第 三 章 人 生 に 関 す る イ ス
ラ l
ム の 概 念
人 生Ie:対す るイス ラームの概念
任意の社会︑国民︑あるいは文明の活力は︑そ乙に育くまれ︑実行に移される人生哲学に大部分依存し
ている︒人間は本来まずは自分自身の個人的な利益︑ついで近親者たちの利益以外について考えようとは
しないものである︒ただしいかなる時代にも︑特に他よりも傑出した人間の集団が存在するのである︒過
去の数多くの文明││現在われわれは新しい文明の夜明けにいるといえようが1
1の特徴と特殊性を考察
してみると︑たとえある集団がある時代の文明の担い手として有名になったとしても︑乙の乙とは同時代
の他の集団すべてが︑来闘の生活の段階にあることを必ずしも意味しないと気付くであろう︒
文明の発展段階においてはむしろ︑一つの集団は他より相対的に卓越しているといえるばかりなのであ
る︒例えばフェニキア人が歴史の舞台に登場し︑輝やかしい文明を築きあげたさいにも︑同時代のいくつ
かの他の国民が︑適当な活動の場と機会に恵まれ乙そしなかったが︑ほぼ問じ程度文明化されていたとも
考えられるのである︒
アラブ・イスラlム時代には︑ギリシャ人︑ロ!?人︑中国人︑インド人等が文明人としての特徴をす
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ベて備えていたにもかかわらず︑その時代の文明の旗手として高みに立つ乙とはなかった︒
現在においても︑アメリカ人やロシヤ人が︑彼らの核保有力その他の点で指導的立場を誇っているとは
いえ︑イギリス人︑中国人︑フランス人︑ドイツ人がすぐ後に続いている︒同時にある国民はこのような
発展を見せているにもかかわらず︑二十世紀後半の現在においてすら︑地球上のある部分では︑事実上食
人種とはいわぬまでも︑いまだに未開の状能叫にある人間もいる︒
一
O O
ζ 乙 で 当 然 ︑ な ぜ あ る 国 民 が 急 速 に 発 展 し ︑ 他 の 発 展 が 緩 慢 な の か と い う 疑 問 が 生 じ て く る ︒
ギリシャ人が輝かしい文明を誇っていた時代に︑西ヨーロッパが未関の状態にあったのはなぜであろうか︒
アラブが隆盛をきわめていた時に︑なぜロシアは一般に未開の状態にとり残されていたのか︒
同様の疑問は︑さまざまな時代のさまざまな国々について提起されるであろう︒乙れはごく単純に機会︑
状況にのみ帰せられる問題であろうか︒それとも何人かの秀でた個性と高遁な人格の持主が︑たまたまあ
る人間集団に生れ︑他の集団にはその幸運が訪れなかったという事実によるものであろうか︒
乙れについては︑ある集団の成長を助け︑他を阻害し︑時には絶滅に導く︑幾多の複雑な諸原因による
より複合的な説明も可能であろう︒
一
O
一 問 題 は 乙 れ に の み と ど ま ら な い ︒ あ る 一 時 的 な 隆 盛 の う ち ︑ あ る 国 民 は 半 未 開 の 状 態 と は い
わぬまでも︑なぜ以前とは異なり暗黒の時代に後退するのであろうか︒
一
Oニ乙乙で︑現代のイスラ
lムとの関速において︑これらの問題を探究し︑出来ればそれが現在存続しうる可能性についず講じてみる
ζ と に し よ う
︒
一
O三イブン・ハルドゥ
lンの説を信ずるならば︑生物学的要素がもっとも主要な原因となる︒人 生Ie対するイス ラームの概念
世代の終りには︑民族はその活力を完全に消耗しきってしまい︑若返りを目指すためには︑一族の中で少
なくとも支配的立場にある男性の交替が必要である︒乙の民族理論は︑よしんば学問約誇張にすぎぬとみ
なされるにせよ︑民族的単位の文明︑および改案を許容しない宗教に妥当する︒
幸いにしてイスラ1ムは︑このような周期的退廃の例には該当しない︒なぜならイスラ1ムの信者はあ
らゆる人種を網羅しており︑イスラlムは世界のあらゆる場所で︑大なり小なり発展しつづけているのだ
から︒さらにイスラ
lムはその共同体内で︑人種的偏見をほとんど完全に払拭しており︑その指導者︑旗
手としていかなる人種に属する者をも鴎踏なく受け入れるという︑周知の特徴を持っているのである︒
ク ル アlンが命じている組織的な奴隷の解放は︑さらに一つの栄誉ある例証といえよう︒事実歴史をふ
り返ってみれば︑新たに解放された奴隷を支配者と仰ぐ王朝がいくつも存在しているのである︒
一
O
四 あ る 文 明 の 興 亡 は ︑ 一 に そ の 基 本 約 な 教 え の 質 の 如 何 に か か っ て い る
︒ も し も そ の 文 明 が ︑
成員に現世の百認を求めるならば︑精神的には確かに偉大な発展を遂げるであろうが︑人間の他の構成要
素︑つまり肉体︑知力等はその自然の務めを果す乙とが許されず︑その開花を待たずして死に絶えてしま
うであろう︒
他方もしある文明が︑人生の物質的側面のみを重視するならば︑人間は乙の面では偉大な進歩を遂げて
も︑他の側面を犠牲にしてしまうであろう︒乙のような文明は︑ブ1メランが自らを殺す結果を招くよう
に︑結局は絶滅する乙とになる︒なぜなら物質主義は︑しばしば利己主義を生み︑他人の権利を尊重する
態度を欠き︑ひいては報復の機会を狙う敵を作りだすものなのだから︒その結果は殺し合いというととに
なる︒
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二人の山賊の話は余りにも有名である︒彼らはある日獲物を手に入れた︒彼らの一人は町に食料品を買
いに出かけ︑もう一人は食事を用意するための薪を集めねばならなかった︒しかし二人は心の中で相手を
のけ者にし︑不法に入手した獲物を独占しようとひそかに企んでいたのである︒そして買物に出かけた男
は食料に毒を盛り︑他方彼を待ち伏せていた仲間は︑町から帰ってきた彼を殺してしまった︒しかし乙の
男もその食料を口にして毒にあたり︑あの世への道連れとなった︒
一
O
五 あ る 文 明 の 教 え が ︑ 発 展 と 環 境 へ の 適 合 性 に 相 応 し い 内 在 的 能 力 を も っ て い な い 場 合 ︑ そ の
文明は他の欠陥をかかえているといえよう︒その教えが特定の時代︑特定の環境にとっていかに好ましい
ものであったにせよ︑それは他の時代︑他の環境にとっても同じであるとはいえない︒後代の人々がこの
ような教えに魅惑されるとすれば︑それは明らかに致命的な誤ちとなるであろう︒
ごくありきたりの例が乙の点を説明してくれる︒電灯などというものがなく︑宗教的儀礼を主催する機
関にきちんとした収入もない場合︑夜人々が訪れる宗教的な場所に嫌燭をともすととは敬度な行為であった︒
悔俊者の敬度な行為乙そ︑それ以外には容易に償いえないような神にたいする︑または人にたいする罪を
払拭し︑相殺するものであるという乙とに反対する理由は何一つない︒
しかしすでに燦々と電灯が輝いている場所に蝋燭をともすのは︑消費以外の何ものでもないといえない
であろうか︒以下にこのような状況におけるイスラlムについて検討してみよう︒
イ ス
一 O
六 ラ1ムのイデオロギーイ ス
ラ1ムのモットーは︑クルア1ン(第二章一