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2つに分ける。そして、この条約で言う核兵器国とは、米国、ロシア、英

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(1)

はじめに

核兵器不拡散体制の中心にある核兵器不拡散条約(NPT)は、世界のすべての国を核兵器 国と非核兵器国の

2つに分ける。そして、この条約で言う核兵器国とは、米国、ロシア、英

国、フランスおよび中国の

5ヵ国のみであり

(第

9

条)、それ以外のすべての国は非核兵器国 とされる。なお、拡散(proliferation)という言葉には本来、垂直的拡散(タテの拡散)と水平 的拡散(ヨコの拡散)の両方の意味があるのだが、条約の主たる狙いが後者、すなわち水平 的拡散の阻止にあることは、はじめから自明であった。

つまりこの条約は、上記の5ヵ国だけは今後も核兵器を持ち続けるけれども、それ以外の いかなる国にもそれを持たせたり作らせたりしないという目的で作成されたものである。

したがって本質的に不平等条約であり、それゆえに作成の過程で多くの非核兵器国から強 い批判を浴びたのである。こうした批判をかわす意味からも、条約では「平和目的のため の原子力の研究、生産及び利用の発展はすべての締約国の奪い得ない権利である」こと(第

4

条)と、「各締約国が核軍縮措置などにつき誠実に交渉を行うことを約束する」こと(第6 条)の規定を設けたのである(1)

条約が作成された後も非核兵器国の不満はなかなか解消されなかったけれども、発効か ら36年を経た現在では、世界の大多数の国がこの条約の加盟国となって核兵器の開発や保 持をしないという義務を誠実に履行している。かつてケネディ米大統領が「悪夢」として 描いた、核保有国が15ないし

20

ヵ国も出現する世界にはならなかったという点において、

この条約は成功を収めたと言えるかもしれない。

しかし半面、①地域紛争に深くかかわってきた3つの有力な国、インド、パキスタンおよ びイスラエルが加盟を拒んで核保有国となったこと、②冷戦のゆえに分断国家となった北 朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が冷戦終結後に

NPT

からの脱退を宣言して自ら核保有国で ある旨を宣言したこと、③いくつかの加盟国が国際原子力機関(IAEA)による査察の目を ごまかして密かに核兵器開発に努めていたのを長く見抜けなかったこと、などの点におい ては、明らかに重大な欠陥を露呈したとも言える。

世界の諸地域のなかでも中東は、こうしたNPT体制の欠陥ないし問題点を考察するうえ で最もふさわしい地域であろう。なぜなら、ここには

NPT

を拒否して核保有国となったイ スラエルに加えて、NPTに加盟しながら密かに核兵器開発に努めていたことが判明した国
(2)

(イラクおよびリビア)、そして現に努めているのではないかと強く疑われている国(イラン)

が存在するからである。以下ではこれらの国のなかからイラク(2)とリビア(3)を除き、イスラ エルとイランのケースを取り上げて、中東における核拡散問題について考察したい(4)

1

中東における唯一の核保有国イスラエル

(1)「包囲された社会」としての特異な国防意識

イスラエルは

1948年の建国以来長きにわたり、周囲のアラブ諸国との間に激しい敵対関

係が続いてきた。イスラエルに言わせれば、イスラエルよりも何倍も大きな国土、人口お よび資源を持つアラブ側は、イスラエルの国家としての生存権を認めようとせず、つねに イスラエルを滅ぼそうと意図してきた。これまで

4度にわたって大規模な戦争が繰り返され

てきたのも、こうしたアラブ側の姿勢に原因があったのだ、とイスラエルは主張する。

つまりイスラエルの自己イメージは、数の上で圧倒的に優勢な敵アラブによって「包囲 された社会」というものであり、そこから自国の生存と安全を守るための国防に異常なほ どの力点が置かれてきた。こうした自己イメージは、歴史上「離散」(ディアスポラ)の状態 に置かれたユダヤ人が多くの国で差別や迫害の対象となり、ついにはナチスにより

600

万の ユダヤ人が虐殺される「ホロコースト」の悲劇につながったという歴史の教訓と重なり合 って、イスラエルの国防意識を異常なほど高めてきた。いかなる手段を用いてでも国家の 防衛に努めなければならないという意識が、国中に徹底している(5)

(2) 核兵器開発への決意と実行

イスラエルは1957年、フランスと原子力協力協定を結び、翌58年にはフランス企業の協 力を得てイスラエル南部のネゲブ砂漠にあるディモナで原子炉を含む核施設の建設に着手 した。イスラエルはこれをあくまで「平和目的」のためと強調したが、実際には当時の首 相ダヴィド・ベングリオンが、数の上で圧倒的に優勢な敵アラブによって滅ぼされないた めにはどうしても核兵器が必要であると考え、最初から核武装化を狙った計画であった。

ディモナの原子炉は62年に臨界に達したが、その後イスラエルは密かに核兵器開発に邁進 し、73年頃までには初歩的な核弾頭が配備可能な段階にまで達した(6)。そして、その後も 着々と核兵器開発を続け、今ではれっきとした核保有国とみなされている。

イスラエル政府はいまだに認めていないけれども、こうしたイスラエルの核武装化の経 緯は、多くの研究者やジャーナリストの手によって今ではかなりの程度明らかにされてい る(7)。そして、何よりも決定的な証拠となったのは、かつてディモナの核施設に9年間にわ たり技術者として勤務していたモルデハイ・ヴァヌヌが、その施設内で密かに撮った

57枚

の写真を添えて1986年

10

月5日付の英紙『サンデー・タイムズ』に寄せた詳細な証言であ った(8)

2

イスラエルの核と米国の対応

(1)「不透明核戦略」

イスラエルの歴代の政府はNPTへの加盟を拒否し続ける一方で、「イスラエルは中東に核

(3)

兵器を導入する最初の国にはならない」という宣言を繰り返し表明してきた。しかし、こ の宣言を文字どおり受け止める人は、イスラエル国外ではもとより、イスラエル国内でも ほとんどいないと言ってよい。

このように、国家の指導者が核兵器の存在を認めていないにもかかわらず核兵器存在の 証拠が十分にあって、それが他国のパーセプションや行動に影響を与えることを、アヴナ ー・コーエンは「核の不透明性」(nuclear opacity)あるいは「不透明核戦略」(opaque nuclear

strategy)

と名づけた(9)。コーエンのこの定義に従えば、イスラエルはまさしく「不透明核戦

略」を一貫してとり続けてきたのである。

(2) 米国の「二重基準」とその影響 

そしてセイモア・ハーシュがその著書で鋭く指摘しているように、米国はイスラエルの この戦略を事実上、黙認してきた。米国の偵察写真解像の専門家たちは、ディモナの核施 設が核武装化に使われていることを示す証拠を早くから何度もつかみ、しばしば米政府の 上層部にそれを報告し警告したけれども、大統領もその他の高官たちも、それを受けてイ スラエルを真剣に追及しようという姿勢はほとんど示さなかった(10)。実は米政府の高官や 米議会の有力議員のなかには、イスラエルの核保有はむしろ好ましいことだと公言する人 も少なくなかった(11)

しかし、イスラエルの核には目をつぶりながら、それ以外の国における核拡散の動きに きわめて厳しい姿勢で臨むのは、明らかに「ダブル・スタンダード」(二重基準)と言われ ても抗弁できないものがある。事実、カーター政権時代、核不拡散問題担当のジェラー ド・スミス大統領特使がパキスタンのジアウル = ハク大統領に核開発疑惑の問題を質したと ころ、「あなたがたはなぜ同じことをイスラエルには言わないのか」と逆に問いつめられて、

返答に窮したという(12)

さらにまた、イスラエルがNPT体制の外にあって核保有国となったという事実は、中東 の他の国々、とくにイスラエルと敵対関係にある国々を刺激せずにはおかなかった。これ らの国々はすべて

NPT

に加盟したが、中東における核不拡散体制を最初に破ったのがイス ラエルであり、しかもそれを米国がまったく不問に付しているとするならば、なぜ自国が 非核の義務を守り続けなければならないのか、という疑念を抱いたとしても不思議ではな い。ここから、表向きはNPTにとどまりながら、実際には密かに核兵器開発に努めるとい う国が出てきたのである。例えば1991年の湾岸戦争の結果、核兵器を含む大量破壊兵器開 発の実態が白日の下にさらされたイラクがそうであった。

(3) 中東における核独占の維持

ところでイスラエルは、上記のように不透明な核による抑止戦略をとりながらも、中東 における「相互核抑止」という考え方は絶対に受け入れようとはしない。すなわち、中東 における核抑止はあくまでイスラエルによる一方的抑止でなければならず、中東において 他の核保有国が出現する事態はいかなる手段を用いてでも阻止するという政策をとり続け てきた。1981年6月、イスラエルの空軍機がイラクを急襲し、イラクでフランスの協力の下 に建設中であったオシラク原子炉を爆撃・破壊したのは、その政策を力ずくで実行に移し

(4)

たものにほかならなかった。

中東に核をもちそうな国が現われれば、その危険が顕在化する前に武力を用いてでもそ の施設を叩くという政策は、当時のメナヘム・ベギン首相の名にちなんで「ベギン・ドク トリン」とも呼ばれたが、その考え方は後のイスラエル政権にも引き継がれた。例えば湾 岸戦争後、政権の座に返り咲いたラビン首相は1992年

7

月13日、労働党主導の新連立政権 発足に当たって、「イスラエルは、イスラエルのいかなる敵も核兵器を獲得する可能性を、

いかなる手段を用いてでも阻止していくつもりである」と宣言した(13)

しかしイスラエルは、もはや単独ではその政策を実行できないことをも認識するように なった。オシラク以降におけるイラクの密かな核開発の状況についてイスラエルは正確に それを察知することができなかったし、仮にできたとしても、多数の場所に分散秘匿され ていたイラクの核施設や核物質をオシラクの場合のようにイスラエル単独で破壊すること は不可能であったろう。そこでイスラエル政府は、中東における新たな核保有国の出現を 阻止するためには、米国との緊密な協力の下に行なうことが不可欠であると強調した(14)

(4) 米国・イスラエルにとっての共通の敵イラン

こうしたイスラエルにとって、冷戦終結と湾岸戦争終結という「2つの戦後」において最 大の脅威と映ったのはイランであった(15)。「2つの戦後」において、旧共産圏諸国および大 多数のアラブ諸国とパレスチナ解放機構(PLO)がイスラエルと和解の道を選んだのに反し、

過激なイスラム主義勢力(パレスチナの「ハマース」やレバノンの「ヒズブッラー」など)が 依然としてイスラエルに激しい敵意を燃やしているのは、その背後にイスラム主義国家イ ランが存在して支援をしているからだと思われたのである。イスラエルにとってはまた、

イランの脅威を強調すること、とくにその大量破壊兵器の脅威を強調することは、自国の 不透明な核政策への批判をかわす意味からも必要であった(16)

他方、1979年のイスラム革命後のイランでは最高指導者ホメイニ師が米国を「大悪魔」

と決めつけ、さらに79年

11月、

「革命防衛隊」を名乗る若者たちが在テヘラン米大使館を占 拠して約60名の館員を

1年以上も人質として拘留したことから、米国は 80年 4

月にイランと の外交関係を断絶、広範な経済制裁措置を実施した(17)。イラン・イラク戦争に際しても米 国はイラクに肩入れしただけではなく、戦争末期の

88

年には米海軍がペルシャ湾に出動し てイランの石油基地を砲撃し、またイラン航空の民間機を誤って撃ち落す事件などもあっ て、米イラン関係はきわめて険悪な状態が続いた。

1993年に発足したクリントン政権は、イランをイラクと同時に封じ込めるという「二重

封じ込め」政策を採用したが、その理由として挙げたのは、イランがイラクと同様、国際 テロリズムを支援し、大量破壊兵器の獲得をめざしているということであった(18)。クリン トン政権は96年

8

月には「イラン・リビア制裁法」を施行したが、さらにブッシュ現大統領 が2002年

1

月の「年頭教書」において、北朝鮮およびイラクと並んでイランを「悪の枢軸」

と決めつけたことは、周知のとおりである(19)

(5)

3

イランの核開発疑惑

(1) 革命と戦争で中断した野心的な計画

イスラエルがフランスと原子力協力協定を結んだのと同じ1957年、イランは米国との間 に原子力協力協定を結び、米国から研究用原子炉の提供を受けた。79年のイスラム革命以 前のイランは、パーレビー国王(シャー)の下で「白色革命」と称する上からの近代化を推 進し、そのためのさまざまな野心的計画を実行に移していた。そして、シャーのこうした 野心的計画を外から全面的に支えたのは米国であった(20)

パーレビー国王は、いずれ枯渇を免れない石油資源の利用可能期間をできるだけ長引か せ、かつ石油を主に石油化学工業に振り向け、同時に海水淡水化のための大量の電力を確 保するために大規模な原子力発電所の建設が欠かせないという方針を示した。かくして

1975年 3月、キッシンジャー米国務長官がイランを訪問した際に米イラン間に新たな原子力

協力協定が結ばれ、イランは米国に発電量合計8000メガワットに及ぶ

8

基の原発建設を約

70億ドルで発注することが発表された。このほかイランは、フランスおよび西ドイツに対

しても合計4基の原発建設を発注する交渉を進めた。当時の計画によれば、イランの原子力 発電は95年までに合計

3万 2400メガワットという膨大な規模に達するはずであった

(21)

しかし、イスラム革命が起こる前に実際に着工されたのは、西ドイツのシーメンス社と の契約でイラン南部のブシェールに建設された2基の原発のみであり、しかもその建設は1 基が8割、もう

1

基が

6

割ほど工事の進んだ段階でイスラム革命により中断され、さらにイ ラン・イラク戦争中イラクの爆撃によって破壊された。パーレビー時代のイランの原子力 開発計画は、核武装を視野に入れているのではないかと疑われるほど野心的なものであっ たが、イスラム革命とイラン・イラク戦争によって挫折を余儀なくされたのである。

(2) ロシアの協力による原発建設の再開

しかしイラン・イラク戦争後、イランでは原発建設を再開しようという機運が高まり、

イラン政府は工事再開をシーメンス社に申し入れた。しかし、イランを大量破壊兵器の獲 得をめざす「テロ支援国家」と決めつけた米国は、同盟諸国に対してもイランへの投資を 慎むように強く求め、とくに原子力の分野では絶対に協力しないように働きかけた(22)。し たがってシーメンス社は、イランからの工事再開の要請には応じなかった。そこでイラン はロシアと中国に接近し、イランの原子力開発に協力するよう申し入れた。

米国の強い反対にもかかわらず、中国とロシアはイランからの協力要請に好意的に応え、

とくにロシアは1995年1月、8億ドルでブシェールに2基の原子力発電所(軽水炉)を完成さ せるという契約に調印した。米国の反対に対しロシアは、軽水炉はどちらかと言えば軍事 利用には適さず、しかもその活動はIAEAの保障措置の対象となるのでNPTの規定に則した ものであって、反対されるいわれはないと応じた。その契約により、ロシアはブシェール の原発用に低濃縮のウラン燃料を10年間イランに供給することも約束した(23)

(3) イランに強い疑念を抱く米国

イスラム革命以降イランと険悪な関係を続けてきた米国は、膨大な化石燃料(石油と天然

(6)

ガス)の埋蔵量を抱えてエネルギー源に不安のないイランが原発の再建に力を注ぐのは、核 武装を狙っているからにほかならないと、強い疑念を表明した。これに対しイランは、①国 内石油消費量が現在の趨勢で拡大していけば、いずれイランは石油輸入国とならざるをえ ない、②化石燃料の国内消費拡大はその輸出によるイランの外貨獲得に深刻な影響を与え る、③化石燃料は石油化学その他の製造工業に振り向けたほうがより大きな付加価値を生 む、④化石燃料に過度に依存することは深刻な環境問題を生む、などの理由を挙げて、正 当化に努めた(24)。シャー時代に挙げた理由とほとんど同じであることに気がつくであろう。

さらにその正当性を裏づけるためにイラン政府は、①イランはかねてより核兵器保有が イスラムの教えに反し、かつ国家の安全保障強化につながらないと主張しており、中東の 非核地帯化を提唱してきた、②イランはNPTの加盟国として

IAEA

の保障措置を受け入れて きたが、NPTはその第

4

条において原子力の平和利用を加盟国の「奪い得ない権利」として 保障している、③イランは化学兵器禁止条約、生物兵器禁止条約、包括的核実験禁止条約

(CTBT)に署名し、それらを誠実に遵守してきた、などと主張した(25)

(4) イランの核オプションが想定される理由

もっとも、イランのこうした主張にもかかわらず、イランが核兵器を含む大量破壊兵器 の開発、あるいは少なくともそのオプションの可能性をめざすかもしれないと考えるべき 理由は存在する。そのひとつは、イラン・イラク戦争中、イランがイラクから308発のミサ イル攻撃を受け甚大な損害を被ったのに加えて、イラクによる化学兵器の使用によって

6万

人以上が危害を受けたにもかかわらず、当時の国際社会がイランにほとんど同情を示さな かったという歴史を体験してきたことである。イランを敵視する国が将来再びイランに大 量破壊兵器を用いて攻撃してくる事態に備えて抑止力を持ちたいと欲するのは、イランに とって不自然なことではない。ましてイスラエルが着々と核戦力を強化している状況を考 えれば、なおさらであろう(26)

もうひとつの理由は、イランのイスラム主義体制を極端に毛嫌いする米国が、イランの

「政権転覆」を意図して武力攻撃をしかけてくるかもしれないという恐怖心である。事実、

ブッシュ政権は、9・

11の同時多発テロ事件が起こる前から、イラクの「政権転覆」をめざ

す武力行使の必要性を公然と議論していたし、9・

11

後には、武力によるアフガニスタンの

「政権転覆」を実行に移した。アフガニスタンやイラクに向けられた米国の矛先が、いつイ ランに向けられるかもしれず、それに対して抑止力を備えることがどうしても必要だとイ ランが考えたとしても、無理はない(27)

5) 暴かれた未申告の核施設とイランの釈明

こうした状況のなかで重大な疑惑を抱かせる事実が判明した。それは、イランがIAEAに 申告しなければならない保障措置協定上の義務を怠り、核兵器開発につながると疑われる ような施設を作り、活動を行なってきたという事実である。事の発端は

2002年 8月、イラン

の反体制グループ「イラン国民抵抗評議会」(NCRI)がワシントンで記者会見を行ない、イ ランがIAEAに申告していない

2

つの施設(アラークの重水製造施設とナタンズの核燃料製造施 設)が存在することを暴露したことにある(28)
(7)

2002年 12

月と

03

3

月、核拡散問題を精力的にフォローしている米国の民間研究機関

「科学・国際安全保障研究所」(ISIS)が衛星写真を添えて発表した詳細な報告書は、上記の

NCRIの主張どおり、イランがナタンズにウラン濃縮施設を、またアラークに重水施設を建

設中であることを裏付けるものであった(29)。そのためイランとしても、IAEAに未申告の施 設建設および活動があることを認めざるをえなくなり、これらにつきIAEAの査察を受け入 れる意図を表明することとなった。

しかし同時にイランは、これらはあくまで平和利用のための施設であり、核の平和利用 はNPTで定められた加盟国の「奪い得ない権利」であって、自前の核燃料サイクルをもつ ことはその権利の一環である、と主張した(30)。そして、この主張は、イラン国内では保守 派・改革派を問わず、多くの国民から支持されているようである。イラン問題の専門家、

佐藤秀信によれば、イランのイスラム革命の基本的政策理念には、反覇権的な不偏外交と 全産業の自給自足促進という

2つの柱があるのだが、自前の核燃料サイクルをもつことは、

まさしく後者の「自給自足」の理念に基づくのだという(31)

米軍備管理協会のポール・カーもまた、こうしたイランの「自給自足」への志向は、イ スラム革命後イランが国際社会において孤立し、米国を含む多くの国から重要な技術や部 品の供給を一方的に打ち切られて非常に困窮した苦い経験に基づくのではないかとみてい る。カーはそうした苦い経験の原子力分野での具体例として、イランがシャー時代から利 権を有していた、低濃縮のウランを製造し供給する国際合弁企業ユーロディフ(EUrodif)が、

イラン革命後イランへのウラン供給を一方的に拒否した事例を挙げている(32)

4

イランに対する追及と

E-3の調停努力

1) 広範な未申告の施設と活動

2003年 2月にイランを訪問した IAEA

のエルバラダイ事務局長は、イランがIAEAに申告し ていなかった核施設とその活動状況に関し、同年6月

6

日、IAEA理事会に報告書を提出し た(33)

この報告書によって、イランは、①1991年に天然ウラン

1800kg

(六フッ化ウラン

1000kg、

四フッ化ウラン400kg、二酸化ウラン

400kg)

を輸入した事実(34)、②これらの輸入した天然ウラ ンの精錬や使途に関する活動、③核関連物質を受理・保管・転換・再処理する施設(テヘラ ンの多目的研究所、イスファハンの核燃料製造施設、ナタンズの実験用および商用のウラン濃縮 施設、アラークの実験用重水炉)とそれらの活動、④テヘランの研究炉などの設計情報、⑤ イスファハンとアナラクの放射性廃棄物貯蔵施設の状況、に関し

IAEA

に申告すべき保障措 置協定上の義務を怠っていたことが明らかとなった。

さらにエルバラダイ事務局長が

2003

年8月

26日、IAEA

理事会に再び提出した報告書によ れば、前回の報告書の後にIAEAの専門家チームがイランを訪ねて再び調査したところ、① イランは遠心分離法によるウラン濃縮実験を

1985年から始めていたこと、②濃縮のための

機器は

85年から 97年にかけ仲介者を通じて外国から輸入したものであること、をイラン側

が認めたという。また、調査団がナタンズで採取した環境サンプルを分析した結果、高濃

(8)

度のウランが検出されたことも明らかにされた(35)

このようにイランが18年間も密かにウランの濃縮実験を行なっていたこと、そしてとく に採取したサンプルから高濃度のウランが検出されたことは、イランが核兵器開発をめざ していたのではないかという疑惑をいっそう深めることになった。とくに強硬な姿勢を示 したのは米国であった。そのため

2003年 9

月12日、IAEA理事会は、イランに対し、①核関 連物質・施設・活動に関する完全な透明性を保障し、全容を開示すること、②ウラン濃縮 関連および再処理の活動を停止すること、を求める決議を採択した(36)。なお、イランは、

採取したサンプルから高濃度のウランが検出されたのは、外国から輸入した機器に付着し ていたからであって、イランの活動によるものではないと主張した(37)

2

E-3

外相のイラン訪問と「テヘラン合意」

IAEA

理事会の決議採択でイラン側が態度を硬化させていた

2003年 10

月、欧州連合(EU)

の主要国である英仏独3国(以下、E-3と略記)の外相が突然テヘランを訪問、10月21日にハ タミ大統領らと会談した後、イラン政府との間に共同声明を発表した。「テヘラン合意」と 呼ばれたその声明では、①イランは

IAEA

の「追加議定書」に署名し、その批准手続きを開 始するとともに、批准完了までの間、同議定書の暫定適用に同意する、②イランは平和目 的の核エネルギー開発の権利をもつが、すべてのウラン濃縮関連および再処理の活動を自 発的に停止する、③

E-3

はイランの核関連プログラムに関する国際的懸念が払拭された後に イランに対し原子力を含むさまざまな分野での技術協力その他の協力を行なう、ことが合 意された(38)

米国がイランは核武装を計画しているに違いないとし、国際連合安全保障理事会に付託 してイランへの制裁措置を検討すべきだと強硬に主張したのに対し、E-3は、そのような強 硬措置はかえってイランの姿勢を硬化させるばかりであり、むしろ話し合いで問題解決を 図るのが得策であるとの判断から、3外相の突然のテヘラン訪問となったのである。そこに は、米国が十分な国際的支持のないまま対イラク戦争に踏み切ったような事態の二の舞は させたくないという思いもあったろうし、またイラク戦争をめぐって英国と独仏両国とが 激しく対立した状態を回復して

EUとしてのイニシャティブを取り戻したいという思いもあ

ったであろう。

他方イランとしても、IAEA理事会での非難決議の採択がやがて国連安保理付託の決議へ とつながれば国際的にいっそう孤立することが避けられず、むしろ米国とEU主要国との分 断を図るほうが得策であると判断したこと、そしてE-3側が「イランがNPTの下で核エネル ギーの平和利用を享受する権利をもつことを承認する」と確約したため、ウラン濃縮関連 と再処理の活動停止は「自発的」かつ「暫定的」な措置にとどまればよいと判断したこと から、この合意に踏み切ったものと思われる。これを受けてイランは

2003

12

18

日、

IAEAの「追加議定書」に署名した。

3) 深まるイランの行動への疑惑と非難決議

かくして事態は解決の方向へ進むかと思われたが、しかし問題が基本的に解決されたわ けではなかった。なぜなら、上述のように、イランは核エネルギーの平和利用のために自

(9)

前の核燃料サイクルをもつことが

NPT

に定められた加盟国の「奪い得ない権利」の一環で あると考えているのに対し、イランのように過去に核に関し「ごまかし」を重ねてきた国 にはそれをもつ資格はないと考える国が、世界の多数を占めているからである。E-3もまた その例外ではなかった。

そして、「テヘラン合意」後のイランの行動は、E-3にとっても他のIAEA加盟国の多くに とっても、けっして満足できるものではなかった。と言うよりも、イランはその合意を自 国に都合の良いように解釈し、IAEAを出し抜こうとしているのではないかという疑惑が深 まった。

こうした疑惑は、エルバラダイ事務局長の数次にわたるIAEA理事会への報告書に盛り込 まれた(39)。例えば次のような諸点である。①イランは従来、濃縮ウランの生産は行なって いないと述べていたのだが、1999年と

2002年に六フッ化ウランを使って実験を実施し、ご

く少量の濃縮ウランを生産したことを認めた、②イランは従来明らかにしていなかった、

レーザー技術を使ったウラン濃縮施設建設を計画したことを認めた(以上、03年11月

10日の

報告書)、③イランは従来認めていなかった、より新型の遠心分離機(P-2型)をパキスタン から入手して使っていたことを認めた(04年2月

24日の報告書)

、④イランは「テヘラン合意」

でウラン濃縮関連の活動を「停止」することを約束したにもかかわらず、六フッ化ウラン の生産は「停止」を約束した活動には含まれないとして、04年

5

月から

6月にかけウラン転

換施設で六フッ化ウランを生産した(04年9月1日の報告書)。

これらの報告を受けた

IAEA理事会は、2003年 11月 26日、04年 3月 13日、04

年7月18日、

そして04年

9

月18日に相次いでイランを非難する決議を採択し、イランに対し情報のより 完全な開示と

IAEA

へのより完全な協力を促した。とくに六フッ化ウランへの転換に関して は、その活動を直ちに停止するよう求め、イランの対応次第では

04年 11

月の理事会で新た なる措置をとるとして、国連安保理への付託をほのめかした(40)。これに対し、04年

2月の総

選挙で保守派が多数を占めるに至ったイラン国会は04年

10

月、核燃料サイクルを含む平和 目的の核開発推進を政府に義務づける内容の法案を委員会で可決した(41)

4) 危機回避のための交渉と「パリ合意」

このように核をめぐるイランと国際社会との緊張が高まるなか、2004年

11

2

日の米大 統領選挙ではブッシュ大統領が再選された。ブッシュおよびブッシュを取り巻く人々の多 くは、かねてからイランに対しきわめて強硬な意見を述べていたことから、いっそう危機 感が高まった。そこで04年

11

月初めにイランのロウハーニー最高国家安全保障会議事務局 長(当時)がパリを訪問し、イランと

E-3との間で打開策を探るための交渉を行なうことと

なった。

その交渉の結果、2004年

11

15日に合意が成立した。なお、今回のこの合意には E-3の

ほかにEU代表も加わった。「パリ合意」と呼ばれたその合意の内容は、①イランは「自発 的ベース」で、すべての濃縮関連および再処理活動の停止を継続する。とりわけ、ガス遠 心分離機とその部品の製造および輸入、あらゆるプルトニウム分離作業と同分離施設の建 設・運用およびあらゆるウラン転換施設の実験と生産を停止する、②E-3/EUは、この停止
(10)

が自発的な信頼醸成措置であって法的義務ではないことを認める、③その停止は相互に受 け入れられる「長期協定」のための交渉が続けられている間継続されるが、その協定はイ ランの核計画がもっぱら平和目的のものであるという客観的保障、原子力・技術・経済面 における協力および安全保障問題に関する確たる保障を提供するものとする、というもの であった(42)

これによりイランはウラン転換作業も停止することになったが、しかし「テヘラン合意」

と同様、その停止は「義務」ではなく、あくまで「自発的」であるとされたために、その 再開に関してはイランに独自の解釈の余地を残すものであった。

5

NPT

再検討会議に影を落とした中東の核

2005

5

2

日から

27

日までニューヨークの国連本部で開かれた第

7

NPT

再検討会議 は、前回の

2000年の会議とは異なり、会議の最終文書や決議など実質的な成果をまったく

残せないまま閉幕した。会議が決裂の状態で終わった理由はいろいろあったが、この会議 を丹念にフォローして分析を行なった英アクロニム研究所のレベッカ・ジョンソンによれ ば、失敗の原因は主に次の諸点に帰せられる。

すなわち、①P-5(核兵器国でもある安保理の

5

常任理事国)、EU、非同盟諸国(NAM)、新 アジェンダ連合のいずれもが確たるリーダーシップを欠いていたこと、②とりわけ米国が

CTBTへの反対など自国本位の理由から、2000

年の会議で得られた成果を一貫して無視する

政策をとり続け、それが多くの加盟国から反発を招いたこと、③イランが自国のウラン濃 縮計画への批判を避けるために、NPT体制全体としてのウラン濃縮およびプルトニウム分離 問題に関する議論に反対し、あるいはその議論を紛糾させたこと、④エジプトが、イスラ エルの核の問題を不問にしながら

NPT

に加盟している非核兵器国の手だけを縛るのは不当 であるとして、「追加議定書」の普遍化の議論などに強硬に反対したこと、などである(43)

これによっても、イスラエルの核やイランの核といった中東の核をめぐる問題が、NPT 体制全体にきわめて深刻な影を落としていることがわかるであろう。

5

イランの政権交代と核をめぐる駆け引き

(1) 保守強硬派大統領の登場

ところでイランでは、1997年に登場した改革派のハタミ大統領が、周辺諸国と善隣友好 関係を推進したのに加えて、積極的な対ヨーロッパ・対アジア外交を展開、さらに

2000年

には国連で「文明間の対話」を提唱するなど、従来の孤立状態から脱却するのにかなりの 成果を上げた。対米関係でもクリントン政権の末期には改善のきざしがみられたが、イラ ンへの強硬政策を掲げるブッシュ政権が登場したため、結局は再び悪化の方向をたどった。

また国内ではつねに保守派や過激な宗教勢力の反対を受けて思うような政策展開ができな かったことから、より大きな改革や自由を求める若者たちの期待を裏切ることになった。

2004年 2月の国会議員総選挙で保守派が勝利を収めたのは、こうしたハタミ政権への失望

感の表われであったと観測されたが、05年

6月 17

日に行なわれた大統領選挙では決戦投票 にまでもつれ込んだ結果、イスラム革命の原理を重視する保守強硬派のアフマディネジャ
(11)

ード前テヘラン市長が当選し、05年

8月 3

日に大統領に就任した。核問題の交渉責任者であ るロウハーニー最高国家安全保障会議事務局長も更迭され、アリ・ラリジャーニ元国営放 送会長が就任した。これにより、イランと国際社会との関係が再び緊張するのではないか と危惧された。

事実、かつて「革命防衛隊」で活躍し、「イスラム革命献身者協会」や「イスラム開拓者 連合」といった原理主義的な組織に所属するアフマディネジャード新大統領は、猛烈な反 イスラエル感情の持ち主であり、その後「イスラエルは地図から消し去られるべきだ」(44)

「ホロコーストは作り話だ」(45)といった過激な発言を繰り返して、イスラエルや米国ばかり でなく、国際社会の多くの人々から非難を浴びることになった。こうした、不用意とも言 うべき感情的な発言に対しては、イラン国内でも厳しく批判する者が少なくなかった(46)

2

E-3/EUの「長期協定」案提示とイランの拒否

2005年 8

月5日、E-3/EU側はイランに対し、「パリ合意」で謳われた「長期協定」案を提 示した。その全容は公表されなかったが、『ニューヨーク・タイムズ』紙などのマスコミが 報じ、その後「英米安全保障情報評議会」(BASIC)が詳しく伝えたところによれば、その 内容は次のようなものであった。

まず、イラン側が求められる事項として、①イランは核燃料サイクルの樹立を追求しな いことを公式に約束し、したがってウラン濃縮関連およびプルトニウム再処理の活動停止 を継続する、②イランは

2005年末までに「追加議定書」の批准を完了すること、かつ批准

までの間その完全な適用を受けることを約束する、③イランはNPTから脱退しないことを 公式に約束する、といった諸点が盛り込まれた。

他方、その代償として

E-3/EU

側からイランに提供する事項としては、①イランの軽水炉 建設を支持し、かつ同軽水炉への核燃料供給を保障する、②EUとイランとの間の経済協力 および政治対話促進のための協定について検討を進める、③地域の安全保障取り決めおよ び信頼醸成措置を発展させるのに協力する、④イランの世界貿易機関(WTO)加入を支持す る、といった諸点が盛り込まれた(47)

しかし、この提案はイランが当然の権利と考えている核燃料サイクルの建設を恒久的に 禁止しようとしたものであることから、イランは強く反発した(48)。そして2005年

8月 8

日に イランはイスファハンのウラン転換施設で転換作業を再開、8月10日には

IAEAが同施設に

設置していた封印を解除した。これに対しIAEAは

8

月11日の理事会で、その活動の即時停 止を求める決議を採択した(49)

3) ウラン濃縮工程をロシアに移行する案の浮上

一方、2005年

9

17

日に国連総会で演説したアフマディネジャード = イラン大統領は、

「核兵器の保有はイスラムの教えに反する故にイランはそれを追求しない」と述べつつ、他 のいくつかの非核兵器国が行なっている平和目的のための核燃料サイクルの建設をイラン に認めないのは「核アパルトヘイト」(核差別政策)にほかならないと批判した。なお同大 統領は、あくまで核平和利用の権利は譲れないとしつつも、「将来の信頼醸成措置として、

外国の政府および企業と合弁で核平和利用の事業を行なう用意がある」と提案した(50)

(12)

その直後、2005年のノーベル平和賞がIAEAとエルバラダイ事務局長に授与されることが 決まったが、かねて平和利用のためのウラン濃縮やプルトニウム再処理は各国が行なうの ではなく国際管理下に移行すべきだとの考えを示していた同事務局長は、05年

11

7

日、

米国ワシントン市のカーネギー平和財団で開かれた核不拡散問題に関する国際シンポジウ ムで、①ウラン濃縮施設やプルトニウム再処理施設をまだもっていない国は、その建設を5 年ないし10年間、自発的にモラトリアム(停止)する、②これらの国に対しては

IAEA

が核 燃料供給を保障する、という核燃料バンクの構想を提示した(51)

米国は、イランが核兵器開発計画のためにいろいろと術策を弄して時間を稼いでいるの は許せぬとして、すみやかに国連安保理に問題を付託すべきだと主張したが、EUやロシア では上記のような提案をも反映して、イランのウラン濃縮工程をロシアに移行してはどう かという案が浮上してきた。このため2005年

11

月11日、ロシア安全保障会議のイワノフ書 記がイランを訪問、イラン側と交渉を開始した。

(4) 国民感情と国際情勢を背景に強気のイラン政府

ロシアへの移行案に国際的な期待が高まった半面、イラン国内ではNPTで認められた国 家としての「奪い得ない権利」は絶対に譲るべきではないという主張が再び高まってきた。

というよりはむしろ、アフマディネジャード大統領がこうしたナショナリスティックな感 情を煽ったとも言える。イラン国会が2005年5月

15

日にその旨を定めた法案を可決したこ とはすでに述べたが、05年

11

21日にもイラン国会は、もしイランの核問題を安保理に付

託するならば、イランは、①自発的に停止しているウラン濃縮関連活動を直ちに再開する こと、②「追加議定書」の暫定適用を直ちに停止すること、を政府に求めるという趣旨の 法案を可決した(52)

イランが核武装すべきか否かについてイラン国民の意見は分かれ、むしろ否定する意見 のほうが多いと思われるが、それとは別に、NPTで認められ、かつ他の非核兵器国も行なっ ている平和利用のための核燃料サイクルの建設まで否定されるのは許せない、という政府 の主張に同調する国民が多いのは事実であろう。英アクロニム研究所が指摘するように、

それは多くのイラン国民にとって、国家的プライドの問題としてとらえられるようになっ たのである(53)

2006

1

10

日、イラン原子力庁のサイディ次官は、イランが「核研究施設の封印を

IAEAの査察官立ち会いの下に解除して研究活動を再開した」と発表した。同次官は「この

封印解除とウラン濃縮とは関係がない」と述べたが、封印を解除した施設のなかにはナタ ンズの核濃縮関連施設も含まれていたことから、再び国際社会との間に緊張が高まった。

このようにイランが強気に出てきた背景には、上記のような国民感情に加えて、国際情 勢に対する読みもあったであろう。米ブッシュ政権がイラクのサッダーム・フセイン体制 を武力で崩壊させた当時は、イラン政府は次の矛先が自国に向かってくるのではないかと、

米国による軍事攻撃の可能性を真剣に恐れていたのではないかと思われる。しかし、その後 イラク情勢が手におえぬほど泥沼化してブッシュ政権の支持率が大幅に低下したのに加え、

石油価格の未曾有の高騰が世界経済に深刻な影響を与えている状況から、米国がイランに

(13)

対して軍事行動に出るという可能性は、当分ほとんどなくなったと思われたのであろう。

ドイツのメルケル首相が

2006

1

13

日、就任後初の訪米でブッシュ大統領と会談し、

イランがウラン濃縮関連活動を再開したことを「容認できない」と強く批判しながらも、

あくまで「外交的解決」の必要性を強調、ブッシュ大統領がそれに同意したことも、軍事 的オプションの可能性が大幅に減じたという印象を与えた(54)

(5) イランの核問題の安保理付託決定

こうした情勢のなか、米、英、仏、ロ、中の国連安保理常任理事国とドイツの6ヵ国(P-5 プラス1)外相と

EU

代表が

2006年 1

30

日にロンドンで会議を開き、イランに対し濃縮関 連活動の完全停止を求めるとともに、イランの対応次第によっては2月初めの

IAEA

理事会 で国連安保理に付託する決議を行なうこと、ただし3月のIAEA理事会にイランの保障措置 協定実施状況に関する事務局長の報告書が提出されるまでは安保理で具体的な審議を行な わないこと、などで合意をみた(55)。米国とEU側が制裁を先送りすることで譲歩したことか ら、ロシアと中国が安保理付託に賛成することになったものと思われる。

2006年2

2日に開かれた IAEA理事会は、同 4日、イランの核問題を安保理に付託する決

議を賛成多数で可決した。35ヵ国の理事国のうち、安保理の

5

常任理事国を含む

27

ヵ国が 賛成、反対は

3

ヵ国(ベネズエラ、キューバ、シリア)、棄権は

5

ヵ国(アルジェリア、ベラル ーシ、インドネシア、リビア、南アフリカ)であった。

決議は、イランに対し、①研究開発を含むすべての濃縮関連および再処理活動を停止す ること、②重水を用いる研究炉の建設を再考すること、③「追加議定書」をすみやかに批 准し、批准までの間適用すること、④核活動についての完全な透明性を維持すること、を 求めるとともに、事務局長に対して、イランの核問題について国連安保理に報告し、かつ この決議に対するイランの対応を2006年

3

月の理事会に報告し、同時に安保理に報告するこ とを求める、という内容であった(56)

イランのアフマディネジャード大統領はこの決議が採択されるとすかさず、原子力庁に 対し、ウラン濃縮関連活動の本格的再開と

IAEAの「追加議定書」の暫定適用中止を命じた

(57)。 もっともイランは、「追加議定書」に基づく「特別査察」は打ち切るとしながらも、従来か らの保障措置協定に基づく通常の査察は引き続き受け入れるという姿勢を示した。

なお、ウラン濃縮工程をロシアへ移行する案についてのイランとロシアとの交渉は、そ の後も続けられた。この交渉でイランは、商業規模での濃縮活動を一定期間ロシアに移行 することに同意したが、研究室レベルでの小規模な濃縮活動はイランで行なうことが認め られるべきだと主張した。ロシアは当初、イラン側のこの主張に理解を示したが、米国や

E-3がそれに強く反対したため、すべての濃縮活動の移行へと主張を変更し、結局、折り合

いはつかなかった(58)

6

緊迫するイランの核問題のゆくえ

1) 安保理での協議と安保理議長声明

2006年 2月 4日の IAEA理事会決議を受けてエルバラダイ事務局長は2

月27日、3月の

IAEA

(14)

定例理事会に向けて、イランの核問題に関する報告書を提出した。この報告書で事務局長は、

未申告であったイランの核物質・核施設・核活動に関するその後の動きを説明するとともに、

「IAEAとしてはこれまで、イランが核物質を核兵器あるいはその他の核爆発装置に転用した という証拠を何らつかんではいないが、しかし現段階では未申告の核物質あるいは活動が存 在しないと結論づけることはできない」と述べ、「イランの核活動の規模および性質に関し不 確実な点があることは遺憾であり」、「イランによる完全な情報開示がなお必要とされる」と 結んだ(59)

この報告を受けた

IAEA理事会は 3月 8日、非公開の会議を開き、問題を国連安保理に付託

するという2月4日の決議を再確認し、上記の事務局長報告書を安保理に送付することを決定 した。これにともない、国連安保理では3月半ばから頻繁に非公式協議が行なわれた結果、3 月29日にはイランに濃縮関連活動の全面的停止などを求める議長声明を全会一致で採択した。

その要旨は、次のようなものである。

すなわち、安保理は、①NPT加盟国が

NPTの規定にしたがい平和目的の核開発を行なう権

利を無差別に有することを再確認する、②イランの核活動に関し

IAEA

の一連の報告書や決 議に盛られた事態を深く憂慮する、③イランが研究開発を含む濃縮関連活動の再開を決定し、

追加議定書に基づく

IAEA

との協力を停止したことを深く憂慮する、④イランに対し濃縮関 連および再処理活動の完全停止を含む、IAEA理事会によって求められた事項の遵守を求め る、⑤かかる遵守がイランの平和的な核活動を保障する問題の外交的解決に資するものと信 じる、⑥IAEAの理事会および事務局長を強く支持するとともに、イランの遵守状況につき 事務局長が30日以内に

IAEA理事会および安保理に報告することを求める

(60)

2) 低濃縮ウランの製造と米国の空爆計画の報道

国連安保理の議長声明が出された翌日の

3月 30

日、イランのモッタキ外相はジュネーブ の軍縮会議において、イランはあくまで自国領内でのウラン濃縮関連の活動を継続する方 針であるという意思を表明した(61)。これと同じ頃、イランがナタンズの濃縮施設で濃縮度 を高めるための装置「カスケード」1基分に当たる

164個の遠心分離器の設置を終えたこと

が報じられた(62)。そして4月11日にアフマディネジャード大統領は、核燃料サイクルに必要 なレベルの濃縮ウランの製造に成功したことを発表し、「いまやイランは核技術保有国の一 員となった」と宣言した。同日、アザガデ原子力庁長官が明らかにしたところによれば、

製造に成功したのは3.5%の濃度の濃縮ウランであったと言われる(63)

こうしたイランの動きを牽制する狙いもあってか、同じ頃米国では、米軍がイランの核 関連施設を標的とした空爆作戦をひそかに検討中であるという報道が相次いだ。先にイス ラエルの核に関する著作で紹介した著名なジャーナリスト、セイモア・ハーシュは、4月

17

日発行(電子版は

4

月8日)の『ニューヨーカー』誌に、ブッシュ政権がイラン国内での秘密 情報活動を強め、深い地下壕に隠されたイランの核施設を破壊するため、戦術核をも使用 する空爆作戦を立案中であるという長文の記事を寄せた(64)

4月 9

日付の『ワシントン・ポスト』紙もまた、ブッシュ政権がイランへの軍事行動を検 討中で、国防総省や中央情報局(CIA)の計画立案担当者たちがイラン国内の攻撃目標を探
(15)

索中であるという記事を一面に載せた(65)。同じような記事は、『ボイス・オブ・アメリカ』

(VOA)や『トロント・スター』紙などでも報じられた(66)。もっとも、『ニューヨーク・タイ ムズ』紙は4月

11

日付の社説で、「政府が複雑な問題を軍事的手段で性急に解決しようとす れば、いかに取り返しのつかない事態を生むかはイラクの現状が物語っている。米国の軍 事的オプションの宣伝は、イラン国民を急進的なイスラム主義政府の下に結集させる効果 しか生まない」と、こうしたキャンペーンを厳しく批判した(67)

また、ハーシュの記事で、米軍のイランに対する空爆計画には戦術核の使用も選択肢の なかに入っていると報じられたことから、米国の著名な物理学者たちは5月18日、ブッシュ 大統領に対し、「イランへの戦術核の使用は米国と世界を破滅に追い込む」と、厳しく自制 を求める声明文を発出した(68)

(3) 難航する決議案作成と意気軒昂なイラン大統領

すでに述べたように、3月

29日に採択された安保理議長声明では、IAEA

事務局長に対し、

イランが要求された事項の遵守状況につき30日以内に

IAEA

理事会および安保理に報告する ように求めていた。このためエルバラダイ事務局長は4月

28日に報告書を提出したが、イラ

ン側の態度がまったく変わらなかったため、内容は2月27日に同事務局長が提出したものと ほとんど同じであった(69)

そこで安保理では、イランの核問題に関する決議案の作成につき非公式の協議が行なわ れた。英仏両国は、米国の主張に沿い、国連憲章第7章に基づく制裁の可能性を含んだ原案 を作成して提示したが、中国とロシアは安保理で決議を採択する前になおイランと交渉を 続けるべきだと強く主張したため、結局、合意には至らなかった(70)

このような折、予期しない出来事が起こった。それは、イランのアフマディネジャード 大統領が在テヘランのスイス大使館を介し、ブッシュ米大統領に長文の手紙を寄せたこと である。ライス米国務長官がAP通信に語ったところによれば、5月

8日付のこの手紙は、17

18

ページにも及ぶ長文のものだが、その内容は歴史や哲学や宗教に関する「説教」を 長々と述べたもので、核問題など当面の重要な問題に関しては何の重要なメッセージも含 まないものであった。ブッシュ大統領はこの手紙には取り合わない態度で終始し、米国で は手紙の内容の公表さえ行なわれなかった(71)

アフマディネジャード大統領はまた、5月

13日にバリ島で開かれたイスラム開発途上 8ヵ

国(D8)首脳会議に出席するためインドネシアを訪問、参加各国(インドネシア、マレーシ ア、パキスタン、エジプトなど)に自国の核エネルギー開発への支持を訴え、さらに

6

月15日 には、上海で開かれた上海協力機構(SCO)創設5周年記念首脳会議に準加盟国首脳の一人 として出席、エネルギー協力での結束を訴えるなど、意気軒昂ぶりを示した。

4) 米国の対イラン交渉参加の意思表明

ライス国務長官は5月

31

日、イランがウラン濃縮関連および再処理の活動を検証可能な 形で完全に停止することを条件に、米国はE-3/EUがイランと続けてきた核問題の交渉に参 加する用意があるという方針を発表した(72)。すでに述べたように、米国は

1980年にイラン

と国交を断絶して以来、イラン政府とは公式の交渉をいっさい持たないという方針をとり
(16)

続けてきた。そればかりか、ブッシュ政権はイランを「悪の枢軸」のひとつに位置づけ、

あたかも「政権転覆」が不可欠であるかのような議論を展開してきた。

イランの核問題に関しても、米国以外のほとんどの国は、イランはNPTの加盟国として、

本来的に平和目的のための核の研究・生産・利用を発展させる権利を持つけれども、イラ ンが長年にわたり

NPT

で定められた保障措置協定上の義務に違反し「ごまかし」を続けて きたがゆえに、核武装につながりかねないウラン濃縮関連および再処理の活動については、

その権利は「行使できなくなった」というスタンスをとってきたのである。

しかし米国は、本来的に「悪者」であるイランには核技術そのものをもたせるべきでは ないという方針をとってきた。ロシアによるイランの原発建設に強く反対したのも、こう した方針に基づいていた。しかし、米国がこうした方針をとり続ける限り、米国以外の 国々がいかにイランと交渉して妥協を求めても、説得力を欠くことになりがちである。な ぜなら、イランは、もともとイランに核技術をもたせまいとする米国の強い圧力の下に差 別的な措置を押し付けようとしているのではないか、と疑ってかかるからである。事実、E-

3/EUが2005

年8月

5日、イランに提示した「長期協定」案に含まれた内容が、イランに要求

するものがきわめて厳しいのに比し、代償として与えるものがきわめて曖昧であったのは、

米国によるイラン敵視政策が障害となっていたからでもある。

その意味からすれば、米国が従来の方針を変えたことは、イランと交渉してきた米国以 外の国々にとって、歓迎すべき事態であった。もっともライス国務長官は、「イラン体制の 本質については、誰もだまされない」と述べ、この方針変更によって米国がイランの現体 制の正統性を全般的に認めたわけではないことをつけ加えた。他方、イラン側では、モッ タキ外相が「核問題で米国と交渉する用意はあるが、前提条件としてイランの本来的権利 を放棄せよというのでは話にならない」と述べるなど、受け取り方は概して冷淡であった(73)

5

6

ヵ国(P-5プラス

1)による新たな包括提案

米国がこれまでの方針を変え、前提条件つきながらもイランとの交渉に参加する姿勢に 転じたことにより、従来別々にイランに対応していたE-3/EUと安保理常任理事国は、一体 となって新たな包括提案をイラン側に示す態勢が整った。すなわち、ウィーンにおいて協 議を続けていた安保理の5常任理事国(米国、英国、フランス、ロシアおよび中国)にドイツ を加えた6ヵ国(P-5プラス1)は

6月 2

日、イランに提示すべき新たな包括提案について合意 に達した。そして、その包括提案は6月

6

日、テヘランを訪問した

EU

のソラナ共通外交・

安全保障上級代表によって、イラン側に手渡された(74)

この包括提案は、本稿脱稿の時点(2006年7月18日)ではまだ公表されていない。しかし、

ABCニュースに漏らされた「草案」

(text of draft proposals)なるものが、英アクロニム研究所 や英米安全保障情報評議会(BASIC)のリポートで報じられた(75)。報じられた包括提案の

「草案」は、次のようなものであった。

すなわち、「相互尊重ならびにイランの核計画がもっぱら平和的なものであるという国際 的信頼の樹立に基づいてイランとの関係および協力を発展させ、その目的のために、IAEA に提出され、かつ安保理決議により承認されるべき包括的協定の新たなる交渉を始めるべ

(17)

く」、国際社会はイランに対し、①平和目的の核エネルギーに対するイランの奪い得ない権 利を再確認し、民生用核計画の発展を政治的に支持する、②IAEAの枠組みのなかでイラン に合弁事業による新たな軽水炉を建設することを支持する、③交渉再開に当たって安保理 でのイランの核問題の審議は停止する、としている。

他方イランは、①IAEAへの全面的協力により重要かつ国際的に危惧されている問題に応 える、②すべてのウラン濃縮関連および再処理の活動を停止し、交渉継続中はその停止を 継続することを約束する、③追加議定書の適用を再開する、こととされる。

(6) 包括提案で示された「アメ」と「ムチ」

次いで「長期協定」の交渉においてカバーされるべきイランへの将来の協力(いわゆる

「アメ」)を、核の分野、経済の分野、政治の分野に分けて列挙している。まず核の分野では、

ユーラトム(EURATOM)とイランとの協力協定と合弁事業による新軽水炉建設への支持が 挙げられる。次に経済の分野では、①WTOを含む世界経済へのイランの統合に対する支持 とイランとの貿易・投資関係の拡大、②イランによる新型航空機の購入を含む民間航空部 門での協力、③インフラやパイプラインの建設を含むEUとイランとのエネルギー面での長 期的協力、④ハイテク分野での協力、が挙げられる。

経済分野の項目はさらに続くが、そのなかでも注目されるのは、核に関連した次の項目 である。すなわち、⑤アイソトープの生産や医療および農業への適用研究を含む核エネル ギーの研究開発面での協力、⑤ロシアに作られる国際核燃料サイクル・センターにイラン はパートナーとして参画し、イスファハンの核転換施設で作られた六フッ化ウランをそこ で濃縮するとともに、核燃料バンク(ストック)を創設してイランのために

5年間、核燃料

供給を保障する、というものである。

経済分野の最後には、「モラトリアムの再検討」という項目が置かれている。そこでは、

次の3つの条件が整った場合に、あらゆる側面において協定を再検討する条項を協定のなか に含めるとしている。そして、3つの条件とは、(a)すべての重要かつ危惧された問題が解 決され、かつイランには未申告の核活動や核物質の転換が存在しないことをIAEAが確認し、

(b)核分野での新たなる活動が民生用計画のためであるという信頼できる、かつ経済的に合 理的な根拠をイランが示し、(c)イランがすべての義務を果たし、かつイランの核計画がも っぱら平和目的のためであるという信頼が回復されたことをIAEA理事会および国連安保理 が決定する、ことである。

もし、この「モラトリアムの再検討」の項目が、このとおりであるとするならば、イラ ンは「自発的な停止」(モラトリアム)を求められたすべての核濃縮関連および再処理の活動 を事実上、無期限に停止することを求められるとも解される。なぜなら、ここに挙げられ た3つの条件をすべてクリアすることは、「国連安保理の決定」という条件ひとつを取り上 げただけでも、まず不可能だと思われるからである(米国一国が反対するだけで安保理の決定 はできないからである)。

次の政治分野では、①湾岸の安全保障を含む地域協力への支持、②中東において非大量 破壊兵器地帯化を構築することへの支持、という2点が挙げられる。

(18)

報じられた「草案」では、イランが協力を拒否した場合の「ムチ」として、次の2つの分 野に分け、さまざまな項目を列挙している。ひとつはイランの核およびミサイルの計画に 対処する措置であり、それは、①それらの計画にかかわる物資および技術の禁輸、②計画 にかかわる組織および個人の資産と取引の凍結、③計画にかかわる個人の旅行禁止、④

IAEAの技術協力の停止、⑤計画にかかわる企業への投資の禁止、⑥イラン人の核やミサイ

ルの開発にかかわる学科の外国での学習禁止、となっている。

次に政治的・経済的措置として、①

2国間関係の縮小・凍結、②特定の高官への査証・旅

行の禁止、③イラン政府と密接にかかわる個人および組織の資産凍結、④イランへの武器 禁輸、⑤特定資材(高度な石油・ガス関連資材など)の禁輸、⑥イランの

WTO

加盟への支持 撤回、⑦特定部門でのイランへの協力・投資の禁止、⑧イランの金融機関の資産凍結、が 挙げられる。

7) イランの回答遅延から再び安保理へ

6ヵ国の包括提案に対するイラン側の反応は、当初はかなり肯定的であるように伝えられ

た。例えば6月

6

日に

EU

のソラナ共通外交・安全保障上級代表から包括提案を手渡されて 会談を行なったラリジャーニ最高国家安全保障会議事務局長(核問題交渉の最高責任者)は、

会談後、「提案には肯定的な部分もあり、また曖昧な部分もある」とイラン国営放送で語っ た(76)。別にソラナ代表と会談したモッタキ外相もまた、「会談は新たな展望を開いた」と記 者団に語った(77)

しかし、その後の報道によると、ソラナ代表がイラン側に手渡した包括提案の内容が、

報じられた「草案」と果たして同じものであったのかどうか、きわめて疑わしいところが ある。例えば6月

12日の『ニューヨーク・タイムズ』紙の報道では、ラリジャーニ事務局長

が、「包括提案にはイランが濃縮停止を拒否した場合の制裁に触れた部分はなかった」と語 っている(78)。同じ日の『ワシントン・ポスト』紙も、「6ヵ国はイランが提案を拒否した場 合にとるべき制裁措置を策定したが、ソラナ代表が包括提案をイラン側に提示したなかに は、肯定的雰囲気を保つため、これらは触れられなかった」と報じている(79)

当初は肯定的のようにみえたイラン側の反応は、その後次第に否定的なニュアンスを色 濃く示すようになった。6月12日から

15日まで開かれた IAEAの定例理事会では、イランの

核問題に関し、包括提案に対するイラン側の回答前ということもあってあまり激しい応酬 はなかったけれども、米欧側がウラン濃縮関連活動の停止を改めて要求したのに対し、イ ラン側は「前提条件がなければ交渉に入る用意がある。提案には前向きなところもあるが、

曖昧なところもあって、目下検討中である」と応じた(80)

アフマディネジャード大統領は

6

21

日、イラン中西部マハダンで演説し、包括提案に は疑問点が数多くあって仔細に検討を要するので、回答は「モルダドの月」の末(8月22日)

までに行なうつもりだと述べた(81)。これに対し、オーストリア訪問中のブッシュ米大統領 は、「理にかなった提案を分析するには、長すぎる」として、イラン側の遅延作戦を厳しく 批判した(82)。7月

11

日にブリュッセルでソラナ代表と会談したラリジャーニ事務局長も、

「包括提案は大筋で受け入れ可能」としながらも、「国際的なルールにしたがってイランを遇

(19)

することが必要だ」と述べて、回答についての明言は避けた(83)

このように、イランがいわば故意とも思われるような形で回答を遅らせていることに痺 れを切らした

P-5

プラス

1

6

ヵ国は

7

12

日、パリのフランス外務省で外相会議を開き、

包括提案に対してイランが「真剣に検討する意思を示していない」として、再び安保理で 取り上げて審議することに合意した。ドストブラジ = フランス外相が発表した共同声明では、

6ヵ国は「イランがウラン濃縮関連活動の停止など、交渉開始の前提となる行動をとらなか

参照

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