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スカルラッティとソレールの直接的接点の可能性

第4章 ソレールの音楽の独自性とその歴史的位置

1. スカルラッティとソレールの直接的接点の可能性

本論においてスカルラッティとソレールのソナタにおける音楽的共通点を指摘したが、

ソレールは実際にスカルラッティに会い、指導を受けたのであろうか。

互いに会ったことに言及したソレールやスカルラッティ自身の言葉は今のところ見当た らない。しかしカークパトリックによると、本論第 1 章でもふれたフィッツウィリアム卿 のメモに、以下の記述が見られたということである。

The originals of these harpsichord lessons were given to me by Father Soler, at the Escurial9, the 14th February, 1772. Fitzm. Father Soler had been instructed by Scarlatti.(Kitkpatrick 1953: 124)

このチェンバロのレッスン本の原本は、1772年2月14日にエル・エスコリアルで ソレール神父が私に渡した。ソレール神父はスカルラッティのレッスンを受けていた。

[拙訳]

フィッツウィリアムの言う「このチェンバロのレッスン本」は、1796年に出版されたソ レールの27曲の写本(本論第1章第2節参照)のことである。ソレールがスカルラッティ のレッスンを受けたという言葉は、写本をソレールから受け取った際に本人より聞いたも のと思われるが、伝聞であり、決定的な資料であるとは言えない。

そこで、二人が実際に接触した可能性のある期間について考えたい。

彼らが直接会う機会があったと思われるのは、エル・エスコリアルの内部だけであったと 考えられる。なぜなら、ソレールは修道士であり、エル・エスコリアルの外に出ることは考 えにくいからである。

期間は、表で色分けした部分、ソレールがエル・エスコリアルの修道院に入る 1752年か ら、スカルラッティが死去する1757年までである。1752年当時、ソレールは23歳、スカ ルラッティは67歳であった。

9 原文ママ

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表1 スカルラッティとソレールの直接的接点の可能な期間

スカルラッティ ソレール

ナポリで生誕。 1685 ポルトガル王女マリア・バルバラの音楽教

師となる。

1719

スペイン移住。 1729 オロートで生誕。

1735 エスコラニア入学。

『グラヴィチェンバロのための練習曲集』

出版。

1738

1752 エル・エスコリアル修道院の修練院に入

る。

1753 修道誓願を立てる。

マドリードで死去。 1757 楽長就任。

1762 『転調の秘訣と音楽の遺産』出版。

1766 頃

スペイン王子ドン・ガブリエルの音楽教師 となる。

1783 死去。

当時のスペイン宮廷は、マドリード近郊のエル・パルド、ブエン・レティーロやアランフ ェスなどにある離宮を巡回していた。この様子は、王家の動向を記載した定期刊行誌『マド リード新聞GACETA DE MADRID』に記載されている10。スカルラッティがそれに付き従 っていたという記録は見られないが、おそらくマリア・バルバラの音楽教師としてともに巡 回していたものと思われる。

10 17071757年、1759年、1760-62年、1775、1781年のものがデジタル公開されている。

104 表2 スペイン王室の1年の滞在先(1757年頃)

1月~3月 エル・パルド宮

復活祭頃 ブエン・レティーロ

4~7月中旬 アランフェス 7中旬~10月末 ブエン・レティーロ 10月末~12月 エル・エスコリアル 12月末 ブエン・レティーロ

ソレールのいるエル・エスコリアルに滞在していたのは10月から12月初めまでであった。

そのため、二人が接触できるのは1年の中でも2カ月ほどである。スカルラッティは1757 年7月27日に死去しているため、この年のエル・エスコリアルへの王家の滞在には、スカ ルラッティはいなかった。したがって二人がエル・エスコリアルで接触できるのは、1752 年から1756年の5年となるが、1年につき2カ月ほどであることを考えると、5年で合わ せても1年に満たないと考えられる。

二人が会う可能性のある期間について、ミゲル・ケロルが見解を示しているが、その内容 を考え合わせるとさらに期間は絞り込まれる。

ソレール神父は1752年9月25日にエル・エスコリアルの修練院に入り、1753年9月 29日に修道誓願を立てた。修練院にいたこの1年間、スカルラッティとも他のどんな人 とも個人的な付き合いは考えられない。なぜなら、修道院の中の修練院での 1 年は完全 に外へは出ず、修道院の外の人や物と関係を断つ年であったからである。スカルラッテ ィは1757年7月23日に死去した。したがって、ソレール神父が彼と学ぶ機会があった のは 4 年足らずであった。その 4 年にソレール神父はどれだけの時間を自由に使えただ ろうか?ソレールはオルガニストとして必要とされたのでエル・エスコリアルに入った が、職務や同様の固有の義務は 1 年のすべての日を束縛したので、実際にはわずかにあ ったか全くなかった。[拙訳](Querol 1986: 164)

この意見はあくまでケロルの推測である。しかし、修練期間の 1 年は会う時間がなかった ことは可能性として考えられよう。また、前述の『墓の回想録』でもソレールの多忙さがう かがえたように、修練士から修道士となった後も、自由な時間はほとんどなかったであろう。

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オルガニストであったので、ミサでオルガンを弾かねばならず、また「神父」とも呼ばれる ように、ミサを執り行うこともあったと思われる。修道院では 1 日に何度もミサが行われる ことを考えると、かなりの時間を祈りに費やしていたことが推測されるのである。

さらに、ケロルは次のような考察も示している。

スカルラッティは1757年に死去したが、ソレールとの 4 年間が仮にあったとしても、

スカルラッティの年齢は68歳から72歳までと一致する。18世紀には70歳の老人は老 齢による体の不調によって衰弱した本当の老人で、我々の時代の85歳と同じ位であると 考えるなら、私はスカルラッティが教える体力のある年齢であったかどうかを問う。さ らに、その時までにソレールが音楽家としての知識や技術をすべて持っていたなら、ス カルラッティに習うことがありえるだろうか?せいぜいスカルラッティはただ一つのこ とができただけである。つまり、鍵盤音楽の技術やスタイルの細部に関して何らかの指 導をすることのみである。[拙訳](Querol 1986: 164)

スカルラッティの年齢と体力に関しての考察は想像の域を出ないが、ソレールがスカル ラッティから学んだとするならチェンバロの演奏のみであるということは賛同できる。

しかし、やはり現在のところは二人が直接会った可能性は推測にとどまり、その有無を証 明することは難しい。だが、もし会ったとするなら5年間、その中でも修練期間を除く4年 であると考えられよう。そして2人の接触は王室がエル・エスコリアルにいた2カ月の間で あるとすれば、非常に限られた時間である。さらにソレールの職務の時間も考慮に入れれば、

顔を合わせたことはあったとしても、個人的な指導はほとんど受けられなかったのではな いかと推測し得るのである。