長い過渡状態は採り得る状態の数が 2 の場合にも現れる。図 21(次頁)にこれを 示す。1 次元 CA モデルは:
R. ライシュが指摘する二つ目の問題はファンドの猖獗である。日本でも 2008 年に
「すかいらーく」の創業者社長であった横川竟が,野村プリンシパルファンドと英国 CVC キャピトルパートナーズの圧力に屈して退任したことがある。新聞は,その理
由として業績の回復が思わしくないこと,情報開示が十分でないことからファンド側 が横川社長を見放した,としているがこれは表面的な見方である。
そこには資本市場における主役の交代という本質的な資本構造の変化がある。社長 交代に当たって,これまで「すかいらーく」を支えてきた銀行団が明確な態度を打ち 出すことなく,なすすべもなくファンドに任せたことはこれを象徴する。
同様の事態は別の形ですでに現れていた。2008 年 1 月に,ザ・チルドレンズ・イ ンベストメント・マスター・ファンドが J・パワーの株式持ち分の増加を図った。こ れを許すと,エネルギーという基幹産業における意思決定が外国のファンドに委ねら れるとして,経済産業省が許可しなかった。空港運営会社においても同様の動きがあ った。これらの事例は,資本主義の根幹である資本において権力の移動が起きている ことを示している。
伝統的な資本主義体制では,資本を提供するのは資本家であり,企業の大株主は資 本家たちであった。ここにファンドが登場してきた。年金積立金を基盤とする年金フ ァンドやヘッジファンドに見られるように,ファンドの基金はファンドに金を預託す る市民という少額投資家のお金である。それがファンドというハブに集積され資本市 場に参入してきた。
ファンドという資本は資本家がもつ資本と本質的に異なる。資本家がもつ資本では,
資本の運用は資本家自身がもつお金の運用であり,そこに自己裁量がある。これに対 してファンドの運用においては,資本は少額投資家のお金であり,ファンド・マネジ ャーには投資家の代理人として運用を付託されている。ファンド・マネジャーは高利 回りの運用を続けない限り,少額投資家はそのファンドから離れる。ファンド・マネ ジャーにとって,裁量は高利回り以外に選択の余地はない。
一人ひとりであれば資本市場を動かせない少額の投資家の力がファンドというハブ に集積されると,ファンド・マネジャーが資本市場を動かし得ることになる。そして その運用の原則は高利回り以外にない。
かつて多くの資本家がお金を社会へ還元していた。ロックフェラー,カーネギー,
そして最近ではビル・ゲイツ,日本においてもかつての財閥にその例がある。ファン ド・マネジャーにそんな贅沢は許されない。それによりファンドの利回りが下がれば 投資家が離れる。ファンド・マネジャーにできることはより高い利回りを追求するこ とだけである。
資本家の資本に対してファンドの資本が相対的に小さいうちは資本の構造は変わら ない。しかし,ファンドからの資本が資本家の資本の額を超えるようになれば,資本 市場における意思決定は,ファンドへ投資する市民からの付託を受けたファンド・マ ネジャーに委ねられることになる。
米国においては,大規模流通業者やファンドが立法府でのロビー活動を通じて自ら
に有利な法律を制定させている。ライシュは,これを民主主義を崩壊するスーパーキ ャピタリズムと呼んでいる。2008 年のリーマン・ショックに見られたファンド・マ ネジャーの強欲な行動は,以上の意味で他に選択の余地のない行動であり,「なすべ きことはすべてやった」という投資会社の CEO の議会での証言は上述の意味で嘘で はない。ダーウィン ・ ディレンマに呪縛された人間の悲痛な叫びである。
日本では立法府の立法能力が低く,行政府が法案を作成しているので米国ほどスー パーキャピタリズムの問題は目立たない。しかし,日本においては法案が議会におけ る政争の具に化して制定施行に時間がかかり,ファンド・マネジャーの判断で迅速に 動くファンドの動きに追随できない。もしファンドに狙い撃ちされれば,その影響は 深刻かつ破局的であろう。
新たな代理人選出
価格決定権が生産者から市民の購買を背景にした大規模流通業者の手に移ったこと,
資本市場での権力が資本家から市民からの付託を受けたファンド・マネジャーに移っ たこと,いずれも少数の人間が握ってきた権力が一般市民という多数の人々に移った ので,権力の分散といえる。
この権力の分散は社会に何をもたらすのか。一般市民に権力が移行することを民主 主義と捉えて歓迎できるか? ファンド資金を例にとる。ファンドは高利回りを実現 するために経営者に圧力をかけ,短期的に高利益を挙げない経営者を罷免する。経営 者は罷免されないないために,短期利益を上げることを経営方針とし,それに狂奔す る。これも健全な社会の構成員である企業という視点から見れば,モラルの崩壊であ る。
それにより,一般市民が罪悪感をもたないで行う当然の選択が社会のモラル崩壊に つながっている。一般市民にとって,限られた収入の中で値段の安いものを追求する のは当然のことである。なけなしのお金をできるだけ利回りがよいファンドに投資す るのも当然のことである。それが労働者の賃金を引き下げ,格差を生み,就業の機会 を減らし,環境を破壊し,社会のモラルを崩壊させて,結局は自分に跳ね返るデスス パイラルに落ち込んでいる。
一人ひとりは,商店街がシャッター街になり,山の緑が消失し,犯罪が増えること を自分なりに心配し改善の努力をしている。これ以上,自分の責任を問われてもどう すればいいのだ。収入が減る中で,なぜ自分が安いものと同じものを高い値段で買い,
利回りが低い預金を我慢しなければならないのだ,という思いであろう。
健全な社会を維持する責任がある政治行政の担当者にしても同じである。規制をか けて高い値段を維持するとか,ファンドからの資本投入を禁止して経営者にコストの
高い資金に甘んじさせる,という昔の体制に戻すことは許されない。そんなことをす れば政治家は選挙に落ちるし,公務員叩きはさらに激しくなろう。
現代文明において,社会のモラルは進化の進行と共に崩壊する。それを可視化する ものが金融危機である。2008 年度後半にはサブプライム問題に端を発する金融危機 が世界経済を直撃し,日米欧のみならず新興国の経済にも大きな打撃を与えた。サブ プライム問題は,今回の経済危機の発端ではあるが原因ではない。原因は抑制がない 揺動体となった金融システムにある。すなわち,進化の性質 3(ダーウィン ・ ディレ ンマ)と性質 12(スケールフリーシステム)が重畳して発現したものである。
金融経済と実体経済との間には,進化システムとして大きな違いがある。金融経済 における財が現在ではほとんどが信用であることから,信用の上限は人間の心理状態 しかなく,それは状況により青天井になるのに対して,物的な財には物理的な上限が ある。
金融経済の財は情報システムと親和性があり,かつ生産,蓄積および流通に上限が ない。キーボードの 0 を一つ多く叩けば取り扱う財の量は 10 倍になり,それは光の 速度で世界を飛び回る。
これに対して物的な財は,原料調達,生産,蓄積,流通のいずれにおいても量的な 制約がある。10 倍にするには,原料の量を 10 倍に,生産工程に 10 倍の能力を,貯 蔵に 10 倍の空間を,流通に 10 倍の輸送能力を必要とする。これらは自然な上限を形 成する。
金融の財が物的な財と連結していたときには,物的な財の上限が金融の財の無制限 な増加に対して歯止めとなっていた。それが,金融の財が株券・債券,証拠金取引に 至ると,物的な財との連結が切れ歯止めもなくなった。表 6 に示す経済バブルの歴史 に,近年その頻度が急速に高くなり,影響が世界に広がっていることが見える。
現在,信用を財とする資産総計は,実体資産の 4 倍に達しているという。投資家 J・
ソロスの米国議会における証言では,ファンドの資産が 3 分の 1 から 4 分の 1 になり 得る,としている。彼の証言の根拠は不明であるが信用資産と実体資産の比に見合っ ているのは興味深い。日本の日経平均株価も,1980 年代後半の土地投機バブル中の 3 万数千円から 2012 年は 9 千円前後になって 4 分の 1 になっている。これは,ダーウ ィン ・ ディレンマの下で暴走した信用資産の実体資産への調整局面と見ることもでき る。
膨張した信用資産が実体経済に向かうと,原油や食糧など生産・生活必需物資の価 格の高騰という経済の混乱と,それに伴う生産と生活の支障をもたらす。
今回の金融危機が,ダーウィン ・ ディレンマの下で起きたことは,米国の連邦準備 理事会の前議長であるアラン・グリーンスパンがバブルを予見しながら金利を上げら れなかったこと,およびすでに述べた投資会社の CEO が採った行動に見られる。両