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第 七 章 道 徳 の 体 系

道 徳 の 体 系

人間は主として三つの種類に分けられる︒(一)生まれながらにして善人であり︑誘惑にあっても屈せず

本能的にあらゆる慈悲心溢れた善い行ないについて心得ている者︒つじとれとは丁度正反対の度しがたい

人物︒会己両者との間にあり︑監督︑制裁を受けて強制されればきちんと振舞うが︑さもないとなげやり

になり︑他人に不正を行なってしまう者︒

ニニ四極端な例である(一)とつ乙に該当する人間の数は僅かだが︑最後の範鰭は人類の大多数

を含んでいる︒と乙ろで(一)に属する者(天使的人間)はいかなる指導︑抑制をも必要としないが︑(二)

に属する者(懇魔的人間)には悪業を回避させるために他からの抑制が必要であり︑(一ニーに該当する者に

たいしても充分な配慮が寄せられねばならない︒

二二五(三)に該当する者は︑ある点では獣に似ている︒彼らが温和しく︑自分の持ちもので満足

しているのは︑他人が自分たちよりよいものを所有していなかったり︑他人からいかなる危窓口をも蒙るお

それのない場合にかぎられている︒

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人間社会は︑誘惑に屈しやすい乙の邪まな性質にたいして︑つねに深い配慮を寄せつづけてきた︒そ崩

れゆえに父は子を支配する︒そして家族︑部族︑都市国家︑その他のすべての人間集団の長は︑自分の支

配下にある者にたいし︑自らの持てるもので満足し︑他人が正し︿︑合法的な手段で獲得したものを横取

りしないようにさせるのである︒おそらく人聞社会の真の目的は︑もろもろの誘惑を抑制させ︑すでに加

えられた損害を補償する以外にないであろう︒

あらゆる人聞は︑たとえ同じ民族に属していようとも︑同じように成長を遂げる訳ではない︒高貴な精

神の持主はよろとんで自己犠牲を行ない︑慈善を施す︒また知力に恵まれた者は先の先まで理解して︑よ

しんば率先して自己犠牲を行なうに至らないとしても︑当面の利益を最後には無にしてしまう結果を充分

に考慮して︑悪業から身をしりぞける︒

ただし一般の人聞は︑被害者︑社会もしくはその他の強大な権力の側からの力強い︑直接的な反作用の

怖れがなければ︑よろ乙んで自己犠牲を行なう

ζ

る︒愚鈍な者はといえば︑このような怖れに遮られる乙とすらなく︑あらゆる反対と戦いながら最後まで犯

罪的意図に固執し︑結局死刑︑投獄といった刑罰を受けて︑社会的にいかなる危害をも及ぼしえないよう

な状態におかれてしまう︒

二二六あらゆる法︑宗教︑哲学は︑上例の中聞に属する人々︑つまり一般大衆にたいして︑道理に

かなった振舞いをし︑貧之入︑困窮者︑援助を必要とする者を救うため自発的に犠牲を捺げるよう促して

いる︒ただし乙との性質上︑これで完全に事が解決する訳ではない︒

イスラlム固有の特徴 ニ ニ 七 イ ス ラ

lムはすべてを包含する生活様式である︒それは信仰のみならず︑社会的行為の規則

を指示している︒さらにそれは国有の諸法をよりよく適用させ︑機能させる配慮をも怠っていない︒

イ ス ラ1ムが現世の生活を究極の目的とせず︑精神と関わりのない肉体を問題としていない乙とは周知

の事実である︒それど乙ろかイスラlムは︑死後の生活を説いている︒クルア1ンが明らかにしているよ

うに︑そのモットーは﹁乙の世ばかりでなくあの世でも最善﹂ということなのである︒したがってそれは︑

たんに勧善懲悪を唱くばかりでなく︑同時に精神的︑物質的な賞罰を提供している︒

禁止︑禁令という側面からいえば︑イスラ!ムは心の内に神にたいする畏れ︑復活ののちに最後の審判︑

地獄の劫火による懲罰の観念を植えつける︒人々が不正を働き他人の権利を侵害しないように︑イス

ラlムはこれだけでは満足せず︑物質的制裁の分野で可能なかぎりの予防策を講じている︒信者たちが︑

他から強制されなくとも礼拝︑断食のっとめを守り︑政府が税額を定めるのを怠ったり︑税金支払いを強

要しえない場合にも自ら納税を行なうのは︑乙のような事情によるものなのである︒

道 徳 の 体 系 道 徳 の 基 礎 ニニ八動機︑状況のいかんにより︑一見相似た行為の意味が大幅に異なるといった事態は︑しばし

ば見受けられる︒例えば殺人にしても︑盗賊の場合︑獲物と間違えた猟師︑正当防衛が認められる愚者︑

あるいは未成年者︑法廷で宣告された死刑を執行する首長︑侵略を防衛する兵士等の場合があげられる︒

ζのような諸例において︑殺人はある場合には多少なりとも厳しい罰をうけ︑他の場合には宥され︑ある

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いは賞罰を伴わない通常の義務と見なされ︑または賞讃と名誉に値する素晴しい行為となる︒

ほとんどすべての人間生活は︑その善惑が相対的な諸行為から成り立っている︒預言者ムハンマドが︑

﹁行為は動機によってのみ(判断)される﹂︑としばしば述べている理由は乙乙にある︒

ニ ニ 九 イ ス ラ lムは預言者たちを仲介にして人々に伝えられた神の啓示にたいする信仰を基礎にし

ている︒したがってその信仰の内容である法︑道徳もまた神の示された戒律に依存している︒確かにきわ

めて多くの場合︑人間の理性は同一の結論に達するといえる︒

ただしイスラ

lムにおいて決定的な重要性をもつのは︑それが神の啓示であり︑哲学者︑法学者︑道徳

家の知的所産ではないという乙とである︒人間の知的推論は往々にして異なり︑完全に矛盾する結論に達

するという事実にて=りしてみれば︑乙の重要さは明らかであろう︒ある教えの動機が明らかに本質的では

ない義務︑業を不必要に強調しているなどという例は︑まま見受けられるのである︒

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人 間 の 行 為 は

︑ ま

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