三島通庸の人物を語る場合には、必ずといっていいほ ど「土木県令」、「鬼県令」などの異名が付される。これ らの異名は評伝『土木県令三島通庸』(丸山光太郎著、
栃木県出版文化協会、昭和 54 年)や小説『鬼県令・三島 通庸と妻』(阿井景子著、新人物往来社、平成 20 年)な ど、書名にもつかわれている。
これらの異名が意味することについては、最近出版さ れた『評伝三島通庸 明治新政府で辣腕をふるった内務 官僚』(幕内満雄著、暁印書館、平成22 年)の「はじめ に」で、「そうした三島通庸の明治史における一般的な イメージとしては、自由民権運動を弾圧した『鬼県令』
であり、独善的な県政運営によって多くの道路開さく工 事を行い、また県庁、学校、産業施設などの擬洋風建築 物を次々と建てた『土木・道路県令』であったというよ うな、どちらかというと藩閥官僚の代表的人物として、
批判的に見た評価が定着しているのではないかと思い ます。」と概括されているのが、ひとつの典型である。
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一方で、『山形県史』(通史編第四巻 近代編上、昭和 59 年)は次のように述べる。「三島は『土木県令』とか
『鬼県令』とかのニックネームで広く呼ばれている。こ の“土木”と“鬼”とは本来無縁な概念ではあるが、三 島にとっては見事に合体した人物像を表している。明治 初期の政府が政策スローガンに掲げた『富国強兵』『殖 産興業』『文明開化』の中で、土木や道路は殖産興業に とって、もっともかなめとなる事業であるだけでなく、
軍事面からも要請されていた。したがって、土木は産業 開発を表わし、鬼はそれを強力に推進していく力を示し、
三島の人物像を的確に表わしたものといえよう。」3前者 とは異なって、ここでは、三島を高く評価する立場から
「土木」や「鬼」は批判的・否定的な「概念」として理解 されているのではないことがわかる。
三島の人物像が功罪相半ばして語られるのに照応す るかのように、「土木県令」や「鬼県令」という異名も また正と負両方のイメージをもって受けとめられてい るといってよい。
今日では人口に膾炙した異名であるが、歴史的にはこ れらの異名はどのようにつかわれてきたのだろうか、前 掲の評伝類を手がかりにして検討したい。
これらの評伝類にとりあげられている異名をまとめ たものが表 2 である。具体的にみるために、『修養立志 編』(明治 43 年)中の「三島通庸の自信」という文章の 全文を紹介する。
「荒がねも岩もまがねも一すぢに貫くものは誠な りけり」「ねては夢さめてはうつつ国の為尽くすこゝ ろは神や知るらん」とは今日の貴族議員の牛耳をと り、未来の大蔵大臣を以て望まるゝ正金銀行専務取 締の職にある明治の俊才三島弥太郎の父で鬼総監と までうたはれた三島通庸の歌であります。此歌はま ことに通庸の心中を残りなく表はしたものでありま して、彼れは剛直誠実を以て世の中に知られ、自分 の信ずる処は如何なる反対に会つても決して屈撓せ ず、之れを貫かねば止まぬと云ふ
精神の人でありました。
其知事時代には道路県令だの圧制県令だのと悪名 を蒙つたにも係らず山形では栗子嶺の大随道を作り、
福島白河の難路を開いて通行の便利を計つた人であ りますから、当時は其費用の莫大なのと其工事の六 かしいので、県民が誰一人として通庸を好く云ふも のはなく、県会なぞでは頻りに排斥運動も致しまし たが、それが今日では其道路の便利の為めに、県民 は何れも交通と商業との便利を得て始めて其恩を知 り、今では誰一人として通庸を賞めぬものはなく、
遂には三島大明神として祭られるやうになりました。
之と云ふのも通庸の心には一点の私と云ふものな く一度信じたことは天地に向つて恥ぢず神明に照し て疑はないと云ふの自信と勇気とがあつた為であり まして、寝ても覚めても思ふは只国事のことばかり でありました。それでありますから通庸が警視総監 となつては鬼総監とまで呼ばれるほど果断な処置を して、終には保安条例を設定して、時の政府に反抗 する政治家や壮士を捕へて東京以外五里の地に立ち 退かしめた為め、「三島斬るべし三島斬るべし」と叫 んで其官邸に迫つて来た者共も、其死を聞いては均 しく悲しんだと云ふことであります。何事も誠実で 真面目な自信さへあらば決行して出来ぬことはない ことであります4。
この文章の中で、三島の異名に着目すると、①三島が
「鬼総監とまでうたはれた」こと、②知事時代には、「道 路県令」や「圧制県令」などと「悪名」を蒙っていたこ と、③「鬼総監とまで呼ばれるほど果断な処置をして、
終には保安条例の設定」があったこと、の3点が挙げら れる。
まず、①及び②をみると、「鬼総監」の異名はあるが、
巷間いわれる「鬼県令」はみられないことに気づく。さ らに、①での「鬼総監」の異名が「明治の俊才三島弥太 郎」を称揚する文脈でつかわれ、この場合の「鬼」が否 定的なニュアンスを持つ異名とは理解できないこと、ま た、④からは、「鬼総監」の名づけと「保安条例の設定」
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という自由民権運動に対する弾圧との間には直接的な 因果関係は読み取れないことにも留意する必要がある。
これまで指摘されてきたように、三島の批判的人物像 は主に自由民権運動史のなかで形成されてきたもので あった5。大正期の自由民権運動に大きな影響を与えた 中野正剛の『明治民権史論』(有倫堂、大正2年)の中で は、「福島事件以来鬼と唄はれし専制吏の標本たる三島 通庸あり」6と酷評されており、三島が福島県令時代か ら「鬼」と呼ばれていたように記されている。しかし、
表 2 の通り、他の明治期の評伝類をみても、「鬼県令」
という異名はみられない。これをみる限り、少なくとも 三島の県令在任時に「鬼県令」という異名が一般的に流 布していたとは言い難い。三島の職名に「鬼」が付けら れるようになった時期については、知事(県令)在任時で はなく警視総監就任時からであったと考えるのが妥当 であろう。
また、「鬼」の名づけが警視総監就任以降であり、その 時代の「保安条例の設定」とも直接的な因果関係がない とするならば、「鬼」が自由民権運動の弾圧者に対して のネーミングであるともいえなくなってくる。『近世偉 人百話』(明治 42 年)に、「其の福島県令となるや、頗る 圧制の名あり、終に暴動を惹起するに至る、人呼んで圧 制県令といふ。」7とあるように、福島事件を始めとする 自由民権運動への苛烈な弾圧に対する非難の呼称とし てならば、「鬼県令」よりは「圧制県令」の方が直截的 である。
おそらく、「鬼県令」という異名は、大正期以降の自 由民権運動の高まりの中で、三島が自由民権運動に敵対 した専制的な地方長官の代表格と位置づけられ、警視総 監三島通庸に付けられていた「鬼」の否定的な負のイメ ージのみが次第に増幅されて定着していったものであ ろう。
明治の人たちが三島通庸を「鬼」と呼んだことの意義 について改めて考えてみたい。これまで検討してきた通 り、三島の県令在任時に「道路(土木)県令」と「鬼(県 令)」という異名が広く並び称されていたとは認められ
なかった。史実からすれば、三島の県令時代は「道路県 令」や「圧制県令」などの異名が一般に流行し8、警視 総監となって以降に、「鬼」の異名が付けられたのであ った。言い換えれば、「道路県令」や「圧制県令」など の「悪名」を経て、「鬼(総監)」と呼ばれるようになった ということである。総監時代の「鬼」に関連して、『修 養立志編』と同内容の『立志訓話』(明治 44 年)には、
「鬼総監ともうたはれたほどの偉人物」9という記述が みえる。この表現からすれば、「鬼」は否定的・批判的 な負のイメージを持つ呼称ではなく、明らかに積極的な 評価を込めた異名であるといえる。
こうした異名に見られる負から正への評価の変遷に ついては、「それが今日では其道路の便利の為めに、県 民は何れも交通と商業との便利を得て始めて其恩を知 り、今では誰一人として通庸を賞めぬものはなく」とい う先の文章が想起されよう。大規模な道路建設など、き わめて悪評を蒙っていた県令時代の事業が、時を経るう ちにその成果が現われ、次第に大きな賞賛へと変わって いった、という三島に対する世評の推移である。
以上を勘案すれば、明治の人たちが呼んだ「鬼」の異 名には、三島の経世家としての一貫した在り様が反映さ れていたと考えるべきであり、三島通庸の警視総監時代、
すなわち、晩年になって付された「鬼」の異名は、三島 の県令時代を含めた行政・政治手腕や治績全般に対する 世人の積極的な評価に裏打ちされた呼称であったとい えよう。
4 おわりに
三島に対する積極的な評価を意味していた「鬼」の異 名が、負のイメージをもって語られるようになったのは、
大正デモクラシーの時代思潮も関係したであろう。また、
本来は「悪名」であった「道路(土木)県令」の異名が、
昭和になって再び脚光を浴びるようになったのは、国土 開発に沸いた戦後の高度経済成長期という時代背景が あったからとも考えられる。
本稿では、三島の異名についてその流布や受容の歴史