1.わが国の内部者取引規制の構造等
次にわが国の内部者取引規制の現状と課題は何かを特定するために、まずわが国の内部 者取引規制の導入経緯及びその構造を俯瞰することにしたい。
(1)導入の経緯
わが国の内部者取引規制は、昭和63年の証券取引法の一部改正によって導入された(昭 和63年5月31日法律第75号。平成元年4月1日施行)。もちろん63年以前に内部者取引規制が 米国等の資本市場の先進国において立法、施行されていることは研究者、監督当局等で承 知されており、同様な規制が国際化をめざすわが国の証券市場においても必要であるとの 認識は十分にあった173。しかし、昭和51年に出された証券取引審議会の答申・報告書174にも 見られるように、証券取引法の改正による内部者取引規定の制定までには至らなかった。
同報告書では「内部者取引が悪であるという認識は、近年米国を中心として欧州各国にま で広まっており、わが国においてもこのような考え方を一般的に定着させる必要がある。」
しかし、制定には内部者の特定等困難な問題があり、また米国の内部者取引規定に相当す る証券取引法第58条があるからといって、これまで何も触れてこなかった内部者取引へ性 急に直接の適用を認めることは限界があるとして「内部者取引が何より道義に反する行為 であることを関係者に十分認識させ、さらにその認識が実践にまで高められるように努め ることが実践的である。」と結論付けている。要は、米国等が導入しているそうした内部者 取引規制の趣旨を法改正ではなく実行上の措置として普遍化し、制度の周知を図るよう行 政当局、取引所、証券業者175がそれぞれ進めていくこととされた。この報告に基づきそれぞ れの機関が通達・規則等176を作り規制を進めたが、違反があっても極端な案件のみが対象と され、対象とされてもその結果は法の執行という形式を取らないため各機関の内部的対応、
措置等177に留まり、外部からはエンフォースメントが何も行われていないとみられる状況178 が続いていた。
ところが例えば、昭和 62 年に阪神相互銀行(当時)がその融資先であるタテホ化学工業 による大規模損失の情報を察知し、同化学工業が損失の公表前に、同工業株の売り抜け179を し、マスコミを賑わす事件(「タテホ・ショック」)が起こったが、結局大蔵省と証券取引 所の調査等が進まず、そのままに放置されたことや取引のボーダレス化によりアメリカを
173 神崎克郎『証券取引規制の研究』92 頁 有斐閣(1968)
鈴木竹雄 河本一郎『法律学全集証券取引法』15 頁 有斐閣(1968)
174証券取引審議会報告(昭和 51 年 5 月 11 日)「株主構成の変化と資本市場の在り方について」
3.不公正取引規制の在り方
175 座談会「インサイダー取引の規制」水口弘一野村総合研究所社長発言 ジュリスト
908
号5
頁(1988)176 大蔵省証券局通達(昭和 46 年 2 月 24 日)「事故防止等について」(内部者取引の受注につい て)東京証券取引所会員通知(昭和 47 年 11 月 17 日)「上場会社の関係者による自社株の売買 取引について」等
177大蔵省証券局検査課引継資料等(1992)監視委員会保存 証券取引等監視員会設立以前の状 況を総括
178 竹内昭夫「インサイダー取引規制の強化[上]」商事法務 1142 号 3 頁(1988)
179 グループ NE『インサイダー取引の内幕』32 頁 オーエス出版(1988)
中心とする諸外国、国際監督機関から証券取引規制ルールに対する国際的協調の要求の一 つとして内部者取引規制が強く求められたこと180、さらに日本市場の特殊性に対する海外マ スコミの批判等が起こり立法化に向けた契機となり、証券取引審議会で検討が重ねられた181。 最終的に出された証券取引審議会報告書(昭和 63 年2月)「内部者取引の規制の在り方に ついて」では、「個人投資を含め証券市場の機能を発揮させるために、国がなすべき、また なし得るものとして内部者取引のような不正或は不公正取引を防止して、投資家にとって 安全なマーケットを提供するということなので、市場に対する信頼を確保するには内部者 取引を止めさせなければならない」とし、「内部者取引の未然防止を図るとともに、これを 規制する法制の整備を速やかに進めるべきである」と結論付けられた182。
同報告書では、未然防止体制の整備と法制の適用・整備が必要であるが、何よりも未然防 止に重点を置くべきであり、法制も基本的には一般予防を図る形とすべきであり、未然防 止に繋がる必要があるとする183。未然防止体制の整備については、当該有価証券の発行会社、
証券取引所、銀行・保険会社などの金融機関等に分けられ何をすべきであるかが明らかにさ れ、また発行会社に対する報告命令権の付与等による行政的監督の強化が挙げられている。
同年の証券取引法改正により、内部者取引規制が導入された184。
前述のとおり証券取引法は戦後アメリカの証券諸法を母法として制定されており、アメ リカが内部者取引規制の根拠としている法文・連邦証券取引委員会規則10b-5(以下では連 邦証券取引委員会を「SEC」と略記する。)の引き写し185と紹介されている条項(証券取引法 58条・当時)も存在していた。それにも拘わらず敢えて証券取引法を改正186し、司法当局の 強い意向のもと罪刑法定主義の観点から明確性を重視し187、取引行為者がインサイダー情報 を利用して意図して利益を上げることを要素とせず、単に職務上会社の内部情報である重 要事実188を知り、その公表前に当該会社の株式等の取引をすることはルール違反であると定 めた。行為者や重要事実等を具体的詳細にかつ網羅的に構成要件要素として法律本文及び 政省令に組入れた内部者取引規制条項(190条の2他 昭和63年当時)を制定した。形式犯189 として違反行為を定め、ここに処罰の根拠を置く。したがって罰則である法定刑も6カ月以 下の懲役または50万円以下の罰金とし、不公正取引一般を規制する157条と比べ軽く、また 刑法の罰条と比較すると他人の葉書を隠すことが罪とされている親告罪である信書隠匿罪 (刑法263条)と自由刑の期間が同じであり、その有責性の位置付けが極めて軽微なことが窺 える。その後現在まで運用等に伴い適用要件の明確化や追加が行われ、罰則の強化や規制
180 ほぼ同時期(昭和 62 年)に導入された制度として大量保有報告(5%ルール)がある。
181 座談会「インサイダー取引の規制」ジュリスト 908 号 4 頁(1988)
182 小林滋「内部者取引の規制の在り方について」商事法務 1141 号 13 頁(1988)
183 前掲(注 3)6 頁 竹内教授発言「内部者取引の規制には刑事罰に頼るのみではなく、むしろそ の事前のところで十分これを防止する体制がないことには、刑事罰そのものが十分機能しない、
という考えで最終的にまとまられていると思います。」
184 証券取引審議会報告書(昭和 63 年 2 月 24 日)「内部者取引の規制の在り方について」
185 並木俊守「内部者取引の規制」124 頁 日本法令(1988)
186 前掲(注 6)12 頁では、これまで当該条項で不問にしていたものを急に捕えるとした場合、不 満を抱くことになる。「そのためにはやはり法律を一度オーバーホールして過去の経験に捉わ れず新しい法律を適用することが必要であるとする」と内部者取引規制規定の新設を説明す る。
187 証券取引審議会報告書報告書内 4.内部者取引に対する刑事罰則の整備(1)基本的考え方 ハ.構成要件が明確であり、投資家にとって取引を行う時点において、その処罰されるものか 否が明確に判断できるようなものとすること。
188 平成 20 年 6 月証券取引等監視委員会公表の「金融所品取引法における事例集」に重要事実の 事例・類型別紹介がなされている。
189 編集平野龍一「注解特別刑法補巻(2)」253 頁 青林書院(1996)
ツールの多様化などの改正190が繰り返されている。こうした刑罰の引き上げについては、「部 者取引規制の条文そのものが本質的な改正がなされていないままに、違反の性制は強化さ れている。この点で、証券取引法における形式基準と刑事罰の整合性(軽い法定刑)はす でに崩れているといえる」として世論に押された安易な罰則の引き上げは、規制要件基準 の見直しが必要であると批判191されている。
(2)不公正取引規制における位置付け等
●不公正取引規制における位置付け
金融商品取引法第6章・有価証券の取引等に関する規制には、証券取引の不公正行為を 禁止する規定が設けられている。一般的な不公正行為の禁止規定(第 157 条192)と個別の具 体的な証券取引行為を禁止するものがある。内部者取引規制も個別禁止規定の一つである。
主な個別の具体的禁止規定としては、①風説の流布・偽計取引等の禁止(第 158 条)、②相 場操縦行為等の禁止(第 159 条)、③会社関係者等による内部者取引の禁止(第 166 条)、
④公開買付者等関係者の内部取引の禁止(第 167 条)、⑤虚偽相場の公示等の禁止(第 168 条)などが挙げられる。
●広義の内部者取引規制
未公開の内部情報の利用による有価証券市場の公平性及び健全性を確保するため、広義193 の内部者取引規制として①会社内部者の持株の売買についての報告義務(第 163 条)、②会 社内部者による短期売買差益の返還制度194(第 164 条)、③会社内部者による自社株の空売 り禁止(165 条)、④会社関係者等による特定有価証券等取引の規制(第 166 条)及び⑤公 開買付者等関係者による株券等の取引規制禁止(第 167 条)が設けられているが、後二者の みが狭義の内部者取引規制であり、直接的に内部者取引を禁止している。
●狭義の内部者取引規制
狭義の内部者取引規制は、会社の役職員や株主といった証券の発行会社と特別の関係に ある者が公表されればその証券の価格に影響を及ぼすような重要な未公開の会社情報を得 てその公表前に行う証券の売買等を禁止するものと定義が出来る。その行為は証券取引の 公平性を害するものとされ、罰則、課徴金をもって糾弾される(金融商品取引法 166 条、167 条、197条の2第 13 号、207 条1項 2 号 175 条)。
(3)内部者取引規制の構造
金融商品取引法第 166 条で定める内部者取引規制の構造は、①第1項及び第 3 項で取引 を禁止される主体の身分である「会社関係者」、②第 1 項で違法行為類型である「禁止対象 取引行為」、③第 2 項で客観的構成要件要素として投資者の投資判断に重大な影響を与える とみられる会社情報を「重要事実」として「具体的制限列挙」するとともに「包括条項」
190 東京証券取引所自主規制法人『インサーダー取引規制 Q&A』170 頁(2008)
191 神崎克郎=志谷匡史=川口恭弘『証券取引法』922 頁 青林書院(2006)
192 並木和夫「不正な証券取引の禁止―証券取引法157条1号(旧58条1号)の意義と展開―」法学 研究73巻12号50頁(2000)
193 松井秀樹「インサーダー取引規制の変遷と現行制度の概要」商事法務 1679 号 4 頁(2003)
194 明田川昌幸「内部者取引と利益相反―証券取引法 163 条と 164 条の短期売買差益提供規制を 中心として―」『商事法への提言』835 頁(2004) 会社内部者の持株の売買についての報告 義務(第 163 条)及び会社内部者による短期売買差益の返還制度(第 164 条)について、単 なる内部者取引の予防を目的とした規制ではなくアメリカ法律家協会の連邦証券規制につい ての委員会報告の議論等を基に「会社内部者が会社経営に際して有する権限を悪用し、会社 の経営事項を操作して自ら内部情報を作り出しそれによって自社証券の取引を行うという、
より悪質な内部者取引の防止を目的として立法されたものであると考える」とし、その射程 の大きさ、有効性を主張するもの。