30 第1節 帝政時代における観光
1. 帝政ロシアにおける観光
a) ロシア版グランドツアーと観光の事業化
近世ロシアにおける観光の始まりは,バルト海および黒海進出のためのヨーロッパ諸国 との同盟締結と、先進的な科学技術や文化、生活の視察を目的とした1697年のピョートル 大帝による西ヨーロッパへの旅(zagranichnoe puteshestvie)にある.この経験から彼はロシ アから多くの科学者,建築家や画家たちを西ヨーロッパに留学させ(Ganskiy and Andreichik
2014),その後,イギリス貴族のグランドツアーを模倣し,ピョートル大帝をはじめとする
ロシア貴族は自己啓発のための旅行に出るようになった(McReynolds 2006).なお,10世 紀後半のロシアでのキリスト教の普及に伴い,聖職者のみがロシア国内の修道院やコンス タンティノープル,パレスティナ等へ巡礼するようになったが(Usyskin 2000),それ以外 に旅が普及し始めたのは後述するように18世紀末である.
ピョートル大帝主導のもと建設中のサンクト・ペテルブルグの様相がドイツの外交官
(1714~1719年)であったVeberにより初めて記述された『変身したロシア』はドイツ語,
英語,フランス語版のみが出版された(Bespyatyh 1991)ことから,サンクト・ペテルブ ルグ建設はロシア国内よりも西ヨーロッパ諸国において注目されていたことが分かる.最 初にロシア語でサンクト・ペテルブルグの歴史と生活を記述したのはBogdanov(1779)で あり,この書籍には貴族の邸宅や教会のリスト,戦勝イベント,王宮での外交パーティー 等が収録されており,観光ガイドブックとしても利用されたと考えられる.当時のロシア 貴族の多くはフランス語やドイツ語もできたことから,本書がロシア語で書かれたことは 比較的広い階層にサンクト・ペテルブルグ旅行あるいは観光の需要が生じていたことを意 味する.
帝政ロシア時代における初の組織化された観光は,1777 年にモスクワで男子寄宿舎を経
営する Veniamin Gensh によって新聞紙上で募集された「よその地域への旅行計画(Plan
predprinimaemogo puteshestviya v chujie kraya,sochinyonnyi po trebovaniyu nekotoryh osob soderjatelem blagorodnogo pansiona Venjiaminom Genshem)」である.これは上記の貴族によ る自己啓発旅行を若者に適用したものであり,まだ「観光」という言葉は使用されていな かった(Doljenko 1988;Usyskin 2000;Putrik 2014).交通手段や宿泊施設の確保,パス ポート6取得の困難さのため長続きしなかったが,この企画によって休暇旅行は外国を学ぶ 絶好の機会だとみなされるようになった(ibid).19 世紀に入ると,ロシア商人による西ヨ ーロッパへの商業旅行を下敷きに勃興した中間階層による西ヨーロッパ旅行が現れるよう になった.その結果,鉄道の発達,ホテルの開業,銀行による両替の開始,労働休暇とし ての観光の受容(McReynolds 2006)が現れ、旅行手段と旅行動機に資本主義の影響がみ られるようになった.中間階層の子供が通う学校でも19世紀後半から道徳的・宗教的な教
6 パスポートの有効期間と手数料は,特権クラスが6カ月間5ルーブルまたは1年間10ルーブル,
商人とブルジョアは5年間有効で年50コペイカであった(Usyskin 2000).
31 育効果も期待して,歴史・文化的モニュメントや博物館等への修学旅行(エクスカーショ
ン旅行 shkolnaya ekskursiya)が実施されるようになった.これら西ヨーロッパへの旅行
(zagranichnye puteshestviya)や修学旅行はあくまでも中間階層以上によるものであり,帝 政期を通して観光は一般庶民にとって遠い存在であった.
ロシアは1780年代以降クリミア半島からコーカサス地方にかけて進出し,1859年までに これらの地域を編入し,カスピ海東側の中央アジアも 1830年代から 1880年代までにロシ アの領土となった.ロシア人の学者や探検家がこれらの新たな領土を訪れ,またイギリス を 中 心 と し た 近 代 登 山 の 影 響 も あ っ て , コ ー カ サ ス 山 脈 や テ ン シ ャ ン 山 脈 が 探 検
(issledovanie)や登山(alpinizm)の対象となった.1877年にコーカサス自然科学アカデミ ーの下に誕生した登山クラブ(Gornyi Klub)を皮切りに,各地に研究と山間へのエクスカ ーションを目的とした山岳登山クラブ(Alpiyskiy Klub,Gornhyi Klub)7が設立された.こ れらの登山クラブで実施された旅は長期間のものが多く,1909 年のクリミア・コーカサス 人山岳クラブによって行われた旅は252日間であった(Usyskin 2000).
b) 「Tourism」の登場
1885年にペテルブルグ在住外国人Leopold Lipsonによって,海外旅行を扱うロシア初の 旅行会社である Lipson が設立された(Usyskin 2000).Lipson はトーマスクックのシステ ムを参考に,チケットの手配から荷物の搬送,ホテルの確保,チップの支払い等の代理業 務を行った(McReynolds 2006).Lipsonの団体旅行はロシアの新興富裕層向けであり,フ ィンランド,スウェーデン,パリ,イタリアとエジプト等への旅行が提供された(McReynolds
2006).この団体旅行に出かける者には「旅行メモ帳(Putevaya zapisnaya knijka)」が配布さ
れ,旅程だけでなく,基本サービスおよびそのほかの情報も記載されていた(Usyskin 2000).
Lipson によって作られたこの「旅行メモ帳」が,後のソ連で団体旅行や温泉クロールトに
行く際に必要だった「バウチャー(プチョフカputyovka)」の始まりだったと言える.
Tourism という言葉がロシア語に登場したのは 19 世紀末である.そのきっかけとなった
のは1894年のモスクワ・ペテルブルグ自転車旅行であり,1895年にはサンクト・ペテルブ ルグで「自転車観光者協会(Obshestvo velosipedistov-turistov)」が誕生した(Usyskin 2000). この協会の会員はハイキングや乗馬,鉄道,自動車,ヨットでも旅行に出かけ,この協会 はツリング・クラブTuring Klubとも呼ばれた.1899年には「ロシアの観光者(Russkiy turist)」 という月刊誌が出版され,「観光はスポーツであり,観光者になれるのは自然を愛する者の みである(Turizm-eto sport・・・ uristom mojet byt tolko lyubitel,ne poteryavshiy sposobnosti lyubit
prirodu・・・省略)」と記した(Usyskin 2000)ことから,ソ連時代に観光が登山をはじめ
とする自発的なものに限定して使われた遠因となったと考えられる.
7 各地の登山クラブ名: 1877年にトビリシのアルパインクラブ(Alpiyskiy Klub),1890年にクリ ミア・コーカサス人山岳クラブ(Gornyi Klub),1898年にロシア登山協会,1902年にコーカサス 山岳協会,1909年にヴラディカフカス登山クラブ.
32 自転車旅行者協会は1901年にロシア観光者協会(Rossiyskoe obshestvo turistov)に改名さ れ,1903年に会員数は2,061人となった(Usyskin 2000).この協会の誕生がきっかけとな り,1901 年には『外来語辞書』に初めて「turist は楽しみのためか勉強のため旅行する者」
の意味を持つ「tourist」という言葉が登場したと言える.
1907年,ロシア観光者協会内に低収入者にエクスカーションを提供する部門が設けられ,
ロシア正教会もロシア国内の聖地への冬休みの修学旅行をロシア観光者協会に依頼した
(Usyskin 2000).
1915年にロシアには約100件の観光協会や旅行会社が存在し(Doljenko 1988),これら は旅行客に交通手段,宿泊施設等を含むバウチャー(プチョフカputyovka)を販売した.
c) 治療旅行と保養地の誕生
ピョートル大帝の旅の成果は,温泉治療にもみられる.それまで温泉はロシアでは神聖 な場所と見なされていたが,ピョートル大帝がヨーロッパの温泉治療法を導入し,ペテル ブルグから北東約200kmにあるMartsialnye vody温泉で治療を受けた(Doljenko 1988)こ とに貴族階級も追随したことで,大都市周辺部に温泉療養施設(クロールト=ドイツ語由 来)が作られるようになった8.18 世紀末に温暖なクリミア半島がロシアに併合されると,
ヤルタをはじめとする海岸リゾートが形成され始めた.いずれの海岸リゾートも海水や地 下水,泥等を使った療法が導入されたが,これらの療法はイギリス等で盛んになった海水 浴の影響も受けていると考えられる.アレクサンドル2世の家族は1862年からヤルタで海 水浴を行い,1866 年にはヤルタの北郊に離宮を築いた(Murovin 2017).同じく黒海沿岸 のコーカサス地方でもロシアによる割譲を経た1860年代から,ソチやアナパ等で海岸リゾ ートが作られた.しかし,当時の治療観光者は上流階級に限られており,1910 年代のロシ アを描いたアレクセイ・トルストイの小説『苦難の道』でも,ペテルブルグやキエフの政 治家やロシア正教会の主教等がクリミア半島の保養地エフパトリアのホテルに治療滞在し たことが描かれている(Tolstoi 1920).
分け与えるという意味のダーチャも17世紀後半にピョートル大帝により与えられた土地 として誕生した(Djandjugazova 2010).18世紀後半には,ダーチャは郊外にある家,もし くは郊外農園を意味するようになり(Djandjugazova 2010),当初はペテルブルグ近郊とモ スクワ近郊,ヤウザ川とモスクワ川沿いのモスクワ郊外に建設された(Djandjugazova 2010;Elyutin 2014).
1830 年代にはダーチャは郊外エリアに立地する夏季レクリエーションのための広大な住 宅地を意味するようになり,主に貴族が利用していた(Belovinskiy 2015).19世紀後半の
8 1803年にリぺツク(Lipetsk)温泉,1815年,ノブゴロド州にスターラヤルッサ(Staraya Russa)
温泉,1820年にキスロボツク温泉,1830年にエッセントゥキ,1833年にクイビシェフ(Kuibysh ev)州のセルギエフスク(Sergievsk)温泉,1837年にリトアニアリゾート,1838年にリガ周辺に ケメリ温泉が誕生した(Rossyiskiy 1923;Azar 1972;Kozlov 1973;Vlasovほか 1962;
Samsonenko 2000;Tarunov 2003;Malgin 2006;Voroshilov 2008).