第一節 イスラーム教育と帰属意識
「あなたはまた、タイにはいないのね。怖くないの?」。バンコクの大学院生に、深 南部に調査に行くことを伝えた時に言われた言葉である。深南部は、タイではない。バ ンコクの人々の間で、このような認識がごく普通に共有されている事実に驚くことがよ くある。タイ人の仏教徒にとって、ムスリムの存在自体が依然としてケーク(客人、外 から来た人)であるとみなされていることも珍しくはない。加えて、深南部のマレーム スリムは、他の地域のムスリムと異なって、融通が利かず、タイに反旗を翻し続ける、
いつまでも同化しないムスリムである、という認識も根強い。マレームスリムがタイに おいて周縁化され続けてきた原因でもある。
首都バンコクから約1000 キロ離れた場所に位置する深南部の場合は、物理的な距離 からくる管理・統制の困難さという点も加味する必要があろう。ナラティワートからは、
バンコクに行くよりもマレーシアに行く方が容易である。加えて、ナラティワート県ル ソ郡は第四章で検討したように、パタニ民族解放戦線(BRN)の勢力が強かった地域で もあり、現在でも政府からレッドゾーン指定を受けている。BRNは、1960年3月にハ ジアブドゥル・カリム・ビン・ハッサン(Haji Abdul Karim bin Hassan)、ハジハルン・
スロン(Haji Harun Sulong)らによって結成され、1981年に解散された後、1980年代、
BRNコングレス派、BRN ウラマー派と BRN コーディネート派に分かれている。BRN コーディネート派は、その中でも最も影響力があるとされる。毛沢東やチェ・ゲバラな ど冷戦期の社会主義陣営の思想から影響を受けており、革命的な理念を掲げている。と くに、毛沢東の「持久戦」の概念は、BRN のみならず、深南部における反政府運動の 中心的な戦略として残っているといえる。217興味深いことに、パッターニー県のサイブ リで結成され、パタニ王国時代の旧支配者階級から構成されていたPULOは、エリート による支配を是としており、理念の面ではエリートを否定するBRNとは対照的である。
しかし現在、タイ政府側に賛同している・同化している、分離独立派組織側に賛同し ている・同化していない、という問題ではなくなりつつある。政府側も、分離独立派側 も、今となっては「人々」を取り込むことに必死である。どちらも「人々」のためにと いう言葉を掲げながらも、どちらにも欠けているのがその「人々」である。曲がりなり にも民主主義が進展した今、たとえ軍事政権であっても、人々からの支持を欠かすこと はできない。深南部における現地調査から見えてきたものとは、政治の世界に翻弄され ながら、プラグマティックに動く人々の姿であった。深南部に関わる数々の研究やレポ
217 Sascha Helbardt, Deciphering Southern Thailand’s Violence: Organization and Insurgent Practices of BRN-Coordinate (Singapore: ISEAS Publishing, 2015), 30.
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ートに見られるように、マレームスリムのマジョリティが独立を望んでいるといった言 説や、反対にタイに属していることタイ人であることに満足しているといった言説は、
一面では真実を表している。自らの人生をつつましく生きる人々は、分離独立派の掲げ る理想でもなく、政府の掲げる理想でもない、現実を生きている。
ルソの人々は、その高いイスラーム教育で知られ、深南部でもとくにマレー・ナショ ナリズムの意識と、エリートによる支配構造を否定する思想が強いとされる。本章では、
ルソにおけるイスラーム教育を事例に、タイの近代化/国家統合とマレームスリム社会 との関係を、イスラーム教育と帰属意識、サーイ・マイとサーイ・カオ、2 つの母語、
イスラームを学ぶということ、紛争が教育に及ぼした影響という、5つのテーマ毎に再 構成しながら描く。
2004 年以降、政府と非政府組織との両者の狭間で犠牲となってきた人々に共通する ことは、暴力を用いる主体に対する恐怖、疑念と被害者意識である。紛争が激化した後、
反政府組織側によるとみられる教育関係者、町長、村長など一般市民に対する攻撃が増 加した。同様に、政府側による市民の超法規的な拘束、拷問も増加した。政治的主張を 伴った暴力である事もあるが、宗教や政治的主張とは関係なく権力をめぐる個人的な欲 や私怨に基づく場合も同様に多かった。家族の命を奪った武装組織への恨みから政府の 治安部隊の一員となった人もいれば、タイ政府に対する憎しみから反政府武装組織への 加入を決めた者もいる。しかし、自分自身の命、家族、そしてコミュニティの秩序を守 らなくてはならないという意識から、多くの人々が選んだ道は沈黙することであった。
この集団的な被害者意識をもつ人々は、地域でいうと圧倒的に農村部に集中している。
期せずして、伝統的な教育機関で教育を受ける人々と、暴力の被害を受ける人々が重な る状況となった。反対に、高等教育を受けた(都市)中間層を中心とするイスラーム改 革派は、他のイスラーム諸国においてイスラーム改革派がテロを起こす主体となってい るのとは対照的に、タイの深南部ではこうした暴力からもっとも遠い存在となっている。
可能性としてはサーイ・マイ(イスラーム改革派)のジハーディストが存在し得るとし ても、現時点においていわゆる「ジハード」主義的な思想に共鳴しうるのは、サーイ・
カオ(伝統派)と呼ばれる人々である(図2・3)。また、暴力を正当化する際にイスラ ーム的な言葉が用いられていたとしても、イスラームの知識に基づく主義であるとは言 い難い。先行研究でも明らかにされているように、たとえイスラームやジハード主義的 な言説によって正当化されていたとしても、深南部において生じている暴力は当該地域 に限定されたものであり、グローバルなジハード主義とは異なっている。218
218 2016年8月、タイ南部において一連の爆破事件が生じており、分離独立派組織の一つで
あるBRNの犯行によることがほぼ明らかとなっている。これまで、BRNを始めとする分離 独立派や反政府組織は、深南部地域に限定した活動を行ってきた。正統性の根拠は、パタ ニ・ダルサラームの故地である深南部における闘争という正確に由来する部分が大きかっ たものの、状況が変わりつつあることを内外に知らしめることとなった。今回の爆破事件 については、政府側及び、政府側と交渉を進めるMARA Pataniに対して賛同しないという
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図2 アイデンティティのスペクトル
出典:筆者作成
図3 教育機関との関係
出典:筆者作成
意思表明であるとされているが真相は曖昧なままである。反政府組織内部で和平交渉に対 する温度差があることは事実であり、それに伴うBRN内部の組織改革が進められていると みられており、今後の動向を注視する必要がある。
サーイ・マイ(イスラーム改革派)
サーイ・カオ(伝統派ほか)
マレー民族主義 パタニ性
イ ス ラ ーム 性
「ジハード」主義的思想への追随者
サーイ・マイ(イスラーム改革派)
サーイ・カオ(伝統派ほか)
マレー民族主義 パタニ性
イ ス ラ ーム 性
高等教育機関
伝統的教育機関 農村地帯
都市部
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本章では、とくに断りの無い限り調査地であるナラティワート県ルソ郡内の公立学校、
私立学校、私立イスラーム学校、ポーノ、タディカで実施されたインタビューのデータ に基づいている。タイの教育政策が実際に深南部でどのように展開されているのかを知 ることは、タイの国民教育の理念がどのように、又、どの程度実現されているのかを知 ることでもある。政策決定過程において、教育改革、教育の質の向上を目指して行われ たものであったとしても、実際の現場でその思惑通りに改革が進む訳ではないというこ とは容易に想像できることである。教育現場の状況は、政府によって作成された理念型 としての教育政策とは全く異なるものである。これは、深南部に限った問題ではないも のの、イスラーム教育という観点から見る際、事態はより複雑である。
第二節 サーイ・マイとサーイ・カオ
深南部におけるイスラーム社会を考えるにあたって、タイ政府からの抑圧という視点 だけでは理解することが困難な点が多くある。第二章でも言及したように、サーイ・マ イ(改革派)とサーイ・カオ(伝統派)の対立という観点を強調することだけでは誤解 を生じさせる。サーイ・マイが必ずしも、伝統的な文化や慣習を否定している訳でもな く、サーイ・カオが伝統に固執している訳でもない。人々にとって、「イスラーム」や
「マレー」の意味するものは、少しずつ違っている。
同じ家族の中であっても、家族のイスラームに対する価値観は大きく異なっている。
ラロ町のある村では、ポーノで学びかつて私立イスラーム学校で教えていた両親はサー イ・カオ、3人の子供のうち、長男はチュラロンコーン大学を卒業してバンコクで働い ており、長女はソンクラーナカリン大学パッターニー校を卒業してルソに住んでおり、
次男がソンクラーナカリン大学パッターニー校を卒業してパッターニーで働いている。
バンコクとルソにいる兄妹は、サーイ・マイから距離を取っているが、ファートニー大 学で働いている弟はサーイ・マイとなった。
象徴的な事例としては、父親がパタニ独立のために戦ったPULOの幹部であった家族 である。6人の子供のうち4人がサーイ・マイとなった。いずれも、ファートニー大学 を修了している。サーイ・マイは若い世代に多く、教育と深い関わりがある。その村で は、同一箇所に隣接して2つのモスクが建設されており、一つがサーイ・カオ、もう一 つがサーイ・マイのモスクとなっている。父親は前者で、子供らは後者で礼拝を行って いる。イスラーム初等教育機関であるタディカも最近2 つに分かれた。「親の世代やサ ーイ・カオの人たちは、ワッハーブ主義が何かも理解しないで批判だけします。彼らの 考え方は、現代に合っていないし、とても古い(Kao Mak)と感じます」。219
深南部研究者の間では、村落レベルではサーイ・マイの影響はかなり限定されている、
もしくは無いという認識が共有されている。しかし、調査で明らかとなったようにサー
219 K氏インタビュー、26歳男性(ヤラー県ラーマン郡タロハロ町、2016年2月14日)。