大名の ゐ不 教 政策
の 推移をみることができる︒
6 ︑所謂キリスト教弾圧 と 一般の宗教意識の真実性︑ および 仏
教 と仏教教団と仏教徒の非信仰的似非真実性を了解す ること
ができる︒
7 ︑上記宗教政策はい う までもなく︑信仰︑宗教意識 筆内面的
精神性を無視した形式中心の宗教の物理的面のみを 対 象 とす
る 統制政策以外の何ものでもなかった︒したがって ︑ゾ ﹂ く少
数の例外はあったにせよ︑宗教の本質から常に遊離し たもの
であったことの了解を必要とする︒
以上七点を本論の構成要素とすることによって我々は 伊達 藩
における宗教政策を知ることができよう︒
思うに︑徳川 期 伊達 藩と他藩 とを問わず︑たとえ譜代 ︑外様
0 差によって多少のニューアンスがあったとしても︑ ゐ 示教政策
は 本質的には同一であったし︑それはすべて徳川幕府 統制維持
のためのものに体ならなかった︒ 日本における宗教政策の確立をみるにいたったのほ ︑ 徳川 期
においてである︒もちろん︑織田氏︑豊臣民の宗教 禅
圧はあっ㎎
た にせよ︑それは一時的現象にすぎなかった︒したが って織田︑︶ 豊臣両氏の政権構成の一分子としてではなく︑単に一
特約必要③
に 対処するものであった︒しかし︑徳川の藩制確立と 同時に ︑
一時的であることは何等の意義も持たなくなった︒ そ れは︑ 宗
教 あるいは宗教事象を中心とするのでなく体制確立の ためのも
のであったからである︒い う までもなく︑徳川氏の 宗 教 対策は ︑
政治権力の絶対確立を目的とするものであったがため
期 にみられる よう に ︑ 単なる破壊活動を主とするもの でなかっ
た ︒寺院のもつ権力︑財産︵経済力︶︑軍事力の剥奪 も 永続的
意義をもつものではなかった︒しかしながら︑一向 一 楼 あるい
は 叡山等にみられるよ う に︑信仰に直結した勢力の核 心 および
その支配 力 に対する畏怖は︑権力支配者の常に抱くと ころであ
った ︒信仰勢力と対決するか又はこれに 迎 ムロするかが その対策
であったし︑前者のばあいは破壊の形で︑後者のばあ いはその
利用の形で表現される︒しかし︑徳川 期 にあっては︑ その何れ
をも併用することによって対策としたことは疑がう べ
くもな
い ︒ここに破壊というばあい︑物理的破壊ではなく︑ 精神的 破
壊 である︒宗教本来の生命である信仰を俗的な寺院 保 護 あるい
は 僧団保護におきかえ︑純粋さに 代ぅる にきわめて 低 俗な 身分
の 保証とか権威の保証あるいは経済的保証を以てした ︒しかも︑
これらの保証等は幕府あるいは各大名の手中にあった ここにおいて︑寺院は幕府のキリシタン対策の上に安 全かっ
第四部会
明治三十年代の後半から四十年にかけては性急な産業 革命が 達成され︑日本資本主義の発展路線が決定されよ 3 と する時期 であり︑それにともなって日露戦争︑足尾銅山鉱毒 事 件などが おこり︑末期には帝国主義的方向が明確に現れてくる 時代であ る ︒維新以来強大な外圧のもとに受容した近代西欧文 明 が急速
度 で日本の社会構造と生活様式を変化させ︑それに 伴 ぅ 矛盾が 立毛七口
森 河上肇の﹁無我愛運動﹂投入前後を通して 資本主・ 義 形成期の精神的苦悩
無為の俗吏としてのみ終始したことはい う までもない ︒伽藍 あれども本尊に生命なく︑僧団あれども信仰なく︑寺院 はただ 単 に 封建組織を支える一分子としてのみその存在価値を 認められ
るに至ったことは当然の帰結であろう︒
幕府における組織体制は︑そのまま 各藩 各大名領地に おいて 確実に守られたこともまた疑が ぅ べくもない︒寺請判 度は幕府 体制の保持のためであるかぎり︑ 各藩 それぞれに好む と 好まざ るとにかかわらず 確守 すべきものであった︒特に伊達 藩 のよう に ︑慶長使節をローマに送るなどの挙をなしたこともあ り ︑かつ また外様の雄藩であったがために恐らく 他藩 より︑ よ り 確実 忠
実に幕府の宗教政策を遵守することが自己保全への道 であった︒ 累積し︑国民生活の前途に深刻な不安をいだかせは じ めた時期
であった︒それは近代日本がはじめて感じとって構造 的 危機と いってよいであろう︒日本人の精神生活もこの危機を 微妙に映
出し︑すぐれた知識人を苦悩の底におとしいれた︒
この時期に深い疑問と不安を自己の思想に感じとった 知識人 は 多かった︒さし づめ 漱石や木下尚江などはその代表 的 ケース であろう︒漱石の四十年代の作品にあらわれてくる 精 神 約 失速 の 苦悩︑ 尚江の ﹁ 戯 侮日︵明治三十九︶以降の思想 転 国 がその 内面を明確に抽出している︒山崎正和 氏 はその時期の
特徴を
﹁日本の中産知識人にとって︑時代の変化がにわかに 重 くむの l 圧迫になり始めたのは︑やはり明治三十年代後半から のことで あった﹂ 尖 不機嫌の時代 b ︶ととらえているが︑その 苦悩は不 機嫌という感情にとどまらぬ強い宗教的意味をたたえ ていた︒
漱石の﹁現代日本の開化﹂で告白しているような主体 的 能力 の 欠落にもとづく夏珪はやや病的ではあるが︑時代の 実感を ょ く表現している︒﹁人間全体が幾世紀かの後に到着す べき運命 を ・僕は僕一人で僕一代のうちに経過しなければなら ないから 恐ろしい︒﹂という﹁行人 ヒ ︵大正一︶の主人のことば などは 文 明 批判に う らづけられた人間の危機をもっとも率直に 現 わした ものであった︒同じ危機を痛烈に感じた 尚江は ﹁ 繊悔 三席 卜お Ⅰ リ て ﹁泥酔の文明﹂を激しく非難し︑速かに﹁原始しへ
かえるこ⑨
どなよ びかけた︒両者のとらえ方には内からと外から の 視角の相違はあっても︑同じ時代の人間の危機を眼前にすえ
で 共通している︒当時すでに大家の域に達していた 二 人 に対し︑