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考 察 を 必 要と
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であ
る 。 コールの主張する愛の性格や︑さらに彼のキリスト教 的 終末論 の 解釈に関係しているため︑これらとの連関における 悪の問題 それはまた︑新たな 下コの @ 経に出会う場面を用意した ことにな 84 る ︒従ってこの時点を︑和解乃至戸ロ︒ロロ ロ ︒ h 申 ︐生生︒ mo ぃコ と 単純に
考えることはできない︒せいぜい個体の死 か 不幸な意 識
が結果︶
するのを見てとることができるだけである︒それでは真の和解㎝
はどこにあるか︒その答は宗教︑特に啓示宗教まで 待 たねばな
らない︒
このような展開が宗教の章でも同じようになされる︒ 第一に ︑
自然宗教では絶対実在が意識の前に直接的存在の形式 において
現われる︒第二に︑芸術宗教では意識の創作活動に ょ って め不胡笘
の形態を自己の形式にまで高め︑実体を主体化して 片 ヰ日のや 0 す
な 自己となる段階である︒そして第三に︑その究極の 形態であ
る 啓示宗教が登場するのであるが︑それを述べる前に 予め絶対
的 精神を見究めておく必要がある︒
精神について︑自己意識としての精神と意識としての 精神︑
或いは︑自らを精神だと知っている精神と現実的な精 神という
区別が立てられる︒前者は︑精神が直観する対象は精 押 それ 自
鼻 であるという面︑精神の本質にある通りに現われる 面 であり︑
精神の自己 知 ︑絶対知と言い換えられるものである︒ 後者は︑
精神が自分を自分の前に置いて表象する︵ セ 0 ︵︒ m 匡 ‑ のコ ︶ 面 ︑対
象を介して自己を表象する面である︒最初に述べた 意 識 の語形
態 に関する記述はこの側面に他ならない︒
これまでの諸形態ではこの両面がまだ完全には統一さ れてぃ
ない︒従ってこの区別を統一する展開の目標は︑一方 では︑立后
識の対象となる形態に自己意識の形態が与えられるこ と ︑つま
り ︑実体が自己自身を外化して自己意識となり︑主体 化される ことであり︑他方では︑自己意識が自分を外化して 物 となり︑
一般的実在となる︑即ち︑純粋意識の中で意識が分か れて出て くることである︒このような到達点は啓示宗教におい て 始めて
達成される︒
まず︑精神︵ 神 ︶は自分を精神として見出すために 精 神 自身 か 自分の他者性を定立する︒つまり︑受肉とその人 神 0% 牲と 死 という出来事が神の自己啓示なのである︒絶対実在 である 神 的 本質が自ら身をやっして現世的なるもの︑表象され るものへ と 移ったこと︑そのことはまた︑それが完結するため に人神の 死を結果する︒この事実が弟子達恒常に想起︵ 口 r. ぎコ の︵ 建臣ゅ ︶ さ れ 内面化され︑更に教団形成と教団の歴史の媒介に ょ って一般 的 自己意識となる︒ところで︑入神の死は単にそれの みを意味 するだけでなく︑彼岸としての神の死︑抽象的な神 観 念 とその 生命なき事態の死を意味する︒つまり︑この事実によ って単な る 思惟の純粋なる精神︵ 神 ︶と現実存在︵人間︶ とが 和解した
のである︒
しかし︑教団自身はこの和解を自分で産み出したとは 思って いない︒だから折角獲得した和解を︑過去への 撞惧と 未来への 期待として再び彼岸へと投げ出してしまう︒ここに ゐホ 教 の小売
合性と限界がある︒絶対知の章に﹁現象学 ヒの 最高位 を 譲る所
齢以
でもある︒ """""" 一 一 " 第 トマスにおける 窃 ほの問題には種々の側面があると 思われるが︑一般にはアリストテレス受容の観点からその 哲 ¥ 的 ・ 存 在 論的意義の論じられることが多 い 25 に見受げられ る ︒そこ で 今回は ︑仮 りにキリスト教固有の信仰との関連とい ぅ 観点か らその宗教的意義を考察してみたいと思 う のである︒ しかし︑
本稿は ︑ 言わば問題提起であり︑その五間自体に対し ても異論 の 存するであろうことを明記しなければならないであ ろ う ︒ トマスは︑自然的理性の光による所謂第一哲学が究極 的 目的 として神の認識に秩序 付 げられるべ き だと高 3 ︵のの ・Ⅱ H Ⅱ ‑ ㏄ 切 ︶ 0
例えば︑グラープマンもその重要性を認めている
が ︵ 0 ガ の簗 ︶︵ @f ︵ ︐ し目 已 N 円山門Ⅰロ
のの口才 円 トオ ︐珪 ゴロ ロげの
往コのヨ の 侍り㌧ コ ペ久村 曲 のの目の i‑ 円沌 eH ︶ づ甘 0 日がのⅡ 0 コレ 由廷ぎ ・ ヲ守お宙屈 e ヴ 0% 呂目 ︒ 汀 : づ ・ ひの の︶ ︑毬はを 論じた初期の小論文﹁ 有 と本質 仁 つい て ﹂︵しの 9 汀陣 ㏄ お口 ︵ @a では︑有の コ ㏄と本質 望晢由 p ︑木質 と 論理的 諸概念︑本質と定義等の関係から実在の第一原因とし ての 8お① ぢ
色目即ち神の先 在性 が帰結されている︒論理的諸概 念は形︵
相 ・質料に由来するが︑その形相・質料は本質を構成 するに 過 ㏄
ぎず︑実在の原因としては純粋現実態 っ ur 廷の滞︵口ので ある 8 ぉ @
マスにおけるののののについて
その宗教的意味 岩本一夫
豊き 日がなければならないし︑それが神であることを ︑アリス
トテレスの概念と論理を援用しつつ論証しているので ある︒も
し サルトルに倣って言うなら ぱ ︑彼とは異なる意味で ︑実存が
本質に先立っていると 見倣 すことも可能ではないかと
思われ
る ︒ジルソンは︑この点に関して︑アリストテレスの 所謂 神が
実体存在の原因に過ぎず︑トマスの お
お論がその実
体の存在論 ‑.0 コむ ‑0 雙 0 代ず き芯 ‑@C@ の
目
0 き団のⅠす い ︵ ギおを越え
て ︑所謂実存の存在論 けコ eo コ亘 ‑0 の @ のを 巳 貸室 繍 ne pro 官の ヨ の コ
達していると評価している︵ P. ひ ︵︵の 注 ㌔ 申は胃 n. トべ の ︶︒㏄ 0 ︶︒
実在的原理の側面では本質と es
はが
区別され︑論理 約諾 概念 が本質の構成要素である形相・質料に由来するとす れば︑
のののの ざまヨ は定義が不可能であり︑その意味で概念 ではない
ものとして把握されているよ 5 であって︑小論文を次 のように
結んでいるのである︒
の何のⅡ㎎ 0 ㌧㏄仲の田山 仁 0@ ︶ 0 宙 00 の㏄の コ 痒ののの 計 ‑ コの年ヴ ㏄ ヰり 目汁 コの 0 ㏄ ハり ‑
&0 ロ ヱぎ の・ 痒 pEo ヨミすぎのⅠ ヴの ︵ 臣由が no ヨ召 ゑ ︵が 痒 約ヨ でコ り ‑ ヴ 仁の・
0 日 由 Ⅰ 麓 ‑‑ 珪のⅡ @ コす抹 0@ づ臣 ‑ す けの ト コキの二 %‑0 コ のの片目 @ つり Ⅱのの冠の ‑0 的 @ め りの ぃ臣
せの 目 ‑ 臣 コ田 けコ e ︵ りの Ⅰ 乙で コ ミ 0 戸け 経 8 ヰヨ東 コ ‑ 臼の㏄ ‑ ヨづヱ り 目
目 0 コ 8 コ Ⅱ 0 コ ‑ 田 Ⅱ り ︵ ‑0 収め コ の ピ ‑ リ セ ひ ‑ の で の り ‑ の ‑ ひ円 で 0H り O 二のの曲 ︵︶ 0 下の〜︶ ひの
隼の H@ コ @ ︵ @0 ㌧Ⅰ 0 づ ︵ 0 Ⅱの 由 p@ つめ @@ 〜︶Ⅰ ‑@n@ ︵ 曲 かめ 〜︶:・︵ @ イ ︵・㏄ い ︶
こののおせ 8% ぃヨ 0 には創世記冒頭の舌口薬﹁初めに 神 は天と
地を創造された︒﹂と共通する発想が認められるので はないか
と 思われる︒即ち︑所謂第一哲学の方法は ︑ 全ての 存 往者の原
理 05 目 ぎヨ e コ ︵ @u ヨづ ﹁ @ コい ざ ぎヨ ︵ ま : い鰐 ・ P ︶である 限りでの 神の存在とそれに通ム ロ する事柄の認識に到達し得るが ︑ 神 自身 は ﹁被造物の全秩序の外﹂ 鍵 % 安之 ヨ ︒ 邑 ぎの ヨ目 9 ぎ Ⅱのの︵ 侍す :
ゲ Ⅱの︒〜︶にあるのである︒従って︑トマスは︑全校
造物がこ︶
の 超自然的第一原因としての神を指し示し︑それに 秩 序 付け ち ③れるべき存在論的一つの大系をののののによって意図し たと言っ
て よ いかと思われる︒
トマスは︑この 伊はる ㏄年ヨとしての神が﹁ 出ュ ジ ブ @ ㍉ 託 ﹂
0%@ 紺 日向日省 ョ ・︵の 0 三︶に啓示されていると 舌 ロラ ︵ 田 ・・
とか ㏄の色の 0 コ % ミ n. の・・ H. 燵 ︶︒そして︑啓示は人間 救済の為
に 必要であったとして次の如く﹁神学大全ヒ に 記され ている︒
コ R は 組目二日 片佳 ‑ 侍ぃ 口す 屈 ヨロ コリ ヨのの ‑ 目宙ヨ︑ 0 のお 建 R 田口コ が 目ア由 Ⅰ 麓 0
由の づ @ ののり目コ 由由 つつ @ 0 セ e‑ の 目 0 さの
コ隼
@ @ づ ‑ 二の ヨ ㌧ ヘド ⑭ 叶 e Ⅰ で す 由 0 の 0 づゴ ‑ り いの臼お @ で目むりの・ 由 E ㏄ o Ⅰ ぃ目 0 二の す Ⅰ ヨのコ ㏄ ‑ コづ 9 才的ぃ 俺冊甘 Ⅱ︵ 任 す・ " Ⅰ・ ト ‑ ト ︶
とすれば︑ジルソンの如 き 実体存在論の超克という 哲 学 史的
観点とは別に︑何故トマスにとってアリストテレスの 形而上学
的 原理としての形相質料の外に更に実在の原理として のののの㏄
が 必要とされたか︑という観点からの設問も可能では ないかと
思われる︒そして︑この点にこそ既に︑ es
ほの宗教
的 意義が潜んでいるのではないかと思われるのである︒
仮 りに右の如き角度から考えるならば︑人間の救済は ﹁受肉
された御子と聖霊の賜物によって成就される ピぜおづ 9 由り ぎ岸 Ⅱ
で ㏄Ⅱ 弓 @ 二 %@ ゴ ︶ 臣りミコ いけ 年 @ ア り叶つめ Ⅱ 缶 0 コ 年 リ @ の で目 二年ののり コ C ︵
㏄ N.P ︶のであるから︑ e のののの問題は ︑ 更に ぺ ルソナ との関連
0 間 題 にも帰着するのではないかと思われるが︑この 点 につい
における宗教の本質について
北川直 利
として受け入れられている︒これは基本的には妥当な 解釈であ ものと個体性・有限性の意識とが密接に結びついてい る 点に十 分留意しなければならない︒その関連を明らかにし︑ そこに フ オイエルバッハにおける宗教の本質・根拠を認めるこ とが︑ 以 下の課題である︒ ﹁キリスト教の本質﹂は︑まず第一章において人間の本 質の 解明から始まる︒そこでは人間と動物の本質的な区別 として︑ ﹁厳密な意味での意識﹂が提示され︑その特性として 自分の 類 ・自分の本質を対象にできる点が強調される︒つま り ︑一定 の 外的事物に拘束されている動物の本能的意識と異な って ︑人 間 的意識は本質的に無限な本性をもっており︑個体性 を 超えて︑
出する際に ︑
ては今後に譲らなければならない︒ 人間的意識をまず前提した点である︒しかるに︑現実 0 人間的意識の中には︑彼の言 う 類 約 本質の意識から区別され る
個体
性 ・有限性の意識があるのを認めないわけにはいかな
﹁人間的個体が自分の限界や有限性を意識できるのは︑ もっ ば ら 類の完全性や無限性が人間的個体にとって対象にな っている からだ﹂と述べるが︑実は﹁類の完全性や無限性﹂が 対象とな るのも︑人間的個体が自分の個体性・有限性を意識し ているか らではないのか︒従って︑人間的意識の構造は︑類 約 本質の意 識 と個体性・有限性の意識との相関的な関係において 成り立つ
のではないか︒
さて︑宗教の具体的発生の場面においては︑以上の人 間 的意 識 のみが問題ではない︒人間的意識の現実の担い手た る 個人が ︑ 同時に衝動的なものの主体であることが問題なのであ てり 0 口舌 不 教の本質Ⅱ﹁宗教の本質に関する講義ヒ が 個人心理学 的 色彩の
濃いのは︑こうした理由に基︒つく︒
この二つの著書の中で︑宗教発生の解明の中心となる 概念は
﹁利己主義﹂である︒これは︑人間が生命体として必然 的に ︑ 自分にとって役立つものを占有し︑危険なものを遠ざ げ 23 と する衝動であり︑動物の本能的自己保存衝動に連なる ものであ る ︒それ故︑この﹁利己主義﹂は何ら道徳的意味合い ものでな く ︑人間的意識を前提しない生物的次元で措定されて いる︒ し ③ かし︑﹁宗教は動物からの人間の本質的な区別に基づい ている﹂
ことからして︑宗教というきわめて人間的現象の発生 の根拠を︑ 78
直ちに﹁利己主義﹂に求めることはできまい︒動物的 次元に留