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キルギスにおける社会体制転換と観光に 与えられた役割・意味の変容与えられた役割・意味の変容

120 第1章3節1項で述べたように本章では社会体制転換に伴う観光の変容を4つの視点か ら考察する.第1節から第3節までの視点は,転換期に社会システムや政治権力等の変化 から影響を受けて変容した個人の観光行動や観光に関連する価値観の要因となるものであ る.第 4 節では,個人が観光に対して抱いていた認識や個人が観光に与えた意味,すなわ ち観光の概念の変容を考察する.

第1節 観光に関わる制度・制約・仕組み

ソ連は労働者と農民という,二つの同盟した階層および両者から補充される中間層イン テリからなる階層の無い社会であることが建前とされた.しかし実際の統治はソ連共産党 による一党独裁体制であり,政治に携わる人物は全て党の任命と承認を受けた人物である 必要があった.そのため党が役職名と役職に就く候補者の名前を一覧表にして用意するシ ステムが存在した.それはノーメンクラツーラ制度であり,共産党書記局,政治局や各省 大臣や大使,工場社長,ソフホーズ・コルホーズ社長等が入っていた(ヴォスレンスキー

1981;1988).全ソ連でその一覧表にリストアップされた者は 75 万人であり,家族を含む

と300 万人であった.そして,彼らは特権階層としてソ連民の平均給料より 8 倍の給料や 年金等を手に入れた(ibid).観光に関しても同様であり,海外旅行の他に,国内では立地 の良い無料の高級ダーチャやノーメンクラツーラ専用のパンシオナットやクロールトが存 在し,時期を問わず 1 カ月程度の休暇が可能であった.たとえば,キルギスのイシック・

クル湖畔の高級クロールトオーロラはノーメンクラツーラ階層専用のものであり,他の階 層の人は立ち入り禁止であった.つまり,ノーメンクラツーラ階層なら観光も容易であっ た.

しかし,ノーメンクラツーラリストに登録されていないエリート,インテリ,労働者,

農民の各層の観光はノーメンクラツーラ階層とは異なっていた.まず海外旅行については,

ワルシャワ条約機構加盟国や社会主義圏へのものが可能であったが,個人で出国する許可 には政治的制約があり,高価でもあるためこれらの人々は政府の計画通りの団体旅行を選 択せざるを得なかった.しかし,それも数に限りがある配給制のものであり,各機関で労 働成果や労働規律等の厳しい審査により観光者が決定された.同様に,ソ連国内のクロー ルトやサナトリウム等の休暇施設への観光やダーチャ等も配給制であり,その中でも温泉 治療,宿泊,食事,アミューズメントが含まれ,無料だが限られた人にのみ配給されるパ ンシオナットとクロールトが最もプレステージのある観光であった.その他の国内旅行に ついても,交通代やホテル代が組み込まれたソ連内の安価な団体旅行の希望者数はバウチ ャー数を遥かに超えていた.配給量の少なさは政府主導の観光に付加価値を与えるためだ ったと考えられるが,一方で政府は国内旅行なら個人でも自由に汽車の切符を購入可能に した.それは国民に不満を持たせないためだったと言える.

共産党・政府はノーメンクラツーラ以外の階層の賃金を平均化し,その代わり政府主導 のクロールト旅行やダーチャを労働の対価として配給した.これは労働意欲を喚起するた

121 めに使用されたが,多くの場合,権力のある人から順番に享受できた.中央アジアで特権 階層とされたのは非土着系住民であるロシア人等のテクノクラートであり,ソ連政府から 優遇されたので,彼らは夏季中にクロールトを利用できた.一方で,A氏のようなノーメン クラツーラ階層でもテクノクラートでもない地方在住キルギス人は,地元エリートであっ ても主に秋にしかクロールト旅行ができず,また B 氏のような大学教授のインテリでもほ とんどクロールトを利用できなかった.さらに,C氏のようなソフホーズやコルホーズの一 般労働者や農民にはクロールト旅行のバウチャーは配給すらされなかった.なお,近隣の 村(コルホーズ)単位での集団でならば定期的に温泉治療等に行ける制度が存在した45が,

これにもソ連政府による農村部の集団化と団結力の醸成,労働の対価の意味が含まれたと 考えられる.

しかし,配給制の観光を入手できない人々は他の手段,たとえば同一出身地や同じ職場 のノーメンクラツーラ階層との人間関係を築き,通常ならば困難であった国内旅行や海外 旅行の機会を手に入れた.ライフヒストリー調査からも明らかになったように,ノーメン クラツーラ階層に属していないエリートのA氏,インテリのB氏,そして農民のC氏はノ ーメンクラツーラ階層の同一出身地や職場の人間関係を用いて通常なら困難であった国内 旅行や海外旅行を手に入れた.たとえば,A氏はノーメンクラツーラ階層の上司にお祝いや 祭りの際等に豪華なプレゼントを贈る等して人間関係をうまく築いたため,仕事の地位上 昇につながり,クロールト旅行やカザフスタンまで旅行が可能となった.B氏もノーメンク ラツーラ階層の知り合いを通して日本への留学を手に入れ,日本での観光もできた.またC 氏もノーメンクラツーラ階層のコルホーズ社長にプレゼント等を贈り,関係を築いたため,

モスクワへの観光ができたほか,一般キルギス人に許されなかった夏季草原観光を頻繁に 行い,キルギス人の富の象徴である羊を多く所有することもできた.このように,社会主 義時代にはノーメンクラツーラ階層とのコネを持てば観光も可能であった.

他に,政府主導の観光には学生やインテリのみが派遣された集団労働(農業・建設集団 活動)や定期的なパレードが,中間的な観光にはソフホーズやコルホーズの祭り,文化ク ラブでの安価な映画やコンサート等が挙行・配給された.これらは愛国心や集団団結心を 醸成する意図のものが多くソ連のイデオロギーを国民の間に浸透させるために使用された と言える.たとえば,大衆に思想・教義を教えるプロパガンダ手段の典型例の一つに映画

『戦艦のポチョムキン』があった(水野 2017).中間的な観光とは言っても,登山やスキ ー等の自発的休暇は,個人旅行より団体旅行の方がより安価で無料のものまであり,職場 単位で各機関内に設置された観光クラブに所属することにより平日も実施可能で,土日の 渋滞を避ける等の計画的観光につながっていた.

資本主義化以降,労働組合によるクロールト等へのバウチャー配給は段階的に廃止され た.労働組合は党や政府等の命令に従わない独立したものとなり,2006 年に経済資本の獲

45 ソ連時代トクモク市,イスクラコルホーズ在住のNo28.インタビュー対象者(女,76歳)へ のインタビューによるもの

122 得のため組合管理下にあるクロールトやサナトリウムへのバウチャーの半額をお金で購入 できる制度に変えた.したがって,バウチャー配給は大幅に廃止され,社会主義時代から 引き続いてA氏のような地元エリートを含む権力者たちが得ていたクロールト旅行も2006 年以降不可能になった.

国内外の旅行は市場経済に基づいて多数の民間会社がパッケージツアーのような形で販 売するようになり,料金設定や広告等で観光客獲得を争うようになった.しかし,ツアー 商品とその消費者には階層間格差が明確に出ており,海外旅行やクロールト等への国内旅 行も含めて基礎階層や下流階層には手の届かないものとなった.だが,基礎階層や下流階 層にとって家族・親戚・友人内の富裕な者から観光を受け取るといった相互扶助による観 光も可能である.つまり,それまで国・職場から配給された観光は,社会体制転換に伴い,

経済的制約の下で自ら購入するもの,あるいは家族・親戚の援助によるものに変化したと 言える.

第2節 観光の動機

上記のように,共産党・政府は観光をも物資と同じく配給制にしたが,人々はこのよう な政策を肯定的に享受した.ノーメンクラツーラ階層にとっては海外旅行や専用の高級ク ロールト等への観光が支配階層であることの自己確認作業にもなっていた.このようにし てノーメンクラツーラ階層はその他の人々から自分たちを差異化したと考えられる.また,

地元エリートA氏にとっても,彼がクロールト旅行に行った際には,滞在先に親戚・知人・

部下等が敬意を示すために大量の羊肉等を持参した.その伝統的なキルギスの交流が A 氏 のクロールト旅行の動機になり,地元エリート A 氏の権威者としての自己確認作業にもな っていた.そのためにも A 氏は労働での努力の他に贈り物をする等してノーメンクラツー ラ階層の共産党書記との人間関係を維持していたと言える.以上のように,配給制に基づ いて特別な旅行に行けるという特権意識は,権威者自身の自己確認作業にも,労働者の労 働の動機づけにもなった.

一方,パレード等のイベントや集団キャンプ,修学旅行等も,国家にとって国民に社会 主義を受け入れさせるための道具として,またノルマ達成の報酬としての役割を付与され ていたが,インタビュー対象者の多くは,これらの観光や生活自体も楽しかったと評価し,

彼らはソ連時代に設立された温泉クロールト等に対してノスタルジーをすら感じている.

また,登山やスキー等の自発的な観光には,距離や山の高さ,難易度等によって観光バッ ジ制度が設けられていた.この制度は政府が自由旅行を管理する目的が含まれていたが,

観光者にとってはバッジのカテゴリーを昇段していく達成感が観光の動機になっていたと 言える.これらの動機は,資本主義化以降のイベント参加者や登山客,あるいはバックパ ッカー旅行者の観光動機とは大きく異なると考えられる.

他方,資本主義化以降アウトバウンド旅行会社が増加し,価格競争により「All inclusive」

のトルコやエジプト,ドバイ等へのパッケージ旅行が中間階層に人気を集めている.彼ら