― 時代感覚と想像力の「再生」
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第2章『万延元年のフットボール』論― 時代感覚と想像力の「再生」
はじめに
1967年1月から7月まで『群像』に発表された『万延元年のフットボール』(1967)は、
大江作品の系譜において初めて「森」という空間が特権的な意味を有する作品であり、大 きな転換期を迎えた『個人的な体験』(1964)の次作である点で重要な作品である。大江は 29歳の年に『個人的な体験』によって新潮社文学賞を受賞していたが、『万延元年のフット ボール』が発表されたのは、学生作家としてデビューしてから10年目に入る時期であった。
『個人的な体験』で始めて「障害児との共生」というテーマが登場している。それから 約3年後に刊行された『万延元年のフットボール』のなかでは、60年安保闘争の背景や万 年元年の一揆を背景に日本戦後社会の諸相が根所一家を中心に描かれているが、27 歳の主 人公には、擁護施設にあずけた障害をもつ赤ん坊がいることが重要な設定となっている。
「異常」のある赤ん坊が生まれた後の夫婦関係の危機や、安保闘争後の後遺症がさまざま な形で時代像が創出されている。
戦後日本の高度経済成長期の最中に開催された1964年の東京オリンピックの年から3年 間の構想期間を経て、明治 100 年という国家的イベントを控えその期待感が高まる時期に 発表されたのである。かつて漱石が小説で書いた「<明治の精神>とは」という課題や、
戦後日本社会においてどのような意味を持つのかという問題を大江は追究しており、小説 の題目の「万延元年」という言葉や「スーパー・マーケットの天皇」という人物像によっ て近代以後の「天皇」の存在と矛盾を浮き彫りにしているのである。
「死者」となった 100 年前の「故郷=谷間の村」に生きた先祖たちとの交感、コミュニ ケーションの場として「森・谷間」という空間が提出されており、伝説の再生、想像力の 再生の舞台として表現されている。小説の冒頭から死者によってこの物語は展開されてお り、現代人の魂の救済というテーマが提示されているのである。
先行研究のなかで『万延元年のフットボール』が発表された同年の、松原新一の「地獄 と救済の呼応」では「よみがえりは現代においてどのように可能か」の問題が焦点化され 考察されたものである73。このような観点は後に諸論評に影響を与えているが、半世紀近く 経った現今では最近の大江作品も視野に入れて考察する必要があると思われる。この作品 において作中人物の表象が同時代的な問題をはらむ装置となっているが、柴田勝二は、蜜 三郎と鷹四の人物像について論じながら「二人の人間の反語的な同一性模索の物語を仮構」
74しようとした作意について言及している点で注目される。矛盾をはらむ危機的な時代状況 に重ねられた作者の内面世界が投影されているからである。
1960年代を背景に戦後日本社会の象徴としての「フットボール」や「スーパー・マーケ
73松原新一『大江健三郎の世界』講談社、1967
74柴田勝二「逆行と解体」『大江健三郎論 地上と彼岸』有精堂、1992、144頁。
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ット」の表象が、「森・谷間」という空間を舞台にすることによって特殊なイメージを喚起 している。60 年安保闘争を経験してからアメリカに渡り、自分の居場所を求め日本に戻っ てきた二人の青年が、それぞれ精神的な重荷を負って自ら死を選ぶことになる。このよう な構想は、大江の歴史認識における「周縁的な想像力」が垣間見られる設定であるといえ よう。
この作品の第1章に描かれる「朱色の塗料で頭と顔をぬりつぶし、素裸で肛門に胡瓜を さしこみ、縊死した」蜜三郎の友人の死体によって浮上される「期待の感覚」や「恥の感 覚」が登場人物たちに表現されており、小説全体を貫いている。死者たちの「伝達不能の あるもの」を追求することによって、生の意味が問われているのである。
『万延元年のフットボール』について大江自身は「乗越え点をなした作品」だと言及し ている。この時期に「作家の仕事を続けるか、作家とはことなる方向へと再出発するか、
という分岐点の前に立ちどまるようでもあった」と回想しながら、この作品の意義につい て述べている。二人の人物像は、精神的な重荷を担ってきた戦後世代の悲しみを表してい るのである。「根無し草」のような二人の兄弟は、「死の匂い」に抵抗する「新生活」を求 めて自分の「草の家」を探すために谷間へ帰ってきたのだが、鷹四が「正体の定かでない 情熱を燃やしている」様子を批判的にとらえる蜜三郎は、暴力的な「狂気」に陥る危険と 対峙し続ける人物である。
蜜三郎の語りは「夜明けまえの暗闇に眼ざめながら、熱い「期待」の感覚をもとめて、
辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする」という冒頭から始まる。『万延元年のフッ トボール』の冒頭では、「「期待」の感覚」という表現が繰り返される。一方で、「僕」・蜜 三郎が求めようとする「期待」を覆すように「恥」の感覚が描かれているが、『個人的な体 験』の中では「個」にとどまる感覚として捉えているのに対して、『万延元年のフットボー ル』では「個」から「共同体」への共通感覚として描かれているところは注目をひく。そ のなかで顕著に見られる登場人物たちの暴力的様相は、蜜三郎の友人や弟・鷹四の「自死」
によって強調されている。
蜜三郎の友人は、療養のために入ったスマイル・トレーニング・センターで看護人の男 に暴力を振る舞ったことで退院した後まもなく自殺を遂げ、この出来事によって蜜三郎は 日常の危機に立ち向かうことになる。なお、弟の鷹四は、村の共同体の結集や「再生」の ためにフットボールチームを組織、「スーパー・マーケットの天皇」と呼ばれる朝鮮人経営 者の店を襲撃する暴動を起こすが、小説の最後には鷹四が自殺した白痴の妹と近親相姦を 犯したことについて告白し、強姦殺人の容疑を受けるなかで自己処罰としての自殺を遂げ る。ところが、村共同体での作中人物たちには朝鮮人に対する差別意識が根強く存在して おり、暴力的な様相が描かれている「想像力の暴動」の逸話については、はたして必然的 な設定なのかという問題については再考の余地があるだろう。なぜなら、『万延元年のフッ トボール』は、大江の歴史認識とも結び付けられる鋭い時代感覚がよく表されている作品 であり、『核時代の想像力』で垣間見られる「想像力」の問題に関する彼の思想性が強く反
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2009年に発表された『水死』では戦中と戦後という二つの引き裂かれた「時代の精神」
が描かれているが、大江の戦後に対する歴史認識をもっとも明確に提示している作品が『万 延元年のフットボール』であると思える。この小説における戦後の「時代の精神」はどの ように描かれているのか、大江がいう歴史と想像力における「死と再生」の問題に焦点を 当てて考察する。
1、戦後の死者たち
序章で言及したように、大江は小説の普遍的なテーマとしての「死」の世界、「メメント・
モリ」の思想を、独特のイメージの創出によって巧みに表現してきた作家であり、死者た ちの言葉から「生」の意味を再認識する人物たちを描いてきた。『万延元年のフットボール』
では、第 1 章に登場する「朱色の塗料で頭と顔をぬりつぶし、素裸で肛門に胡瓜をさしこ み、縊死した」蜜三郎の友人の「不思議な縊死体」がもたらす強烈なイメージによって、
この小説の全体像を提示していると思われる。
60 年安保闘争後、蜜三郎の友人はアメリカに渡り、コロンビア大学に留学することにな ったが、軽症の精神異常のため中断して帰国し、療養所に入った。精神安定剤を服用して いる「無抵抗の患者たち」のスマイル・トレーニング・センターで、特に何の理由もなく 患者たちに暴力を振る舞う看護人の男への仕返しを試みて彼を半殺しにした友人は精神病 者たちの「英雄」とされる。しかし、このような暴力的な行動の後に「スマイル・トレー ニング・センターを去る時、かれは生まれてはじめてと感じるほどにも深甚な悲しみをい だいた」のである。その友人の「深甚な悲しみ」は「不思議な縊死体」として残されたの である。
―誰もが死ぬんですよ。そして百年もたてば、たいていの人間が、どんなにして死 んだかを詮索されはしません。自分のいっとう気にいったやり方で死ぬのが最上です よ。
ベットの裾に座りこんだ友人の母親は、やすみなく死体の足をさすっていた。彼女 はおびやかされた亀のように、肩のあいだ深く頸をめりこませ、われわれの会話に反 応しない。酷たらしいほど死んだ息子に似ている、平べったく植物的な顔の小さな造 作がすべて、融けてゆく飴みたいにぐんにゃりと弛緩している。僕はこのようにも即 物的に徹底した絶望の表現している顔をかつて見たことがないと感じる。
[大江健三郎「万延元年のフットボール」『大江健三郎小説3』12頁。
以下、『万延元年のフットボール』と略す。]