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第5章 労働者に対する損害賠償等請求事案

第3節 まとめ

(1)本章で検討の対象とした、使用者から労働者に対する損害賠償等請求事案のあっせん 件数は19件(実質件数16件)であり、件数それ自体としては、他の申請内容(紛争類型)

と比べても、少数の部類に属するものと言える。しかし、賠償に関する事案は、労働関係法 規において何らかの具体的な規定が存在するわけではなく、もっぱら民法上の規定に基づい て処理が図られるしかないのが現状である。この点、労働者の立場からすれば、労働関係法 規に具体的な規定が存在するものに関する紛争については、司法機関あるいは行政取締機関 を通じた解決を志向する余地が高いと言えるのに対し、こうした労働関係法規における具体 的規定が存在しない、賠償に関する紛争については、司法機関あるいは行政取締機関に労働 者が訴え出る契機をつかみにくい側面があるともいえる12。その意味において、労働局によ る個別労働関係紛争処理制度のような、行政機関の仲立ちによる紛争解決は、一定の機能を 果たしうるものではないかと考えられる。

(2)使用者から労働者に対して損害賠償請求が行われる事案の、実際の内容について見る と、紛争事例のうち、もっとも多いケースは、労働者が就業中に車両事故(交通事故)を発 生させ、それによって生じた修理代等について、使用者が労働者に対して損害賠償請求を行 う事案である。こうした事案は、裁判例における、使用者から労働者に対する損害賠償請求 においても数の上で大きな比重を占めており、これと併せて現実に発生している損害賠償請 求事案の中で大きな比重を占めていると考えるのが妥当であろう。

こうした車両事故・交通事故のような事案では、多くの割合を占めるのはトラック運転手 が当事者となっているケースであるが、その中で、その実際上の当否はともかくとして、労 働者側が、事故の原因が過重労働にある旨を主張しているケースがまま存在する。この点、

トラック運転手における車両事故・交通事故が生じた際の修理費用の取扱について、一定の ルールづくりが行われることが望ましい一方、根本的にはこうした事故そのものの発生件数 を減らしていくことが望ましく、この中で、労働者側の主張にあるような労働条件(長時間 労働・過重労働)に関する問題が背景に存在するとすれば、こうした問題の解決を図ること も同時に必要とされるというべきであろう。

また、こうした車両事故・交通事故のような事例については、労働者がその事故の発生自 体について、一定の責任があることを自覚していることの結果として、以下のような状況が 発生していることが推測できる。すなわち、一方では、こうした車両事故・交通事故によっ て使用者側に生じた損害について、賃金からの控除による支払が使用者によって一方的に行 われ、あるいは労働者の同意の下で行われているとみられるケースがまま存在するというこ とである。これは、事故発生時において、労働者が一定の責任を自覚していることから、使 用者によって費用の請求を求められた場合に、その場でこれに抗することが心理的に難しい 面があることが影響していると推測される。しかし、この点については、賃金からの控除は、

労働基準法が定める賃金全額払の原則によって原則的に禁止をされているところであり、こ

12 むろん、賃金全額払い原則、すなわち本章に即して言えば賠償額の賃金からの一方的控除を禁止する労働基準 法24条の存在について、使用者・労働者の双方に対して充分な周知を図るべきことは言うまでもない。

の点の周知が使用者・労働者の双方に対して図られなければならないであろう。さらに、合 意による相殺についても、労働者の自由な意思に基づくことが必要であるところ、現実には 上記のような心理状況を加味した場合に、労働者が真に自由な意思で同意をしたかどうかに ついては、常に紛争の要因となりうると言えよう。他方で、個別労働関係紛争処理制度が、

本質的にあっせん委員の調整により当事者の合意形成を促すという性格を有していることか ら、車両事故・交通事故のような、労働者自身にも一定の責任に対する自覚がある一方、そ の責任をすべて労働者に負担させるということについては使用者側も一定の躊躇が見られる ようであり、そのことから、本制度を通じた解決がそれなりの割合に上っている側面もうか がえるところである。

(3)使用者から労働者に対する損害賠償請求については、(2)で述べた車両事故・交通事 故のような事案のほかにも、労働者の非違行為、勤務懈怠等によって生じたとされる損害に ついて、これを賠償するように使用者が求める事案も存在する。むろん、これらの中には横 領、背任に類するような明白な非違行為を主張するケースも存在するものの、こうした事例 の多くは、必ずしも使用者の主張する損害の事実、あるいは当該損害にかかる労働者の帰責 性が明白ではないケースとなっている。

このようなケースは、当該労働者の勤務態度その他を使用者が問題視し、一種の制裁・懲 罰的な効果を企図して、損害賠償の請求という形式をとっているケースが少なくないように 思われる。(2)で述べた、車両事故・交通事故のような、事案についても、1回の事故では なく、複数回の事故が生じていることを使用者の側が問題視し、あるいは請求の正当性を裏 付けるものとして主張しているケースがまま見られることからも、こうした使用者による労 働者に対する損害賠償の請求は、単なる損害の填補というだけではなく、ある種の制裁的な 意図をもってなされている側面があるという評価も可能であろう。

(4)(2)(3)で述べた、使用者による労働者に対する直接的な損害賠償請求のほかに、

これに類する事案として、在職中に業務に関連して労働者が取得した資格・免許、技能養成 等の費用について、当該労働者が退職した際に、会社からの返還を請求されるという事案も ある。こうしたケースは、すでに裁判例においては、研修費用等の返還請求の事例を中心に、

一定数の事案の蓄積がなされている一方、本章で検討の対象としたあっせん事例においては、

わずかに1件見られるのみである。しかし、業務の遂行にあたって必要とされる資格・免許 及び技能習得に要する費用を使用者側が負担する場合、当該費用の回収という観点から、労 働者に対して一定の歯止めをかけるための方策をとることは一般的に予想されることであり、

賠償に関する事案ではないものの、鉄道会社の車掌業務を請け負っている被申請人に雇用さ れ、業務発注元である鉄道会社で車掌業務に従事していた労働者が、被申請人に対して退職 を申し出たのに対し、被申請人使用者が、車掌の養成に 10.5 か月~12 カ月かかるという性

格上、退職期間を6月及び12月に限定し、退職は1年前に申し出ることを就業規則に規定し ている旨を主張したケースが存在している(30089)。このように、資格・免許及び技能習得 にかかる費用の回収をめぐる紛争それ自体は、賠償に関する事案以外においても見られると ころである。今後、こうした、とりわけ職務遂行に極めて関連性の高い、資格・免許及び技 能習得にかかる費用負担についても、新たな紛争の類型として、賠償に関する事案の一つの 類型として増加していくことになるのか、その動向に注目しておく必要があると思われる。