―キリスト者の「アート」―
3. キリスト者のアート(神の作品)
●私たちはイエス・キリストの⾎潮によって、すでに、死を司る⽀配者から解放されています。すでに死の恐怖か ら救われています。私たちはキリストにすでに贖われた者、神の所有の者とされたのです。神の所有ですから、神 が⽀配権をもっています。神が責任をもって⽣かしてくださるのです。ですから、神によって、「今、私は神によ
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って⽣かされているのだ」ということを徹底的に意識して⽣きることです。
●「神によって⽣かされている⼈⽣」ということを、⼼から信じている⼈ならば、神が私をいつどのような形で召 されたとしても、それが⾃分にとって最善のことなのだと確信できるのです。ヨブ記の有名なことば、「私たちは 裸で⺟の胎から出てきた。また裸で私は帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名は ほむべきかな。」(1:21) このような信仰をもっていることが、「良い死」につながる要件です。⽇野原重明⽒は「医学、看護のアート」と いうことばを使いました。それは、「いのちの質を問うこと」だとしましたが、イエス・キリストを信じる私たち もそれを⽂字っていうならば、「⽣きることはアート」であり、また「死ぬこともまたアート」と⾔えるのです。
そんな⽣き⽅ができることをイエスは私たちに保障してくださったのです。ですから、「キリストを信じて⽣きる ことは、アートだ」と⾔えます。
●「死を意識した(死を⾒据えた)⽣を⽣きるアート」、神を信じる者として、そのアートの描き⽅は⼈それぞれかも 知れませんが、そこには必ずやいのちの輝きがあると信じます。
⾃分の「死をどう⽣きたか」、それは⾃分では語れませんが、残された者たちの⼝を通して語らせるような、⼈の
⼼に残るような⽣き⽅を⽬指して⽣きたいと思います。
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No.23 神の⽗性的教育 (1)
はじめに
●今回の主題は、神の訓練、神の⽗性的教育についてです。この⼿紙が書かれた時代では、クリスチャンになるこ とでさまざまな苦難を余儀なくされていました。そのために折⾓、信仰の道を歩み出した⼈々がひとりふたりと信 仰から離れて⾏ったのです。そした状況の中で、主にある者たちを励ますために、ヘブル⼈への⼿紙が書かれまし た。ヘブル⼈への⼿紙では信仰による⽣涯をレースにたとえて、最後まで⾛り抜くようにと勧告しています。信仰 の世界でのレースはある意味で、障害物競争です。レースの中でさまざまな障害があって、それをクリアしつつ、
⾛ることが求められています。そこには隠された意味があるのです。障害もなく、整備された平坦な道を⾛るので はありません。神は深い配慮の中で、多くの困難、苦難といった障害物を置いているのです。当時のクリスチャン たちが経験した迫害もその障害の⼀つですが、聖書はそうした障害を神の訓練として捉えているのです。私たちも こうした視点を持つことなしに、信仰の道を⾛り抜くことはできません。
●クリスチャンになったら、神の⼦になったら、なんの問題もなく過ごせるというようなことは決してないのです。
もしそう思って信仰の道に⼊ったなら、早かれ、遅かれ、信仰の道から逸脱することは⽬に⾒えています。私たち の⽗なる神は、⼦となった私たちに、次から次へと新たな課題を与えて訓練し、神の⼦どもとして成⻑させていく のです。そのことを、再発⾒、再確認したいと思います。今回はある意図をもって「⼝語訳聖書」で読みたいと思 います。
5 また⼦たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの⾔葉を忘れている、/「わたしの⼦よ、/主の訓練を軽ん じてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
6 主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての⼦を、/むち打たれるのである」。
7 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、⼦として取り扱っておられるのである。いったい、⽗に 訓練されない⼦があるだろうか。
8 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私⽣⼦であって、ほんとうの⼦
ではない。
9 その上、⾁親の⽗はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの⽗に 服従して、真に⽣きるべきではないか。
10 ⾁親の⽗は、しばらくの間、⾃分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの⽗は、わたしたちの益のため、そのきよさに あずからせるために、そうされるのである。
11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛え られる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
12 それだから、あなたがたのなえた⼿と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。
●このテキストにはとても特徴的なことばが繰り返して出てきます。最後の 12 節を除いて、各節に⼀度は登場す
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る⾔葉です。そのことばは「訓練」ということばです。「訓練」、神の教育としての訓練です。ギリシア語の動詞「パ イデノー」と名詞の「パイデイア」の両⽅が使われています。全部で 9 回。
新改訳・・・・・・・訓練、懲らしめ
⼝語訳・・・・・・・訓練
新共同訳・・・・・・鍛練、鍛える 回復訳・・・・・・・取り扱い、訓練 フランシスコ会訳・・訓練
●⼝語訳を取り上げたのは、「訓練」ということばで統⼀されていて分かりやすかったからです。神の訓練、御⽗
の訓練、これを忘れたり、軽んじたり、ないがしろにしてはならないというのが、今回のメッセージです。