はじめに
カンボジアは、政変や軍事行動が繰り返され、長い間国際社会からの孤立を経験してい た。1991年のパリ和平協定調印、1993年の総選挙・憲法発布等を経て新政権が発足し、よ うやく復興の道筋が建てられることとなった。新政権は、和平の進展や開発及び国際社会 への復帰を目指し、多くの貧困関連の開発政策を策定してきた。本章では、カンボジアが 新政権発足以降の短期間に策定した政策を検証する。そのために、第 1 節では植民地時代 から独立、国内外の混乱を経て復興に至る歴史、及び国家復興開発計画を始めとした各復 興開発政策の変遷を辿る。第 2 節では、これらの政策による効果の分析のため、カンボジ ア版ミレニアム開発目標を基にした達成度の検証を行い、政策における課題を明確にする。
第1節 カンボジアにおける貧困関連政策 2-1-1 植民地化、独立から紛争
2-1-1-1 アンコール王朝の衰退、植民地化
12 世紀から 13 世紀にかけて東南アジアに大きく領土を広げ最盛期を迎えていたカンボ ジアのアンコール王朝はその後、東からはベトナム、西からはタイに侵攻されることとな った。さらにベトナムからの干渉により、シェムリアップからウドン64、プノンペンへの遷 都等を経過し、現在のカンボジアの国土へと近づいていった。1884年6月には、フランス・
カンボジア協約の調印によりカンボジアは主権を失い、1887年 10 月にはフランス領イン ドシナ連邦へと編入されることとなった。その後、バッタンバンやシェムリアップなどの 諸州がタイに割譲されるなど、第二次世界大戦の影響に大きく翻弄された。その後、1953 年8月から10月にかけて、フランスから警察権・司法権・軍事権が移譲され、同年11月9 日にカンボジアは完全独立を達成することとなった。
2-1-1-2 独立からクメール共和国(ロン・ノル政権)時代(1953-1975年)
独立後、ノロドム・シハヌーク65が国家元首となり政権を掌握すると、その強い影響力の 下で独自の中立政策をとったカンボジアは、1960年代前半まで政治的安定と経済発展を享 受した。しかし、1960年代後半になると、経済危機や北ベトナム共産主義の脅威などの影 響を受け、反米的であった外交政策は転換を迫られるようになり、政権は不安定化した。
1970年3月18 日、親米派ロン・ノル将軍はシハヌークの外遊中にクーデターを起こし、
クメール共和国の設立を宣言した。その一方で、ポル・ポト派の共産主義勢力クメール・
ルージュは、亡命したシハヌークの支援や、親米のロン・ノル政権への反発勢力の支持を 得て、この時期に勢力を増強させた。ベトナム戦争によりカンボジアの混乱は助長され、
64 プノンペンと隣接するカンダル州の都市。
65 Norodom Sihanouk。1922-2012年。
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カンボジア領内においても戦闘が頻発した。米軍による空爆で、多くの住民が殺害される とともに、不発弾・枯葉剤・地雷等により広大な土地が使用できなくなり、多数の難民が 発生した。
2-1-1-3 民主カンプチア(ポル・ポト政権)時代(1975-1979年)
1975年4月17日、ポル・ポト軍(クメール・ルージュ)はロン・ノル政権を駆逐し、
首都プノンペンを占領した。翌76年にクメール・ルージュは民主カンプチアの建国を宣言、
ポル・ポトが首相となった。クメール・ルージュは急進的な共産主義政策を実施し、プノ ンペン市民の農村部への強制的移動、ロン・ノル体制時の軍人、公務員、知識人66の処刑、
貨幣制度・市場システム・私有財産制の廃止等、カンボジア社会の伝統的な仕組みの徹底 的な破壊が行われた。クメール・ルージュの統治時代には、食糧の少なさと医療の否定に 加えて、重労働を課せられた事で非常に多くの被害者を出した。
2-1-1-4 カンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権)時代(1979-1991年)
1979年1月、ベトナム軍とカンプチア民族救国統一戦線によりクメール・ルージュは駆 逐され、ベトナムの支援の下でカンボジア人民共和国(ヘン・サムリン政権)が樹立され た。インドシナ地域における共産主義国ベトナムの覇権を恐れる周辺諸国及び西側諸国の 思惑も絡まり、ベトナム軍とクメール・ルージュの戦闘は継続し、多くの難民が発生した。
1979年から 1982年までのカンボジアの情勢は、中国が支持するポル・ポト軍対、ベトナ ム軍とベトナムが支えるヘン・サムリン政権軍という形であったが、1982年から 1989 年 の期間になるとその形は、中国・ASEAN諸国・西側諸国が支援する3派連合67と、ソ連・
東欧ブロックが支援するベトナム軍及びヘン・サムリン軍との対立という形へと対決の構 図は拡大していった。その後、世界的な冷戦構造の終焉によるアメリカ・中国・ソ連のパ ワーバランスの変化を受けて、1989年9月にベトナムがカンボジアから完全に撤退し、和 平の道が開かれることとなった。
2-1-1-5 パリ和平協定から総選挙、復興にむけて(1991-1993年)
カンボジアにおける和平交渉は1987年頃から開始されたが、上述の通り、各国の思惑が 交錯しており容易には解決されなかった。1990年6月は東京会議、同年9月はカンボジア 最高国民評議会(SNC: Supreme National Council)第一回会合、1991年6月にはパタヤ 緊急会議(パタヤ合意)が行われたが状況は改善しなかった。しかしこの時期に、ソ連の 崩壊やベトナムにおけるドイモイ政策の開始、中国における市場経済の導入開始等といっ たように、カンボジアを取り巻く国々の国内状況に変化が起こり各国のカンボジア問題に
66 知識人には、文化人、僧侶、教師等を含む。
67 中国、ASEAN諸国及び西側諸国が、援助と引き換えにポル・ポト派、シハヌーク派、ソン・サン派の 三派を強引にまとめたもの。
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対するスタンスも変化が起こった。このような流れの中で1991年10月23日にパリにおい てパリ和平協定が19カ国68によって調印された。翌1992年3月には、「国連カンボジア暫 定統治機構(United Nations Transitional Authority in Cambodia: UNTAC)、以下 UNTAC」が発足し、軍事以外にも警察、行政機構構築等、包括的な平和維持活動が行われ た。さらに翌年、1993年5月に第1回総選挙が実施、9月には新憲法が公布された。この 結果、フンシンペック党のノロドム・ラナリット第一首相、カンボジア人民党のフン・セ ン第二首相による、2人首相制の連立政権が誕生した。
また、1992年6月には、カンボジア復興国際委員会(International Committee on the Reconstruction of Cambodia: ICORC)が組織・開催され、この時期になりようやく復興に 向けた道筋が出来始めたと言える。
2-1-2 国家復興開発計画(NPRD)(1994-1996年)
1993年の総選挙の結果誕生した新政府にとって、最も重要な課題はカンボジアの復興と 再建であったと言える。パリ和平協定以降の 2 年間、各国・各援助機関による援助を受け ていたが、これらには一貫した方針が存在せず、それぞれの判断に基づいた援助が行われ ていた。1993年のUNTAC撤退後に政府は、「国家復興開発計画69(The National Program to Rehabilitate and Develop Cambodia: NPRD)、以下NPRD」を1994年5月に策定し、
以降は、NPRD に沿った援助が行われることとなった。これは新政権発足後、初めての本 格的・総合的な国家開発計画であった。NPRDは2つの原則と6つの目標で構成されてい る。第 1 の原則は、政府を国家開発の立案者かつ管理者として定義することであり、第 2 の原則は、政府をカンボジアにおける民間セクターの共同経営者として定義することであ る。この2つの原則に基づいた 6つの目標とは、①法の支配が普及した「法治国家」とし てのカンボジアを樹立すること、②2004年までに GDPを倍増することを目標として、経 済の安定と構造調整を達成すること、③人的資源を構築し、国民生活水準向上のために教 育及びヘルスケアの充実を行うこと、④物的インフラ及び公共施設の再建と整備、⑤カン ボジア経済の地域的・国際的な経済への復帰、⑥農村開発に重点を置き、環境と天然資源 の持続可能な維持管理を行うこと、であった。また、計画目標実現のためには、政府関係 者の意識改革及び民間セクターの参画が必要であると指摘している。NPRD の最大目標は 国民生活水準の改善である。その中でも、「灌漑施設の復旧」、「植林」、「クメール・ルージ ュ投降兵の社会復帰」の3項目を優先事項と唱えている。
次に開発政策としては、①持続的な経済成長、②継続的な人材開発、③自然資源の持続 的な管理と活用を挙げており、開発の主要課題として、グッドガバナンス、農村開発、貧 困削減、経済調整、民間セクター開発、人材育成、兵士等の社会復帰、ヘルスケア、教育、
68 オーストラリア、ブルネイ、カンボジア、カナダ、中国、フランス、インド、インドネシア、日本、ラ オス、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ソ連、イギリス、米国、ベトナム、ユーゴスラビ ア。
69 国際農林業協力協会(1997、10頁)による名称は「カンボジアの復興・開発に関する国家計画」。