1.EU の市場
スペイン、ポルトガル、オランダなど海洋ヨーロッパ諸国を中心に展開した 16 世紀後半の大航海時代には商業活動の中心が地中海から大西洋に移るととも に商業資本が急速に発展し、商業革命と呼ばれる時代を迎えた472。その貿易業者 や生産業者への資金供給等のため自然発生的473に各地域、各国でそれぞれ証券市 場が設立され、その取引所に関係する者、証券仲介業者などによって自発的自 主的な取組として彼らが開設した市場における証券取引規制を定めてきた。そ の初期段階においては債権や有価証券の取引、その価格の値決め等について独 自のルールや規制を決め、運営をした。その後証券市場は国内経済に占める割 合、影響の大きさから徐々に国家の関与を受けることになった。20 世紀になり 本格的に国家関与・監督のもと有価証券と発行や売買、情報開示の法律、規則 等が定められた474。そこで国家による証券監督機関が誕生したが、その機関及び 規制根拠については、各国固有の歴史が見られる475。
近年ヨーロッパ諸国は、ヨーロッパ連合476として経済・通貨統合の実現、共通 外交安全保障政策の設定、国家主権の一部制限等を行いながら地域統合を図り、
域内市場統合を進め、一層の整備を図るため証券関係法の全面的な見直しに着 手した。金融サービス部門の全分野を対象に、残存する障害に焦点を置き、そ の最終的な除去を目標とした「投資サービス・規制市場指令」の具体化を最大 の課題として地域統合を促進した結果、2004 年 4 月には「金融商品市場指令」
(MiFID)477が採択・導入されることなった478。
またこの一環として、特に内部者取引について共通の規制を制定し、証券取 引に透明性と客観性を採り込み健全化を図るとともに投資者の信頼獲得による
472 浜島書店編集部『プロムナード世界史』86 頁(1997)
473日本証券業協会証券教育広報センター、高橋文郎良編 『新証券市場 2008』19 頁(2008)
アムステルダム証券取引所は世界で最古の証券取引所。
1602
年にオランダ東インド会社によ って、株券や債券を売買するために設立されている。474 Mathias M. Siems The Foundations of Securities Law P6(10 September 2008 European Business Law Review Vol. 20, 2009 141-171)
475 参考図書『図説ヨーロッパの証券市場 2009 年版』、『図説イギリスの証券市場 2009 年度版』
(財)日本証券経済研究所(2008)、 NIAMH MOLONEY 『EC SECURITIES REGULATION Second Edition』 OXFORD UNIVERSITY PRESS(2008) MOLONEY の著書はヨーロッパの証券規制を有価証 券と投資サービスシステムについて検証したもの
476 1992 年 2 月 7 日マーストリヒト条約調印、翌年 11 月 1 日欧州連合発足。
477 MiFID(金融商品市場指令) 「DIRECTIVE 2004/39/EC OF THE EUROPEAN PARLIAMENT AND OF THE COUNCIL of 21 April 2004, on market in financial instruments amending Council Directives 85/611/EEC and Directive 2000/12/EC of the European Parliament and of the Council and repealing Council Directive93/22/EEC」同指令の概要としては大橋善晃 EU金 融商品市場指令[MiFID]証券レビュー第47巻11号40頁(2007)参照
478 Niamh Moloney EC Securities Regulation Second Edition (2008)EC の証券と投資 サービス規制を包括的に説明するもの
証券市場機能の効率化を深耕し金融資本市場の活性化を企図することにした。
証券市場の活性化において市場機能の発揮できる法環境の整備が必要である ことは当然のことであるが、市場先進国では、物理的な取引所といった囲まれ た場所である注文を受け、板寄せし、商いを成立させる空間、かつては数多く の場立ちさんが身振り手振りで賑わいを呈した体育館のような建物と音をカチ カチと音を出す電信であったり、ベルが鳴る電話であったりする情報伝達手段 の整備が進められた。
2.EU の内部者取引規制
EU はこうしたグローバルな金融商品取引規制に係る行為規制として、具体的 にその規制インフラを整えるべく 1989 年には内部者取引に係る共通規則として DIRECTIVE 89/592/EEC 指令(以下「内部者取引指令」とする)を発出し、2003 年にはスコープを広げ内部者取引と相場操縦(市場濫用)に係る DIRECTIVE 2003/6/EC(以下「市場濫用指令」とする)を改めて追加している(手続的には 前指令を廃止し後指令を新設した形式を取る)。こうした指令を出し、その規定 の加盟国法への移入を指示し、このように域内諸国の規制内容の統一化を進め ており、その着実な展開が示されている479。第一弾の内部者取引指令は、大枠を 定めるものであり、移入も加盟国の自主性に任せていたが、第 2 弾の市場濫用 指令は加盟国間の統一を図るべく詳細に規定している。
3.内部者取引指令(DIRECTIVE 89/592/EEC)
1989 年の内部者取引指令は、それまで加盟各国でそれぞれの取引規制に係る 方針のもと独自採用されてきた内部者取引規制を調整するため 1989 年 11 月 13 日に発出(指令第 15 条)された。実行に移すまでの経過期間が設けられ、施行 時期は 1992 年 6 月 1 日と定められた。加盟各国ではその期間までに国内法化さ れ施行される(指令第 14 条)ことになっていたが、英国は必要な修正が間に合 わず翌年に持ち越し、ドイツは更に時間を要し、1994 年にようやく施行される に至った480。
(1)内部者取引に関する定義
●内部情報
まず、第 1 条第 1 項で「『内部情報』とは、発行体(単複)又はその発行体 によって出された有価証券(単複)に関する確実性を有する未公表の情報で、
もしそれが公表されたならば当該有価証券の価格に重要な影響を与える虞のあ るものをいう。」とし、内部情報について有価証券の発行会社またはその有価 証券に関する情報で、その情報の性質が確実性を持ち、また公表された場合に
479 COMPARATIVE IMPLEMENTATION OF EU DIRECTIVES(1)P5 The British Institute of International and Comparative law city research series number eight (2005)
(www.cityoflondon.gov.uk/economicresearch)
480 前掲(注 8)P9
は価格に対する重要な影響を与える虞を有し、取引の時点では未公表の状態に あるものと定義されている。
Article1
1. 'inside information' shall mean information which has not been made public of a precise nature relating to one or several issuers of transferable securities or to one or several transferable securities, which, if it were made public, would be likely to have a significant effect on the price of the transferable security or securities in question;
前述したが米国の規則 10b-5 では内部情報の定義すらなく、その点について は前述のとおり連邦議会では 1980 年代(84 年 88 年)に何度か法律による定義 を試みる立法化の動きがあったものの結局、立法による弊害が大きいとして見 送られている。しかし EU では、EU 加盟国間の統一規則を作るためには共通する 標準形式が不可欠であるとして内部情報を定義付けている。
〇内部情報の範囲
この定義で特徴的なのは、発行体(単複)又はその発行体によって出された 有価証券(単複)に関する確実性を有する未公表の情報として、まず「情報」
の範囲を所謂「発行体」の情報だけでなく「発行された有価証券」に関する情 報として広範に認めていることである。
情報には大きく分けて 3 形体があるとされる。例えば、①会社内部情報・資 本額の減少など会社経営そのものから生じてくる情報で発行体情報と呼ばれる ものである。②会社外部情報・例えば競合路線地域内で他の鉄道会社や航空機 関が路線開業の免許を得た場合など、会社の経営自体から発出したものではな く外部からの要因が直接、または間接的に会社の経営に影響の出るもので証券 情報と呼ばれるものである。③外部情報・同じく外部からの要因だが、例えば 金利や為替政策に係る審議会でこれまでの方針が変更されたことによって輸出 産業や金融機関の融資姿勢などの経営環境が変化し会社発行の有価証券の価格 に影響の出るものなどである481。これも証券情報である。
会社の経営そのものから生じるものは発行体情報であり、後の 2 つは証券情 報に区分される。このいずれのタイプの情報を含むが、本指令においては、第 2 条第 4 号で加盟国による金融政策等の情報は、適用除外とされている。わが国 の内部者取引規制規定では、会社の経営自体から発出した発行体情報のみが対 象となっており限定的であり482、検討を求める意見が出されているのは前述のと おりである483。
481 川口恭弘=前田雅弘=川演昇=洲崎博史=山田純子=黒沼悦郎「インサイダー取引規制の比較法研究」
民商法雑誌 125 巻 4・5 号 445 頁(2002)
482 川村正幸編『金融商品取引法』473 頁中央経済社(2008)ただ、第 166 条 2 項 2 号が会社外 部の事情が当該会社発行の有価証券価格に影響を与える事項を定めているとの説明(近藤光 男=吉原和志=黒沼悦郎『証券取引法入門〔新訂第二版〕』商事法務(2003)もあるが、同号イ が「災害に起因する損害」として定めており、株価に対する影響を発生事実としては規定し ていないので、分類上無理があるのではないか。
483 黒沼悦郎「内部者取引の立法論的課題−内部情報及び内部者の定義を中心として」『証券市場 の機能と不公正取引の規制』 79 頁 有斐閣(2002)
なお、アナリスト情報の取り扱いについては、特定ツールから入手した情報 は別として通常の活動の中で作成されたアナリストの評価は除かれることにな っている。評価が除かれるのであって、アナリストが取材等で得た会社経営者 の発言などを消化せず、発言そのもの・生の情報の提供は当然該当する。
○情報の確実性
次に情報について確実性(precise nature)を要求していることである。この 確実性という要件は、米国証券取引所法及び SEC 規則にはなく、またわが国の 法令にもそのよう要件は規定されていない。情報の確実性を要求することで、
単なる憶測や見解、噂を外す趣旨である。しかしながら、噂が市場で価格に取 り込まれたような場合、例えばブローカーが噂を有価証券の発注価格に織り込 むと、これは市場の価格形成に十分な影響を与えており、具体的な情報と云え なくはないが、この点について条文では触れられていない484。
○重要性
重要性の定義については、「当該有価証券の価格に重要な影響を与える虞の あるもの(would be likely to have a significant effect on the price of the transferable security or securities in question)」と規定している。加盟 国の多数はそのまま移入している。しかし、単に影響を与える可能性に留まら ず重要な影響を与える虞とするならば具体的にどの程度のものを示すのか、ま たは取引行為者の主観的立場か一般人の客観的な立場で判断するのか、さては 合理的投資者について判断するのかなど具体性がなく不明であり、疑問がすぐ に生じる485と指摘をされている。移入した加盟国の中では下落幅を規定している 国486もある。また結果的に影響の虞の有無については行為者が主観的に判断する ものと一般的に捉えられているが、開示との絡みで実際の取引時の虞なのか取 引を動機付けられた時の虞なのかがやはり不明である。しかし、通常こうした 取引行為は情報入手後短時間で行われるのでどちらでも差異がないといわれて いる487。要は、価格に重要な影響を与えるおそれのあるものとして、文字通り実 質基準で判断するものとされている。
●公 表
公表の概念は、投資家に情報を開示することであり、そのこと自体は明確で あるが次にどのような手段を取った場合に公表(made public)されたことになる のかについては、規定されておらず結局解釈に委ねられることになった。その ため加盟国ではこの点の移入定義が全く異なり二グループに分かれることにな ったと指摘されている488。市場のプロに対する開示でも足りるとする国(英国等)
484 Niamh Moloney EC Securities Regulation P753(2002)
485 R.C.H.Alexander Insider Dealing and Money Laundering in the EU:Law and Regulation P84
(2008)
486 前掲(注 14)スエーデンでは、10%の下落率を規定した。
487 前掲(注 14)P84
488 前掲(注 8) P10