本章では、留学事業がどのように発想され、実施されたのか、サオワパーポーンシー皇 后の令旨と資金により日本に留学したタイ人学生男女各 4名がどのような留学生活を送っ たのか、また、最初のタイ人留学生に対して日本側はどのように対応したのか、さらに、
その対応の背景にいかなる要因があったのかを分析する。
第1節 稲垣満次郎の働きかけ
サオワパーポーンシー皇后がタイ人学生男女各4名を日本へ派遣した当該留学事業の発 端について、先行研究では、日本滞在を終えて帰国したワチラーウット皇太子が、サオワ パーポーンシー皇后に進言したことにより、男女学生各4名の日本留学が実現したと記述 されているが、この点については、異論がある。
チャリダー・ブアワンポンは、前掲論文「明治期シャム国日本派遣女子留学生について」
において、女子留学生派遣の直接の原因は、1902(明治 35)年末から翌年初頭の皇太子 の日本訪問などが考えられると述べ、さらに、帰国後、日本の美術・手工芸に感銘を受け た皇太子は婦人用の手芸学に興味を持ち、皇后と相談し、将来タイ人にその 技術をもたら し、教授できるよう、手芸学に才能ある子女を日本に留学させることを決定したと述べて いる。
山根智恵は、自身の前掲論文において、皇太子及び彼を日本で出迎えたルアング・パイ サーン・シンラパサート教育視学官が、日本への留学生派遣を国王やサォワパー皇后に進 言したと述べている。
両者とも、当該留学事業の発端は、1903 年(明治 36年)1月に帰国したワチラーウッ ト皇太子が皇后に進言したことにあると述べているが、外務省記録には、それ以前にすで に皇后が、駐タイ公使稲垣満次郎に、タイ人学生男女各 4名を日本に派遣する予定なので、
日本側で便宜を図ってほしいと要請した旨の記録が残っている。
駐タイ公使稲垣満次郎は、外務大臣男爵小村寿太郎宛の 1903年(明治 36 年)1 月 12 日付機密第 2号信「暹国練習生本邦ヘ派遣ノ件」において、当該留学事業の発端について 報告し、日本側の便宜供与を要請している。
去 1月 1日宮中ニ於テ皇后陛下御誕辰ノ賀宴挙行相成候際、皇后陛下ヨリ種々懇話 有之候中、絵画、縫箔、染織等練習ノ為メ、男女生徒各 4名本邦ヘ派遣ノ見込ニテ、
専ラ英語ニ通スル者ノ内ヨリ人選中、両三名ハ既ニ確定相成居リ、大抵ハ皇族並ニ 其近親中ヨリ選出シ、学費ハ月額凡 50 円ヲ支給スル筈ナリノ令旨ヲ伝ヘラレ、尚 ホ日本政府ニ於テモ相当ノ便宜ヲ与ヘラレ候様御希望ノ旨モ御漏シ相成候 。172
すなわち、去る 1月 1日に宮中で行われた皇后誕生日の祝宴において、皇后から種々話が あったが、そのなかで、絵画、縫箔、染織等の習得のために男女学生各 4名を本邦へ派遣
172 外務省記録 3-10-5-0-4-1「各国ヨリ本邦ヘノ留学生関係雑件 暹国ノ部」。
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する見込みで、英語に通ずる者を、皇族及びその近親者より選出し、学費として月額約 50 円を支給する予定であるとの令旨があり、日本政府においても相当の便宜を与えてほしい 旨洩らされた、と報告し、次のように要請している。
就テハ東京工業学校並ニ女子職業学校等ニ於テ右学生教授方差支無之候哉 若シ差 当リ就学ノ不便有之候ハハ先以他ノ私立学校ニ於テ普通学及国語等研究セシメ候上 専門学校ヘ入学致サセ候テモ可然ト存候 右学生派遣ノ義ハ昨年11月17日国王陛 下即位記念祭ノ節本官ヨリ歓奏致置候結果ニ有之候間可相成丈ケ補助便宜ヲ与ヘラ レ候様致度此段申進候 敬具173
すなわち、東京工業学校並びに女子職業学校等で当該学生を教育することについて支障は ないか、もし就学上の問題がある場合は、他の私立学校において普通学及び国語等を勉強 させた上で専門学校へ入学させることも考えられる、なお、当該留学生派遣の件は、前年 11 月 17日の国王陛下即位記念祭の時に、稲垣自身が皇后へ上奏してあったことに基づく ものであるので、できるだけ便宜を供与されるようお願いする、 というものである。
これによれば、稲垣公使が皇后に、タイ人学生の日本派遣を上奏したのは、1902年(明 治 35 年)11 月 17 日ということであり、皇后から、派遣する学生の人数、留学目的、費 用等の具体的な話と日本政府への協力要請があったのは、1903年(明治 36年)1月 1日 ということで、いずれも皇太子の帰国より も前の時期である。当該留学事業の発端につい て、先行研究の両者は、その時期について問題があると言える。ただし、皇太子の進言が 皇后の意思決定に確定的な根拠を与えたことは十分に考えられる。
小村外務大臣は、文部大臣菊池大麓宛に 1903年 2月13日付の機密送第 1号信で、稲垣 の書簡写を添付して検討を依頼している。これに対して、菊池文部大臣は、同年 3月3日 に、当該学校の教育を受けるに足るべき国語の学習等多少の準備は必要であろうが、希望 の学科を修習する上では十分便宜を取り計らうことが可能である、と回答している174。小 村外務大臣は、この文部大臣の回答を 3月 18日に稲垣公使宛第 6号電信で次のとおり伝 達している。
In reference to your 機密第 2号信 dated 1月 12日 When the students arrive, full convenience will be extended to them by competent authorities in prosecution of their studies. I may add that 文部大臣 considers it necessary for them to spend some time in learning the Japanese language before entering the desired special schools.175(1月 12日付機密第 2号貴信に関して、留学生が到着 後は、勉学のために当局が十分な便宜をはかるであろう 。付言するに、文部大臣は、
学 生達が 志望する 学校に 入学す る前に日 本語を 学ぶ時間 が必要 である と考えて い る。)
173 同上書。
174 同上。
175 同上。
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稲垣公使は、同年 3月23日付公信第 20号「暹国練習生本邦派遣ノ件」で小村外務大臣 宛に、①第 6号電信の内容を早速タイ政府に通知した、②皇后がご病気のため、留学生の 選抜が遅延している旨プラヤー・ピパット・ゴーサー外務次官から回答があった、③皇后 陛下より本件に関し小村閣下のご尽力に深く感謝する旨伝達依頼があった、と報告してい る176。
1903年(明治 36年)5月 2日に、駐タイ臨時代理公使小松緑は小村外務大臣宛に公信 第 32 号「暹国練習生並に留学生出発ノ件」で以下のとおり報告している。すなわち、① 男子学生 4名と女子学生 4名の人選が確定し派遣することになったが、彼等はいずれも当 国皇族近親中の子弟である、②内 1名は、先に教育視察のため訪日した当国文部次官の実 弟である、③ほかに当国外務省から本邦へ派遣される留学生 1名を加えた総員 9名は、下 賜休暇で一時帰国する当国政府顧問政尾藤吉氏が同行して5月 3日に当地を出発する予定 である177、というものである。
一時帰国していた稲垣公使は、同年 5 月 21 日に教育倶楽部晩餐会で、文部大臣菊池大 麓をはじめ日本の教育関係者に、タイは国家基盤を強固にするために中間階級の勢力強化 を図っており、その一環として国民教育を重視する教育制度改革を実施していると現状を 説明するとともに、今回タイ皇后が留学生を派遣する留学事業もその趣旨に沿った重要な ものであると意義づけを行い、当該留学事業に対する協力を要請している178。当時日本最 大の教育者団体であった帝国教育会は、同会長が駐日タイ公使館に協力を申し出ている179 が、これは、稲垣公使の働きかけによる影響が大であるのは当然のことであるが、それに 加えて、第2章第4節で論述したワチラーウット皇太子の来日および文部次官の日本の教 育制度調査等が影響していると考えられる。
第2節 留学生の修学状況
本節では、タイから派遣された留学生男女各 4 名が日本でどのような生活を送ったのか、
修学状況はどのようなものであったのかを検討する。
1.タイ皇后からの報告要請
男女各 4名の留学生は、同年 5月 22日に新橋に到着し、一時帰国中の稲垣公使や井口 あくり女子高等師範学校教授等に迎えられ、一旦麻布にあるタイ公使館に入った180。彼ら は日本での留学生活を開始した。
176 プラヤー・ピパット・ゴーサーから稲垣公使宛の1903年3月21日付の書簡には、小村外 務大臣に対する深謝とともに、皇后が稲垣公使と夫人に感謝している旨記述されている。
外務省記録 前掲書参照。
177 外務省記録、前掲 3-10-5-0-4-1。
178 『教育公報』第 272号、帝国教育会、1903年6 月、24-25頁、『教育時報』第 653号、
開発社、1903年 6月、38 頁、および『教育界』第2巻第 9号、金港堂書籍、1903年7月、
111-113頁参照。
179 『教育公報』第 272号、帝国教育会、1903年 6月、36頁。
180 『教育時報』第 653号、1903年6月、38頁、『教育公報』第272号、1903 年6月、36 頁、および『教育界』第 2巻第 9号、1903年7月、139頁参照。
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日本文部省は、タイ人留学生の受け入れの対応として、すでに、東京帝国大学文科大学 教授兼東京外国語学校長文学博士高楠順次郎および女子高等師範学校長高嶺秀夫に、それ ぞれ男子学生、女子学生の教育監督を任命していた。
高楠順次郎は、男子学生のために湯島に 1軒家を借り「日暹学堂」と称してこれを教室 兼宿舎に充当し、文学士宝閣善教を直接の教育責任者としさらに 2 名の教師を招聘して、
日本語と図画の準備教育に従事させた。
高嶺秀夫は、女子学生を同年 5月 25 日に女子高等師範学校に入学させ、同校内に特別 の教室を設置し、専門教師を配置して教育を担当させた。また、平日は同校舎監の喜多見 佐喜の自宅に女子学生 4名を同居寄宿させた。
駐日タイ王国特命全権公使プラヤー・ラーチャー・ヌプラパンは、小村外務大臣宛の 1903 年(明治 36年)7月 1日付書簡で、皇后陛下が派遣した留学生に関して、小村外務大臣と 稲垣公使へ謝意を述べた後で、皇后陛下が留学生の修学状況を知りたいということなので、
四半期毎または半期毎の報告書を菊池文部大臣から送ってほしいと要請している181。この 書簡は、以後実施される「修学進歩ノ状況報告」の起点になっている。
この書簡に基づき小村外務大臣は、菊池文部大臣に、同年 7月 6日付送第 74号信「暹 国留学生ニ関スル報告書送付方同国公使ヨリ依頼ノ件」で、駐日タイ公使から毎 3カ月ま たは 6 カ月に 1 回留学生の修学進歩の状況報告書を送付してほしい旨依頼があったので、
しかるべく取り計らい願いたいと照会するとともに、同日付で駐日タイ公使宛にその旨通 知している。
留学生の修学状況を報告するために、日本文部省側は、留学生指導面で、タイ側が満足 する内容を実態として示すという課題を負うことになった。この報告義務が、指導内容を 充実化させる要因になったと考えられる。
2.第 1 回修学状況報告
1904年(明治 37年)2月 9日に文部大臣久保田譲から小村外務大臣宛の文部省文書課 辰普甲 312 号信で、「暹国留学生修学進歩状況報告書」として最初の状況報告が行われて いる。当該報告書には、1903年5月以降同年 12月末日までの修学状況について、到着及 就学、修学進歩の状況、将来の見通、健康などの項目ごとに、男女別にそれぞれ詳細に記 述されている182。要約すると以下のとおりである。
男子学生は、5月 28 日から授業を開始し、毎日午前 3 時間、午後 1 時間の授業とし、
その他は、会話の実習を行うとか、監督者の引率により都内の有名な学校、博物館、美術 工芸展覧会等を見学した。また、教師の一人は、寄宿監督の任務につき、学生と寝食を共 にして、家庭の雰囲気を醸成し、学生がホームシックにならないように努めた。
最初の 3、4カ月間は学業の進歩がやや遅々としていたが、最近の 2 カ月間で著しく進 歩した。語学においては、簡易な日本文を綴り、平易な漢字交り文を読み、日常会話も普 通に通ずるようになった。
各学生別に学業進歩の成績を見ると、ボーンは着実で勤勉であり、殊に思考力に富み、
181 外務省記録 3-10-5-0-4-1「各国ヨリ本邦ヘノ留学生関係雑件 暹国ノ部」。
182 同上書。