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ドキュメント内 日本佛教學協會年報 第9号(全) (ページ 162-200)

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いふ富小路と大分距って之は全く地理

的に合致せないことになる︒依て遺憾

乍ら今日角ノ御坊はどうかと息ふ究第

であ

る︒

依て諸に第三説の大谷汲の俸承する

柳馬 場一 二傑 上ル の虎 石町 建

hり が

史的事賓のものと信ぜざるぞ得ないコ

悶み に﹁ 俸給

﹂の 著者 畳如 上人 が﹁ 文︑ 水七 年十 二月 二十 八日 三保 広小 路建 マ一 花テ 誕生

﹂︵ 恭師 栴討

︑敬 京絢 討﹂ せら れ

たの

も 上記

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親驚御往生地たる上人の邸に於てである事を知る︒かくの如く宗史以外の漢籍等外廓資料によっ

て︑ゆくりなくも其の往生地を遁確に判明することが出来た︒

更に

補足

︑に

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然し

﹁俸

給﹂

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記事の決して妄誕でないことを立殺する貼に闘し︑迭に聖人の御往生地に凶みて︑

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御北生

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時祉 に就 ても 冗準 を川 汗し てお く︒

﹁俸給い一下ノ六につ弘長二歳一一下旬の候よりいさ?か不例の気まします・・しかうして同第八日午時.副北両州

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悌息たえましノーをはりぬ﹂と弘長二午卜一月仕八日午時に御花生し給ふたと俸ム

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られゐ弘願寺本の奥

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弘長二歳モ戊十一月一一卜ヘけ

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御歳九十歳同二十九日山内時

ぃ米山御弗迭同三十円御舎利蔵

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実主である︒それの資料にるつ袖日記乙

﹁弘長二成十一月二十八日求時御入減御成九ト手跡若事海賊一

とある︒之等によると末時設も有力なも

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であるが午時設に就ても之に劣らぎる有力な資料のあることは周知

の事と思ふ︒印ち高田専修寺に現蔵する﹁敢行信誼ー一

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奥令官であるベ顕正流義紗﹂に建長七年の冬宗組聖人が親し

く民側嬬知刊の一雨直品川に附法せしめ給ふたと俸ふる附法相求の真木として︑高田波にては章重致してゐる聖教で

品 ︑ 匙 −

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﹁ 親 瀧 御 入 滅 弘 長 二 歳 托 十 一 月 廿 八 日 目 御 年 九 十 嵐 也 同 世 九 日 判 事 信 顕 智 御 含 利 蔵 皐

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﹁貌鷺俸給﹂の記事に就て

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抑ミ聖人御入滅の折︑親しく御給仕申せしは内身の間柄では豊信尼公と盆方の御二方であり︑直弟としては顕智

ム一存信房事海等であった︒所で存聖上人の御設の如く﹁安城御影しの前掲の真書が専悔の莫蹟とすれば︵河本願寺

の御 本書 も一 専海 砂市 中な らん か︶

︑五 月廿 八日 附の 豊信 御房 への 御消 息︑ 十一 月十 八日

︑十 一月 一日 の聖 人と の往 復文 書. 十一 月廿 五日 附の 民側 への 御消 息. 或は 同期 警の

﹁反 故裏 書﹂ によ って 聖人

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専海 との 間柄

︑が わか り︑ 更に 穎智

の奥書によって親しく聖人の御葬建冶取り行つに人である︒その親しく聖人の御臨末に合ひ御葬注高端行へる雨

入に一方は禾時説︑顕智には午時といふ説が成立ってゐるわけで︑何れ守正しと判明し得ない史的慣値のある

ものである︒顕智のそれが︑﹁教巻L

一 信 巷 !

一 一

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呉仰 土谷

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と三 容共 に正 しく 午時 と記 され てゐ る以 上︑

いへないもので︑記憶の相違でない限り︑正しい叙述と断定せねばならぬ︒従来の史家が軍に廿八日逝去︑世九

日葬迭.三十日舎利蔵が自然であると見てゐるが︑世八日午時に遷化され其常夜傑かばかりの異弟によって葬詮︑

翌日正午舎利蔵を行はせられでも︑聖人の簡素な生活なり︑﹁某閑眼せば賀茂川に入れて魚に輿ふベし﹂との素撲

一時 の誤 筆と

な聖人の意志からして別に不自然とも考へられぬ︒それは何れにしても︑﹁俸給しの叙述が決して一小常でない事は

去古 存生 であ った 旧制 知刊 の所 説で ある 午時 や襲 用せ られ し事 明徴 で︑ 提如 上人 の皐 的態 度の 正鵠 さ守 明示 して ゐる

月上﹁偉精﹂の科風十的.文化史的剖検によってその史的債値の偉大さを明徴にしにと共に︑宗史としての特色を

前提 とし て此 金一 日が 成さ れて ゐる こと を冗 辿し た︒ 私の 刊日 引せ る文 化史

︑仰 敦史 との 闘係

︑並 仁そ の核 心の 宗義

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閥係を赴によって略E

説挫 した

?と 忠ふ

︒此 の意 味に 於て 他の 寺俸 縁起 類の 如品 川︑ 妄誕 創造 のも のと 同視 せ︑ ざれ ば 幸 英 で あ る

︒ 乞 ふ 骨 子

︑ の 所 説 に 就 ま 仰 向 判 ぞ っ 二 一

︑ 一 二

︑ 一 一 一 一 稿

慈雲曾者理趣経講義の交交に就て

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道 日 艮

慈雲 章者 の理 趣経 講義 三容 は光 将一 犬山 黒字 和三 発亥 年二 月二 十四 日完 成し たの であ る︑ 印ち 象者 八十 六歳 の時 で︑

章者は八十七歳で京都

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阿輔陀寺で示寂せられた

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であ るか ら. 章者 的著 書と して は日 以後

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ものである︒金者は

党皐 の大 成者 であ るニ ム一 は偽 りに も有 名で ある が︑

−示 寂せ られ るそ の前 年旦 一百 密款 の恨 本聖 典で ある 理趣 経そ 講 義せ らる 誌に や回 って

︑漢 誇︑ な党 交に 復諜 せら れた るも

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で査し宅前

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である︒こ

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講義 三容 は現 在︑ 川内 のお

貴寺の賓庫に滅され慈雲章者全集第九下に軒録せられて居る

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傘者 か叩 ぺ趣 椛講

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究交

に就

て誠

一べ

るの であ るが

︑そ れを 蓮べ る以 前に 章者 が党 車十 ゆ管 理

m n せられた態度其他に就いて一言したいのである︒

章者が党堅守修められた最初は何歳の時であったかに就ては︑慈雲章者全集首容に牧められた︑長谷大信正新

集の慈雲章者俸私見中の﹁悉曇俸授阿度加行年月前後

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慈雲命者理越経講義の悼ん文に就

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明年秋︒和上授は−如意輪法一︒至L

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習一感覚宇一と︒若し之に依るときは章者十四歳の秋四度加行ぞ修し︒後に悉曇宰ぞ受け給へるに似たり︒然

れども象者御自宅の不倫盗戒記に依れば十四歳芯曇章を受け︒十五歳阿度加行そ修し給ふと見えたり︒記の

文前に出すが如し︒叉十四海悉曇字ぞ受け恰へることは悉曇相浜口説にあり︒卜五歳四度加行を修し給へる

ことは御白菜略履暗にあり︒略俸の記する所説くは設か︒

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全集

首巻

︑二

四一

一一

一良

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四四

頁︶

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とあり︵全集第十一︑四八一頁︶

小子十三成の時薙︑染す翌年十四成七月十八日

悉同

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大和上云︒倒壊は党支にあ

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汝に党字ぞ教ゆべし︒此は弘

法大師より相求し来るなり︒北H

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一海︒静鹿也︒静庭阿問梨純︵正苦慌に付泌す︒それより西大寺に相示し山存長老に至る︒高喜長

芯野中寺閉山慈品作師抗感に俸ふ︒伶師じ.1人的弟子あのo

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三人に御付属なり︒利上は予一人に俸ふと︒乃ち一紙守山し玉ふ︒摩多的文なの一

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集第

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父︑悉曇李相求口説在下に

卒保十六亥の四月︒予小子十四歳の時︒先師大和上に随て悉貝ぞ受く︒井︑時は何方も十八章の裁績は此遁h

と忠へり︒其後講鼎に遊で世に謂ゆる七日.持と云人を却に︒多は脱皮なり︒大和上は州紙そ計百し玉ふ︒皆暗

記なり︒他門の有稽は多は沓草紙を宥て書す︒暗記せる人すくなし︒仮令−暗記の人も相俸全くなし︒今日よ

り思へば大和上徳を積み名そ臨し︒態前一心な以て法な俸へ玉ふことそ知る︒予小子府批何の勝業か有る︒明

師に

浩一

hりて親しく指示ぞ受く︒年来多目別ゆへ︒所停役忘失せんことそ恐る︒故に記て此な径一民に置︒他見

樺有るなり

明和八年半卯六月仕二日

小 比 丘 へ全 集第 九︑ 九八 頁︶

とあ句︑これに依って章者が悉曇十八章な授けられたるは十四歳の時なりしこと.而して庇師大和上忍糊貞紀

師が如何に党阜の蓮人なりしかを知ることぞ得るなり︒新くの如品川︑明師に遇って党字そ習ひ党勝

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修し

濯に

党曲

律梁一千容を編纂して党壊の大成ぞせられたのである︒

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如く︑牟者は出家得度の翌年印ち十四歳にして林正ナケ忠一脅し︑智正十五品にして四度加行を修し給へるこ

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ドキュメント内 日本佛教學協會年報 第9号(全) (ページ 162-200)

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