ω
︿広可削が漢訳されω ω
σ
仏印﹁
声
L
︿五可削﹁明﹂となったもので︑当時バラモン僧が一般教養
として習得すべき五つの実践的学問﹁五明﹂(声明︑工功
明︑医方明︑因明︑内明)の一つであり︑本来は︑儀式
音楽という意味でなく︑広く音韻︑文字︑語法等の知識
の体系を指していたのである︒この﹁声明﹂が今日では︑
イ 申 方 島
音楽性︑芸術性を保つ︑儀式音楽に発展したのである︒
西洋音楽では三つの条件が必要であるとされる︒オラ
注一
ンダ
の
心理学者レ│ヴェス(の‑
HN
m︿
骨
N)
の主張する﹁骨
楽には確固たる音程︑移調可能性︑リズム的に秩序づけ
られた結合があるLという三条件がそれである︒しかし
ながら現代音楽においては︑この特徴から脱皮しつつあ
る︒
‑123‑
声明は︑仏陀の徳などを讃美したり︑仏名を何度も繰
り返し呼んだりするもの︑また法会の趣旨を述べたり︑
業績を物語ったりするものなど︑仏陀に対して人聞が唱
えるものである︒そしてそれらは︑単に棒読みしたり︑
日常会話のようにしゃべるのではなく︑﹁旋律﹂や﹁リズ
ム﹂﹁テンポ﹂などの音楽的構造にささえられ﹁音楽的L
に唱えられているのであり︑それが音楽的芸術性を有す
る所以となっている︒音楽は常に生きているものであり︑
それと閉じことである︒
声明
もま
た︑
次に﹁縁山流声明﹂とは︑三縁山増上寺に伝わる声明
の流派であり︑すなわち増上寺の山号﹁三縁山﹂にちな
注二
んで
﹁綜
山流
Lと呼ばれる︒縁山流声明の確立には︑時代
的に見ると︑大きな節目があった︒それは天正十八年(一
五一
O
年)徳川家康が関東に入城し増上寺が徳川家の菩提寺として幕府の庇護を受けるようになったことであり︑
以来縁山流声明が時代の流れにより独特の展開︑発展を
これが縁山流声明の夜明けともいえる︒とげていった︒
以下の発展のようすは次のようである︒
付寛永年間(
一六
二四i
一六
四
三年ごろ)この時代の
大法要にあたっては︑京より式衆を招き︑法要を勤めて
いた
︒その聞に︑時間的︑経済的︑様式的な問題が蓄積
サ カ イ ウ タ ノ
カミされ︑このため幕府の老臣︑酒井雅楽頭(源興院を宿坊
としていた)は︑幕府の意を受け︑増上寺側と協議しそ
住
ω
の結果︑京都黒谷より党讃の名手能声の︑貞保︑秀白を縁山に招いたのである︒
当時
︑
山内に伝承されていた︑
インゼイ元祖法然上人伝承の往生礼讃及び引声念併といった声明 と合流しこれを縁山声明と称していた時代があった︒
口増上寺二十三世遵貧屋ご五九九
1
一六
六
O
)
は ︑
台徳院殿︑即ち二代将軍徳川秀忠の一周忌の法会にあた
り上洛するが︑その様子は︑
住岡明暦二年(一六五六年)八月二十九日貴屋上洛︑参内
天機を伺い且つ新門跡遵光法親王の檀林留学を奉請︑
又是時大原声明衆︑権大僧都恵隆及び京にて声明堪能
注ωの衆︑数輩伴って還へるこれより縁山声明起こる︒
と記されている︒
ここで独特の声明を完成すべく﹁阿弥陀織法﹂の旋律
注 目 刊 住
ωの努力がなされた︒恵隆ほか堪能の衆とは︑林的︑雲貞︑
戒順︑源良等であった︒増上寺はこのように将軍家菩提
寺として︑声明の隆成を見るようになったので︑幕府も
‑124‑
これに応えて山内に声明長屋といわれる練習道場を造り︑
一千石を与︑えてその盛行を期したのである︒
だが︑ここで問題提起をしなくてはならない︒
それ
は︑
恵隆が山内のどこに止住されたかという事である︒
寸縁
山
住ω士山﹂もその件についてふれていない︒恵隆が来山された
のは確かであるが︑その後の消息は不詳である︒村上博
了著﹁大本山増上寺史L
には
古老のある方は︑安養院の一代となったと伝えられて
いるが︑その恵隆師の名が見当らない︒改名と考︑えら
れぬこともない︒
とされ︑当研究所研究部員中村孝之氏の調べでは︑天台︑
大原向の坊に隆恵の名があるが︑増上寺釆山(一六五三
l一六五六)の代から三十六年間の行動が不詳であり︑
大原向の坊に帰って死去されている事を確認している︒
また︑﹁浄土宗法要集﹂声明の部に恵隆署名の声明譜(天
があるが︑誰に相伝したかは記されていない︒台の旋法)
共に今後の研究課題となるであろう︒
国縁山流声明が特に充実したのは︑知恩院門跡
六世
︑
尊超法親王が︑縁山に留学した天保五年に法親王は︑縁
住
ω
山大衆を率いて五月十八日﹁利剣即是弥陀号﹂の論題で法住川聞を修行された︒ついで同年︑七月二十九日増上寺子院
三十坊各住職を指揮し︑宮中伝承の法則に準じて
﹁弥
陀
織法﹂を大殿において厳修︑改めてこの法式に縁山流声
明と大原声明との長所を取り入れ︑この時期に現在の縁
山流声明の基礎が確立したのではないかと考えられる︒
坊中三十坊に住職する者には︑﹁入伴﹂と称する声明師
となる素質があるか否かを試される試験のようなものが あり︑三ヶ年を経て認められた者が住職の資格を得た︒︿
参考 資
料﹀に記した僧侶のうち数名は︑増上寺法主に任
命されている︒
縁山
流声
明は
︑
現在に伝承され︑以来努力し整頓され︑関東(江戸)気
質と大原流声明が融和した豪放かつ幽遠な︑歯切れのよ
い旋律となって確立され︑現在に至った︒ このような歴史を経て明治時代から
冒頭にも述べたように声明は生きた音楽であり︑
で一つ忘れてはならないことは︑声明は﹁口伝L
であ
っ
て︑その時代時代の伝承者の口伝により︑少しずつ変化
をとげていったことである︒これは声明が常に生命体で
生きた音楽性や芸術性を有している証拠でも
、
,
」、
,
」
ある
口伝
︑
ある︒
今回の研究にあたっては︑縁山流声明についての資料
が大変に少なく︑それは増上寺また坊中が幾度かの火災
のために資料を消失したからにはかならない︒また真言
注向
{示
の﹁
魚
山聾芥集﹂からの影響についても今後の研究が必
要に思われる︒
注ハ 円
音友 者
音楽辞典より
注
ω
声 明 辞 典 啓 明 大 系 よ り 注 伺 参 考 資 料 参 照 注個縁山志十巻及び浄土宗年譜より 注 回 浄 土 宗 大 年 表 藤 本 了 泰 著
︑ 四 四 七 ペ ー ジ 注 的 事 跡 合 考 よ り 注 制 参 考 資 料 参 照
注
ω
縁山志六巻︑浄土年表︑声明大系等より注 同 浄 土 宗 大 年 表 注 肘 浄 土 宗 大 年 表
注白一四九六年
︿参
考資
料﹀
藤本了泰著
藤本了泰著
七三
0ページ
{縁山流声明と音楽}
寛永年中
貞保は︑念蓬社専誉といい︑山内に月窓院を聞き︑延{玉正
月二七日寂した︒
歴
貞保│春也│春佐│慶山│義山│得山│勤霊│柳玄南 世
海│貞謄│磐誉│満達│勤徴│密聞1
秀善 li
巌喬
秀白
は︑
一蓮
社立
血管といい︑源賓院を開き声明に功をはげ
み修業怠りなかりし︑きれば承熔三年三月二七日源資院 より移り源興院の開祖となる︒
歴世
秀白l秀保│怒玄│白貞│白嬉│龍存│玄了│懐隆│堤
道│秀演│了壁
承応年初
増上寺二十三世遵審貴屋一六五六年上洛し︑京都大原向
の坊権大僧都恵隆上人を招き来山された
︒
以後恵隆上
人については︑不詳︒
林的は︑浄蓮社清血管と称し︑獅子谷のほとりに関居念仏
し︑常に声明の雅音を好み習はれしにいつとなく︑玄明を
究めた︒
‑126‑
歴世(光撃院は始め香受庵といい︑天和的頃光撃院に改めら
れた
︒八軒寺町)
林的l林雪!林華
T
天祭│吟祭│寂淵│澄元│臨謄│徳二金忌 日
雲貞は︑念蓮社専巻と称し︑華養院(始め喜楽院といい)
を開いた︒
歴世(華養院八軒寺町東側
雲貞│蓮山│廓貞│覚西│
良
雲│
龍山
│覚
障山
│霊聖│順
也│大忍!大雲│軟‑調l賢順│了徹
戒順は︑香蓮社素馨と称し︑常行院(山門前南角)
歴世
戒順│含成│慈雲│念誠│玄達│順祭│祭隆│門隆│得
雄│念問│鷺雄
l
祭道│順察│徴順源良
は︑
隆山
田市
院
(山下谷)を聞いた
歴
源良│源徹源祭│祭徹│智海│智悶 世
( 浄
土宗全書一九
三縁 山 志 巻 六
)
(本論文は平成二年度浄土宗教学布教大会における発表要旨
である)
声明と 音 楽
、、ー〆〆
│
│ 縁 山 声 明の 音楽性 ・ 芸 術 性
│
│
ここで取り上げる声明としては︑縁山声明の中特に四
智讃を考察する︒句頭部だけでも四智讃の中にはいくつ
かの表現の型がある︒
川ユ
リ凶ヒンユリ
ω
ユリあげ附押し当り押し倒鴬の谷渡り附ヨ(弱い)当り別当たり押込み附暁烏附シラセ等が
ある︒この中
ω
のヒンユリとは特に譜面上に銘記されているわけではないが︑縁山声明の特性として口伝的伝承
がされており︑その音楽性︑何に芸術性は誠に重要な表
現として特に考察を加︑える必要があると考えたため今回
ここで取り上げることにする︒更にこのヒンユリという
技法は全ての
声明のみならず︑日常勤行式の中でも随所
で表現されている︒従ってヒンユリとは口伝でありなが
らも日常随所の回向の中で耳にすることの出来る一般的
中 村
之
孝
なものである︒
このように句頭部だけを取り上げてもこれだけ
多様な型があるため︑その全体を取り上げるにはなかな
か時間のかかる作業を必要とする︒従って今回は︑特に
きて
︑
‑128‑
独唱で﹃
聞かせる
﹄というニュアンスの強い句頭部に限
って楽理的考察を加︑えることにする︒
まず最初に
ω l
附迄の技法を洋譜に表わすと次のようである︒
ω
のユ
リについては﹁AtD﹂の五律であってその数
はソリストにより違いがある︒この技法において︑俗に
いう
﹁メ
リ ・
ハリ
﹂を加えて考察してみよう
︒﹁
メリ・ハ
リ﹂即
ちメラす
・ハラすということが声明のどのあたり
に存在するのかは︑傍で聞いているだけではなかなか理