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ダンス教育における作品とその同一性

ドキュメント内 学校における創作ダンス教育の原理的考察 (ページ 108-111)

第4章 「作品」をめぐる問題-存在様態を問う

1. ダンス教育における作品とその同一性

本論文では、2章において、創作とは、所産である「作品」が虚の次元にある制作と して理解してきた。そして、ダンスにおける創作の独自性をその第一次幻影が虚のパワ ーであることに求めたのであった。本章では、ダンス作品の独自性を、その存在様態

1)に着目して明らかにした上で、その理解を通してダンス教育における「作品」につ いて、学習者のかかわりという視点から考察を進めていくことにする。

現行の中学校学習指導要領解説における第 1 学年及び第 2 学年についての記述をみる と、「創作ダンスは、多様なテーマから表したいイメージをとらえ、動きに変化を付け て即興的に表現することや、変化のあるひとまとまりの表現ができるようにすることを ねらいとしている。」1)とある。また、「第 3 学年では、表したいテーマにふさわしい イメージをとらえ、 動きに変化をつけて即興的に表現することや、個性を生かした簡 単な作品にまとめて踊ることができるようにする。」2)とある。この 2 つの文章をなら べてみると、「変化のあるひとまとまりの表現」が、学年が進むと「簡単な作品」へと つながっていくと捉えられていることがわかるだろう。では、「変化のあるひとまとま りの表現」、「簡単な作品にまとめて踊ること」とは、ダンス教育においてどのような 活動を指しているのであろうか。また、ダンス教育における「作品」はどのように存在 しているのであろうか。

ダンス作品の存在については、「作品」の同一性の問題として、J. マーゴリス3)や M. サーリッジ・A. アーミラゴス4)によって議論されてきており、尼ケ崎5)によってす でに総括されている。これらの論考は、本章で取り組もうとするダンス作品の存在様態 について重要な示唆をもたらしているが、それがダンス教育についてどのように意味づ けられるかについては言及されていない。

一方、「ダンス(舞踊)教育」あるいは「表現運動」と「作品」というキーワードで 先行研究を概観してみると麻生ら6)の数件が見られるのみであり、実践的な検討が作品 のテーマについて行われている。その中で唯一、本山ら7)は「表現運動」注1)における

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作品概念を検討しているが、子どもたちが作品を実現する活動を分析して、指導者の作 品概念の偏狭さを指摘するに留まっている。だが、キーワードを「作品」から「創作」

に置き換えて先行研究を概観すると多くの論考が見られる。つまり、表現運動・ダンス 領域における先行研究では、つくられた所産としての作品ではなく「つくる活動」を中 心に考察されてきたという事実が確認できるのであり、このことはダンス教育における

「作品」存在の孕む問題にかかわっていると考えられる。

本章では、ダンス教育についての考察に先立って、一度他の芸術との比較まで立ち戻 ってダンスの作品存在について明らかにした上で、考察を進めていくことにする。考察 を進めるにあたっては、新田による「芸術作品の存在」8)という試論を拠り所として、

美術館の芸術である絵画との比較を通して、実演芸術である音楽やダンスにおける作品 の存在を問い直していくことにする。ここで、新田のこの試論を取り上げたのは、彼が、

作曲家・演奏家・聴衆という主体とのかかわりの中で、音楽作品の存在を問い直してい るからである。つまり、ダンス作品の存在を問い直すことを想定すると、学習者がつく り、おどり、みるという活動について考察を進めるための視点を与えてくれると考えら れるのである。

また、尼ケ崎9)が指摘するように、「美術館の芸術」と対置して「劇場の芸術」の様 態を追求することは、ダンス理解にとって本質的な問題領域を指し示すことになるので あり、ダンス教育の先行研究の中で吟味することなく使用されてきた「作品」という用 語の理解にもつながると考えるからである。

ただ、この試論は、1969 年に書かれたものであり、「古い」印象は否めないであろ う。本章では、新田自身が、その後「作品概念の洗い直し」10)を行っていることも視 野に入れた上で、あえてこの素朴な試論を視座として考察を進めていくことにする。な ぜなら、美学において「作品の危機」11)が叫ばれて以降も、「舞踊はたいてい『作品』

として提示され、鑑賞され、特定され、登録される」12)のが慣習だからであり、新田 自身が「作品概念の洗い直し」をする中で、下記のように述べているからである。

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今のわれわれの演奏会ならびに展覧会を賑わしているのはアヴァン・ギャルドの末 裔たちである。偶然性の音楽も、レディーメード・オブジェも、なるほど“古典的”

な作品の態を成していない。われわれに馴染みの有機的統一体としての作品はたしか に姿を消した。しかし、だからと言って、今や芸術を論じるのにいっさい作品概念を 用いてはならないのであろうか?そうではない、とわれわれは考える。アヴァン・ギ ャルドとその末裔は芸術の世界に新しい一頁を付け加えたのではなく、既に制度と化 してしまった西欧近代の芸術作品の概念を単に活性化したに過ぎない、と見るからで ある13)

ここで新田が指摘するように、デュシャンの『泉』(1913)やジョン・ケージの『四 分三三秒』(1954)は、美術館や演奏会といった制度における慣行があるからこそ成立 したと考えられるのであり、作品概念への問い直しであったとみるべきであろう。ダン スにおける作品概念もまた、例外ではない14)

ここでは、新田による「デュシャンやケージの遣ったことの意義の第一は、すでにみ たように、展覧会や演奏会がひとつの制度であり慣習である点を明らかにした点に在っ た。意義の第二は、芸術作品がはたして“閉じた”もの、自己完結的なものかどうかを 疑わせる点にある。」15)という指摘を確認して、本題へと進んでいくことにする。

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ドキュメント内 学校における創作ダンス教育の原理的考察 (ページ 108-111)

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