祭 井 先 師 祭 祝 詞 ﹂
からみる盤竃神社の学問の系譜像
﹁二
法 祭 井 先 師祭 祝 詞
﹂に
つい
て
本机では︑ぷ幻家文れ
けか
ら発
比された資料
﹁ 二
川必
然井
先制
的対制詞﹂を考察の対象とした︒この資料から明治初則の腕也
神社の状況を窺うことがことができ︑それによって時代の影
側 一
H下によって生まれた脚岱神社の学問の系譜像を検証するこ
とが本析のけ的である︒まず製作芥と年代については拠川に
﹁明治二年秋︑よ引成点作﹂との記述がある︒
この志到脱存氏については︑志賀家文書の一つとして本資
料集にも掲載されている﹁志賀家歴代当主啓上げ﹂に︑九代
H
のぺ主に
少寸
たる
人物
とし
て﹁
信濃
鹿取
日
﹂の名があり︑さら
には
明治則に記された一
μ
和のF
丹きには﹁問自社制部﹂とい
う記械があることから︑芯白川水当主の一人として脚趨社の枕
部を勤めていたようである︒また︑文政五年付
けで
志賀
府立
口
氏に対して発給された神道裁許状があり︑同八年には﹁志賀
城 所 喬 男
い 布
川政守藤原朝臣民喜﹂の銘で祝詞が記されていることから︑
幕末から明治にかけて判職として活動し︑﹁
多白神社
由米川
LL﹂や﹁臨也社神家伝米十日記﹂などの記録やりし刀き︑
ιw
には
父川
りを
市う
ため
の祝
詞な
ど︑
長 ﹄
Aり
多くの文丹を残した人物と
わかる︒
次に﹁二
一主
祭井
先
師祭祝詞﹂に記されている祝詞が唱えら
れた祭りについてであるが︑﹁脚溢神社史﹂が大塚徳郎氏の
引く﹁
胸部川
例古必写﹂や︑
u"
日﹂
一壮寸の記録にも記載がなく︑現在行われている記録もない︒
志賀
川添
文引
の
﹁一
向年中神務
後述する内容から見て︑例祭のように毎年決まった期日に
行う祭りではなく︑明治二年前後に例外的に行われた祭では
ないかと舵測され︑然りの内特についても資料から類推して
いかなければならないだろう︒
では︑この祭りで和られている﹁先師﹂
とは
誰を
指し
︑醐
川
也神社にとっていかなる立味を持つのかを明らかにするため
「二:;lf,り1・先制j祭祝詞」からみるI,¥N.世相11社の学IIIJの系郡保 27
に︑資料の一部を引き︑その内符の解説と検討を行っていき皇帝命は刊本書紀を撰ひ給ひ朝臣命は古事記を記し給ひ
28
‑ ︑
OJ
'' ' v て天地の判し時より神の御代の御代
J
天皇命の泣つ御
なお
︑
本資料は税調の仮名地いやニ般的な仮名に変克して代の御代御代の天沖日嗣の御次手を始て附間に布とし有
いる
︒また︑旧字などについては︑哉書の基準に合わせて適
けむ
雑々
故事
を漏
る事
前川
市附
る事
組⁝
委
山に撰ひ給ひ記し給
時変更させていただいた︒ひて天地の北ハ弥速長に天皇制廷の大御宝と逃し給ひ伝へ
二円
出
始先附
等祭 止
H M
給ふ広き以き大御必に依てし千年一九円年の後の祉に述遅凋掛巻も長き崇道尽敬皐帝命の大御一虫︑
中小
楽大
朝の民部卿なく捌き某等が友賀・以に至までに遥けき神代の市ける形
太朝臣命の御霊二柱︑御霊の大前にを宇迦々ひ尋ねて明けき長き御代のなを百筒が一も悟知
山崎敬北大人御完引
料てし荷
思舶をて
つの 御品
川読本る何度に頂に掛持て
吉見幸和大人御霊
本居宣長大人御霊 川氏
み字
礼斯みなも思給ふ故此迫を山崎敬義大人
・ 古
川 ん
幸
モハラオ
シ エ ミ チ ヒ 4サ
トシ
和大人は
U
本 書 紀 を 専 一 に 教 導 き 本 府 宜 長 大 人
・
ヨミキハメ平川伐胤大人は占引
け 山 山 を講究給ひしより
・行伸行咋の平問符胤
大人
御小
川 鈴木附金大人御定小にも此の道に長たるは鈴木附金大人・藤塚知直大人
藤塚知直大人御霊佐藤市住大人・藤塚知明大人・阿部時中大人是の大人等
佐藤山性大人御詰の教へ給ひ導き給ひし
J P
山 伝 授陀 ハは 伐て は有 と
雌も世以
藤塚知明大人御災へmH
ひ学ふ者稀にして己絶なむと為るに宅る又
阿部時
阿部時小大人御軍大人
・鈴
木繁大人は当社の大神の御為に忠義を尽し功績
阿部時山大人御話を残し勤汗とも時附に会はす佐須良比の身と成給ふ如朋
木
繁大人御お等の布し市けも智他同仏徒之辺の行れて千除行年にして様なれ
御前に嗣官等敬礼
J
︐Xみ長みも‑ m
給はくと申すは別当と云僧に宮杜も官さ受るに至れは是大人等も心根を徹氏事の不能して械き愁たき
世
に過給も然に
去
年の秋 現 人 神 と 坐 す 暁 仁 天 皇 ノ
明
治元己年天下に初回知喰主
御
代 初
・に皇帝命の勅
以て諸国中悉く大き小き
神社に
於て神を仏と混請は廃去給て神道唯
一つに為給ひて神
日
本磐予彦天皇の御代の古に復せとふ云勅舎有て世は
一ひ 新にして清々しき神国と成し給ひ ま ず
︑こ
の資料は冒頭で﹁崇道尽敬
皇
帝 命
﹂・﹁寧楽大朝の
民部卿太朝臣命
﹂・﹁山崎敬義大人御霊﹂・
﹁吉
見幸和大人御小
説 ﹂ 等の杷るべき対象の御霊を挙げている
︒
その中で
︑
最初に名 前が挙げられているのが﹁崇道尽敬皇帝命﹂と
﹁寧楽大朝の 民部卿太朝臣命
﹂の﹁御皆川二柱﹂である︒
この御霊こそが題 名にな
っている
﹁ 二 笠祭井先師祭祝詞﹂に掲げられている
﹁二
実﹂ であろう
︒﹁
崇道尽敬皇帝命の大御霊
﹂
については︑こ
の﹁
崇道尽敬
﹂
という追号と﹁
日
本古紀を撰ひ給ひ
﹂
という 記述から
︑
舎 人 親
王
であることがわかる
︒一方の﹁
寧楽大朝 の民部卿太朝臣命
﹂
は ︑
﹁民部卿太朝臣
﹂
と﹁古事記を記し
給ひ﹂
という記述から︑太安万似を指していることは椛笑と
いえる︒
この一一
人 を 第
一に
挙げ
︑
﹁二盆﹂
という形で別格の地位を 与えていることは︑記紀というテキス
ト
を編んだ事が
︑この
先師祭の中で特別な意味を持っ
て
いることがわかる
︒それに
つい
ては
︑
﹁天地の判し時より
﹂
から﹁畏み宇札則みなも忠
給ふ﹂
までの
表
現によ
っ
て若されている
︒この一節の中で︑
天地の判れた時から神
代
︑天
皇
の治世までに起こ
った様々な 事柄を漏らさず委山なく記録したことによ
って︑今
H
の人々 が神代の在り様を知ることができるようになったと讃え
てい
いての道を(人々に る
)
教
え 山
導 111奇
き
1
故義
5
本 と
居 古
旦 見
長
5
幸と 手IJ@
玉
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が 回 日 篤 本 )自
L E:
古が 紀 古 に 事 つ さらに祝詞は続けて
︑
記を講究したと
言
及している
︒
脱也神社の神官述も彼らの
学
問に川紛糾を受け︑鈴木晴金︑藤塚知直︑佐藤消住︑藤塚知明︑
阿部時中らが学術
面
を進
め︑
阿部時や鈴木繁とい
った神官が 祭神のために活動をして功績を残したとしている
︒
しか
し︑
学術而においては神官らが教え導こうとした書記伝授は
﹁残
ては布と雌も世哀へ習ひ学ふ
者
析にして
己
絶なむと為るに
至
る﹂
というように︑その継承が絶えてしまい︑村官らの活動 についても﹁時世に会はす﹂さすらいの身にな
ってしまった
と述べている
︒そして︑陥川越神社の神官の学山・活動が近世
社会
で受け入れられなか
った原因として︑この資料は仏教に 責任があるとしている
︒
「プ主祭)j:先日iIi祭枕詞」からみる開港1'1!1ネ!ーの学IIIJの系統像 29
それまでの日本では児同の道である仏教が千年以仁に一H .つ
て繁栄し︑脳血龍村社も
神官
寺である法越年が支配していた︒
それゆえ神官達もその心恨通りに徹することができなかっ
たとしている︒それが明治にな
り ︑
いわゆる神武創業とも
一 一 首
われる︑神道を主とした判武天皇の時代への回帰という天白
の勅が出されたことで︑神仏混祈が廃され神国となったと芳
いでいる︒
﹁ 二 主祭汗先制祭似初﹂の内容をまとめると以ヒのような 内科である︒この内政什からわかるように︑ここまでの机訓の
一安
点は
次の
二点に集約される︒
l︑舎人親王・よ安万机にはじまる学川の系請を脚笥の神
(日が継承していたこと︒
2
︑江戸時代は仏教が中心であり︑盟趨の神官が継承した学問が生かされることがなかったが︑明治になり︑世
が改まった︒
﹁ 二 霊祭井先
師
祭祝詞
﹂の内
科はそこからさらに︑世が改 まったことで先仰の設が胤められたとしている︒この机詞の
主艇の背はとして考えなければならないのが︑明治初則に起
こった神仏分離であろう︒
明治
政府は当初︑
神道を同教とし
た祭政一
致の国家を
H
指していた︒その理念を原動hM
とする 政策を行い︑それまでの神仏が判介した状似を俄壊して︑十日
30
代にあ
ったと想定していた純粋な﹁神辺
﹂を一内
生
(あるいは
創山
)しようとしたことは︑今
H
広く知られている︒この祝詞は明らかにこの神仏分離を礼賛することに主眼が位かれて
いる
︒つまり
﹁ 二 霊祭井先師祭税制
﹂が神仏分離という運動
に呼応する形で作成されたイレギュラーなものであったこと
を物削
って い
る︒
明治政山内で神仏分離を舵し進めた中心グループであった
平川派の制である↓巾r
山鰐
胤と
︑
その仰に当たる
本川
けん長が先.
川に選ばれていることも︑
k
一川山の時代背以と無関係とは一. パ い
切れないのではないだろうか︒
bへ ・ ﹄ ︑
︑peり
s ' u '
その点を念顕に前きながら︑
﹁ ニ
霊祭井先師祭祝詞﹂
にて配られている先師の系譜︑その中でも︑明治以前の近附
を巾心に問題として取り上げたい︒
﹁二
霊 祭 井 先 師 祭 祝 詞
﹂
の 系 識 の 点 偽
近川の・脚龍神社の学川の系訓の川姐を与えるヒで前提とな
るの
が︑
近世の臨也神社の学問の状削である︒そのためにま
ず山
けすべきことが︑
近附則に闘世州
社での学川の雁
山 ん
の卜
.
で一つの大きな契機と
なっ
た︑仙台部が主導した臨白神社の