Ⅱ. ワシントン州を検討する意味
Ⅴ.1. ワシントン州の成立
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Ⅴ . ワシントン州におけるホーム・ルール制度の導入
50 を付与した。ワシントンのような準州内でノーザン・パシフィックが得たのは、その鉄道 用地(right of way)の両側40マイルの土地――鉄道が建設されるためにその価値が上がるこ と確実な土地――のうちの片側であった。
その後、1870 年に準州南西部のコウィッツ(Cowlitz)カウンティのカラマ(Kalama)で建設 が始まり、1873年には東部ピアース(Pierce)カウンティのタコマ(Tacoma)にターミナルが置 かれることが決定した。しかし、合衆国を襲った1873年恐慌により、ノーザン・パシフィ ック鉄道の建設も一時停止された。しかし、自らの地域の経済を将来的に守るための手段 として、大陸横断鉄道になお期待をかけていたシアトルとオリンピアの市民が即座に連結 部を建設し始めたという。ノーザン・パシフィック鉄道の建設は1879年に再開され、オレ ゴン境界のコロンビア川から北西に建設がすすめられ、スポーケン(Spokane)まで届いたの は 1881年、1883年にはモンタナ州に到達し連結が完成し、ワシントン準州南部、コロン ビア川のそばにあったパスコ(Pasco)からスタンピード・パス(Stampede Pass)経由でタコマ を連結させる計画も開始された259。
1885年には、オレゴン鉄道及び運送会社(Oregon Railway and Navigation Company)が、ワ シントン準州内をコロンビア川に沿うように、小麦地帯の中にいくつかの支線をつくり、
259 マイルの路線を操業していた。また、ノーザン・パシフィック鉄道は、バンクーバー (Vancouver)から北に向かいタコマまで、ワラワラ(Walla Walla)カウンティのワルーラ(Wal-
lula)から、東へ向かってスポーケンとアイダホとの州境まで、北西へ向かってヤキマ(Ya-kima)とエレンズバーグ(Ellensburg)まで455マイルの路線を操業していた。鉄道の建設は、
「猛烈な勢いで」続けられた結果、1892年には2,618マイルの線路が敷かれており、1893 年にはノーザン・パシフィック鉄道がエバレット(Everett)、シアトル(Seattle)を、大陸横断 鉄道と直接連結させるに至った260。鉄道建設により、特に内陸地域では、地域外部の市場 と直接連結できるようになり、農場、採鉱所、森林で生産された資源の輸送手段を得たこ とになる。このことは、準州の初期住民の一部にとっては、待望の地域の急発展が現実味 を帯びることを意味していた261。
ワシントン(準)州の人口は1880年から1890年の10年間で約75,000人から約350,000人 へと5倍近く増加し、特に1885年から1890年の5年間で人口は約2.7倍、増加率では約 1.7倍の伸びを記録した262(表2)。ここで特徴的な点は、鉄道建設により、人口の集積地が 変化したことである。それまでの中心地であったオリンピア(Olympia)、ワラワラ、バンク ーバー以上の人口成長を見せたのは、シアトル、スポーケン、タコマといった鉄道のター ミナルを備えることになったシティであった263。また、移民の構成にも変化があった。鉄
259 See, id, at 9.
260 Id.
261 Id. at 10.
262 1880-1890年のワシントン州の人口状況は、United States Census Bureau, CENSUS OF POPULATION AND HOUSING 1890 Census, xiii-xiv, xviiを参照。
263 Final Report, supra note 251, at 10.
51 道会社が労働者として州に呼び込んだ人々は、第一に中国、そしてアイルランドや東ヨー ロッパの出身264の「新移民」であり、先に中西部から住み着いていた旧移民とは異なる人 種、習俗、文化を有する人々であった。
表 2:ワシントン州の人口状況(1880-1890)
人口(人) 増加数(人) 増加率(%)
1880 1885 1890 1880-1885 1885-1890 1880-1885 1885-1890
75,116 129,438 *349,390 54,322 219,952 72.32 169.93
出典: United States Census Bureau, CENSUS OF POPULATION AND HOUSING 1890 Census, REPORT on POPULATION OF THE UNITED STATES at the ELEVENTH CENSUS: 1890. Part I, at xivの表に基づく。
*一説には、1890年までに357,232人の人が州内にいたといわれる。See,ROBERT F.UTTER &HUGH D.SPITZER.THE W ASH-INGTON STATE CONSTITUTION:AREFERENCE GUIDE (2011).
検討委員会は、初期ワシントン州の性格を形成する2つの出来事として、ポピュリズム
/ポピュリスト(populism/populist) 265運動と、禁酒運動を挙げる266。そして、この出来事は、
「新移民」=「異質者」の増加をもたらした鉄道と密接に関連していた。
自らの生活の安定を新移民に脅かされるという不安から、従来からの州民(旧移民)、と りわけ裕福な労働者の中で外国人を忌避する態度が見られた267。このような考えは、外国 人に対する土地所有権の制限や、英語の読み書きを有権者要件とする憲法修正に見られる
268。そして、そのような「異質者」を州内に大量に運び込み、また、鉄道敷設を条件とし て、連邦、州、地方政府に対して助成金を強要する等、州及び地方政府に対して様々な要 求を突きつける鉄道会社に対しては「苦々しい怒り269」を抱いていた。同時に「鉄道会社 をはじめとする法人がわいろや不正行為によって立法府と政府職員を支配しているという 考えを抱いていた270」。そのため、個人の政治的、経済的利益を政府と法人の両方から保護 すると共に、双方の権限に厳格な制限を設けようと試みるポピュリスト(populist、人民党と もいう)の思想が広がりを見せ、州憲法の制定にも影響を与えた271。
当時、材木業や輸送産業が好景気を享受していたのとは対称的に、農場主は自らを価格 操作と独占の被害者とみなしていたし、鉄道や材木業の労働者、また多くの都市の労働者
264 Id.
265 ポピュリスト(人民党)は、西部及び南部の農民同盟とグレンジャー運動その他の労働者団体とが1889年頃から結 びつき、1892年に結成が宣言された政党である。連邦政府及び経済的機会を少数の「金権勢力」から人民に取り戻す ことを主張し、通貨発行の政府独占、銀貨の無制限鋳造、累進所得税の導入、鉄道・電信・電話の公営、鉄道会社の 過剰な所有地と外国人所有地の回収、移民受け入れ制限の要求、8時間労働制の支持、イニシアティブ・レファレン ダムなどの直接民主制の導入の要望などが主張された。有賀他編(1993)・前掲注(210)78-79頁; 田中・前掲注(140)総 論(上)295-296頁。ワシントン州における州創設期のポピュリスト運動について、Hugh D. Spitzer, Washington: The Past and Present Populist State, in THE CONSTITUTIONALISM OF AMERICAN STATES 771 (Christopher W. Hammons George E. Connor ed., 2008)[hereafter Populist State].
266 Final Report, supra note 251, at 10.
267 1880年代当時のワシントン州の状況について、See, ROBERT F.UTTER &HUGH D.SPITZER.THE WASHINGTON STATE CONSTITUTION, 13-14 (2011)[hereafterWASTATE CONSTITUTION]
268 カナダ人以外の外国人の土地所有権制限(州憲法2章33条)、とりわけアジア系移民を対象とし、後にラテン系移 民に使われるようになる英語の読み書き要件(州憲法修正2条)がある。Spitzer, Populist State, supra note 265, at 780-781.
269 UTTER &SPITZER,WASTATE CONSTITUTION, supra note 267, at 14.
270 Id.
271 Id.ワシントン州憲法において人民党の影響を受けた条項は私法人について定める州憲法12章に多く見られる。
52 は、州外にいる会社や厳しい労働状況に対して不満を抱えていた。彼らは、種々の改革を 求めて最終的に合同し、特に、州及び地方の公職についての投票機会を求めてポピュリス ト運動を起こした。また、禁酒運動は、中流階級の人々の感情を害する振舞いをする飲酒 労働者のたまり場となる酒場(saloon)を迷惑施設として排除するものであった272。
これらの問題に対応するための手段として挙がった地方選択条項(local option provisions) は、ワシントン準州において、全州的な統一基準の設定に伴う衝突を回避し、地域コミュ ニティその他の単位の独立性を正当化すると思われたために特に魅力的に思われたが、準 州最高裁判所は、当初、地方にあまりにも強い権限を付与するとして認めなかった273。し かし、1888年に、酒類販売の規制のためにカウンティ及びシティに手数料(fee)を徴収する ことを許可する免許法(license law)が制定され、地方選挙では、時に酒場の存在を問うレフ ァレンダムが行われるようになった274。このことは、次の2つのものを地方政府にもたら した275。1 つは、際立った地方単位の構成とそのアイデンティティを奨励する地方選択原 則であり、もう1つは、酒場及び酒類販売の免許制は一般に地方政府のための統制手段と 格好の潜在的収入源になるという認識であった。いずれにしても、こうした地方自治行政 への期待は、地方自治法人の権限付与と統制を巡る議論を促したといえる。