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中国企業の人的資源管理活動と企業の取り組み

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第1節 計画経済期における国有企業の人事制度の確立とその特徴

(1)計画経済期における国有企業の人事制度

 現代中国が成立した1949年時点の中国は、壊滅状態の経済と深刻な失業問題に直面して いた。したがって、政府は社会・生活を安定させるために、失業問題の早期解決に取り組 まなければならなかった。その後、国民経済の復興、計画的な経済建設が展開されるにと もなって、産業、個々の企業体が労働力を求めることになり失業問題は解決へ向うことに なった(第1部参照)。しかし、国民経済の復興にともなって、大量の技能労働者の不足、

技能労働者の育成・確保が課題となり、それとともに私企業の国有化がすすみ、企業経営 に関わるノルマの確定、要員の確定がすすめられ、人事管理改革が進展したという経緯が

ある。

 現代中国成立直後は、経済構造の転換等の原因による大量の失業者の発生があり、1950 年6月時点の失業者は166万人に達していた1)。中国政府の労働力管理は失業者の斡旋業 務から始められたが、この時期は、国有企業以外に集団所有制企業、資本主義企業及び個 人経営と多様な経営形態が混在しており(第1章参照)、「紹介就業と自行就業相結合」(政 府による就職の斡旋と労働者自らの就業)という就業方針が掲げられていた。すなわち、

政府による就職の斡旋だけではなく、労働者自らが職を探すことが奨励されていた。労働 人口は1949年の800万人から1952年には1,580万人に増加し、さらに1957年末には2,451 万人に拡大したが、失業問題は1949年から1956年にかけて基本的に解決したといわれて

いる2)。

 失業問題を解決するために始まった労働力管理は、その後の第1次5ヵ年計画(1953年)

の時期に拡大したが、同計画の実施にあたっては国家的に重要なプロジェクトが必要とす る労働力を確保するために、国による統一求人・統一配分制度が導入された。当時、いち 早く統一求人・統一配分制度が実施された建築業においては、封建的管理制度の廃止によ って、新しい制度の導入が求められた。1954年労働部は各大行政区と省・市労働局長会議 を開き、経済建設時期において、労働部門が失業者の斡旋業務から建築業労働者の求人・

配分管理へと転換することを指示している。同年には全国建築業労働者の求人・配分管理 も検討され、建築業労働者の求人・配分管理が労働部門の重要な業務の1つであることが 明確になるとともに、「建築業労働者の配置の暫定弁法」が制定された。これらの政策によ って、建築業における労働者の統一求人・統一配分制度が全国範囲に拡大された。その後、

建築業から鉱工業、交通運輸業等の各産業に拡大し、採用管理制度として確立されるよう

になった。

 1952年前後の時期には、賃金配分は各大行政区の権限のもとにおいて実施されており、

賃金基準が異なっていたため、これが管理職、労働者の移動を妨げる要因となっていた。

特に、経済建設を開始するにあたって、賃金基準が異なることは・労働者の移動・配置管 理上の障害、労働者が積極性を失う要因になると考えられ、全国的に賃金改革の必要性が 高まり、統一賃金基準と賃金制度が確立されることになった。その後1956年の賃金制度改 革によって、行政機関、国が運営する事業体、企業の労働者の賃金制度が統一された。

 1955年に中国は旧ソビエト連邦と「ソビエト社会主義共和国連盟政府は中華人民共和国 中央人民政府の中国国民経済の援助に関する協定」を締結し、それに基づいて、旧ソビエ ト連邦政権は中国の国民経済の建設に経済技術を提供することになった。したがって、中 国は旧ソビエト連邦及び東欧諸国の資金、物質的な援助を受け、また、旧ソビエト連邦の 管理手法を導入することになった。例えば、1955年、旧ソビエト連邦は中国に数千人の専 門家を派遣しており、中国からは数千人の実習生を受け入れて技術や管理手法を習得させ るといった交流が行われ、交流計画で技術を習得した要員が、その後の中国における技術 分野や管理活動において中心的役割を担うことになった3)。

 1950年代の国有企業の人事管理制度は主に旧ソビエト連邦の管理手法を基にして、政府 の管理体制の下で、統一計画、統一管理に基づいて行われていた。企業は生産性、利益と は関係なく、国の計画指令によって運営されていたが、当時の中国は、計画経済体制と公 有制の確立及び重工業優先のもとで、国有企業は投資、技術、物資、労働力に関わる領域 において、政府による「統一計画、統一調整」のもとに運営されていた。国家政策の実施 を確保するために、国有企業の生産や従業員の管理等は政府によって方向づけられ、国家 による集中的人事管理が構築される必要性があったといえる。

(2)国による統一分配制度と「固定工制度」の実施

 1949年以降、国家による国有企業の労働者管理が徐々に拡大し、1950年第1次全国労働 局長会議は、各地労働局が労働紹介所を設立し、失業者登録と斡旋業務を行うことを指示

した。同年政務院(現国務院)は「救済失業労働者に関する指示」を行い、そこで「労働 者と職員の募集・採用時、現地労働部門が設立した労働紹介所による斡旋業務を行う」こ

とを規定した。また、労働部は「失業技術員工登録紹介弁法」(「失業技能労働者の登録・

斡旋弁法」)を制定し、公営、私営企業が必要な技能労働者を雇用する時は、労働紹介所に 申請し、労働紹介所による統一的斡旋業務を行うと定めた。企業が自主的に採用した要員 についても、労働紹介所に届けを出す事を義務づけたのである。その後、労働者需要の拡 大にともない、失業者登録の範囲が拡大され、1952年政務院は「労働就業問題に関する決 定」を制定し、斡旋業務だけではなく、統一的な労働力配分を行う方向に転換した4)。すな わち、産業における統一求人・統一配分制度が形成される契機になった。これはまず各地 で需要の多かった建設業労働者を対象にし、1953年末に、全国93の都市に建築業労働者 管理に関する専門機構が設置された。1955年には鉱工業部門、商業部門、行政部門に対し ても同様の統一求人・統一配分制度を導入した。統一求人・統一分配制度は経済建設にと もない、新しく成長する分野がある一方、既存企業の労働力調整を行う企業や分野があり、

後者で発生した失業者を前者に円滑に吸収させるシステムとしてつくられたといえる5)・同 時に、農村からの新規雇用を抑制することや新規失業者の発生を予防することも意図して いた6)。そして、この時期に、行政機関による各地域、産業へ労働力を配分するシステムは ほぼ整備されることになった7》。

 その後、民間企業を含め、政府は労働者を企業に配分する範囲を徐々に拡大したが、1955 年労働部は第2次全国労働局長会議において、労働力の統一求人・統一配分の基本原則・

方法を明確にしたが、その基本原則は、「統一管理、分工負担」であった・すなわち・労働 部門の統一管理の下で、企業の主管部門による管理を行うことを意味していた。企業は労 働者の募集・採用管理活動は労働部門の批准を受けて行うことができたが、企業の人事管 理に関する権限は労働部門に集中しており、企業等が主体的に募集管理活動を行う権限は 与えられていなかったことを意味している8)。

 なお、大学卒業生に関しては、1949年以降の卒業生から国家による就業の「統一分配」

(第5章参照)が開始された。1951年には都市に退役軍人、中等専門学校卒業生、技工学 校卒業生、都市部の高校卒業生などのうち進学しない者については国家が統一して企業に 分配することになった。

 中国における社会主義的な労働力についての考えは、「労働力は商品ではなく自由に売買 されることはない。労働者が社会の主人公であり、生産手段の支配者である」と位置づけ られていた。この労働力非商品論においては労働市場が存在する余地はなく、すべての労 働力は国家によって配分されるという政策のもとに労働力管理が行われていたといえる。

社会の主人公論から労働者に対する手厚い生活保護と固定工制度が形成されることになっ

た。

 国有企業における固定工制度は、日本的に言えば一種の終身雇用制度である。.しかし、

日本の終身雇用制度は企業での労働力を確保するという観点から、企業が熟練工不足を補 うために新卒者を採用し、企業内訓練等により熟練工に養成するために長期間雇用を行う 雇用形態である。一一方、中国の固定工制度は個々の企業の意思によらず、国家行政による 人事制度であった。以上の諸点から中国国有企業の雇用制度の特徴は、次のように整理す ることができる。

①国有企業の雇用に関しては、政府の労働部がすべての労働力を統一配分する。

②企業が入社試験を行って独自に採用することはできない。

③個人は職業と勤務先、報酬を考慮しながら企業を選択することはできない。

④従業員個人の意志による転職は基本的にはできない。ただし、同一所有制(例えば、国  有企業間)の部門内の転職は、国家の統一配分の一環として行われることが許される。

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