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、しかも全体を通して「新しい権威ある教え」を基底とす るいわば出来事性と論争物語に典型的な表現をとる批判性のモティーフが貫

ドキュメント内 新約聖書の教育思想 (ページ 44-72)

かれ、その「行為」と「言葉」の背後にまったく無比なる「教師」イエスが 立っていることが否定され得ない。そしてこのようなイエス自身の「エクス ーシア」における教えと働きの内的高まりは「人の子は、安息日の主でもあ る」(2:28)という宣言と「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救う のと殺すのと、どちらがよいか」(3:4、口語訳)というソクラテス的な問い かけによって第一物語群のクライマックスに達し、ここに「神の人」(テイ

29 M. Wichelhaus, “Am ersten Tage der Woche. Mk 1.35-39 u. die didaktischen Absichten des Mk-Ev,” NT 11, 1969, 45-66. ローマイヤーも1:21-45および2:1以下の論争物語を教団の Katechismusthemaと 見 做 す が(28)、W. Egger, Frohbotschaft und Lehre. Die Sammelberichte des Wirkens Jesu im Markusevangelium, 1976, 131, 134, 166f. は、イエスのメシア秘密論に ついてこれをLehreの展開と見做し、Meyeも「メシア的ディダケー」と言表する(47, 50f., 60他)。

30 R. Bultmann, Geschichte der synoptischen Tradition, 19646, 42.(邦訳Ⅰ巻73頁)

31 Christian Haggadahとしての「マルコ」理解に関しては以下を参照。J. W. Doeve, Jewish Hermeneutics in the Synoptic Gospels and Acts, 1954; John W. Bowman, The Gospel of Mark:

The New Christian Jewish Passover Haggadah, Studia Post-Biblica 8, 1965; Augustine Stock, The Method and Message of Mark, 1989.

オス・アネール)キリスト論32を包摂する「教師」イエスが示唆されるととも に、また律法「学者」(oi` grammatei/j)を中核とする反対者との拮抗、彼らの 策謀(3:6; 11:18; 12:12; 14:1)を介して受難の「人の子」との結合を予示せし めるのである33

ラビ論争の形式と方法に媒介されたイエスの独自の権威に対する人々の驚 嘆の事態は、この福音書の第一部のみならず全巻を貫くライト・モティーフ の一つである。すなわち、続く

3:7-5:43

では、譬え話集と

4

つの奇跡物語が 組み合わされ、イエスの権威ある「教え」がふたたび力ある「行為」の場面 設定のもとに展開される。その際、律法学者(3:23)

、身内の者

(3:33)

、弟

子たちを含む群衆(4:13, 21, 30; 5:39のほか4:40; 5:30も参照)などすべての聞 き手に対して、くり返し反語的、修辞学的問いかけを試み、イエスの言行の 背後にあるザッヘ、「神の御心」(3:35)を信じ求めて生きる道がいっそう積 極的に呼びかけられる。あるいはまた

12:13-34

に見られる別の論争物語群 では、イエスが反対者たち(ファリサイ派、ヘロデ党、サドカイ派、律法学者 ら)によって、

dida,skale

(先生)と呼びかけられ(12:14, 19, 32)

、そこにすぐ

れてラビ的な論争が惹起されるのであるが34

、それぞれの結末はまさにイエ

スの教えと人格にのみ帰せられるべきあの「権威」の次元を想起せしめるも ののほかではない。すなわち納税についての質問には「デナリオン銀貨を持 って来て見せなさい」「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」

(12:15, 17)という命令法、復活の問題をめぐる見せかけの質問に対しては、

「あなたたちは聖書も神の力も知らないから」「大変な思い違いをしている」

(12:24, 27)という教えの形において、それぞれ権威ある教師4 4 4 4 4 4イエスへの端的

32 qei/oj avnh,r「神の人」キリスト論に対する消極的理解については、cf. C. H. Holladay,

Theios Aner in Hellenistic Judaism: A Critique of the Use of this Category in New Testament Christology, SBLDS 40, 1977; J. D. Kingsbury, “The ʻDivine Manʼ as the Key to Markʼs Christology: The End of an Era?,” Int. 35, 1981, 243-57.

33 Cf. Schweizer, “Markʼs Contribution to the Quest of the Historical Jesus,” NTS 10, 1964, 424-29.

34 Bultmann, 43(邦訳Ⅰ巻74-75頁); Lohmeyer, 250, 256, 259; Grundmann, 250f. なお12:14b

dida,skein(現在形)の用例については注12、14を参照。

な驚嘆の事実が物語られる。ただし、マルコにおいてイエスが「群衆」の間 に見られる「反対者」たちに直接「教える」ことはなく(2:1-3:6; 11:12-12:40 など参照)

、「権威ある新しい教え」に対する敵対者たちの反応は、「弟子」

たちや「群衆」の「驚き」(5:20; 6:2, 51; 7:37; 9:15他)に共鳴するというより はむしろこの事態に対する「恐れ」であった(11:18; 12:12。ただし、12:32は 例外)

。この他とくに 6:1

以下、7:1以下および

11:27

以下のペリコーペが注 目 さ れ る が、か り に こ こ に ロ ー マ イ ヤ ー が 言 う ご と く 福 音 書 記 者 の

Gemeindekatechese

という「生活の座」が認められるにしても35

、マルコが強

調するポイントは、教団の教化的働きがイエス自身4 4 4 4 4の働きと人格に基底をも つ「権威ある教え4 4 4 4 4 4

」を離れては成り立たないこと、したがって何よりも

「師」イエスその人への今とここにおける信従

4 4(Nachfolge)が要諦であると いうことに他ならない36

4 問いかけとしての「教え」

イエスはユダヤ教の賢者、ラビと同様、しばしば譬話を用いて教えたが、

いま第二部

3:7-6:6

の物語群における「ディダケー」志向を

4:3-32

の譬話集 を中心に一瞥したいと思う。

マルコは、譬による啓示的教え(4:1以下, 10-13, 33以下)に先立ち、まず イエスの活動を伝える「まとめの章句」(3:7-12)において、群衆の中に立つ イエスの力ある働き4 4 4 4 4を強調し、次いで、長い挿入によって「教師」としての イエス・キリストの無比なる権威4 4と意味を闡明しようとこころみている。す なわち、はじめに直弟子十二人の選びの事実とその名が記され(3:16-19)

また彼らが立てられた目的が「彼らを自分(イエス)のそばに置くため37

35 Lohmeyer, Markus, 260. なお注50を参照。

36 Schweizer, “Anmerkungen,” 95; A. Schulz, Nachfolgen und Nachahmen, 1962, 22, 27, 31f., 49-54.

37 「師の傍らにいる」という言表は、ラビ・スクールの所属に関するterminus technicus

あったかも知れない。Cf. Schniewind, 119; Grundmann, 77.

た、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(同

14-15節; 5:19-20; 6:7, 13も参照)と規定される。マルコにとって、イエスの教

えの対象は「群衆」を巻き込み、決して直弟子たちに限られることはないが

(4:1-2; 7:14; 8:34; 10:1; 11:18; 12:37-38など参照)38

自覚的な「信従」を志すもの が特に「弟子」(maqhth,j)と呼ばれ、イエスがその象徴的な対概念「十二」

弟子(新しい神の民の代表)の「教師」として立ち現れるのである39

。あるい

はまた、ベルゼブル論争(3:20-27)

、聖霊冒瀆への警告

(同28-30節)および イエスとの本質的関係をめぐる問答(同31-35節)なども、特色ある挿入や 対照の手法を用いて、やはり全体としては「弟子」たらんとするものたちに 対して、彼らが聖霊にあずかり、イエスと共に「神の御心」(3:35)を信じ 行うことを促し訴えている。そのかぎりここでも信仰と生活をテーマとする 数々の断片伝承が、教団のディダケー志向に相即する仕方でイエスの地上の 働きを物語るプロットの中に統一的に配列されていると考えることも可能で あろう40

そこで、何が「神の御心」(qe,lhma tou/ qeou/)であるかを明示するために、

ここにイエスによる譬話が集められる。まず注目されるのは、「イエスは再 び……教え始められた4 4 4 4 4 4 4

……いろいろと教えられ

4 4 4 4

、……その教え

4 4の中で」とい う種まきの譬の導入句である。この場面設定の荘重な調子はマタイの「山上 の説教」の序言を想起せしめるが、マルコにとって、イエスの「教え」41の 聞き手はここでも差し当たり「十二

」人

(4:10)に限定されない「群衆

(o;cloj)であり、その内容もすべてのものに信仰の決断を促す根源的な問い かけにほかならなかった。すなわち「聞きなさい」というシェマーではじま り、「聞く耳のある者は聞きなさい」という訴えで終わる

3-9

節のオリジナ

38 Cf. Achtemeier, 468. なお田川『原始キリスト教』、116頁以下におけるルカの「ラオ

ス」に対するマルコの「オクロス」の意義についての理解は重要である。

39 Schille, 13f., 24; Schulz, 47-9; Reploh, 11-12; Meye, 42ff., 211. なお「12人」と「弟子」の 関係をめぐっては注53を参照。

40 Lohmeyer, 70f.; Schille, 17.

41 ペッシュは前マルコ的な譬え集がすでにイエスの「ディダケー」と目されていたこと を示唆する(R. Pesch, Das Markusevangelium, I, 1976, 230)。

ルな譬自体が、単なるラビ的な説明法や修辞的に条件づけられた言表をこえ て、聞く者たちの全心身を神の創造的な力と恵み(4:8)へと飛躍させるア ピール、語られた言葉ではなくこれを語るイエス自身への態度決定を迫るよ うな人格的呼びかけであった42

全体の構成は、先ず

4:1-9, 26-34

の枠組みにおいて、イエスが譬えで「神 の支配」を呼びかける「教師」として提示され、中心部(同10-12節, 13-20

節, 21-25節)が譬えの意味と聞き手の応答の問題を展開しかつキリスト論

(イエスの人格と働き=「権威ある新しい教え」)と弟子道(イエスの呼びかけに 対する「信従」)を結びつける重要な役割を担う。その限り、マルコ

4

章の譬 集はフィリポ・カイサリア以前における「福音書の中心

」die Mitte des

Evangeliums

43と呼ばれるにふさわしい内容を盛っている。そこにキリスト者

の信仰のたたかいと教団の伝道的、教育的動機づけが反映されていることは

4:11-12

の譬論と

13

節以下のアレゴリーの実例から明瞭に読み取ることがで

きる44

。語られた譬話について、弟子たちがその意味を問うたのに対し、イ

エスは「あなたがた」には神の国の「秘義」(musth,rion)が授けられているが、

「ほかの者たち」にはすべてが「謎」として隠されたままであると答え、「彼

らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立 ち帰って赦されることがない」(4:12)というイザヤ

6:9

からの自由な引用が なされる。接続詞

i[na

を目的の意味にとると、イエスがわざわざ聞き手に理 解させないように「謎」(ヘブル語のマーシャール)を用いて教えたことにな る。しかしいわゆる「メシアの秘密」論(1:25, 34, 44; 3:11以下; 8:30他)45

42 Schweizer, Markus, 48.(邦 訳114ブ ル ト マ ン は 特 に パ ラ ブ ル の 論 争 的 性 格

(argumentativer Charakter)を取り出すが(Geschichte, 195-208)、むしろappelatioの性 格を考慮することが事態に即している。

43 Lohmeyer, 82.

44 Cf. John R. Donahue, The Gospel in Parable, Metaphor, Narrative and Theology in the Synoptic Gospels, 1988, 28-62, 194-199.

45 いわゆるtheios anērの一部肯定とドケティスムスの牽制あるいはtheologia crucis

theologia gloriaeを統合する原理など、マルコにおける「秘密」の必然性についてはと

くにcf. E. Schweizer, “Zur Frage des Messiasgeheimnisses bei Markus,” ZNW 56, 1965, 4ff.;

U. Luz, “Das Geheimnismotiv u. die markinische Christologie,” ZNW 56, 1965, 9ff. ただし

ドキュメント内 新約聖書の教育思想 (ページ 44-72)