次に対比表の上位を占める十一末寺道場について具体的に考察をしてみよう︒
その大半が西端に本拠を占めていた杉浦氏同族団によって構成されており︑まず杉浦氏の社会的地位を明らかにす
る必
要が
ある
︒
しかし彼等が在地の土豪であったことが推定されるほか史料不足のため︑いまのところ具体的に言及
出来
ない
︒
まず
︑高
取︵
閣時
︶専
修坊
には
如光
の養
父恵
動︵
鵬描
僻湘
一二
︶の
甥に
当る
︵猷
寺︶
渓玉
が住
し︑
坂崎
︵諮
問叩
︶の
法蔵
坊
︵法
カ︶
には︑﹁杉浦太郎左衛門尉直善法名光善西端村より出候而養子取候﹂︵猷寺︶とあって西端出身の杉浦氏であった︒
同浄
光は
祥し
くは
修理
亮入
道浄
光と
云い
︵週
一瑚
﹂ポ
八頁
︶︑
﹁如
光弟
子帳
﹂に
みえ
る吉
浜︵
間一
時︶
の道
満︵
酬明
齢浦
一の
長
男と
伝え
︑浄
光の
長男
道喜
は宮
口道
場︵
時畑
一詰
上︶
に入
寺し
てい
る︵
強均
一間
︶︒
宮口
道場
は西
端に
住し
た恵
久の
子勝
覚が
開創
した
︵猷
寺︶
o同修理亮は法名了全と云い︵町寸︶︑専修坊に伝えている本尊裏書︵羽抗措\実如︶に﹁士長郷願主釈良
全﹂と同一人とみられる︒次に後世西照寺︵伺閉山︶に発展した矢作の新兵衛尉は法名恵順と称し︵師寺︶杉浦姓を称し
ていたと云う︒大友︵相崎︶の順性は恵順の笠︵猷寺︶と云うから杉浦氏同族団と考えてよい︒
このように如光と最も関係深い杉浦氏一族の末寺道場の地位は高く︑如光門徒成立過程にあって大きな役割を果し
てきたことは充分考えられる︒
つぎに注意すべきは野田︵臨時四の兵衛次良と大平︵相崎︶の専秀とであるo
いが︑如光門徒として重要な地位にあった︒野田の保井道場︵開制︶は早くから細川氏被官であり田原の城主であった
⑮ 戸田氏と関係をも
h
︑大平の地も戸田氏︑が代官として支配していた︒何れも道場草創期にあって︑戸田氏と関係をも 杉浦氏との直接関係を明らかに出来な佐々木如光とその周辺
ノー 』
、
佐 々 木 如
光 と そ の
周 辺
,
、
って
いた
もの
と考
えら
れる
︒
つぎ
に村
高郷
内合
歓木
︵明
暗︶
の兆
従︵
証醐
寺︶
は和
田門
徒の
法流
を汲
み如
光と
共に
寛正
二年
蓮如
に帰
依し
たと
伝え
る︒
如光が聖教に親しくしていたと同様︑彼も聖教書写に意を用いていたようであり︑現に﹁諸神本懐集末﹂を寛正五年
に書
写し
︵嗣
鵬一
端鵬
町︶
︑﹁
歩船
紗上
下﹂
を同
王︑
六年
の両
年に
わた
って
書写
して
いる
︵枇
師寺
︶︒
応仁
以前
の門
弟の
動
向を知るのに重要である︒その後︑彼は明応二年実如より本尊を下附されている︒
文広瀬︵翻蜘一時郡︶の明覚坊同︵舘誓朝︶は荒木門徒の一員として︑叉和田門徒との交渉も深かったことより文明頃
上宮寺配下に加わったものと考えられる︒
(四)
以上主要末寺道場の各々についてふれてきたが︑前述の如く﹁如光弟子帳﹂にみられない主要門弟として︑浄光・
良全等と常に行動をともにしていた八郎左衛門入道真慶︑如光の養父恵薫等が確認出来る︒恵薫については己に記す
ところがあったので︑ここでは真慶について触れておこう︒
文明
の頃
島慶
は青
恥に
住し
︑蓮
如よ
りい
わゆ
る太
万の
御文
二通
︵棺
柑槻
上瓶
一割
問一
献︶
︑前
述の
聖教
異解
につ
いて
の御
b z
送られている︒文明十二年六月十八日の御文︵欝弓
O
頁︶によれば如光の遺志をついだ一人でもあった︒﹁末
寺鏡
﹂に
は
﹁ 富
岡 一
箇 所
緊 心
光 坊
﹀ 斡
俳 誌
緋 醸
際 鯨
監 薪
長 篇
襲 酬
暗 殺
号 制
併 話
鮮 と
﹂
とい
い︑
犬山
の俸
慶を
︑佐
々木
︵四
一間
判︶
・古
井︵
時四
村︶
の開
基と
して
いる
のは
誤伝
で別
人と
考え
たい
︒
の西蓮寺では信慶を俗姓土岐氏︵寸踊駐仁L
ト十
︶と
伝え
︑
それ
は︑
犬山
文亀三年五月十四日には絵像本尊を受けているので︑寺伝
一方
の島
慶は
正福
寺︵
時議
肝師
︶︑
の伝
には
俗姓
山田
氏︵
政明
叶肱
.︶
刈安
賀専
称坊
︵持
誠一
位一
福︶
はそ
の
遺跡と伝え︑多くの末道場を配下においている︒これは︑尾張地方に本拠をもっ在地土豪山田氏の背景を考えるべき
であろう︒又︑その一族には古井の行専︵廠城輔︶があり︑真慶の弟と伝える︒
以上みてきたように1なお推測の域を出ないが|如光の活躍・門徒の発展を容易ならしめたのは︑如光の周辺にこ
に問
題も
ある
が︑
のような在地土豪と関係をもっ有力門弟とその背景のあったことを忘れてはならないであろう︒
結
び
如光袈後︑上宮寺は女性による相続がしばらく続いた︒その間にあっても︑有力末寺道場主は︑如光との関係も深
計り︑その後の寺運を隆盛に向わしめたのであった︒ く︑社会的にも活躍する背景のあったことなどから︑如光残後のややもすれば乱れがちであった上官寺門徒の統制を
このような有力門弟が如光門下に多く集まったことから如光の活躍も容易であったと考えられる︒
(5) (4) (3) (2) (1)註
上官
寺所
蔵・
十字
名号
裏書
︵寛
正二
・九
・二
・願
主妙
光﹀
文明
十二
・六
・十
八・
御文
︵蓮
如上
人遺
文三
O九 ︶
本福
寺跡
書︑
本福
寺由
来記
蓮如
上人
一期
記
西端
応仁
寺所
蔵
六字
名号
裏書
︵郁
t E
酢五
月廿
日︶
﹃応
仁二
年五
月廿
日
dr
願 主 教 誓
﹂
野寺
本証
寺所
蔵
,
,
佐々木如光とその周辺
︵蓮
如上
人行
実所
収︶
的大
谷本
願寺
系図
・本
願寺
通紀
︵仏
全二
十一
頁︶
m
如光
弟子
帳︑
上宮
寺絵
縁起
ω
如光
真影
裏書
︵鳩
山一
連座
︶応
仁二
︑十
一︑
順︵
如光
妻﹀
尼如
順往
生
親驚
聖人
真影
裏書
グ 絵 伝 裏 書
て願主釈尼如
文明
三︑
八︑
廿四
︵如
光掲
子帳
︶
文明
十四
︑十
二︑
廿三
︑願
主尼
妙光
文明十八︑十一︑廿︑願主尼如慶
」a
,
、
法 然 上 人 真 影 一 一 書 延 徳 元
︑ 十
︑ 十 願 主 妙 慶
﹁日
野環
氏〆
教 行 信 証 延 書 廿 帖 延 徳 元
︑ 十
︑ 廿 八
|
|
︵ 蔵
︶
川﹁爾為内意︑幸寿丸︑跡定度之由申侯問︑坊守相定侯︑各此分可被心得候也︒六賢々々
十 二 月 八 日 実 如
︵ 花 押
︶
佐々木門徒中へ﹂上官寺所蔵帥文明六・六・廿一・御文︵蓮如上人遺文︶
こ 四 七 頁
﹃
﹁蓮
如上
人遺
文〆
刊 文 明 九
・ 一
−
| 御 文
︵ 二 六 九 頁
︶
帥如光弟子帳支配関係表三河部
一 直 接 支 配 末 寺 道 場 一 支 配 一 間 接 支 配 末 寺 道 一 所 在 地 一 道 場 住 持 名 一 該 当 地 名 一 関 係 十 所 在 地 一 道 場 住 持 名 一 該 一 佐 々 木 一 一 一 一 閣 制 珠 賢
・ 一 岡 崎 市 一 一 一
− 一 大 友 一 一 順 性 一 岡 崎 市 一 一 西 晶 一 一 恵 久
︵ 恵 薫
︶ 一 碧 南 市 一 一 一 一 鷹 取 一 一 専 修 坊 一 碧 海 郡 高 浜 町 一 手 次 一 大 浜 一
↑ 四 郎 左 衛 門 一 碧 南 市 一 一 一 一 一 グ 一 吉 浜 一 一 道 満 一 碧 海 郡 高 浜 町 一 一 坂 崎 一
〜 館 一 亮
・ 法 蔵 坊
. 一 額 田 郡 幸 田 町 一 手 次 一 長 沢 一 一 図 書 功 一 一 一 古 井 一 一 行 専 一 安 城 市 一 一 一