ることも考えられる。
海南島南端の三亜鳳凰空港の南西海上、 危険 空域 ZG (D) 157の西側海上、 かつ制限空域 ZG (R) 153の南西海上で、 高度4,000メートル以上 には、 広大な 「三亜燃料投棄空域」 (SANYA FUEL DUMPING AREA) が 設 定 さ れ て い る注18。 たとえば燃料等を満載にして最大離陸 重量で離陸した直後の大型航空機が何らかのト ラブルに見舞われ直ちに緊急着陸を要するよう な場合、 そのままでは最大着陸重量を超えてい るので、 脚が折損するなど安全に着陸できない おそれがある。 そうした場合には、 ただちに搭 載燃料を投棄して重量を軽くする必要がある。
燃料投棄空域とは、 そのために燃料を空中で投 棄する空域である。 大型機が発着することの多 い大きな空港周辺に設定されていることは必ず しも不自然ではない。 ただしわが国にはこのよ うにあらかじめ特定された燃料投棄空域は設定 されていない。 必要に応じて、 乗員の判断と管 制当局の指示によりしかるべき空域 (多くは海 上) で燃料を投棄する。 それに比べて中国の燃 料投棄空域は非常に多く、 エンルートチャート に図示されているだけで21ヶ所もある。 いずれ も近傍に大きな空港や飛行制限空域が存在する。
燃料投棄空域をあらかじめ設定する理由、 ある いは設定しない理由いずれも明確でないが、 少 なくとも空域の創設、 統制、 運用を中国が積極 的に行っている表れの一つである。 また同様に 少なくともエンルートチャートに図示されてい る飛行制限空域や危険空域は非常に多く、 航空 路の両側にほぼまんべんなくこうした空域が設 定されている。 制限空域の中を細々とした航空 路が通っているといっても過言ではない。 この ように航空路両側に飛行制限空域が設定されて いると、 天候等の都合により航空路を逸脱して 飛行せざるを得ない場合 (もちろん管制承認を 得た上であるが)、 非常に対応しにくいことに なる。 ちなみにわが国にも多くの民間用と自衛 隊用の訓練空域、 試験空域が設定されているが、
その多くは海上や、 あるいは航空路の片側側方 のみである。 またわが国では自衛隊機に対して、
民間航空機と錯綜することを回避するために回 廊 (コリドー) を設けている。 航空管制にたい する概念や歴史的経緯の違いかもしれないが、
中国の空域設定はいささか特異的であると言え よう。
1949年11月、 中央軍事委員会の一部門として 中国民用航空局が発足し、 1952年5月に空軍に 編制された。 1954年11月には国務院に直属する こととなったが、 中国の民間航空はまだ発展し ておらず、 管制業務は軍によって実施されてい た。 民用航空局が1955年から航空管制を統一的 に管理するようになり注19、 1958年2月に交通 部へ移管されたが、 同年4月、 国務院は 「民航 工作の高度な技術性と、 国防建設との密接な関 係」 により、 民間航空の全ての業務は主として 空軍によって指導されると決定した注20。 1962 年4月、 民用航空局は民用航空総局として再び 交通部から国務院直属機構となったが、 軍によ る指導体制は変わらなかったと思われる。 文化 大革命中、 民間航空は軍に接収され、 1969年11 月に民用航空局は再び空軍に編制された。 改革 開放政策が始まると、 1980年3月、 また国務院 直属となり、 同年6月には中国民用航空局と改 称された。 1985年から1987年にかけての一連の 体制改革により、 航空交通管制業務体制が整え られた注21。 だがこの頃の管制設備の近代化に はなお空軍が関与していた。 1993年4月、 民用 航空局は民用航空総局に改称され、 12月にはそ れまでの国務院の副部級から正部級へ昇格した。
こうした経緯を概観すると、 それまで軍によっ て行われてきた民間航空の管制は、 1980年代半 ば以降独立した組織体制へ移行しはじめたよう に見えるが、 事実上なお軍と密接な関連がある こともたしかである。
改めて指摘するまでもなく、 航空交通の安全 で効率的な運用のために空域を監視し、 その情 報を集積・配布し、 空域を統制することは、 同 時に防空と航空優勢の確保という軍事的必要性 にも不可欠である。 すなわち空を管理すること は国家安全保障の重要な一要素である。 中国の
交通行政のうち陸運と水運とは交通部が管轄し ているのに対し、 航空は国務院直属の民用航空 総局が管轄していたことにその特殊性を見出す ことができる。
なお、 2008年3月の機構改革によって、 民用 航空総局は新たに設置された交通運輸部に編入 され、 その一部門となった。 このことで、 民間 航空交通行政の改革改善が進むのか、 あるいは 引き続き軍の影響力が及ぶのかを即断すること はまだできない。 中国が国家として航空交通行 政を重要視し、 統一的な交通行政の一環として 位置づけてさらに改善を重ねることは間違いな いと思われるが、 中国の現行政治体制が存続す る以上、 民間航空交通に対する軍の影響は引き 続き強いものがあると推測される。
注
1 本節の記述は、 主として 「修改的南中国海航路 区域導航要求」、 前掲 中国航行資料彙編 (AIP CHINA)、 ENR 3.1-2等の該当箇所に基づく。
2 その後2007年8月15日付けの AIP CHINA から、
P901 航空路は廃止された。
3 前掲 中国航行資料彙編 (AIP CHINA)、
ENR3.3-7。
4 NOTAM A0869/04, Summary NOTAM Series A, People's Republic of China, July 4, 2006, p.1.
5 「 10 . 福 岡 FIR に お け る RVSM 」 、 AIP JAPAN Vol.1 、 ENR3.6-24。
6 前掲 中国航行資料彙編 (AIP CHINA)、
ENR3.3-7。
7 「我国首次縮小空中飛行垂直間隔至300米」、 新 華網 2002年11月1日、 人民網 。
8 NOTAM A0585/04, Summary NOTAM Series A, People's Republic of China, July 4, 2006, p.1.
9 前 掲 航 行 資 料 彙 編 (AIP CHINA) AIC Nr.01/04, January 15, 2004, p.2.
10 一般に洋上航空路において、 航空機の安全間隔 を確保するために一定の位置通報点が設けられて おり、 パイロットはその地点において通過時刻や 高度、 気象状況と次の位置通報点通過予定時刻等 を管制機関に通報しなければならない。 なお、 前
述の通り、 この P901 航空路は2007年8月15日付 けで廃止され、 同時に危険空域 ZG (D) 158の位 置も変更された。
11 ただし三亜 AOR が設定された2001年当時は、
これら2本の航空路ともにこの2つの危険空域を 何ら憂慮せず飛行できる時間は、 1日のうちわず か 5 時 間 し か な か っ た 。 と り わ け 23 : 00 か ら 0:30 (国際協定時) の間はこれら2本の航空路 ともに事実上閉鎖されたことになってしまった。
それと比較すると、 規制は若干緩和されたと言え る。
12 わが国では、 航空法第80条に規定される 「飛行 の禁止区域」 と、 航空路誌 (前出) 等によって 公示される 「飛行規制空域」 がある。
13 飛行禁止空域 (ZB (P) 001、 ZY (P) 601) は、
エンルートチャート上に記載されているものの、
その裏面の制限空域一覧にも、 中国航行資料彙 編 の 「ENR 5. 航行警告」 の項にもなぜか記載 がない。
14 中国と ICAO の基準との違いとしてこのように 告示されている。 前掲 航行資料彙編 (AIP CHINA) GEN 1.7-2。
15 「ENR 5. 航行警告」、 前掲 航行資料彙編 (AIP CHINA) ENR 5.1-1。
16 中国の 「全ての空域は管制空域であり、 このた め 管制空域を離脱する とか 航空交通管制承 認の必要な空域を離脱する といったことは存在 しない」。 また中国の空域は 「管制空域と非管制 空域に分かれていない」。 前掲 中国航行資料彙 編 、 (AIP CHINA) GEN 1.7-1。
17 前掲 航行資料彙編 (AIP CHINA)、 ENR 5.
1.2-8。
18 かつて筆者は、 この空域と、 近傍の細長い飛行 制限空域の存在から、 ここで中国が配備し始めた 空中給油機の実験や訓練が行われ、 それが米中軍 用機衝突事件の一因であったかもしれないと推論 したことがある。 註3参照。
19 《当代中国》叢書編輯部 当代中国的民航事業 、 中国社会科学出版社、 北京、 1989年、 274頁。
20 姚峻主編 中国航空史 、 大象出版社、 鄭州、
1998年、 334頁。
21 同上、 497頁。 ただし設立の正確な年月日は不 明。
法政大学航空研究部の教官だった熊川良太郎 (29歳) は、 わずか105馬力エンジン搭載の純国 産複葉軽飛行機・石川島式 R-3 型を、 「青年日 本号」 (第10義勇号、 登録番号 J-BEPB) と命 名して訪欧飛行に挑戦、 法政大学2年の栗村盛 孝 (20歳) とともに、 無謀とも思えるシベリア 大陸横断飛行にいどんだ。 誕生したばかりの日 本学生航空連盟主催によるものである。
昭和6年5月29日、 まだ開港前の羽田飛行場 を離陸、 エンジン故障による2度の不時着をふ くめた着陸は30回、 モスクワを目前にしたエン ジン故障による不時着では、 ロンドンから交換 エンジンを輸送するなど、 幾多の難局に直面し ながら、 総飛行距離13,671キロの飛行を完成さ せた。 巡航時速は約120キロ、 飛行高度1,000m 前後、 最終目的地ローマへ到着するまで95日間 を要している。 この大飛行の成功で、 熊川良太 郎の名前は、 一躍、 全国に知れわたった。
これは世界に誇る輝かしい記録であり、 大衆 の心を空へ向けさせる効果は絶大なものがあっ た。 といっても、 まだまだ市民権を得たとはい
えない飛行機、 そして、 第一次大戦後の大正か ら昭和初期の民間パイロットたちは、 山男どこ ろではない。 「命知らず」 とか 「道楽息子」 の 烙印を押されながら、 鳥のように空中を自在に 飛びたいという夢にむかって、 精一杯、 わが道 をすすんだ。 その多くが青春を燃焼し、 早世して いったが、 ここでは 「青年日本号」 の成功で名 をはせた熊川良太郎の生き様を追いながら、 当 時の民間パイロット事情の一端を探ってみたい。
熊川良太郎は、 明治35年 (1902年) 1月29日、
群馬県吾
あ
妻
ずま
郡嬬
つま
恋
こい
村に農家の長男として生まれ た。 彼が中学生になったころの欧米各国では、
第一次大戦後のあり余る飛行機とパイロットに よって、 航空会社が続々と設立されており、 米 国では、 バーンストーマー (曲技飛行士) が、
カウボーイにかわる時代のヒーローとして、 も てはやされていた。
大正5年には、 アメリカのアート・スミスと、
まだ19歳のキャサリン・スチンソン嬢が相次い で来日、 各地での曲技飛行が新聞を賑わしてい
連 載
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その の2255.. 熊 熊川 川良 良太 太郎 郎と と昭 昭和 和初 初期 期 の
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石川島式 R-3 型 「青年日本号」 羽田飛行場出発時の熊川良太郎 (後席) と栗村盛孝