、 いく ら と 云数 を 知 らず
。
82
加 地 宏江
・ 中 原俊 章
『 中世 の 大 阪― 水 の 里 の 兵 た ち
―
(大 阪 文 庫 九
)』 第 四 章
、 松 籟 社
、 一 九八 四 年
83
前 掲 同論 文
65
と 大規 模 で あり
、 こ れに 対 処 する の で しっ か り と戦 え る 準 備を し て いる は ず であ る
。
「三 百 余騎
」 は 頼政 が 動 員で き る 最大 の 数 かそ れ に 近い も の と して 設 定 され た の では な い だろ う か。 ここ だ け 見る と か なり 小 規 模 のよ う に 見え る が
、物 語 後 半の 合 戦 場面 で
「 三百 余 騎
」と い う規 模 の 軍勢 が 何 回か 出 て くる
。 た とえ ば
、 巻第 七
「 篠 原合 戦
」 では 平 家 軍側 か ら 畠山 重 能・ 有 重 兄弟 が
「 三百 余 騎
」で 陣 の 先頭 に 立 ち、 源 氏 軍 から は 今 井四 郎 が
「三 百 余 騎」 で 立ち 向 か い勝 負 し た。 ま た
、巻 第 九
「生 ズ キ ノ沙 汰
」 で は頼 朝 が 派遣 し た 追討 軍 に 対抗 す るた め に 義仲 が 軍 を分 割 す る場 面 が ある が
折 ふ し 勢も な か りけ り
。 勢田 の 橋 は大 手 な れば と て
、 今井 四 郎 兼平
、 八 百余 騎 で さし つ か は す。 宇 治 橋へ は
、 仁科
・ 高 梨・ 山 田 の次 郎
、 五 百余 騎 で つか は す
。い も あ らひ へ は
、 伯父 の 志 太の 三 郎 先生 義 教
、三 百 余 騎で む か ひ けり
。
「 大手
」 は
『日 本 国 語大 辞 典
』に よ る と「 敵 を 正面 か ら 攻 撃す る 軍 隊」 の 意 味で あ る
。軍 勢 が少 な い 中で 重 要 な場 所 に 多く 軍 を 配置 す る のは 当 然 だ が、 義 教 の「 三 百 余騎
」 が 一番 少 ない
。 他 の場 面 に おい て も 小規 模 な 軍勢 で も 三百 騎 以 下 のも の は ほと ん ど 見ら れ な い。 した が っ て、
「 三 百余 騎
」 は ある 程 度 まと ま っ た軍 勢 で あり
、 多 くは な い が戦 う の に足 り ない ほ ど でも な い
、大 き な 合戦 で 一 応戦 え る 程度 の 規 模 とさ れ て いる よ う に見 え る
。戦 う のに 十 分 な武 力 で ある 表 現 で使 わ れ てい る こ とが わ か る
。頼 政 の 軍勢 が 百 余騎 や 数 十騎 で は平 家 に 謀叛 を 起 こす と い う展 開 に あた っ て は相 応 し く ない
。 し かし 先 に も述 べ た よう に 不遇 の 身 とし て 描 かれ て い るた め 数 千騎 と い うの も 誇 張 しす ぎ て 現実 味 が なく な る
。力 を 削が れ な がら も 大 規模 な 武 力衝 突 に も参 加 で きる 規 模 と して
「 三 百余 騎
」 は多 す ぎ ず少 な すぎ な い 数と し て 設定 さ れ たと 言 え よう
。 第
四項
時 刻
『平 家 物 語』 で は 頼政 が 三 井寺 に 向 かっ た 場 面で
同 十 六 日の 夜 に 入ッ て
、 源三 位 入 道頼 政
・ 嫡子 伊 豆 守 仲綱
・ 次 男源 大 夫 判官 兼 綱
・六 条 蔵 人 仲家
・其 子蔵 人 太 郎仲 光 以 下、 都 合 其勢 三 百 余 騎、 館 に 火を か け、 や き あげ て
、 三 井 寺 へこ そ 参 られ け れ
。 と
夜中 に 出 発し 同 時 に館 を 焼 いた と い う記 述 が ある
。 頼政 の 出 発と 館 の 焼亡 に つ い ては 以 下 のよ う に 記録 が 残 って い る
。
66
・
『親 経 卿 記』 二 十 二日 条
或 人 来 告云
、 今 暁源 三 位 入道
、 頼 政、 子 弟 僕従 令
□
□ 可従 軍 之 者、
□
□ 卅余 騎 参 園城 梁 囲 了 云々
、
未 時 頭 弁送 書 状 云、 今 夕 可有
行 幸、
( 中 略) 申 刻 頭 弁帰 参
、
(中 略
) 臨幸 之 間
、東 方
□ 火
、尋 問 之 処、 頼 政旧 宅 云 々、 近 衛
□
□自 発 軍 士令 焼 之 云々
、着 御之 後 此 方 有火
、 頼 政 侍 宅云 々
、
・
『山 槐 記
』二 十 二 日条
今 暁 源 三位 入 道 頼政
、 卒
、男 伊 豆 守仲 綱 以 下五 十 余 騎 向三 井 寺
、参 高 倉 宮云 々
、
( 中 略
) 未 剋 参 新院
、
( 中略
) 今 夕可 有 行 幸此 所 云 云、
( 中 略
) 戌 剋 自 大内 行 幸 八條 坊 門 櫛笥 二 品 亭云 々
、
(中 略
) 行 幸之 間 東 北方 有 火
、頼 政 入 道家 近 衛 南
、河 原 東
、云 々
、 暁逃 去
、 不令 為 見 其跡
、 自 令 指火 云 々
、
・
『明 月 記
』二 十 二 日条
今 朝 云 々説
、 頼 政卿[
入 道、 年 七 十七]
引 率 子姪 入 三 井寺 云 々
。今 夕 俄 行幸 八 条 亭
坊 門 匣
。 新 院 又 遷 御于 東 第
。北 方 有 火。 頼 政 卿、 家 放 火云 々
。 いず
れ も 頼政 が 三 井寺 に 向 かっ た の を早 朝 の こと と し て いる
。
『 山槐 記
』 では 頼 政 が火 を 放つ こ と を指 示 し たと あ る が、 火 事 が目 撃 さ れた 行 幸 の 時間 は
「 戌剋
」 で あり 頼 政 が三 井 寺へ 出 発 して か ら かな り 時 間が 空 い てい る た め、 時 間 を おい て わ ざわ ざ 館 を焼 か せ るの は 不自 然 で はな い だ ろう か
。 なぜ 頼 政 の家 が 時 間を 置 い て 焼か れ た のか は 分 から な い が、
『 平 家物 語
』 では 出 発 時に 焼 いた と 変 更さ れ た 理由 に つ いて 考 え たい
。 住ん で い た場 所 を 焼く と い う行 為 は
『平 家 物 語』 で は 頼 政の 他 に もい く つ かあ る
。
・ 巻第 三
「 行隆 之 沙 汰」 平家 は 大 江遠 成
( 藤原 基 房 の 侍) を 不 快に 思 っ てお り
、 鹿ケ 谷 陰 謀事 件 の 処分 の 一 環で 捕 縛す る こ とに し た
。遠 成 は 息子 の 家 成を 連 れ て逃 げ た が
、途 中 で 逃亡 を 諦 めた
。
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親 子 言 ひあ は せ ける は
、
「東 国 の 方へ 落 く だり
、 伊 豆 国の 流 人
、前 右 兵 衛佐 頼 朝 をた の ば や とは 思 へ 共、 そ