「日本人の行動パターン」共著 山折哲雄、ポーリン・ケント(1997)NHK 出版 1-172 “Background Research for The Chrysanthemum and Sword Dialectical Anthropology” 共著
Pauline Kent(1999)Kluwer Academic Publishers 173-180
“The Lady of the Chrysanthemum: Ruth Benedict and the Origins of the Chrysanthemum and the Sword” 共著(2004)The Johns Hopkins University Press
Another is for there to be more ‘original’ or ‘creative’ writing. English continues to focus on enabling you to respond to the world around you. (Robert Eaglestone 133 )
私たち日本の英文学専攻者にとって有意義だと思われる箇所を、本稿の論旨である実践知性 としての英文学研究の視点からまず引用したが、実は著者ロバート・イーグルストンは第 1 部 第 1 章 ‘Where did English come from?’ の中で、英文学という学科目がどのような歴史的背景 のもとでイギリスに設置されるに至ったかを詳述している。英文学の本家であるイギリスの事 情を知っておくことも大切であろうから、以下に、簡潔にまとめてみる:「元々英文学研究なる ものはイギリスの大学では受け入れられず、特に古典学の教授たちにとっては無用の長物であ った。ところがこの英文学は 1835 年、一つの正式な学科目としてインドにおいて誕生した。当 時インドを統治していたイギリスは、英文学研究を通して現地のインド人をイギリス化させよ うと目論んだのである。そしてやがてこれがイギリスに逆輸入されることになる。そうした逆 輸入者の代表的人物が、詩人・思想家のマシュー・アーノルド(Matthew Arnold)であり、 彼は当時のイギリス人に文学的教養を身につけさせようと思ったのである。具体的には、有益 で文明的な道徳的価値観の修得が目標とされた。これに対して、英文学を研究してもほとんど 意味がないと考える一派も存在し、彼らは、教養ではなく、むしろ言語研究としての英文学を 志向した。こうしたせめぎあいの中、1893 年オクスフォード大学に英文学の学位コースが導入 されたが、英文学専攻は主としてフィロロジー研究を意味した。この流れが変わるのは 1917 年 以降である。ケンブリッジ大学の講師たちが中心となって、主としてフィロロジーから成り立 っている英語専攻コースの抜本的改革を進め、やがて言語研究だけではない、今日の私たちが 知っている豊潤な英文学の基礎が作られたのである」。
単著 平成元年 3 月 関西大学経済政治研究所 「研究双書」 第 67 冊 pp. 130-155. “Sketch-tour books and prints of the early twentieth century”
単著 平成 2 年 1 月 Andon Vol. 10, No. 37 pp. 3-33.
“The ‘Sketch-Tour’ Books and Prints and the Role of Osaka Publisher KANAO Tanejiro” 単著 平成 3 年 3 月 関西大学経済政治研究所「研究双書」第 77 冊 pp. 86-127. “The Japanology Class and the Audio-Visual Center”
宇佐見太市,北村裕,河合忠仁,山本英一,竹内理(共編著)(2002)『外国語研究 : 言語・文 化・教育の諸相』ユニウス出版
Kitamura, Y., K. Horii, O. Takeuchi, K. Kotani & G. d’Ydewalle. (2003). Determining the param- eters for scrolling text display technique. In Hyona, J. & others ( Eds. ), The Minds’ Eye:
タームが使用されているが、New Idea and New Terms(1913)の著者 A. H. Matter(著名な 宣教師狄考文の未亡人)も認めているように宣教師が作成した文法関係のタームは 1913 年時点 では一般に認められなかった 13) 。西洋人によって西洋言語で著された著作や辞書などは、西洋 言語学の枠組みの中で中国語の音韻、文法、語彙について記述することでは一応の成功を収め たと言ってよいであろう。しかしその中国語で書かれた著作は、中国の読者に言語に関する研 究において新たな道筋を示すには十分ではなかった。馬建忠の『馬氏文通』(1898)や厳復の 『英文漢詁』(1904)はいずれも直接西洋文献から知識を受容したものである。西洋言語学に関 する知識の多くが日本語を学習する過程で導入されたことはこれまでに指摘されていなかった 事実である。言語学のタームは、その大多数を日本語から借用したということがこの点を如実 に物語っている。言語の「科学」的研究は、明治期の日本の学者も目指した目標であることを 付け加えておきたい。中国語を含む言語研究の近代化の過程において、外国、特に日本の影響 等について解明しなければならない点が多々ある。