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司・怠・ーーー岩本博士訳︒︵岩本裕﹃併教聖典選・第六巻﹄読売新聞社︑昭
和田十九年︒二ニ二l
三頁
︶
︵9︶色井秀譲﹁印度浄土思想の一賢断面|往生本願の変移より考察したる|﹂︵﹃哲研﹄昭和十七年六月八月九月︶︒
︵川︶色井教授前掲論文参照︒なお︑上来問い来った誓願の語自体について二一目するなら︑無量寿経︵発本︶では阿弥陀経の意
味で誓願すべしと直接的に説︿処はない︒ただ︵極楽に生れたいと衆生が︶誓願するであろうならばという言い方はなされているが︑ぞれが正しく臨終来迎を述べる箇所なのである︒
︵日︶岩本博士前掲書一二九頁︵原典四三頁︶︒同博士は﹃橘女子大学研究年報・第一輯﹄︵昭和四十三年l︶に於ても﹁恩寵﹂と
.プヲ+〆訳して居られたが︑無量寿経におけるプラサlダという語は︑仏教学者の常識として︑唯一の例外︵王様が恩赦をという
場合︶を認めて他はすべて﹁澄浄﹂とか﹁浄信﹂と訳出され︑しかも︑インド思想一般の場合︵思恵・恩寵の意︶とは区別されるべきであるように云われている︒そういう語を︑岩本博士は﹁恩恵﹂と訳されたのである︒思うに︑プラサl
ダ︵
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みとおること︑邪念なきこと︶を浄信とするか恩恵と見るかの相異は︑どこまでも人間の心というものを人間自らの問題として追求する立場︵例えば仏教の出発点︶と︑つねに創造者支配者救済者の観点から人間の世界を考える立場︵有神論・
一神教︶との相異に帰するであろう︒邪念なきこと
25
凹注 目︶ の積 極性 は︑ 前者
︵人 の心
︶に あっ ては 信ま たは 喜び であ り︑
後者︵神︶の立場が確立すると恵みであること明らかである︒信も喜も恵みも根底において一でなくてはならない︵少なくとも浄土教それも後期無量寿経の場合は︶︒
︵ロ︶木村泰賢﹃仏教概論﹄︵東京︑昭和四年初版︶二七六l
七頁
︒
︵日︶奈良康明﹁﹁真実話﹂について||仏教呪術の一側面|﹂︵﹃日本仏教学会年報﹄第三十八号︑昭和四十七年度︶︒
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祭ユ可仰をなした一五々﹂とするだけでその真実諮
の内容を具体的に記していない場合が多い中にあって︑此処はそうでない点︑資料として貴震なもの︶︒
︵国︶両語︵主としてサlγキヤ哲学の術語となったものとして︶の意義について述べる余裕はないが︑最後に︵註記却︶触れる
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しかし︑人の欲望というものは一に帰するともいえる︒これに対して願望は飽くまで多様だといえよう︒で︑青白ぎの決
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仙吉田とによる選択︑区別知を含めて︶を考慮に入れて願望と訳した︒
︵却︶意志といっても思惟理性と別ものではない︒実際︑宵品Zという語は巧丘団
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︵幻︶原始仏教の﹁誓願﹂がシャlンディリヤの
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︑と は夙 に指 示さ れて いた こと であ る︵ え・ 開a m2
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叶沼MYMM由民・︶が︑我々は今︑この両者の橋渡と見でしかるべきヤlジニヤヴアルキヤにおいて考えて
いる ので ある
︒
︵担︶この点を明確にする為︑佐保田博士の表現をお借りしたい︒||業は彼等ウパニシァッド思想家にあっては︑今日の因
果律の如き客観的法則性を意味したものではなかった︒寧ろ︑業即ち行為をなす主体の意志目的と︑其への悶執が其の中
心的意義をなしてゐたのである︒:::業は客観的必然性ではなくて︑主観の念願力に依存するものなのである︵佐保田鶴
治﹁原始業論と臼巾﹂・﹃立命館文学﹄昭和二十三年一月号所収︶︒
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︵M︶このことに就いては︑拙稿﹁十二支縁起体系の構造について﹂︵可印仏研﹄二十糸二号所収︶の意ぞ汲んで頂きたい︒
︵お︶末綱恕一﹁大悲と無分別智﹂︵寸印仏研﹄第十八巻第一号・昭和四十四年︶︒ここに四一諦に関連して云われた﹁愛﹂号︑
我々は十二支縁起の中で考える︒
︵お︶我々はここに︑無明縁起を止揚したものとしての﹁明縁起﹂の概念を導入すれば︑問題は至って単純化し以てこれを積
極的に展開させることができる︵浄土教にいう﹁不取正覚﹂の問題も扱うことができる︶のであるが今これに立入ることは
出来ない︒ただし︑明縁起というものは一般には云われていないようであるが︑山口恵照教授の常々の御教示によって︑
﹁明 縁起
﹂を 考え るも ので ある
︒
︵幻
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N−NN・ωl由・||干潟竜祥博士訳︒同博士﹁菩躍の総願について﹂︵﹃印
度哲学と仏教の諸問題﹄宇井博士還暦記念論文集︑昭和二十六年︶所引︒
︵部︶問題は︑本来無神論の立場にあるもの︵仏教等︶が︑あくまでインド精神史の内にあるがゆえの有神論︵一神教︶的傾向を
如何にして止揚しえたかにある︒このことは既に︑岩本博士が︑︵誓願即ちプラニダlナは︑本来︑自力的なものでしかな
かったが︑しかし︶﹁とくに﹄叫山量寿経﹄の場合︑誓願の内容はアミダ仏の立場からすれば恩寵であるといわねばならぬ︒
したがって︑プラユダlナという語はヒンドゥ教とくにバlガヴアタ派に説くバクティ思想の仏教的改釈であるというべ
きである︒そして︑そのような改釈は仏教徒の智慈であり︑また自力の立場に立つ仏教徒としては当然のことであったと
言わねばならぬ﹂︵岩本裕司極楽と地獄﹄三一新書・昭和四十年︶と︑端的に問題の所在そ明かされていたのであって︑筆
者はこれを自らの課題としてみたに過ぎない︒因に︑岩本博士は﹃ヨlガ・スIトラ﹄におけるプラニダlナという諸に
触れておられるが︑目下の観点を明確にし将来に備える為に少しくこれに言及しておきたい︒即ち︑プラニダIナを説く
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︶は︑後世では明瞭に︑易行道︵
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ヴヤlサは︑神︵即ちイlシヴァラはヨlガ学派では決して創造者支配者でなく︑ただ全知者たるのみ︶の恩寵︵有田由注目︶
を説く為に︑全知者はそれ内身として能動性を有たね故に︑サットヴァを取らねばならぬ︑即ちサットヴァを取っている
ことによって始めて恩寵の神でありうるとしたのである︵取意︶︒ここにサットヴァとはいわゆる三徳の一と見得るが︑こ
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主である点︑報身たる阿弥陀如来の不可思議功徳という
ものに対する何らかの触れ合いを思わざるを得ない︒世親教学に通じていたとされるヴヤlサが浄土教を知らなかったと
は想像しえぬからである︒仮にそれは別としても︑神乃至恩寵の問題をめぐって仏教とヨlガ学派︵後者も本来自力的な
もの︶に共通の課題があったことは看過できまい︒ともかくも此の点︑浄土教の特色とする他力易行性の問題がインド精
神史ないしインド哲学史上の問題として考察さるべきことの一証左としておきたい︒
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慈覚
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四 九
浄 土
と 如
来 蔵
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谷 幸
︵仏 教 大
き正
日本における浄土教の元祖といわれる法然上人は︑極楽浄土のことを門人より問われて︑
﹁い そぎ まい りで 見る
ベし﹂と答えられたT
︶ ︑
と伝えられているように︑浄土のありさまについての詳しい説明を避けている︒阿弥陀仏
の本願による凡夫の往生を説き︑称名念仏のただ一行をすすめること︑言いかえれば︑難信易行の浄土教を信行す
べきことを専ら説いているのであって︑浄土のありさまについては︑あまり説いていないのである︒浄土の相状や
功徳は﹃阿弥陀経﹄に詳しく説いてあり︑浄土建立の根拠については﹃無量寿経﹄に説いており︑さらに唯一の所
依の論である﹃無量寿経論︵往生論︶﹄にその理論的解明がなされているので︑
法然 にと って は︑
そのような浄土の
諸問題については︑経を信受し論にまかせておけばよい︑ということだったのであろう︒
法然は智慧第一といわれるように︑なるほど当代ぎつての学者であったかもしれないが︑宗教者として行の人で
あり信の人であったから︑理論による仏教の知的解明ということには関心を示めさなかった︒これが法然の基本的
態度 であ り︑
日本の浄土教はすべてこの流れを汲むものである︒したがって︑いま浄土について云々し︑この問題
浄土と如来蔵︵水谷幸正︶
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