Ⅱの
円ネ 0 いト一ハドのⅠ 目
し認し
S
曲のの 日
と Me ね phy 舖 k
立 不可能であらう︒ 又
主体的地盤たる我々㎝
に 止まらず︑同時に
存 的であると同時に
論 的解決を示唆し先
ので目オ 宙 0 口口・ パコ の
︒︵高坂 正 顕著﹁ カソ
の 問題の認識論的解
悟性概念としての 範
ものの可能を問ふこ
撫 づげられるのである︒
︑ 必ずしもそれ自体
び 形而上学を学一般
を 解明せんとする︒
︑主体的な経験の事
する学の認識論的基
備 工作として︑それ
カソト における Kritik と Metaphy ㎡ k るために︑ まづ学 制約が求められてゐ の事実を前提としっ
認識︑即ち形而上学 な 学の道を歩める数 り ︑これとの並行的 経験の事実を前提 し を 踏んで﹁ 学 として 理性批判なる一大 シ
どのべた如く形而上 学 たらしめえた︑ そ
的 方法とも 云ふ べ き ﹂ そ︑ 彼のいはゆる 批 判 的方法を形作るのである︒そしてこの両面︑ ︑学的万法の導入に ための前提をなす Ⅰ 目黛ダ 0 隼の ロ ・Ⅹ パコ の 故に外ならないのであらう︒
四
55 (171)
それほ形而上学に対 る 相貌を呈するのでほ あふ ま いか ︒
暫 らく差し控へ︑ 面上半といふような ふ 問を提出すること メナ L 冒頭の言葉はこ ︑ 巧まずして物語っ 面上羊一般の可能 不 ォの 意味であった︒ ものとみなし﹂ ︑まづ も去 ふ べ き 特殊の運 誠 において理性は自 は 理性の二律背反に 却 せんとしてすべて てゐる︒﹁::私の 初めて独断の微睡 か の 如き観を呈する 障 ︶形而上学の歴史は れは果しなぎ闘争の戦場であり︑長き迷ひの道 であった︒かっての 方
(172)@ 56
した理性の二律背反 妄 くのⅡ ヴ ︒Ⅰ的の臣の H
﹁﹁Ⅰ
宙・
出発点に立つむ カン を 歩める学をかへり み︑人間の理性能力 学の可能を問 ふ蒔︑
移して︑人間自然の
問題として深く主体 く 0 目リ 二の﹁ し ﹁︵リア㍉目口ぬ 性 批判であるが︑それの前提としてま づ 経験 口 ㍉︵の ァ
﹁ 目品そ
ハツ
もか り
る ﹂ し・
デ からであ
ある︒ る ︒経験的認識こそ ph
五 げ お 疑 ひもなく我々の悟性が 識を与ふるものは経験で
57 (173)
の 我々に示すところ
い ふことではない︒
︑しかも無尽蔵の源
であって ︑ 必ずしも
釆かュる 普遍性を欠
理性の求めてやまぬ
提供しないならば︑
られんがためには︑
ない︒超越的なもの
ればならない︒果し
ぎ な い のでほたから あらうか︒
経験を多様なる 個
別 的経験の如何なるものをも可能ならしめる
全地平を開く如き
0 としてこれを把握
験的 認識と目される 語るならば ヵソト の
のは種々なる白飲︑
(174)@ 58
カソト における Kritik と M8taphysik
に 批判は経験の事実
認識される限りの 自
様 性︑個別性の次元
った 抽象的次元では あり︑しかもこのこ
う に多様な経験や種 ﹂で経験一般の可能
れられるのであり︑
ュる 一つの経験色目 の
ものはあくまで日常 しからばか上る一 つ
のであるか︑そして
であるか︒
主張する如く因果 すれば 1 1自然科学 る 経験論的主張には
もう ︒数学は ギリ てぬ るのである︒
能 ならしめる地盤
59
であるはずの経験もま
ても l 1ふくまねばな
る 経験︑理性に対し 権
@@ を 究明し検証せん
ると 云 へよう︒
経験は単に偶然的な
とは 云ふ までもなく 直
感性論及び分析論は ︑
念に 媒介する純粋直観
い ふこと 0 二つには︑
ればならぬ︒対象の所
えないといふこと︒﹁
はれるのが︑このこと
原理とする普遍的必然
つュ ︑感覚の多様を統
時に︑直観の協同なく
いふ ︑人間認識の限界
さてこのように感性
は ︑経験が広く認識 一
割を果し︑従って経験一般を可能ならしめると
偶然性を免れしめ︑むしろ先天的綜合判断を
の 可能根拠を見出した︒しかしこのことは 同
如何なる認識も客観的実在性を持ちえないと
をも示したことを意味する︒
(179)@ GO
即ち形而上的認識の
を 明らかにすること
げてもその横網 論に
の 多様の綜合統一の
んとなればこしに
一の必然的制約﹂の
経験的使用ならぬ 超
る 所以が明かにせ
認識を越へ七道徳的
の事実を前提とすると を 前提とし学の事実
事実を前提とするとい
学の事実をば単に客観的
しっ L 主体的立場 1@ た
工学の中に導入せんとす
6 Ⅰ (177)
してそれの可能根拠
にする︒﹁幾何学者
﹂れまでの万法を変改
たのは主として第一
識の源泉と限界とを ﹁純粋理性批判 L が ︑ は ︑ 相 表裏するこれ
的 認識成否の鍵をな された先天的綜合判 い 0 カソト も 云ふ ︒ ㏄と︒禅杖つて 云 ふこ
その形式的原理を間 んとするものが形而 工学三の︵ 笘 チセの目に外ならないと︒ 11九五五・六・十五 ||
妄 不良学芸大学助教授︶
(178) 62
福音書における 伝達の問題
ほ 参与宮田︵・︵の 戸 すし 実存への参与の招き るような教理の授受 る 事が出来るような である︒新約聖書も
伝達史書なのである︒
く ︒福音書に限 っ 式 が一見何の統一 も もなく︑ たビ 時と処 何か首尾一貫したり
いられねばならな
川端 純 四郎
63 (179)
な 伝達の様式がキリ
達は 必然的にこの ょ
う な伝達の諸様式を生み出すのであろうか︒
としているところ
出来ない 人 ぎなひら
に
耐えないのであ
験の内証というもの宗教的境地や宗教的
﹂で経験せられる対象
域が ︑日常普通の経
言説や論理をもって
である︒・﹂︵石津教授
中にほ︑あきらかに そこからあの多様な
ト教 的実存の究極の
伝達論を福音書記者
の 立場からの解釈な
盾 関係が実際に存し
しろ福音書記者があ
(1 ㏄ ) 64
は神が終末時にあ
も は︑このイェスが メシ
どこに存するのであろう
る オ 如く﹁十字架のこの救い : し 曲の Cre ず ﹁ ず 3 三口 ョ ・
在 にあてがって見れば︑
あるに体ならない︒十字
一 一
って︑伝達されん と
れてか ム る伝達様式
自覚していたと思わ
は ︑それ 程 明瞭な 自
の真の意味を伝達さ
者の本来の意図の方 我々の立場から道観 解 が日 標 なのである︒
もあるので︑特に
事 にしたい︒
65 ( Ⅰ 81)
架は 古 き 人にとっては 死 以外の何もの
固執せず︑ 己 れを放ちやる者にはそれ
去なるもの︑そして何よりも自己自身
がそこにおいて死ぬところのこの真の
り ︑この生命を受ける 事は 地上の死を
彼岸の生命であり︑過去的なるもの ュ
人間にとっては決して手もとに所持さ
ない﹂ 宙 on 甲ツ ⅠⅠ pn 吊ツ Ⅰ︶ものであ イハワ ︒Ⅰ 1 レか
を 断念したものとしてその古き自己は
﹁時の間﹂定考 ドの 0 二の目 隼 0 戸 い 0 品︒ 臣 ︶に
の 生である︒これは﹁古い物は過ぎ去
生であり︑この﹁時の間﹂の間一髪に
エ スのために絶えず死に渡されている
なのである︒彼は︑この世にありつ ュ
い ︒彼は世にありつ ふ も世に属さない
なものへの関与は﹁あたかもないもの
彼は自己自身から本末の自己自身へと
エ スのキリストた人 リ 事の生口 丸 で士の スリメル
未読的に実存せしめることにあると三二口 欲 とを十字架につげ ︑ 此の世に
げるもの︑世につけるもの︑ 過
する道である︒人間の自己願望
る ︒それほ死における生であ
棄 において与えられるところの
のである︒その限りこの生命は
のとして︑それは常に﹁いまだ
き 自己を放ちやり︑此岸の生
はやなく﹂﹁いまだない﹂無の
期待する生が︑十字架を負 う者
かの終末を常に己が身に負 う
イエスの死をその身に負い︑ イ
宙し %p の︵ 臼 こと呼ばれるもの
心せよせず︑世に支配されな
彼にとっては一切のこの世的
る ︵ コリソト前 セリ 十 九 | 三一︶︒
0 便信の中心は対象的には︑ ィ
間 をしてキリストにあって 終
え よ う ︒
( Ⅰ 82) 66
よ る伝達が我々の当面の のせるに足りるであろう
6 ア (1 ㏄ )
お げる伝達の問題
る
終 末
伝 達 を
も
つ て そ
の に や 、 ぃ の っ は し 在 は
と
ろ の キ
@ ス
よ の か か い 手
サま り い う 本 の
の
ケア 目 @
て り,そ さ 外 ら
ま 未 し
在従
,な
れへ 的終
あ 要 の の し 。常直
の に
常にある時代︑ある国において︑特定の世界︑ 自然︑人間理解の規定の下
る 事柄について︑ そ
本質において過去的
論 的実存は ︑かュる
真に終末論的なもの
において在るのであ
るのでほない︒歴史
に 述べうくす事の出 来ないのほ当然であろう︒それは真に将来的︑
︵ 0 一 0 ぬい の 臼じ ︑過去的︑
えないのである 0 し
には成立 屯ず ︑逆説
して︑常に新たに 歴
(184)@ 68
福音 吉 における伝達の 問題
に
左伝
を 含 ま 指で背
な ど 近 と来す
、 伝」
の は 一 3 倍 セ キ つ キ か
伝本
約 言を そ セ な ほ ッ リ て り に 達 質 さ 葉
」 」
に を 、 史 紀
ら て
ね い
後 る
者 も
は の
と
69 (1% )
あって︑文体様式と
口 ったように︑ 七 ⅠⅡ ノス
それ
ム
Ⅰ何かに ょ せこにおいて実現され
︑一切の歴史がその
アッピールとしての
口 ︑接話:論争︑十字
エ スが ︑或 いほ福音
論 的実存へと呼び出
ら 遊観しての伝達の段階なのである︒
察を加える事にしたい︒
1 ︑告知・宝寺一口
る ︒それは福音書
れを捨て ュ 我に従え
を 信ぜよ﹂二・一四︶
釆 なさい︒自分の
︵八・三四以下︶
いる事は決して 出
臼 ㏄ 70
来ない﹂︵ 一 0. 一五︶
︑一四・一八二等が
あげられるであろう︒
よさに︑聞く者の
たすらな招ぎであり︑ 又 約束である︒この﹁ め 旦茜 ︑告知﹂をもって
接 的伝達ではなく︑
ような驚きである︒
煩いが彼を支配して
彼にとって一つの 驚 ︑ 負 い 切れない過去
彼は日常の生活と 労
り 動かした︒それは
心 れよ う としても忘れ
もはやこのショックを 受 えたのである︒告知 は聞
ある︒
教えているにすぎない よ もない格言 風 の 智 恵が ︑
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