がら同時に連関をもたせ 7 、とくに「山上の説教」を実例とする新しい律法
H. ヴィンディッシュ以来、「パラクレートス」テキストがヨハネにおいて 二次的な後の改訂部分に属し「聖霊」と「パラクレートス」の同一視もオリ
⑴ マルコのただ 1 回の用例 13:32「その時は、だれも知らない。天使た ちも子も知らない。父だけがご存じである」 (=マタ 24:36) における「子」
の絶対的用法が教団用語だとすると27
、
この「父」はその対概念(Korrelat)で あると判断されよう28。
⑵ Qも同様にマタ
11:27 =ルカ 10:22
のみであるが、「父のほかに子を 知る者はなく……」のテキストが全体としてヘレニズム的形成による二次的 素材であることは否み得ないであろう29。
25 Conzelmann, 147-149.(邦訳160-162頁)
26 Schrenk, 989.
27 Cf. F. Hahn, Christologische Hoheitstitel, 1963, 315f., 319f.
28 Iersel, 100.
29 Bultmann, Geschichte, 166.(邦訳Ⅰ巻288頁)もっともヘレニズム的形成と言っても、
「アポカリュプシス」(R. Bultmann, M. Dibelius)、神秘主義(W. G. Kümmel)、グノー シス(E. Haenchen)など、意味合いは同一ではない。イエスの語ったままの言葉
(ipsissima verba)として認められない理由としては、ほかにこのペリコーペ全体のヨ ハネ的基調や、排他的キリスト論の傾向が強調されてきた。しかし従来とも、たとえ ば「あらわる」avpokalu,yaiや「知る」gignw,skeinという動詞のセム語的用法を含めて、
ヘレニズム世界ではなくむしろ死海文書や知恵・ラビ文学との並行関係を強調する立 場があり(W. D. Davies, The Setting of the Sermon on the Mount, 1964, 207f.; Jeremias,
Abba, 49f.)、看過できない。さらに「子が知られない」という非グノーシス的要素や
Q伝承のヨハネへの影響関係(例えば10:15)を考慮することによって、いきなりイ
⑶ マタ
28:19
のo` path,r
は、三一的な洗礼行事の定式(Taufformel)の枠 の中にあらわれ、教団神学の手になることは明らかである30。
なお ⑷ ルカ特殊資料には「父」の絶対用法が欠如し、ルカ
9:26「人の子
も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じ る」は、マコ8:38
の変更にすぎない。たといこのロギオンが古い伝承であ るとしても31、ここにはなおイエスと来臨の終末論的「人の子」の関係とい
う問題が介在し、ユンゲルは、イエスの宣教と態度に由来する「神の存在に 対するイエスの存在の対応のキリスト論である」と言うが32、解釈上論議の
対象となる。次いでイエスが、人々の前で、人々に対して神を「わたしの父」と呼んで いる例が多くみられる。
⑴ マルコにはこの用法が欠落している。
⑵ Qは、前出のマタ
11:25-27
およびパラレルのルカ10:21
以下のほか、マタ
10:33「人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの
4 4 4 4父の前で拒むであろう」(口語訳)があげられるが、よりオリジナルと思われる 並行記事ルカ
12:9
では「神の天使たちの前」であり、したがってネガティ ヴな判断しかできない33。
⑶ ルカ
22:29
の「わたしの父
4 4 4 4 4がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだね……」は、ルカ的な
Abendmahlsgespräch
のエスにまで遡らないまでも、先行の「アッバ」に対する賛美ロギオンとの結合を介し て、この「父─子」啓示ロギオンとイエスが生きたmilieuとの間の距離を短縮する方 向 で の 議 論 が あ る。Dunn, 28ff.; D. Hill, The Gospel of Matthew (New Century Bible),
1972, 204ff.(邦訳247頁以下); および三好、前掲論文、67頁注(i)を参照。
30 H. W. Montefiore, “God as Father in the Synoptic Gospels,” NTS 3, 1956, 44.
31 Iersel, 100.
32 ユ ン ゲ ル、前 掲 書、273頁、な おH. E. Tödt, Der Menschensohn in der synoptischen Überlieferung, 1959, 55; Conzelmann, 151ff. (邦訳164頁以下)、拙論「共観福音書にお ける人の子」『神学研究』12号、1963年、70頁以下。W. G. Kümmel, “Das Verhalten Jesus gegenüber u. das Verhalten des Menschensohns,” in Jesus und der Menschensohn (hg.
R. Pesch u. a.), 1975, 210ff.を参照。
33 Iersel, 97f.
一部とみなされ、同じくルカ
24:49「わたしの父
4 4 4 4 4が約束されたものをあなた がたに送る」も、明らかに復活のキリストに帰せられる。⑷ マタ
16:17「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのこと
を現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」はおそらく、同
11:27「……父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほ
かには、父を知る者はいません」と結びつき、「神の子」なるイエスのうち にご自身を啓示される「父」というマタイの明確なキリスト論的解釈を表現 するものであろう(15:13参照34)。
その他マタイに数多く見出される「わたしの父」はいずれも編集の手にな るもので、それぞれ顕著なマタイ的特色を表している。すなわち、⑴ 父と の交わりに入れられるか否かは、神ご自身の決定による(マタ7:21; 10:32以 下; 12:50; 18:35。なお16:27; マコ8:38; ルカ9:26参照)
。⑵ イエスは、苦難の道
を歩むことによって、父のみこころを成就された(同26:42, 53; なおマコ14:36参照)
。⑶
神の子らは父に結びつけられ、その祈りは必ずきかれる(同18:10, 19)
。⑷ み国の祝福が、父によって与えられる
(同20:23; 25:34; 26:29; ルカ24:49参照)など、それぞれ「わたしの父」がいわばキリスト論的な
Stichwort
を成している35が、その真正性を確定することは困難であろう。「アッバ・父」「あなたがたの父」
さて、イエスの神観にかかわる重要な呼称で、従来その真正性をめぐって 多く議論されてきた語はアラム語の「アッバ」という呼格(Vokativform)で ある36
。もとよりマコ 14:36
を含むゲツセマネの祈りの現形ペリコーぺが、マ ルコの編集的スタイルをとっていることは否めないにしても、この同じ「ア ッバ」がアラム語原型のまま保存され、パウロによって神への呼称として用 いられている以上(ロマ8:15; ガラ4:6)、イエスが事実「アッバ」と呼ばわり、
「わたしの思いではなく、みこころのままに」と祈った、そのことまで否定
34 Ibid., 113, 146 ff. なおマタ16:16以下に対するマコ8:27以下のオリジナリティーの問題については、松木治三郎、91頁参照。
35 Anderson, 67; Schrenk, 989.
36 Ibid., 984-985.
する必要はないであろう(マタ6:9=ルカ11:2、同11:25-26=同10:21、マタ 26:39, 42; ルカ23:34, 46; ヨハ12:27のほかヘブ5:7も参照37)
。
「アッバ」という呼格はもと、タルグムやラビ文学においても幼児が自分
の父親に対してほとんど片言的に使う「パパ!」に近いもっとも親しみ易い 庶民的な家庭用語であった38。したがって当時のパレスチナ・ユダヤ教にお
いて、ユダヤ人が、宗教用語として神への語りかけにこのような単純率直な 神人同形的「アッバ」に類する日常語を用いたことはきわめて稀れであった にちがいない39。だが、エレミアスのように、イエス固有の ipsissima vox
つ まり語られたとおりの言葉としての特異な「アッバ」の呼称40から、直ちに 史的イエスのメシア的「子」意識を主張することは容易ではない。たとえばマタ
11:25-27
の背後に「アッバ」を想定し、イエスが超越的な「神の子」の権威を否定しなかったという議論41も困難であろう。むしろ、ナザレのイ エスに帰しうる「アッバ」は、本来、素朴な祈りの呼びかけ
Gebetsanrede
以37 J. Jeremias, Abba, 56-58; Neutestamentliche Theologie I, 1971, 67-73.(邦訳122-133頁)『新 約聖書の中心的使信』(川村訳)、1972年、116頁以下のほか、Cf. 三好、64頁以下、T.
W. Manson, Teaching of Jesus, 1935, 89-115; E. Schweizer, 313. E. Linnemann, Studien zur Passionsgeschichte, 1970, 17-23; W. Marchel, Abba, 1971, 99-167.(この重要な研究の要約 的紹介がThLZ 1973, 432f.にみられる)Dunn, 18f., 21f. イエスにおける「アッバ」を否 定 的 に み て い る 学 者 も あ る。e.g. E. Haenchen, Der Weg Jesu. Eine Erklärung des Markus-Evangeliums u. der kanonischen Parallelen, 1966, 492の ほ かConzelmann, 122
(邦訳127-128頁)も消極的に判断する。
38 G. Kittel, “avbba,,” ThWNT I, 4f.; Schrenk, 985.
39 Jeremias, 15ff., 33, 59ff., 145, 148; Schrenk,979f.; Schweizer, 312. なおユダヤ教における
「アッバ」呼称の深化については、cf. Kittel, ibid. ところでJeremias, 15ff. および三好、
63頁は、パレスチナ・ユダヤ教文献における神にかかわる「アッバ」を全面的に否定 するが、少くともシラ23:1, 4; 51:10; 知14:3; Ⅲマカ63:8等の先行例は看過され得ない。
G. Dunn,365. 55.
40 J. Jeremias, “Kennzeichen der ipsissima vox Jesu,” in Synoptische Studien (FS. für A.
Wikenhauser), 1953, 86-89. 『中心的使信』127頁以下。
41 Jeremias, Abba, 47f., 51-54. なおイエスの「父よ」というAnredeとしては他に十字架上
のpa,terルカ23:34, 46; マタ26:42があげられるが、Ierselはやはりこれらの背後に
Status emphaticusとしての「アッバ」を想定する。Ibid., 100-104.
上のものではなく、これが後にアラム語圏の教会で記憶され、ギリシャ語を 話す人々の間で、イエスの神を指す慣用的な
Lehnwort
(外来の借入語)とし て、さらに教団内で、「アーメン」「マラナ・タ」(Ⅰコリ16:22)などと同様、リタージカルな目的のためにも用いられたと考えることが妥当であろう42
。
つづいて、「あなたがたの父」の用例に向かう。まず ⑴ ルカ
12:32「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで
神 の 国 を く だ さ る
」
は、高 挙 の 主 に 帰 せ ら れ る 典 型 的 な 教 団 用 語(Gemeindewort43)
、そして⑵
マタ5:16; 6:1
および6:8
はいずれも福音書記者 の手による編集句と目されるのであるが44、先にも一言した如く、マタイに
はQを採用する際に、好んで「あなたがたの父」を用いる傾向があり45、ま
たとくにこれが弟子教育のモティーフと結合している点が注目される(マタ 5:45; 7:11など参照46)。
ただ ⑶ マタ
23:9
の章句「あなたがたの父4 4 4 4 4 4 4は天の父おひとりだけだ」の真 正性については、ブルトマンも肯定的である47。
また、⑷
Qのマタ 5:48 =ルカ 6:36「あなたがたの
4 4 4 4 4 4天の父4が完全であられ るように、あなたがたも完全な者となりなさい」および同6:32 =同 12:30
「あなたがたの
4 4 4 4 4 4天の父4は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご 存じである」のテキストは、セム的なouvra,nioj
を別にして、いずれも資料と42 H. Schönweiss, “Gebet,” TBLNT I, 428; W. Mundle, “maranaqa,” ibid., 470; Conzelmann, 122
(邦訳127-128頁); Schweizer, 312. 松木治三郎『ローマ人への手紙─翻訳と解釈』
1966年、301頁、注2・3、佐竹明『ガラテア人への手紙』1974年、375頁以下。
43 Bultmann, 111, 127.(邦訳Ⅰ巻189、202頁)
44 Conzelmann,123.(邦訳129頁)
45 マタ10:20 to. pneu/ma tou/ patro.j u`mw/n (=ルカ12:12 a[gion pneu/ma)マタ10:29 a;neu tou/
patro.j u`mw/n(=ルカ12:6 evnw,pion tou/ qeou/)など比較参照。
46 Schrenk, 980; Dunn, 24. マタイのカテキズム的性格については拙論「福音書における教 師イエス」⑵ 『神学研究』第18号、71頁以下参照。その他マタイには「あなたの父」
(o` path,r sou)(マタ6:4, 18)もみられるが、「彼らの父」(o` path.r auvtw/n)(同13:43)
と同様、明らかに編集的解釈を施された部分に属する。
47 Bultmann,144.(邦訳Ⅰ巻249頁)