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アンマンナーティの《ネプトゥヌスの噴水》

  フィレンツェの中心に位置するシニョリーア広場には、その東側に面して建つヴェッキオ宮 殿(旧政庁舎)の正面の一角に、同地の彫刻家バルトロメオ・アンマンナーティ(

1511-1592

年)が手がけた《ネプトゥヌスの噴水》が設置されている(figs. IV.3.1-2)。大理石のネプトゥ ヌスの巨像が

4

頭の海馬が率いる貝殻に立ち、その周囲を取り囲む欄干は河神とサテュロスの ブロンズ彫像群で飾られている。この噴水は、

1575

年になってようやく現在みられる総体とし て除幕されたが、噴水の実質的な制作期間は

2

期に区分される。すなわちアンマンナーティは

1560

年から制作に着手し、コジモ

1

世の嫡子フランチェスコ

1

世とジョヴァンナ・ダウストリ アとの結婚祝祭のため、

1565

年にストゥッコ製の人物像を用いて一時的に仮設の噴水として仕 上げた。その後

1572

年から

1575

年にかけて、先立つ結婚祝祭までに未完成であった大理石お よびブロンズの彫刻装飾を仕上げるための最終的な施工が行われたのである。しかしながらこ の噴水制作の計画が持ち上がったのは少なくとも

1550

年頃に遡る。そして最終的に

1560

年に アンマンナーティに正式に委嘱されるまでの期間には、その制作権をめぐって同時代の彫刻家 のあいだで激しい火花が散らされた。

  この噴水については、完成作品に対して同時代以降に低い評価が与えられたことも手伝い、

先行研究においては、作品以上に、制作にまつわる社会的文脈の方により大きな関心が寄せら れていることは否めない。この状況を踏まえて本節では、

1550

年代以降に展開された上述の各 フェーズで《ネプトゥヌスの噴水》に関連して制作された諸構想ならびに現存する同噴水に対 して、詳細な造形分析を加える。その上で、完成作品の造形が構想段階から大幅に変更されて いる点に着目し、同時代におけるコジモ

1

世の動向との関連性のなかでその変更の意図を読み 解きたい。

3-1  委嘱の前史とアンマンナーティの初期構想

  本項ではまず、

1560

年にアンマンナーティが《ネプトゥヌスの噴水》の制作権を取得するに 至る経緯を総括し、その期間に制作された初期構想群を検討する。《ネプトゥヌスの噴水》の計 画は、高さ

10.5

・幅

5

ブラッチャ(

6 x 3

メートル弱相当)の巨大かつ良質な白大理石がカッ ラーラで採石されたことに起因する。この大理石に関する同時代の記述は

1550

年代以降に散見 されるものの、採石時期についての記録は欠いている。チェッリーニは

1558

年に公爵夫妻に面 会した際にコジモ

1

世が「あの立派な大理石はもう

20

年以上も以前に、バンディネッロ〔バン ディネッリ〕のために掘りだしたものだ。195」と述べた旨を記している。この記述を信じるな らば、

1538

年すなわちバンディネッリが同じくシニョリーア広場のために大理石群像《ヘラク

195 Cellini vita[邦訳:414頁]

レスとカクス》を完成した

2

年後には早くも大理石が採石されていたことになるが、その真偽 は不明である。しかしコジモ

1

世がバンディネッリにこの大理石を用いた噴水の計画を実質的 に委ねていたことは、複数の書簡から確かめられる。すなわちバンディネッリは、早くも

1551

2

月にはトリーボロの歿後に委ねられていたボーボリ庭園の噴水と並行して「〔シニョリー ア〕広場のための噴水」の構想を進めており196、これが《ネプトゥヌスの噴水》の計画に言及 した最も早い史料である。またバンディネッリは、同年

3

月から翌年

2

月にかけても同様に噴 水の構想について公国側と書簡を交わしている197。その後バンディネッリの記録にはこの噴水 計画についての記述はみられないが、

1558

4

月になり、初めて前述の巨大な大理石に言及し ている198

  バンディネッリがこの噴水のために構想していたとみられるネプトゥヌス像について、後に ヴァザーリは、競作に参加した者たちが制作した雛型を見た上で、バンディネッリが生前に手 がけたモデルが最も優れているとして賛辞を贈った199。その造形は、ニューヨークとローマに 現存する

2

点の小型のブロンズ像から窺い知ることが出来る(

figs. IV.3.3, 5

)。

2

点のブロンズ 像はいずれも、右脚に重心を置くコントラポストの姿勢を採り、左手に小さな海豚を握り、右 手にはおそらく三叉の矛が握られていたのだろう200。両者の相違はとくに頭部に顕著であり、

前者のそれが右方へ旋回する左半身の動きと相まってわずかに傾けられ、正面観において右脚 がつくりだす円弧と滑らかに接続するのに対して(

fig. IV.3.3

)、後者の頭部は垂直に立ち上が る身体の中心軸をつくり出している(

fig. IV.3.5

)。ニューヨークの小像は、バンディネッリが 先立って制作し

1536

年に未完成の状態でカッラーラの大聖堂広場に設置された《アンドレア・

ドーリア記念碑》やそれに関連するネプトゥヌスの素描との形態の類似性が指摘されるものの

(figs. IV.3.6-7)、その顔貌はコジモ

1

世の肖像を示しており(fig. IV.3.4)、フィレンツェの《ネ プトゥヌスの噴水》のための構想に数えられる。つまりこれに先立ってモントルソリがメッシ ーナに実現した《ネプトゥヌスの噴水》では、噴水は皇帝カール

5

世に捧げられその功績を讃 えるものでありながら、ネプトゥヌス像は肖像彫刻にはされず、あくまでも皇帝を間接的に表 象する存在として機能していたのに対し201、バンディネッリは「ネプトゥヌスとしてのコジモ

1

世」を噴水に君臨させる構想を採っていたことがわかる。このブロンズ像はバンディネッリ

196 1551211日付、バンディネッリ(在フィレンツェ)から秘書官ヤコポ・グイーディ宛の書簡。Waldman 2004,

doc. 793, pp. 458-459; 本論文別冊Appendix V.

197 1551315日付、バンディネッリ(在フィレンツェ)から秘書官ヤコポ・グイーディ宛の書簡(Waldman 2004,

doc. 800, pp. 463-464; 本論文別冊Appendix VI. 第Ⅱ章第3節第1項の抄訳引用を参照); 1552221日付、バン ディネッリ(在フィレンツェ)から監督官ルカ・マルティーニ(在ピサ)宛の書簡(Waldman 2004, doc. 867, p. 491);

1552223日付、バンディネッリ(在フィレンツェ)から秘書官ヤコポ・グイーディ(在ピサ)宛の書簡(Waldman 2004, doc. 868, p. 492)を指す。

198 1558425日付、バンディネッリ(在フィレンツェ)から秘書官ヤコポ・グイーディ宛の書簡(Waldman 2004,

doc. 1211, pp. 648-649)。この書簡でバンディネッリは、本文で記した巨大な大理石を粗彫りし、カッラーラからフィ レンツェへ運搬する許可を求めている。これはすなわち、バンディネッリによる事実上の大理石の取り押さえを意 味している。

199 Vasari 1568, vol. 6, p. 83[抄訳:『美術家列伝』第4巻、411頁]

200 Exh.cat. Firenze 2011, cats. 20-21, pp. 420-423.

201 第Ⅱ章第3節第2項(2)を参照。

がおそらく蝋か粘土で制作したモデルに基づき、公爵夫妻に献上する目的で彫刻家の生前に鋳 造されたものとみられている202。すなわち、これにより公爵夫妻による《ネプトゥヌスの噴水》

の委嘱はバンディネッリに確約されたものと考えられるのである203。一方ローマの小像は、バ ンディネッリが生前に制作していた同様の蝋ないし粘土モデルを、当時これを所有していたヤ コポ・サルヴィアーティの意向でバッティスタ・ロレンツィとドメニコ・ポッジーニによって

1573

年にブロンズ像として鋳造されたものとみなされている(fig. IV.3.5)204。したがって両者 の鋳造時期は異なるものの、いずれもバンディネッリのモデルに基づくものと考えられ、筋肉 が隆起するその体躯には溢れんばかりのエネルギーと堂々たる威厳がみなぎっている一方、全 身は優美な

S

字曲線を描き、観る者の視線をひきつける。頭部は左方へ向けたこの彫像は、シ ニョリーア広場において噴水と同じ並びに配されていたミケランジェロの《ダヴィデ》に由来 する造形であることは疑いなく、バンディネッリ自身がこれに先駆けてやはり同じ並びに制作 した《ヘラクレスとカクス》と併せ、一様に左を向くコントラポストの彫像として構想された。

  こうした状況が示すように、バンディネッリは

1551

年頃より《ネプトゥヌスの噴水》の計画 を進めていたが、それは正式な委嘱ではなかったようである。上述の

1558

4

月の書簡におい てバンディネッリはカッラーラで採石されていた巨大な大理石をフィレンツェへ輸送するため の許可を公国の秘書官に求めているが、直後にこれが実際に運搬された際、チェッリーニは輸 送中の大理石を見に行き、採寸をも行った205。そしてフィレンツェへ戻ると、「適切と思われる モデル数種」を制作し、当時フィレンツェ近郊のポッジョ・ア・アカイアーノの別邸に滞在し ていた公爵夫妻にこれを見せに訪れているのである206。このときチェッリーニは公爵夫妻に次 のような嘆願を行った207

かりに両殿下が同意されて、われわれ各々にネプトゥヌスのモデルを造らせていただけ るなら、たとえお二人がバンディネッロの方を選ばれたとしても、彼はおのれの面子に かけても、競争者の手前、よりよい仕事をするでありましょう。〔中略〕殿下、お願いで ございます。志のある者にモデルを造らせてくださいませ。そして全員の作品を学院に 送り、殿下は専門家の見解をお聞きになり、参考にされたうえでご自身の判断を下され、

最優秀のものを選ばれたらいかがでしょう。この方法によりますと、殿下は金貨を無駄 に投げ捨てられることも無く、現在世界で唯一無比の学院の精神を裏切るおそれもあり ませんでしょう。それどころか、殿下のご光栄をさらに輝かしめることでしょう。

  すなわちチェッリーニは、《ネプトゥヌスの噴水》の制作権をめぐり、複数の彫刻家がそれぞ

202 Exh.cat. Berlin 1995, cat. 79, pp. 127-128.

203 ただし、本ブロンズ像はメディチ家の財産目録に登録されていない。Exh.cat. Firenze 2011, cat. 20, pp. 420-421.

204 Falsitta 2009, pp. 55-56; Exh.cat. Firenze 2011, cat. 21, pp. 422-423.

205 Cellini vita[邦訳:413頁]

206 Cellini vita[邦訳:413頁]

207 Cellini vita[邦訳:414-415頁]

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