8-1. 「中所得国の罠」の参照枠組みと持続的成長のための基盤
8-1-1 持続的成長を支える基盤・制度に関する先行研究
4 章で検討した通り、ソロー成長モデルに従えば、経済が長期的な均衡(定常状態)にあ る場合、経済成長は技術進歩の度合いで決まる。しかし、ソロー成長モデルでは、技術進歩 を外生的に与えられるため、なぜ経済発展が長期的に持続するのか、その理由を説明する上 で限界がある。
これに対して、技術進歩を経済活動の成果と見做して成長モデル内部に取り込もうとする 内生的成長理論が、Lucas[1988]等によって展開された。内生的成長理論のフレームワークで は、技術進歩は、物的資本の蓄積や教育訓練・R&D 等を通じた人的資本あるいは知識の蓄積 によってもたらされ、それが長期にわたる経済発展を可能とする。
技術進歩、あるいは物的・人的資本の蓄積の成否を決定する要因として、地理、気候、文 化的条件などが挙げられてきた。しかし、同じ国でも時期によって経済パフォーマンスは異 なる。また、同じような地理、気候、文化的条件にある国の間でも、発展度合いに違いがみ られる。こうした差異を説明する要因として注目されたのが、経済主体の費用便益分析に影 響を与える「制度」的条件である。
制度と経済成長の関係に関する代表的研究業績はNorth[1990]である。Northによれば、制 度とは「社会におけるゲームのルールであり、人間が作る諸制約であるが、このルールや制 約が人々の取引、人間の相互行動を規定するもの」である。ここでは、成文法のようなフォ ーマルな制約だけでなく、慣習に代表されるインフォーマルな制約も含まれる。そして、制 度は、採用される技術と相俟って取引コスト、生産コストに影響を与えて、経済パフォーマ ンスを左右すると主張する。
より具体的には、経済成長は経済主体の積極的行動によって実現されるが、制度の内容如 何で経済主体を刺激したり、逆に行動を制約したりする。また、制度が明確化されることで、
経済主体間の取引コストが低減されやすい。例えば、所有権制度の整備や契約履行の保証度 が高まることで、経済主体のリスクを低減させ、積極的投資につながるだろう。こうして、
制度が経済パフォーマンスに影響を与えるものとなる。
8-1-2 経済発展段階論とソローモデルからの導意
このように、「制度」が持続的成長に重要であると考えられるが、では中所得段階の発展と どのように関係づけられるだろうか。
一国の経済発展過程はいくつかの段階で捉えることが出来るが、トラン[2015]は、貧困の 罠に陥っている低所得段階、低所得から中所得段階、中所得から高所得段階という発展過程 について、ソロー成長モデルと関連づけて説明を試みた。以下では、このトランモデルを参 照枠組みとして、中所得段階を低位、高位の 2 段階に分けて、各々の特徴を明確にした後、
各段階で具備すべき制度・基盤を検討したい。
図8-1 経済発展諸段階とソローモデルの関係
(注)AB: 伝統社会、貧困の悪循環
BC: 経済発展の初期段階、貧困からの脱出
CD: 低位から上位中所得へ DE: 高所得への持続的発展 CC’: 低位の中所得の罠 DD’: 上位の中所得の罠
(出所)トラン[2016] p.78
図8-1の上部分は、時間的経過に伴う発展状況を叙述したものである。横軸は時間的経過 を、縦軸は所得水準(1人当たりGDP)を示している。AからBまでは、未開発の伝統社会 の段階である。この段階は、低所得であるが故に低貯蓄、低投資をもたらし、それらのため に所得が向上せず、低所得にとどまるという、いわゆる貧困の悪循環が生じている。この段 階の経済は自給自足の性格が強く、伝統的ルールに基づく取引で市場が未発達である。
次段階のB からC を経て D に進む経路 BD は、何らかの要因を契機として経済発展が起 動、成長軌道に乗る段階である。ここで、発展の起動とは、経済改革が遂行され、発展の糸 口をつかむケースや外資の積極的な進出で発展が促進されるケースなど様々といえるが、い ったん成長軌道に乗った経済はしばらく成長を続ける。
発展軌道に乗った経済は、一定程度の発展を続け、やがて所得水準D点に到達するが、こ こで経路は2つのケースに分かれる。それは高所得にステップアップし、E点に達する場合
とD’点のように発展が停滞する場合である。経路 DD’にみられる停滞が中所得国の罠の状況
と言えるが、その分岐点であるD点はどのような経済的特徴が観察されるだろうか。
経済発展をルイスの二部門モデルで考えると、工業化によって労働力は農業から工業部門 へ移動するが、やがて農業部門の余剰労働力が枯渇する転換点となる。いわゆるルイスの転 換点はD 点の近傍とみることが出来る。また、発展の初期段階は資本蓄積の成長への貢献が 大きいので、要素投入型成長が特徴的である。その後、資本の限界生産性は徐々に逓減して いくので、全要素生産性の役割が重要になってくる。従って、D 点は要素投入型発展から全 要素生産性の役割が増していく分岐点としても捉えられる。
この点をソロー成長モデルとの関係から、吟味する。図8-1の上部分と対応させるように、
ソロー成長モデルを叙述する。横軸は 1 人当たり資本ストック、縦軸は 1 人当たりの生産、
投資水準を表す。
図 8-1のAから Bまでは貯蓄・投資が低水準で人口増加程度しか増加しないため、労働 1 人当たり資本蓄積が進まない(労働 1 人当たり資本ストックはゼロ)。しかし、何らかの要 因を契機にB点から発展軌道に乗った途上国は、初期の技術水準の下で投資(投資曲線i1y)
を行い、資本蓄積を続ける。これに伴い、1 人当たり産出も産出曲線 y1に沿って増加し、B からC点のように低所得から低位中所得段階へ、更に高位中所得段階であるD 点に向かう。
ここで、高位中所得段階D点に達した国は、技術水準など初期条件に変化がないとすれば、
初期条件に基づく定常状態に近づくにつれて、所得増加ペースは遅滞を始める。そして、技 術進歩に伴わないまま投資率を高めても( i1yからi2yへのシフト)、産出量はy1曲線上でD
からD’へ進むだけで、所得を向上させることが難しくなる。他方で、技術進歩に成功した国
は投資曲線が iy1から iy2へシフトするのに伴い、生産曲線も y1から y2へシフトする。この 結果、所得は点Eまで高まる。こうして、高所得段階に達することが出来る。
中所得から高所得段階にステップアップが図られる過程では、量的投入型から生産性主導 型の発展パターンの転換が求められることになる。換言すれば、発展パターンの転換を図る ことができない場合、成長の停滞、いわゆる罠に陥りやすくなる。
ところで、図 8-1のB点から経済発展を起動させた国では、伝統社会に根ざした諸制度(文 化・習慣、封建制など)の中で発展の阻害要因を打破し、市場経済化に必要な近代的な制度
(例えば、財産権、企業法、外資導入法など)を整備していくことになる。制度が整備され ていく過程が経路 BD で行われるが、D 点に到達できず途中の C 点近傍で経済が停滞、CC’
のような経路をたどるケースも想定できる。これは、行政上の煩雑さや脆弱なガバナンス(政 策の透明性の欠如や腐敗など)などによって、産出の拡大に寄与しない投資が実行されると、
資本蓄積のスピードが遅滞、場合によっては投資率が低下し投資曲線が i0y に下方シフトし てしまう。こうした状況を、本章では「低位中所得の罠」と呼び、中所得段階での成長の停 滞を高位段階と低位段階の2段階で捉える(D 点からの成長停滞は「高位中所得の罠」と呼 ぶ)。
では、中所得国が「中所得の罠」を回避し、持続的発展を続けていくための要件や基盤と は何か。以上までの議論を踏まえれば、高位中所得段階では投資や労働といった要素投入型 の成長から生産性を主導とする成長パターンへの転換が必要となってくる。そのためには、
①最先端の技術を吸収できる人材養成のための高等教育・研修制度、②最新の知識・情報へ のアクセスを可能にする高度な ICT(情報通信技術)インフラなど科学・技術基盤、③成長
のための投資資金供給に資する金融市場の整備、さらに④財取引を効率的に行うための環境 整備などが必要となろう。
他方、低位中所得段階は、労働がまだ過剰な経済であり、要素投入型成長の余地が残って いる。生産要素投入型の発展を遂げる段階では、海外からの直接投資を含む投資活動の活発 化や、一定程度の教育レベルを有する労働力が農村部からの都市部へのスムーズな移動を促 すなど要素を投入しやすい環境を整備する必要がある。こうした観点からは、政府の役割、
統治能力が重要であり、広義のガバナンスが確立されている必要がある。
ここで、「ガバナンス」とは一般に統治、支配などを意味するが、世界銀行は「ある国家に おける経済的・社会的資源の管理において、行使される権力の総称」と定義し、グッドガバ ナンスは「説明責任」、「法の支配」、「情報と透明性」が確保されることが重要としている。
本章では、下位段階で必要とされる制度・基盤として、政府の役割に着目し、ガバナンスを 中心的指標として考える。