第3章 「模倣」をめぐる問題-主体と対象を問う…
3. ダンス教育における「模倣」の見直し
先において検討したように、表現運動・ダンス領域において「既存の動き」の模倣に 重点をおかないとする主張が多くみられる一方で、戦後の教育が創造的な活動を中心に 進められてきたことを振り返り、「模倣」を見直そうとする先行研究も散見される。
太田18)は、「模倣」が「他人が作った舞踊をただ覚えて真似るだけの単なる身体修練 といったように『形象による形象の模写』という意味に解されてきた。」ことを批判的 に検討し、「『模倣』とは学びの原典であり、表現の基本を提供し得るものであるとい える。模倣の欠落はこうした表現の基礎をなす活動の欠如につながるといえる。」と指 摘している。まなびの語源がまねびであったとする説はよく聞かれるが、ダンス教育の 場合にも、ここで太田が指摘するように、模倣は基礎的で重要な営みであり、模倣が軽 視されたり、欠如したりすることについては、慎重に検討する必要があるだろう。
また、内山19)は、これまでの舞踊教育で否定されてきた模倣を仮に「薄い模倣」とし、
自身らが主張する模倣を「厚い模倣」とするならば、後者は単なる表層的な身体動作の 機械的反復に止まらない、心身両面に渡り、さらには変化し運動する場に渉る「模倣」
であるとし、世阿弥の能楽理論をもとに、「厚い模倣」の可能性と意義を現代舞踊教育 理論に位置付けようと試みている。そして、厚い模倣を方法とする舞踊教育が育成する 能力の可能性について、1. 身体性、感性の模倣、2. 場の感知力の模倣、3. 創造性へ の展開の 3 点を挙げている。「厚い模倣」については、重要な指摘がなされているおり、
表現運動・ダンス領域において模倣が「薄い」ものとして否定されてきたのは事実であ るが、前節の基本的な理解において確認したダンス教育の独自性をふまえるとき、そも そもダンス教育において、学習者が主体である場合に「薄い模倣」がありうるのかとと の疑問が提示できるであろう。
ここで、二者による模倣の主体と対象の理解を確認しておきたい。先の太田20)は「指 導者と学習者の間に介在するものは、表現を伴う『動き』である」とした上で、指導者
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の演示にはじまる「模倣」の構造を考察しており、内山21)も「能の稽古は、師匠の動作 の形姿を視覚的に見て取り、自分の身体を操作することによってこれに近い形姿を再現 しようとする段階から入る。」としていることからわかるように、両者ともダンス教育 における指導者(師)の動き、すなわちき「既存の動き」を対象とした模倣について考 察を進めていると捉えられる。もちろん、両者によって論じられている模倣の主体は、
学習者であると考えられる。
一方、寺山22)は、「舞踊教育において『模倣』という語は、単なる『ものまね』とい う意味から『ミメーシス』まで広い捉え方がされている」ことを整理した上で、「学習 の目的をしっかり定め、『模倣』を教科内容(=学習内容)として捉えるか、教材とし て捉えるかが重要であるといえる」とし、「『模倣=イメージの再生』という構造から、
イメージとして内的に蓄積されたものが重要であり、そしてまた、『善きもの』を再生 できることが重要であると考えられた」としている。寺山23)もまた、「模倣」の概念の 捉え方が多面的であることを指摘して整理を試みているのであるが、ダンス教育におけ る模倣対象として例示しているのは、ウサギや新聞紙すなわち題材や教具である。この 寺山によって示された模倣対象は、前節の「模倣」の基本的な理解まで立ち戻ってみれ ば、現実または自然の模倣であり、外的な動物あるいは事物を対象とした「再現」・「描 写」を意味していると考えられるのである。ここにおいて、ダンス教育における模倣対 象の広がりを確認することができるであろう。ここで改めて三者による模倣の対象の理 解を比較してみたい。太田や内山は指導者の演示という「既存の動き」の模倣の構造を 考察していたのであり、学習者が「ひとに倣う」こととしての模倣の重要性を主張して いたとみることができる。両者の考察における「模倣」の対象はひと(他者)であり、
また指導者の動きとしての原像でもあり、学習者が模像をそれと同等に似せようとする 営みとしての「模倣」の意義を主張していたと考えられる。一方、寺山の場合には、他 のものを「写す」こととして、「模倣」を捉えていたと考えられる。また寺山24)は、
「模倣の構造は、目から飛び込んだ事象(モデル)を個人の内部で『あたため』、イメ ージとして蓄積され、再構成されたイメージが身体運動として表現される過程であると
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いえる。」とも述べており、外的な生物・事物を対象とした「模倣」を想定しながらも、
その対象についての「イメージ」すなわち内的主観的体験が身体運動として表現される と捉えていることがわかる。つまり、外的生物・事物という形ある対象と内的なイメー ジの二つが対象として想定されている。つまり、外的生物・事物の場合には、「写す」
こととして捉えられるのであり、内的なイメージの場合には、「表出」として捉えられ るという二重性が指摘できるのである。
ここまでの考察の結果、ダンス教育における「模倣」についての先行研究において示 された原像=対象を検討してみると、指導者(他者)の動き、外的生物・事物、自らの 内的なイメージの3つの場合があることがわかる。
ところで、戦前の学校におけるダンス教育は、指導者(他者)の動きを対象とした模 倣を中心に行われていたのであった。戦後の大転換を「模倣」という視点からみると、
どのような変更があったと考えられるであろうか。ここでは、アメリカの創造的舞踊教 育の草分けといわれる。G. K. コルビー注 4)の主張を一例に考察していくことにしたい。
なぜなら、戦後アメリカの方向付けのもとで民主体育・新体育注 3)の実現が目指された のであり、ダンス教育の転換もその流れの中で、起こったことであったといわれている
25)からである。
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