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1点に集中している。そして、中国基準や北京コンセンサスの有効

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(1)

はじめに

2004年にジョシュア・クーパー・ラモが『北京コンセンサス』

(1)を発刊して以来、中国で

は、全地球規模での経済危機を脱却するために、これまでの世界基準に代わる中国基準を 設定しうるか否かの議論が続いている。『上海国資』誌掲載の汪暉「中国の道の独自性と普 遍性」は、そうした中国基準の設定が可能であると述べ、その特徴を次のように分析して いる(2)

ノーベル経済学賞受賞者ジョセフ・スティグリッツが

2005年に訪中した際、清華大学で

中国の改革をめぐる討論会が行なわれた。そこでスティグリッツは、ラモの「北京コンセ ンサス」を「ワシントン後のコンセンサスに対するコンセンサス」と言い換えたうえで、

中国の改革モデルが今後の世界に啓示を与えることを強調した。汪暉によれば、このモデ ルで焦点となるのは、「国家と市場の相互関係」である。中国の改革モデルは革命時代、社 会主義時期、改革過程の異なる3つを内包し、それぞれが鋭く矛盾するものである。だから、

中国基準は世界史上のいかなる成長発展とも異なる前例のないものであり、ワシントンの モデルの継承でも、その「複製」でもありえない。新自由主義者が想定したような自由競 争を原則とする基準とは異なり、国家を通じた市場のコントロールを図りながら、発展の 道筋は考えられるべきである。中国においては、「相対的に完備した工業体系、相対的に高 度なインフラ、中国革命の成果等」を内容とした、社会主義の歴史経験のなかで蓄積され た全資源が手がかりになる。今後の世界におけるこの中国基準の優位性は、現在も継続中 である社会主義の歴史経験における「創造と再創造」の一連の過程において検証されるだ ろう。

では、社会主義の歴史経験における「創造と再創造」とは何か。現在、中国の改革の担 い手たちの関心は、この

1点に集中している。そして、中国基準や北京コンセンサスの有効

性を検証する過程で、中国の改革を世界史のなかに位置付けることや、世界史の大胆な読 み換えが進行しているのである。ここに

2010年の中国読書界の話題をさらったひとつの書

物が登場する必然性があった。

1 500

年間、誰が歴史を書いたのか

ユーゴスラビア中国大使館に対する米軍による空爆事件(1999年)が起こったとき、34歳

(2)

の青年が書いたある評論(3)が世論の強い関心を集めた。「われわれは同質化された世界を受 け入れるのか」と題されたその文章は、国際政治の実態が当時の先進

7ヵ国

(G7)による世 界経済の寡頭支配にほかならず、彼らが主張する個人の自由主義なるものが民族・文化・

価値におけるヘゲモニーを放棄させる陰謀であると非難した。著者は韓毓海。注目された のはその議論の正当性の是非ではなく、その議論を支える思想的エートスが、中ソ論争時 の「九評」を彷彿させるものであったことだった。例えば上海の蕭功秦は、韓毓海の論法 を文化大革命の亡霊の復活と評した。

それから9年後の

2008年 9

月20日―。リーマン・ショックの直後、北京大学教授でニュ ーヨーク市立大学の訪問教授を務めていた韓毓海は「反面教師の価値」(4)を発表する。金融 危機に際し国家が財政面や国際金融業務における主導権を確立することの重要性を記述し たものだった。彼はそのなかで、1970年代初頭に債務国に転落したアメリカが作り上げた 国際秩序を「さかさまの世界」と呼び、「1972年以後のアメリカの超弩級のヘゲモニーの神 秘性」が、債務国かつベトナム戦争の敗者という負の遺産を隠蔽する「アメリカという記 号」に由来するものにすぎないと非難した。反響は大きかった。文章はネット上に次々と 転載され、韓毓海は新左派の論客として以上に、国際関係に関する優れた書き手という評 価を得た。

2009年 12月、韓毓海の大著『500

年間、誰が歴史を書いたのか―

1500年以来の中国と

世界』が出版された。500年の世界史とは、大航海以来の近代世界システムの支配する時代 である。中国にあっては、明末清初以来、清朝中期の繁栄を経てから、一転して西洋列強 の半植民地化に呻吟する苦難の時代である。これまでの世界史記述が問題にしてきたのは、

過去にどのような出来事が起こったか、そうした出来事の意義は何かということであった。

しかし、新左派である韓毓海が問題視したのは、そうした世界史記述は「誰」によって書 かれたかということである。歴史的事実が事実として認知されるには、事実を因果関係に 基づいて記述する記述者の視点が不可欠である。事実は客観的で不動であるとは限らない。

視点が相違すれば事実は変わるのではないか。イタリアのマルクス主義者グラムシが述べ たように、それは歴史記述のヘゲモニー問題に帰着する。では、近代世界システムの500年 間を記述したのは「誰」なのか。韓毓海によれば、それは「現代資本主義世界体制の支配 者である金融資本」(5)にほかならなかった。

この世界史記述のヘゲモニー問題を明らかにするために、韓毓海は「長い16世紀」、「長 い19世紀」という概念を用いた。前者は中国経済史におけるカリフォルニア学派を代表す るケネス・ポメランツ『大分岐―中国、ヨーロッパと近代世界経済の形成』(6)から、後者 は『新左翼評論(New Left Review)』の重鎮であった故ジョヴァンニ・アリギ『近代世界シス テムの混沌と支配』(7)からヒントを得たものである。

「長い16世紀」とは、1350―

1850年の 500

年間を指し、世界貨幣システムが銀本位制から 金本位制へと移行する過渡期である。明朝は

1567年にそれまでの海禁政策を放棄し、南洋

貿易へと踏み出した際、白銀(紋銀)を国際貿易の決済手段とした。以後、中国は18世紀半 ばに世界で流通する白銀の実に3分の1を独占しながら、貨幣主権を掌握することには失敗

(3)

し続け、銀資本の海外流出を止める手立てを欠いたまま、1850年以降、イギリスの金本位 制を柱とした近代世界システムへと強制的に編入される。このように貨幣主権を次第に喪 失し、国家経済のイニシアティヴを外国に奪われたことが、19世紀以後の中国の半植民地 化を決定付けたのであり、従来のマルクス主義経済学が仮定したように、従属的地位への 転落はアヘン戦争の敗北によって突然始まったものではない、というのが韓毓海の見方で ある。

ここから現代に続く「長い19世紀」が始まる。「長い

19

世紀」とは、1689年のイギリス 名誉革命以後、1915年の第

1

次世界大戦終結まで、西洋とアジア・アフリカの社会的不均衡 を背景に、西洋がアジア・アフリカの植民地化と富の収奪を通じて、市民社会の発展や国 民国家形成を進めた時代である。マルサスの人口論が仮定した、無限級数的に膨張する人 口爆発に対応した国民総生産の向上というテーゼが、この不均衡を内包した近代世界シス テムの内実を象徴している。

500年の世界史記述における文化ヘゲモニーとは、

「長い19世紀」を推進した人々が、そ

の近代世界システムの淵源を、自らとは起源を異にする「長い16世紀」に投影した営為を 指している。彼らが書いた世界史は、近代世界システムにおける中心と周縁の力学を、明 朝が海禁政策を放棄した大航海時代に投影し、世界市場と資本主義という19世紀の制度の 起源を16世紀に求めた作品である。「長い

19世紀」における文化ヘゲモニーは、こうして

「長い

16世紀」の文化ヘゲモニーへと置き換えられ、近代世界システムの優位性があたかも

16

世紀にまで遡ることができるかのような錯覚を与えることになった。言うまでもなく、

そうした転倒は「長い19世紀」の文化ヘゲモニーを掌握した西欧の金融資本が意図的に推 進した行為であった。

「長い19世紀」は、不均衡を内包した近代世界システムがその不均衡を解消するために、

大規模な国家間の総力戦を必要とした時代である。この時代に世界経済の高度成長が可能 であったのは、戦争によって自然や富の破壊と再生を繰り返したからであって、近代自由 主義経済学が述べたように、自由な世界市場における生産と消費のメカニズムが有効に機 能したからではない。むしろ「長い16世紀」において世界経済の中心であった中国の側こ そが、小農経済の「勤労革命」(杉原薫の命名)を通じてはるかに高い生産力を維持していた。

では、これまでの世界史記述を転換させる新しい世界史は、「誰」によって担われ、どの ように記述されるべきか? その方途は明らかである。「長い

19世紀」によって転倒され隠

蔽された世界史を、勤労革命の担い手であるアジア、中国の小農階級の手に取り戻し、ア ジアと中国の基層社会から、アジアの勤労革命の歴史を再記述することが、それである。

そして、韓毓海によれば、そうした新しい500年の世界史の構想は、中国革命が生んだ偉大 な1人の政治家、毛沢東の政治文書のなかに示されているのである。なぜなら、国家の貨幣 主権を回復し、中国が国際金融市場におけるイニシアティヴを行使するに至る基礎作りは、

1948

年12月31日、人民元を創始して、国際収支決済における中国の主導権を取り戻したこ とから生まれたのであった。これが1567年以来の中国の劣勢を挽回する大きな契機となる。

それは毛沢東の不退転の意志なしには実現しえないものであった。

(4)

「国民の財富は決してそのままでは国家能力に転化できないし、農村の蓄積と剰余も決してそ のままでは都市製造業の資本や動力に転化できない。なぜなら2つの間には強力な組織と支配の 架け橋が必要であり、厳格で効果的な会計制度が必要であり―そしてこれらすべてがまた中 央と基層の密接な行政体系によって支持されねばならず、言い換えれば、経済の発展は決して 自動的で自発的な過程ではなく、組織的な政治の支持、推進、保障が必要なのである」(8)

500

年の世界史の再検討を目的とする書物は、ここに及んで、現代中国が毛沢東とともに

1949年以来作り上げてきた「社会主義の歴史経験」の全面的な承認と宣揚の場へと変化す

る。汪暉と同じく、韓毓海においても、この歴史経験で焦点となるのは、国家と市場の相 互関係である。「長い

19世紀」を転倒させるのは、中央と基層を組織的かつ有機的に結合さ

せるという、国家と社会関係において毛沢東が創造した政治技術を措いてほかにはないか らだ。

『500年間、誰が歴史を書いたのか』という書物が、中国が国内総生産(GDP)において世 界第2位へと躍進した

2010

年に大きな注目を集めたのは偶然ではない。中国共産党の政治技 術の有効性を説き、中国勤労民衆こそ文化を主導すべきであると訴える本書は、中国経済 が名実共に世界の主役となった時代のイデオロギーを雄弁に代弁する書物として長く語り 継がれるだろう。

同書は、2010年度中国全国優秀図書第

1

位の栄誉を得た。

2

革命の隊伍に微笑みを―維権運動からジャスミン革命へ

韓毓海の『500年間、誰が歴史を書いたのか』は

2009年末の発刊以来、版を重ね、2010年 9月には増訂本を出版する運びになった。それと前後して韓毓海の他の書物も修訂版の出版

が相継いだ。『天下―

4周の夷狄を包容する中国』

(9)も、そのひとつである。ところで、そ の修訂版自序には、「人権」に関する考察のくだりに目を引く一節がある。孫文の「民権主 義」とフランス大革命の「人権主義」の相違点3つを論ずる次の箇所である。

「第1に、フランス人が提出したいわゆる『公民社会』あるいは欧州『市民社会』は、欧州以 外の民族を排斥し、欧州内部の賎民、農民、無産者を排斥するのみならず、それに加え、欧州 市民社会の自由発展をこれら人類全体の略奪と搾取の基礎のうえに樹立したが、孫文の『天下 を公となす』社会は、夷狄や賎民、下層民の最低生存条件の要求から始め、基層労働者の基本 的福祉の保障から始めている。第2に、フランス人が提出したのは工商業者の無限の金儲けを保 護する自由な社会だが、孫文の場合はすべての人々の基本的生存条件の保障を前提とした『小 康社会』、『民生社会』である。西洋の改良主義者による『人権と市民権の宣言』に対するその 後の補充・修正は、個人の私的欲望の自由な発展を保障し促進するために、個人の欲望が社会 全体を損なう全面的危機にまで達してようやく『マクロ・コントロール』の必要に迫られたも のだが、孫文が強調したのは、社会全体の構成員の基本的な生存条件の保障を第1に考えねばな らず、そうでなければ社会全体が解体してしまうということだった」(10)

この自序の日付と場所は「2010年

12月 12日、北京」となっている。韓毓海がここで「人

権」と「民権」の相違や、「民権」の優位性にかくも固執したのには、劉暁波ノーベル平和

(5)

賞受賞という同年10月の大事件の影響があると考えてよい理由がある。

劉暁波が張祖樺や滕彪など自由主義的な弁護士活動家たちと共同執筆した、中国版人権 宣言『08憲章』がネット上に公表されたのは、2008年

12

月9日のことであった。2009年

11

月23日には署名者は

1万人を超え、2010

年10月、劉暁波は中華人民共和国の国民として初 のノーベル平和賞を受賞する。

劉暁波のノーベル平和賞受賞は、1990年代から続く「人権」の特殊性と普遍性について の議論を再燃させることになった。劉暁波がアメリカのイラク戦争を支持する発言を行な っていたことが明らかにされるなど、彼の主張する「人権」の普遍性が、実はアメリカ的 な価値観に基づく特殊性に裏打ちされていることが暴かれ始めたのである。

ここで指摘しておかなければならないのは、1978年以後の中国政治経済改革が「人権」

を重要な争点として展開してきたことだ。「人権」という言葉が

2004年、中国憲法に明記さ

れるに至ったことは、そうした政治経済改革のひとつの到達点を示すものであった。ここ で、現代中国における「人権」闘争の歴史を、「維権の実践―個別事件の分析と経験の啓 示」(11)や、余世存主編『改革の死』(12)に基づきながら振り返ってみよう。

中国初の人権宣言は、任 町「中国人権宣言

19条」

(13)である。1979年

1

月6日に、民主の 壁と天安門広場英雄記念碑に公表された同宣言は、当時、4つの近代化に加えて第

5

番目の 近代化(民主化)を求めた魏京生の言論に対応するものだが、文化大革命後の新体制による 弾圧で、さらなる闘争は頓挫した。

人権闘争が再燃するのは

1990

年代後半であった。1997年、1998年に、中国はそれぞれ、

「経済的・社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約・

A規約)

」、「市民的及び政 治的権利に関する国際規約(自由権規約・

B規約)

」に署名し、グローバルな人権条約の世界 に加わった。2001年2月

28日、全国人民代表大会

(全人代)常務委員会は「社会権規約・

A

規約」を批准し、中国国内での人権保護の最低限の条件が整えられた(もっとも「自由権規 約・B規約」はいまだ批准されていない)。

2003年は、中国の歴史における人権闘争勝利の年として記憶される。その重要な契機と

なったのは、この年に起こった「孫志剛事件」であった。3月、武漢の大学を卒業後、広州 で就職する際、暫住証の携帯を怠った孫志剛が、「城市流浪乞討人員収容送還弁法」に基づ き、身柄を拘束された後、収容所内で暴行を受け死亡するに至った。良心的な法学者たち は結束して、収容送還弁法のうち、国民の人身自由を制限する規定が憲法や関連法案に抵 触するとして、条文の廃棄と改正を主張し、勝利した。中国の違憲立法審査制が大きく前 進した瞬間だった。以後、人権運動は「維権運動」と呼ばれ、民衆の人権擁護に奮闘する

「維権弁護士」の活躍が飛躍的に広がってゆく。

そして

2004

年、中国は「人権入憲」の年を迎える。3月

14日、

「中華人民共和国憲法修正 案」に財産権(第

1

章第13条「国民の合法的私有財産権」)と人権規定(第

2

章第33条「国家は 人権を尊重し保障する」)を追加する修正案が、第10期全人代第2次会議で可決された。これ を契機に、「政法系

6

大集団」と総称される裁判官、検察官、警官、弁護士、法学者・政治 学者・社会学者、全人代代表による改革運動が、ますます重要な意味を帯びてきた。

(6)

同時に、人権NGO(非政府組織)の幅広い活躍がみられるようになった。1998年に、黄 によって初の人権NGO「天網尋人事事務所」(現在の「中国天網人権事務中心」)が創設され たのを皮切りに、「公民維権網」「公盟」「維権網」「民生観察」「愛知行研所」「益仁平中心」

「中国公民維権同盟」「中国律師観察網」「伝知行研究所」「徳先生研究所」等、数多くの人権

NGOや関連ウェブサイトが維権運動を展開してゆくのである。

2008年 12

月の『08憲章』の登場には、こうした人権闘争の

30

年にわたる前史があった。

韓毓海は、フランス人権宣言のその後の歴史を「個人の欲望が社会全体を損なう全面的危 機にまで達してようやく『マクロ・コントロール』の必要に迫られたもの」と切り捨てる。

しかし、『08憲章』登場から劉暁波のノーベル平和賞受賞にかけて、全面的危機に直面した のは、中国国民の「個人の欲望」ではなく、「マクロ・コントロール」統治下の維権運動に ほかならなかった。

人権NGOウェブサイトの一大拠点「維権網」は2010年

7

月19日にハッカーの集中攻撃を 受け、同月

26

日、機能不全に陥った。その後、同サイトは「現代中国」サイトとして再開 されるが、現在もなおハッカーとの戦いを続けている(14)

ところが、こうした劉暁波のノーベル平和賞受賞を契機とする人権論争の最中に、予期 しない出来事が起こった。2010年末から始まったチュニジアに端を発する中東革命の余波 が中国にまで及んだのである。2011年

1

14

日のチュニジア革命は「ジャスミン革命」と も呼ばれ、革命の嵐はエジプト、リビア等に飛び火した。2月

19日、社会的不平等の打破と

いうスローガンに加えて、「中国のムバラク追放」、「劉暁波釈放」を訴えるデモへの呼びか けがネット上でなされた。2月20日午後

2

時、中国ジャスミン革命が始まった。

「中国 ジャスミン革命 発起者の声明」(2011年

2

月22日)には、汪暉が「北京コンセン サス」の主要な内容として肯定した社会主義的経験、あるいは韓毓海が世界史の書き手と して称揚した中国小農階級や基層社会について、2人とはまったく異なる現状認識と評価が なされている。

「われわれは見る、中国社会はすでに全面的に崩壊し、有毒食品は流通され続け、次世代にま で深い害を及ぼしている。中国専制政権はすでに信仰を失い、利益の分捕り団体と化して救い ようがなく、日々ファシズム化している。統治体制では官僚腐敗、汚職賄賂が横行し、司法の 独立が全面的に後退し、官僚およびその2代目が体制内のあらゆる資源を壟断する。社会の両極 分化は深刻で、貧富の差がさらに大きくなり、物価上昇とくに不動産の高騰は民衆の沸き立つ 怒りを招いている。国民の人権状況はことのほか劣悪で、任意の監禁や強権による失踪が広範 囲に発生し、メディアの検閲はますます厳しく、良知あるマスコミ関係者が頻繁にその職を解 かれ、『憲法』35条は有名無実と化し、民衆の財産が恣意的に略奪されて、立ち退きによって死 に追いやられたり自殺を遂げることさえ生じている。中国はもはや資源が暗黒で、環境が汚染 され、生態が破壊され、子子孫孫に害を及ぼすことが……」(15)

この声明書には発起人の署名がない。政治集会のあり方もこれまでの中国の示威運動と はかなり異色で、毎日曜日の午後2時に主要都市の繁華街の決められた場所に集まることが 示されているにすぎない。3月

1

日の集会公示からは「スローガンを叫ばず、花を撒かず、

(7)

一緒に散歩し、微笑みを」という方針が示され、「微笑み革命」という戦略は、これ以後の 運動の性格を規定するものとなった。

中国共産党の対応は矛盾したものだった。党の上層部は「革命」の事実は存在しないと いう態度を貫こうとしている。2月

23日の新華社通信が報じたように、趙啓正

(全国政治協 商会議外事委員会主任、元国務院新聞弁公室主任)が、党の主要な責任者としては唯一「ジャ スミン革命」という呼称に言及したのみで、2月

27日の温家宝総理の発言はその存在そのも

のを否定した。他方で、ジャスミン革命の取り締まりは、迅速かつ徹底的なものだった。

党は2月

20

日当日、維権弁護士等

100

余名の拘束に踏み切った。余英時(プリンストン大学 講座教授)がその談話で注目したように、外国人記者へのこれまでの友好的な態度は影を潜 め、報道規制の厳格さが際立ったものになっている。英

BBCをはじめ現場取材を試みた記

者の拘束、殴打、証拠物件押収といった事実が伝えられた(16)

4月に入り、ジャスミン革命は、過去の革命の記憶と連動するようになる。1976

4月 5

日、周恩来追悼と文化大革命批判を掲げた北京の民主化運動が起こったが、この四五運動 を記念する35年後の闘争が、ジャスミン革命の名で呼びかけられる。第

7

回目の呼びかけ文 である「四五運動35周年を記念する散歩公文」(2011年

3

月28日)には、こう記されている。

「韓寒の抗議は、直立し、沈黙することを選択した。学生が呼びかけた集会は日曜日午後2時 を選択し、やはりスローガンは叫ばず、沈黙によって抗議することを明言した」。

「あなたが怒れば私は微笑み、あなたが追えば私は逃げる/秩序を保ち手の内を出し尽くし/

感じるものは疲労のみ。こうした疲労はすでに古ぼけた機械の頭脳にまで届いているだろう」。

「集会を続け、散歩を続け、微笑みを続ける! 疲労が続くことは言うまでもない! 正真正 銘の9人の独裁者は疲労のなかで覚醒しなければ、疲労のなかで滅亡するだろう! これが結論 だ」(17)

この興味深い政治文書にはいくつかの注釈が必要だろう。韓寒とは、「80後」と総称され る1980年以後に生まれた世代の旗手である文筆家。彼の沈黙による抗議という闘争スタイ ルが、怒れる若者の広い支持を得ていることがわかる。ジャスミン革命とは、「80後」の政 治的自己表現なのである。そして静かな口調で、中国共産党中央政治局の常務委員全員が 痛罵される。だが最も目を引くのは、若者たちが今回の運動の最中で感じている「疲労」

感ではなかろうか。攻撃に対して反逆せず、むしろ一歩退いた地点からプロテストを続け る今回の運動のキーワードは、「微笑み」であり、「疲労」であり、この運動が有する高い倫 理性は、1989年の六四天安門事件のあの祝祭にも似た

100

万人平和行進デモに匹敵するもの である。

3

来るべき「北京コンセンサス」

1990年代半ばから始まる自由主義派と新左派の論争とは、中国の改革が中国基準と世界

基準(グローバリズム)のいずれに沿って推進されるべきかをめぐってなされたものだった。

中国は世界基準へと参画すべきだという自由主義派の主張は、経済面では世界貿易機関

(WTO)加入によって、政治面では先に述べた人権入憲によって基本的に果たされたと言っ

(8)

てよい。だが、新左派が非難したように、世界基準が実はアメリカ基準にすぎず、グロー バリズムがアメリカの国益を追認する方向でしか機能してこなかったことも紛れもない事 実である。1999年のユーゴスラビア中国大使館爆撃事件に始まり、2001年

9

11

日の米同 時多発テロ、2003年

3

月以来のイラク戦争、2008年

9

月のリーマン・ショック等、世界基準 の行使こそが、今日の国際関係を混迷に陥らせた元凶ではないのかという新左派の議論は 強い説得力をもつものだった。

しかし2005年を契機に、「ワシントン・コンセンサス」に代わる「北京コンセンサス」を 模索する動きが始まると、自由主義派と新左派のこれまでの議論の枠組みは、世界基準か 中国基準かという二者択一の問いかけから、中国基準は世界基準とするに足る普遍性をも ちうるのか、という議論へと変化した。グローバリズムという美名に隠されていたアメリ カの国家利益の存在を「ワシントン・コンセンサス」という表現は率直に認めた。これを 契機に、グローバリズムを中心に展開された中国の論争は、「ワシントン」と「北京」の間 の国家利益をめぐるせめぎ合いという文脈から進められるようになった。

ここで大きな争点となってくるのが、「北京コンセンサス」あるいは中国基準を構成する

「社会主義の歴史経験」(汪暉)についての評価である。

1949年以来のそうした歴史的総体は、

たんに革命時代、社会主義時期、改革過程という異なる

3つのモデルを内包しているだけで

はない。WTO加盟や人権入憲によって、これまで世界基準と考えられてきたものは、中国 基準に不可欠な構成要素となった。中国基準や「北京コンセンサス」はすでに世界的な普 遍性を有するものに変質しているのである。今後の中国が直面する課題は、この普遍性に 含意される鋭い亀裂をどう修復していくかであろう。

これまでみてきたように、世界史を書き直す主体である中国基層社会に関して、それが

「民権主義」のもとで基本的な生存条件を保障されてきたのか、異議申し立てのなかで搾取 と抑圧にさらされた存在として取り上げられるべき対象なのかについて、大きな認識の断 絶が存在している。北京コンセンサス(合意)内部のこの「意見の不一致」は、どのように 架橋されるのだろうか。韓毓海は、この問題について、毛沢東評価と関連して興味深い議 論を展開している。

ことがらは、1962年

1

―2月に開催された七千人大会(拡大中央工作会議)にかかわってい る。同大会において毛沢東は、社会主義改造の完成は階級闘争の消滅を意味しないと述べ た。それどころか、中国共産党が支配的地位についたことにともなう特権意識の跋扈や、

民衆に対する新しい形の搾取を撲滅することこそ急務である。党と国家は「官僚主義化」

した、と毛沢東は宣言した。社会主義社会が官僚主義化するのは、経済の下部構造とは異 なる発展過程を、社会の上部構造がたどるからである。そして、上部構造の諸問題とは政 治・法律の問題である以上に、文化と思想の問題であった。だから、党と国家が文化の主 導権(すなわちヘゲモニー)を掌握することは、官僚主義化を防ぐうえでの至上命題であっ たと言える。党の主導権とは、つきつめれば、文化の主導権にほかならない。文化を自ら 主導するために、毛沢東は

1962年から国家経営の第一線を退く。では、毛沢東の政治から

の撤退は、なぜ文化を主導する問題と結びつきえたのか。

(9)

「毛沢東は事実上、こうしたやり方によって管理者の権力に対して監督を進めたのである― こうした監督を採り入れたものこそ、マルクス主義理論、『人民の代弁者』の批評、自己批判と いう3つの方法であった。毛沢東の『第二線への後退』が党内分裂の開始であると言う者がいる が、こうした分裂はまず、(社会主義国家における)行政『管理権』と、(社会主義国家性質と しての)合法的『監督権』の分裂であった。これら行政『管理権』と合法的『監督権』の分離 は、確かに『社会主義民主』の実験形式ではあったが、問題なのは、この『監督権』が決して 制度化された方法、あるいは『法律』の方式で存在したのではなく、『革命導師』としての毛沢 東思想、最後には毛沢東本人の肉体において体現されたことであった」(18)

毛沢東は第二線に後退することで文化を主導しようとしたが、その試みは失敗した。な ぜなら、韓毓海が指摘するように、当時の管理権と監督権の分離は、制度の上で保障され たものではなく、毛沢東という超法規的な存在を通じてのみ可能だったからである。

しかし、この同じことがらのなかに、北京コンセンサス内部の「意見の不一致」を克服 し、新左派であれ自由主義派であれ、民権主義の唱導者であれ微笑み革命の青年であれ、

現代中国に存在するさまざまな意見の間の対話を促進する手がかりが存在するように思わ れる。

それは、現代中国の行政「管理権」と合法的「監督権」を分離し、文化の「監督権」に よって国家の「管理権」をチェックする仕組みを制度化することである。「管理権」とは端 的に言えば、中国共産党が堅持する一党独裁の政治システムである。この一党独裁制を中 国共産党が近い将来に解消する可能性はほとんどない。西欧の三権分立制度に倣った政治 体制改革を推進する意志を、彼らがもたないことも言うまでもない。しかし、過去に孫文 が五権憲法を構想したように、権力の相互チェックを担保する政治改革を中国が頭から拒 否し続けると考える理由もないであろう。韓毓海が毛沢東と関連して述べた二権分立構想

(管理権と監督権の分離)は、そうした可能性を含むものである。

文化を主導する「監督権」による国家権力の点検と統御。読者はすでに気付かれたであ ろうが、これは『500年間、誰が歴史を書いたのか』に示された戦略、中国の基層社会が文 化を主導することを通じて、現代中国の文化全体を、そして政治経済を変革してゆく構想 にほかならない。

1976年の四五運動から維権運動を経て、ジャスミン革命に至る現代中国の異議申し立て

は、「国家と市場の相互関係」の問題点を告発するものだった。とりわけ、国家と市場が癒 着した相互関係自体を批判するものだった。その際、これら異議申し立てが一貫して追求 してきたのは、国家の管理権に対して文化の監督権の側から批判を加えるという文化ヘゲ モニーの戦略であった。

今後の世界基準となるであろう「北京コンセンサス」とは何か。それは、特定の国家利 益を世界基準としてきた「ワシントン・コンセンサス」を相対化するような、文化批判を 主導する政治技術の創造であり、文化ヘゲモニーを広く民衆の側へと取り戻す政治改革の 継続である。

(10)

1 Joshua Cooper Ramo, The Beijing Consensus: How China’s Authoritarian Model will Dominate the Twenty- First Century, Stefan Halper, 2004.

2) 汪暉「中国道路的独特性与普遍性」『上海国資』20114月12日(http://www.xinguozi.com.cn/

magazine/show/237)

3) 韓毓海「我們是否要接受一個同質化世界」『二十一世紀』1999年8月号。

4) 韓毓海「 反面教材 的価値」『緑葉』第11期、『世界博覧』第11期(http://www.wyzxsx.com/

Article/Class16/200811/57509.html)

5) 韓毓海『五百年来誰著史:1500年以来的中国与世界』、九州出版社、2009年、21ページ。

6 Kenneth Pomeranz, The Great Divergence: China, Europe, and the Making of the Modern World Economy, Princeton University Press, 2000.

7 Giovanni Arrighi, Chaos and Governance in the Modern World System, University of Minnesota Press, 1999.

8) 前掲、韓毓海『五百年来誰著史』2009年、213ページ。

9) 韓毓海『天下:包納四夷的中国』、九州出版社、2011年(初版の刊行は2004年)

(10) 同前、2011年、9―10ページ。

(11)「維権実践個案解析与経験借鑑」「維権網」2009年10月15日)

(12) 余世存主編『改革之死』、夏菲爾出版有限公司、2008年。

(13) 任 町「中国人権宣言19条」、任 町主編・中国人権同盟『中国人権』第1期、1979年2月。

(14)「再有関注中国人権網站受攻撃」2010年7月30日(http://news.boxun.com/news/gb/china/2010/07/201 007300953.shtml)

(15)「中国 茉莉花革命 発起者的声明」2011年2月22日(http://08charterbbs.blogspot.com/2011/02/blog-post_

4827.html)

(16) 余英時「政府対国内茉莉花聚会為什麼那様緊張?」2011年3月6日(http://news.boxun.com/news/

gb/pubvp/2011/03/201103061148.sht)

(17)「紀念四五35周年散歩公告」2011年3月28日(http://blog.boxun.com/hero/201104/molihuagemingfaqiren/

9_1.shtml)

(18) 韓毓海「 漫長的革命 ―毛沢東与文化領導権問題」200711月4日(http://www.hybsl.cn/bei- jingcankao/ beijingfenxi/2008-02-15/7356.html)

おがた・やすし 神戸大学教授 [email protected]

参照

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