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三 史 の 講 書 と の 関 わ り か ら ―

はじ めに 上

代 にお け る 日本 紀 講 書は

、 弘 仁・ 承 和

・元 慶

・ 延喜

・ 承 平・ 康 保 度 の 六 回に 亘 っ て行 な わ れた

。こ の 六 回 の講 書 の 諸問 題 に つい て は

、訓 詁 学 や 歴史 学 の 分野 で す でに 多 く の 研究 が 蓄 積さ れ て いる

。し か し

、平 安 前 期 の姓 氏 問 題、 官 学 の変 遷

、 皇 統の 交 代 を背 景 に した 歴 史 学の 視 座 か ら 行 われ た 考 察や

、 日 本書 紀 の 訓 読を 中 心 とし た 訓 詁学 の 視 座か ら 行 わ れ た 考察 が 中 心で あ り

、大 学 寮 で 平素 よ り 開催 さ れ てい た 中 国三 史

( 史 記

・ 漢書

・ 後 漢書

) の 講書 と 日 本 紀講 書 と の関 わ り を詳 細 に 検討 し た 上 で

、 日本 紀 講 書の 位 相 を捉 え る 論 考は 未 だ に少 な い

。 近 年

、梅 村 玲 美氏 が

『 西宮 記

』 にお け る 日本 紀 講 書に 関 す る記 述 と

、 天 皇「 御 読 書」 な ど の漢 籍 講 書に 関 す る記 述 を 比較 し

、「 尚復 唱 文

」・

「 詠 詩 之 冊」 と いう 側 面 にお け る 両者 の 共 通点 を 指 摘し

、日 本 紀 講 書の 儀 式

が 漢 籍 の 講書 の そ れに 影 響 され た 側 面を 浮 彫 りに し て い る

。 本 節 で は

、 こ の よ う に漢 籍 の 講書 と の 共通 点 を 検討 す る こと を 通 じて 日 本 紀講 書 の 位 相 の 一 端を 明 ら かに し た 梅村 氏 の 研究 方 法 を手 が か りと し て

、中 国 三 史 の 講 書 との 相 違 点に 視 線 を向 け

、 双方 の 独 自性 を 見 出す こ と によ り

、 日 本 紀 講 書の 位 相 に新 た な 光を 当 て るこ と を 企図 す る

。そ こ で

、中 国 三 史 及 び 日 本書 紀 の 講書 の 性 格や 意 義 を反 映 す る様 々 な 要素 の 中 でも

、 殊 に 相 違 が 顕著 で あ る講 書 の 受講 者

、 講書 の 場 所、 講 書 の終 了 を 祝う 竟 宴 の 状 況 に 着目 し

両 者 の特 徴 を 対照 す る こと に よ り、 双 方 の平 安 前 期に お け る 展 開の 様 相 を明 ら か にし

、 特 に大 き な 変貌 を 遂 げた 元 慶 度の 日 本 紀 講 書 の 意義 に つ いて 再 検 討し た い

。 一

、講 書の 受講 者 講

書 の 目的 や 意 義は

、 講 書の 対 象

、即 ち 受 講者 の 特 徴 を考 察 す るこ と に よ り

、 その 一 端 を窺 い 知 るこ と が 可能 で あ る。 つ ま り、 講 書 が如 何 な る 人 の た めに 行 な われ て い たの か と いう 問 題 は、 中 国 三史 と 日 本書 紀 と の 講 書 の 意義 を 明 らか に す る作 業 と 直接 的 に 繋が っ て いる も の だと 言 え

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る の であ る

。 本節 に お いて

、 六 国 史を 始 め とし た 史 書や

、 平 安前 期 の 詩 文 集 にお け る 関連 資 料 を調 査 し た とこ ろ

、 中国 三 史 と日 本 書 紀と の 講 書 が

、そ の 受講 者 の 構成 に お い て顕 著 な 相違 を 示 して い る こと が 判 明し た

。 中 国 三史 の 講 書が

、 奈 良時 代 以 降

、天 皇 及 び国 家 官 吏の 候 補 生た ち を 第 一 義 的な 受 講 者と し て いた の に 対 して

、 日 本紀 講 書 は、 前 者 にお い て 第 一 義 的受 講 者 であ っ た 天皇 を 除 外 し、 一 部 の国 家 官 吏を 主 な 講書 の 対 象 に し てい た の であ る

。さ ら に

、日 本 紀 講書 自 体 は、 弘 仁・ 承 和 度に 対 し

、 元 慶 度以 降 は

、そ の 受 講者 と し て の国 家 官 吏の 構 成 上で 大 き な変 貌 を 見 せ て いる

。 以 下で は

、 中国 三 史 と 日本 書 紀 との 講 書 の受 講 者 をそ れ ぞ れ 明 ら かに し

、 両者 の 特 質を 総 合 的 に考 え て みる

。 中国

三 史の 講書 の受 講 者 中

国 三史 の 講 書に つ い てで あ る が、

『 続 日本 紀

』宝 亀 六 年( 七 七 五) 十 月 二 日条 の 吉 備真 備 の 薨伝 に は

、 以下 の よ うな 記 述 があ る

。 天平

五 年 帰朝

。 授 正六 位 下

、 拝大 学 助

。高 野 天 皇師 之

、 受礼 記 及 漢

。 天 平 五年 に 帰 朝し て

、 正六 位 の 下を 授 け られ

、 大 学の 助 に 拝す

。 高 野 の 天皇 之 を 師と し て

、礼 記 及 び漢 書 を 受け 給 ふ

つ ま り

、 日本 の 天 皇へ の 中 国史 の 最 古の 講 書 は、 遣 唐 留学 生 の 吉備 真 備 が 帰 朝 し た後

、高 野( 孝 謙

)天 皇 の 在 位期 間

、即 ち 天 平 勝 宝元

( 七 四九

) 年 か ら 天 平宝 字 二

(七 五 八

)年 ま で の間 に 遡 るこ と が でき る

。 また

、 三 善 清 行 の

「意 見 十 二箇 条

」 から は

、 天平 頃 に 吉備 真 備 が大 学 寮 の学 生 に 三 史 を 学 ばせ た こ とが 看 取 され る

。 至

于 天平 之 代

、右 大 臣 吉備 朝 臣

、恢 弘 道 藝、 親 自 伝授

。 即 令学 生 四 百 人

、習 五 経 三史

、 明 法・ 筭 術

・音 韻

・ 籕篆 等 六 道。

(『 本 朝文 粋

』 巻 二

「意 見 十 二箇 条

」) 天 平 の代 に 至 り、 右 大 臣吉 備 朝 臣、 道 藝 を恢 弘 し

、親 ら 伝 授す

。 即 ち 学 生四 百 人 をし て

、 五経 三 史

・明 法

・ 筭術

・ 音 韻・ 籕 篆 等六 道 を 習 わ しむ

な お

、『 続 日 本紀

』 天 平宝 字 元 年( 七 五 七) 十 一 月九 日 条 に

、 勅曰

。如 聞。 頃年

、諸 国 博士 医 師。 多非 其 才。 託 請 得 選。 非 唯 損 政

。 亦無 益 民

。自 今 已 後。 不 得 更 然。 其 須 講経 生 者

、三 経

。 伝生 者

、 三 史… 勅し て 曰 はく

、如 聞

頃 年諸 国 の 博士 医 師 は、 多 くの 其 の 才に 非 ず

、 託請 し て 選を 得 た り。 唯 政 を 損な ふ の みに 非 ず

、亦 民 に 益す る こ と 無し

、 と

。自 今 已 後

、 更 に 然る を 得 ざ れ。 其 経 を講 ず べ き生 は 三 経 を、 伝 生 は三 史 を

… と

あ るよ う に

、高 野 天 皇の 退 位 の 前年 に

、 三史 を 読 める こ と が諸 国 の 伝 生

( 博士

) の 任命 条 件 とし て

、 勅 旨に よ っ て定 め ら れる よ う にな っ た の で あ る。 要 す るに

、 中 国三 史 に つい て は

、天 平 期 の朝 廷 に よる 唐 の 文化 や 政 治 制 度 を受 容 し よう と す る趨 勢 の 中 で、 中 国 から 渡 来 して 間 も なく

、 天 皇 と 官 吏の 候 補 者を 対 象 とし た 講 書 の伝 統 が 形成 さ れ てい っ た と考 え ら れ る

平 安 朝 に至 る ま で、 こ う した 中 国 三史 の 講 書の 伝 統 は 継承 さ れ た。 ま ず

、天 皇 への 三 史 講書 に つ いて で あ るが

、正 史 を紐 解 く と、

『 類聚 国 史

』弘 仁七

( 八 一七

)年 六月 十 五 日条 に 嵯 峨天 皇 が 史記 を

、『 続 日 本 後紀

』 承 和 二

( 八三 五

) 年七 月 十 四日 条 と 同書 承 和 十四

( 八 四七

) 年 五月 二 十 七 日 条 に 仁明 天 皇 が後 漢 書 と漢 書 を

、『 三 代 实録

』貞 観 十 七( 八 七 五

)年 四 月 二 十 八日 条 に 清和 天 皇 が史 記 を

、『 日 本 紀略

』寛 平 三( 八九 一

)年 四 月 九 日 条 に宇 多 天 皇が 史 記 を、 同 書 延喜 六 年

(九

〇 六

)五 月 十 六日 条 に 醍 醐 天 皇 が史 記 を それ ぞ れ 受講 し た とい う 記 事が 見 ら れる

。 こ れ ら 天皇 が 講 書を 受 け た時 点 の 年齢 を 見 ると

、 嵯 峨 天皇 が 四 十歳

、 仁 明 天 皇 が二 十 五 歳と 三 十 七歳

、 清 和天 皇 が 二十 五 歳

、宇 多 天 皇が 二 十 四 歳

、 醍 醐天 皇 が 二十 一 歳 であ る た め、 天 皇 が成 人 後 自ら 三 史 の講 書 を 行 な わ せ たの で は ない か と 思わ れ る

。ま た

、 清和 天 皇 につ い て は検 討 す る 余 地 が ある が

、そ の 他の 天 皇

、つ ま り 嵯峨 天 皇

、仁 明 天 皇、 宇 多 天皇

、 醍 醐 天 皇 は 何 れも 積 極 的 に 親政 の 姿 勢 を 取 っ た天 皇 で あ る と され て い る

。 彼 ら は

、 国政 を 自 ら行 な う ため に

、 中国 三 史 の学 習 が 必要 な も ので あ る と 自 覚 し たの で は なか ろ う か。 一 方

、 平安 朝 に 入る と

、 国家 官 吏 の候 補 生 たち は 中 国 三史 の 講 書を 受

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け る こと が 制 度的 に 規 定さ れ て い た。 天 長 元年

( 八 二四

) 八 月二 十 日 の 太 政 官符 に は

、 緬尋

古 典

、歴 覧 前 王、 労 於 求 賢、 逸 於 経国

。 伏 望、 諸 氏 子孫

、 咸 下 大学 寮

、 令習 読 経 史。 学 業 足 用、 量 才 授職 者

。 宜五 位 已 上子 孫

、 年 廿以 下 者

、咸 下 大 学寮

。(

『 本朝 文 粋

』巻 二055

「 意 見封 事 公卿 意見 六 箇 條」

) 古典 を 緬 尋し

、 前 王を 歴 覧 し

、求 賢 に 労し

、 経 国に 逸 る

。伏 し て 望 むら く は

、諸 氏 の 子孫

、 み な 大学 寮 に 下し て 経 史を 習 読 せし め

、 学 業用 う る に足 れ ば

、才 を 量 り て職 を 授 けん こ と を、 よ ろ しく 五 位 以 上の 子 孫 にし て 年 二十 よ り 以 下の も の

、み な 大 学寮 に 下 すべ し

。 と

あ る。 つ ま り、 五 位 以上 の 貴 族 たち の 子 孫は 大 学 寮に 入 り

、経 書 と 共 に 史 書を 勉 強 し、 卒 業 後は 才 能 に 応じ て 官 吏に 登 用 する 国 家 の政 策 が こ こ で 取り 上 げ られ て い るの だ

。殊 に そ の 根本 的 な 目的 に つ いて は

、「 求 賢

「 経 国」 に あ ると も 明 言さ れ て お り、 き わ めて 政 教 的な も の であ る

。 ま た

、『 延 喜 式』 に お ける

「 大 学 式」 に 関 する 定 め には

、以 下 のよ う に

あ る

。 凡

擬 文章 生

、 以廿 人 為 限、 補 其 闕者

。 待 博士 挙

、 即寮 博 士 共試 一 史 文 五 条。 以 通 三以 上 者 補之

。 凡 そ 擬文 章 生

、廿 人 を 以て 限 り と為 せ

、 其の 闕 を 補せ ん に は、 博 士 の 挙 を待 ち て

、即 ち 寮

・博 士 共 もに 一 史 文五 条 を 試し

、 三 以上 に 通 ず る 者を 以 て 之れ に 補 せ

。 こ

の よ う に、 大 学 寮の 寮 試 では 史 記

・漢 書

・ 後漢 書 の うち

、 一 史の 五 条 を 読 ま せ

、三 条 以 上に 通 じ た者 を 合 格と す る と定 め ら れ て いる

。 な お

、 久 木 幸 男 氏が

『 日 本 古代 学 校 の研 究

』に お いて

、「 紀 伝 道 入 学者 は 明 経道 な ど に 比 べて 若 年 で入 内 し てい る 上 に、 極 位

(最 高 到 達位 階

) も高 く 大 半 が 四 位 に達 し て いる

。 そ の中 で も

、史 学 を 学ん だ 人 は五 十 歳 代後 半 に 従 四 位 上 に達 し て いる が

、文 学 を 学ん だ 人 は平 均 五 年位 遅 れ て いる

」と 述 べ て い るよ う に

、三 史 に 通じ た 者 は、 朝 廷 にお い て 相当 重 ん じら れ た よ う で あ る。 さ ら に

、三 史 の 知識 は

、 以上 で 見 てき た よ うに

、 官 吏 候補 生 が 官吏 に

な る 上で 重 ん じら れ る と同 時 に

、 その 生 涯 を終 え た 後も

、 彼 を評 価 す る 基 準 の一 つ と して 重 視 され て い る ので あ る

。事 例 が 多い た め

、二 三 例 を 挙 げ るこ と に 留め る が

、例 え ば

、『 続 日 本 後紀

』承 和 七( 八 四

〇) 年 四 月 二 十 三日 の 条 の藤 原 常 嗣の 薨 伝 に は「 少 遊 大学

、 渉 猟史 漢

( 少し て 大 学 に 遊 び、 史 漢 を 渉猟 す

)」 とあ る

。ま た

、『 続 日 本 後紀

』承 和 十( 八 四 三

) 年 六 月十 一 日 の条 の 朝 野鹿 取 の 薨 伝に は

「 少遊 大 学

。頗 渉 史 漢( 少 し て 大 学 に遊 び

、 頗る 史 漢 に渉 り

)」 と、

『 三 代 实録

』 貞 観三

( 八 六一

) 年 九 月 二 十四 日 の 条の 豊 階 安人 の 薨 伝 には

「 渉 読史 伝

。 最精 漢 書

(史 伝 を 渉 読 す

。最 も 漢 書に 精 ず る)

」と い う記 述 が ある よ う に、 史 記・ 漢書

・後 漢 書 に 精通 す る こと が

、 聡明 な 官 吏 の素 質 と して 大 い に評 価 さ れて い た こ と が 分か る

。 こ う 考え る と

、天 平 期 から 平 安 初期 ま で の中 国 三 史の 講 書 は、 中 国 的 な 律 令国 家 の 政治 を よ り円 滑 に 運 営す る た めの

、 天 皇か ら 官 吏に わ た る ま で の広 範 囲 の受 講 者 を有 す る 国 家的 事 業 であ る と 言っ て も 過言 で は な か ろ う。 日本

紀 講書 の受 講者

一 方

、 日本 書 紀 は、 天 皇 の教 養 の 書物 の 範 囲か ら 除 外 され

、 国 家官 吏 の 養 成 機 関で あ る 大学 寮 の 教科 書 に も採 用 さ れて い な い。 そ の 講書 は

、 た だ 一 部 の官 人 の みを 受 講 者の 対 象 とし て い たの で あ る。 中 国 三史 の 講 書 の 対 象 との 相 違 から 考 え ると

、 日 本書 紀 の 講書 が

、 天皇

、 国 家官 吏 が 国 家 政 治 を運 営 す るに あ た り不 可 欠 であ る と 考え ら れ た上 で 行 なわ れ た 行 事 で は ない と は 言え よ う

。 ま ず

、初 回 の講 書 と 考え ら れ る弘 仁 度 の日 本 紀 講書 に つ い てで あ る が、

『 日 本 後 紀』 弘 仁 三( 八 一 二) 年 六 月二 日 条 に、 以 下 のよ う な 記述 が あ る 是 。

、 始令 参 議 従四 位 下 紀朝 臣 広 浜・ 陰 陽 頭正 五 位 下 阿倍 朝 臣 真勝 等 十 余 人読 日 本 紀。 散 位 從五 位 下 多朝 臣 人 長執 講

。 是 の 日

、始 め て 参議 從 四 位下 紀 朝 臣広 浜

・ 陰陽 頭 正 五 位下 阿 倍 朝臣 真 勝 等 十余 人 を して 日 本 紀を 読 ま しむ

。 散 位從 五 位 下 多朝 臣 人 長執 講 す

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