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︐工
■︑
遊
一丁
矛
二十四祖 御修行記
一上一河
野 憲
善
編 者 序
水戸彰考館蔵﹁遊行二十四代不外上人修行記﹂をここに上梓する︒
原本は和綴七十四丁︑コ一十四祖御修行記完﹂とある︒時衆にも一般に
も稀観の書であり︑室町期の著述で未だ世に公にされないものが今日
なおあることは︑寧ろ驚異でさえある︒巻尾に一海上人践があり︑文
政四隼智阿が筆写したもの︑その原本は二十五代仏天上人自筆のもの
であることが断ってある︒
不外上人︑もと臨阿其阿︑永正十五隼近江上坂乗台寺にて賦算︑永正
十七年豊州西教寺に独往︑大永六年五月十七日入減︑六十七歳︒不外
上人は十六代南要上人資︑十九代二十代二十二代上人同門であり︑二
十代資仏天不去上人に嗣法されている︒し
文意時に難渋︑まま字体明瞭を欠く︒
甘四祖御修行記
永正十五年戊寅五月廿七日︑廿四祖近江国上坂乗台寺にして化導う ヅギけつかせ給ひて︑次のあしたやわたの神光寺へ移り給ひて大菩薩の宝 殿において︑代々うつりの時の佳例にまかせ行事あり︑其次に奉らる㌧寄︑ 此法の道ふみそめて名にしほふ神の光りの寺に入哉そのおりふし上坂に宝融庵主梅湖と云者僧御定り夜︑かの席をうか㌧ひみて作て献せらる㌧二絶序略之︒ 二月散人梅湖拝稽籟︒ 二 一ア ニ ンム ス黄落山川不レ似レ春 用二時行化一好二縁因一丁寧勧我称二名号一瀦酒酉方一主人 リ海衆入杜巨多干 笑殺東林十八賢 雑念専心陶謝在 遊行化廣感二神天一 ︵マ・︶ 上人和給厚略一鵡︒ ノ モ ︵カ︶ ノ ノ大雅詩翁冬亦春 松風羅月作二良因一乾元亨利掌申士 美誉芳名海外
六十万人重百千 当時歴代聖兼賢 魔山祖業華東漸一持管吾今似レ ハ 人
侯レ天1 ︵マ・︶ 遊化之新主詫何拝和
抑此人は四書にわたり︑五経をきはむとかや︒申にも周易を暁し︑詩
格熟せりと︒然間易の大躰乾元亨利貞の要を取侍るとのたまへり︒
同年十月九日酉時に故上人遷化ありしかは︑かさねて乗台寺へ移り給
ひて一七日の光陰を送り︑塔婆をたて給ふに意趣を作り︑褐を一首題 スせらる︒意趣の事はしけきを㌧それて是を客︒其偶云︑ ス ︵カ︶ノ ︵マ︑︶附法師々当レ莫レ窮 弥陀一教萬年通 応レ思肢提銀河浪 故聖販西湖
水東 其瑚遺弟図二真影一彼賛日︒
遊行二十四祖御修行記︵上︶ ︵河野︶ ︵マ︑︶ ツキテ リ ナリ五十四年販寂夕 称名声蜴月孤斜 法孫拝レ像祭如レ在 当座道場諸 ノ仏家法の師の今はの時に此外はことのはもなし南無阿弥陀仏かくて修行の地うつりかはりて男山へ詣給ひて手向奉らる㌧一首︑いにしへの我名といひし此法をひろむる道や神も守らん和泉の堺にて始ての会に発旬︑ ︵マ︑︶ ︵マ・︶露こほりふるや初雪あは地し万彼の天のさかほこの一滴艮国のはしめと成となれは今叉国々化儀の始の一旬におもはへ侍るとなん︒翌年已卯元日試筆︑江南風景日当レ新 元旦雲霞見二海浜一楊柳梅花早知レ節 泉州永福寺前春この春是より西の方兵庫浦に一遍上人の御旧跡へ参静を遂給ふへき心 ︵力︶あてにて同日の詠吾︑ 春はけふ西の空にと門出して生田の森に霞立なり ︵力︶叉過し歳暮一行三昧の心を今日かき出し給ふ︒
ノノ ニテ︵マ︑︶ ノ
諸仏立前三昧定 一心不乱念練閑 年々既去幾行力 門葉応レ昌萬歳間もろくの仏も交る法の庭にいつれの神か来らさるへき同しき二日会はしめに︑代々に梅つたへつたふる色香かな ︵カ︶当春之試筆□二拝閲一而泉堺市申之隠士霊斉庵主見レ知焉︒七旬之老僧也︒拝序︒夫当代上人者一昆大聖之遠衣間廿余世之高師也︒諸徳兼二数代一而一世傑20
遊行二十四祖御修行記︵上︶︵河野︶
出也︒是以接物利生之勲在二干一賛不レ覆之先一集︒弗二雷一行三昧一夙 ︵マ・︶而入二干儒門一尽二五軍之書一暇日遊二干詩場一熟二詩家三法一也︒可レ謂意
︵イン︶ ︵カ︶達也︒旬達也︒己夘之春和二新宇之萌千賜レ予清話之次使ニレ予拝閲一詩南 トンテ玲々然洗二耳塵一而也︒於レ是弗レ能二絨黙一強衙二前韻一蟹種語一絶一謝二
萬二以塞二尊答一云︒ 片雲子頓首
ル ︵カ︶尊和驚看字々新老頑慰レ意寂蓼浜清吟招得晩唐旬更事詩人一豊問レ
︵トラ︶ ︵マ・︶春廿三代上人永正戊弓五月十九日薩州鹿児島光明寺にして入滅
ありしかは申陰執行おはりて当代の修行の地へと遊行の大衆赴て豊後 ︵カ︶国よりをの7\乗船して次の年泉堺永福寺へ正月申旬の末に着ぬ︒時
に一老其阿弥陀仏へつかはさる㌧一首︑ ︵力︶舟なかす心ちしつらむさつまかた興こしまにありし別は
為廿三祖御吊之勤行結願の日高丈の塔婆を建立ありて意趣を述て拝偶
をむすひ給ふ︒
︵マ・︶ ス ノ ハ ニリ ハ行尽九州千里外死生有レ命払二寒灰一先師西域楽邦去遺弟東方泉国来
襲以︑究克無余之釈尊猶示二隻樹之方便一長寿勝妙諸天未レ免二五衰之愁
︵カ︶ 旦二祖賦算四十五ヲ指玉フ歎憂一夷︒麦当門徒第廿三世上人按二彼平生一集︒四十五歳而続二於先師之
入寂年四十九ヲ指歎高濁一四十九歳而感二於最後之沈痢一唱二滅度於薩州光明寺一遷二歯骨於豊
ニ テ ニ ヲ州称名寺一焉︒時数百之遺弟之心悲併如レ失二暗夜之行路灯一殆似レ離二江
ノ ヲ ︵右二挿入︶河之群魚水一実︒然会下之大衆僧尼老少以下至二非人癩者一令レ乗二三 夕四巨船一経二歴数月之光陰一凌二来乎萬里波濤一着二岸乎泉州堺浦一是雷代
タル 一 タル々祖意成二風帆一者也︒介然哉︑門下之法力︒蔚然哉修行之威光焉︒ ︵マ・︶抑余十歳勝二故聖之齢一夷︒例者元祖者五十一而入二浬絆一︑二祖者五十
︵マ・︶ ハ ン三而為二化主一給ム朱︒是皆遅速者出世之時機相応之由来也︒所以者何 ︵マ・︶ ソ尺迦者出二現干減劫一弥勒者出二世干増劫一焉︒魔山之恵遠公者兄也︒恵 二持法師者弟也︒而兄者保二長生一弟者為二早世一焉︒亦復釈尊者雄レ可レ ︵右挿入ス︶ 二為二弥勒之後仏一依二立撮即行之力一既招二越於九劫一分︒先二立於弥勒一分 ルト ヲ取二正覚一云々︒ ニ ヲ吾不レ知先人亦有二立撮即行之内行一歎︒叉吾不レ知予先世結二宿因於暁 二 一ア ︵マ︑︶劫一歎︒鳴呼是共以命也︒引レ古鑑レ今准的少桑也︒今日追膳之勤行事 ヘテ ス ハ ζ ンテ ンテ セン終而起立塔婆︒仰願法燈倍増光分亜二慈尊出世之壁門葉弥繁栄分期ニ ヲ ン星霜多劫之春一焉︒乃至百花干草生二菩提之菓一六凡四聖遊二功徳之林一叉回向之偶云︑ ル ノ ス ンテ白骨筆韓雲外士 古今仏祖有二西来一番々世々皆成道 残老断腸悲二 敬死灰一永正十六己夘年正月下旬日佗阿白 ;・・︶博多称名寺前住其阿繍灘瞥当年二呈福寺勧化逗留之牛有㍉契 呂 イ ヲ ニ侯一其瑚進献之一絶云︒欽作二野詩;早一呈二上人玉蓮坐下一以奉レ賀二踏昨之尊儀一︒ ︵マ・︶ 慈斤多幸 其阿九拝 ス︵マ・︶ ナリ タリ値遇竜花三会春 天光十界祖風新 残生研得聖時代 最上可憐最下身
︵ツク一 ノ卒廣二乎先韻一豚情見二干詞一集︒憶昔文王出世春 太公天下在レ相新
ヘ タリ ノ吾今添得此賢老 莫レ惜風前朝露身 ︵カ︶︵マ・︶ 行雲斎詫何
津の国柴嶋仏土寺其阿弥陀仏捧らる㌧短寄に云︑
なにはつに 咲やこのはな にほひつ㌧ つたへきにける
ことの葉は 神の御代より 川竹の なかれ久しく
たえせねは 今もはこやの 山かせの 枝もならさす
しつけしな
ためしにも
あふ坂の
くちはて㌧
なけきにも
四の御世
をろかなる
きこえあけ
花のいろえにしとも
おこさまし
法のみち御仏に
月かけの老か身の
うれしさを
となへける
かのくにの
返し
あすか井の
なれ/\て
をく露の雪をづみ
小車の わかの浦なみよその嶋まて関のし水にしつめる事はかはらさりける法の恵を身はしもなから春に逢ける野にも山にもなからの橋の是やむかしへ二の門をつたふる法を ︵カ︶いたらぬ方は朝に道をえやはつ㌧まむ声のうちより光のうちに深き心を ︵挿入︶みしは名残の玉をならへて学し窓も
我みはめくる そつたへにきこえつ㌧むもれ木のから人の.あはれさよかけまくもことの葉を心ちして匂ひてそなからへて ︵カ︶すへくきのさしなから 拡なそらへてあらしふくき㌧つ㌧もこ㌧ろなくこ.㌧をさる住にける哉汲伝へ花のかけ光あるいちしるく
道にいて
遊行二十四祖御修行記︵上︶ ︵河野︶ 行末まてのか㌧る世にしも人しれすのみ三代にもあはぬ ハタソヂかくて二十かたしけなしや天津空まて池の蓮の人をわたさむふるき道をも宮にて説しその暁の秋のもなかの雪をいた㌧くタにきえむなむあみた仏とこと遠からてあまたの春ににほふ詞に螢をあつめさても此世に遇こし方は 千はやふる法の師のうへ人と四の名をこ㌧ろなくくれてのちと㌧めんと代をかさねこきいて㌧しら浪の鳥かなくあけすて㌧心ちしていかにしておしこむることくさを津の国や 神の御山のあまねく照すあふく位は塵に続とやた㌧行水の百とせまてもおもひ返にうつりかはれは八重の塩路をたちゐに待てあつまのかたにおきに出ぬるよらむ方なきことに出つ㌧折ふしに今うち置かたみなにはのあしき 熊野より日の本の十といひちりの身の末とをくひろめつ㌧七とせののこる人しのきくる日をくらし玉くしにあま人の思ひをももうさむととりのあといひしらぬ・ 受はしめつるヨ モ西方の国迄二にあまる命おしまむ萬の年の此一こゑをうちにあまたの西の海より心つくしを夜をあかしつ㌧ふたつのところ船なかしたるいかほの浪のひとつの胸に送りし人の道にしあれは
ことの葉とみよ
かの短寄の作者ははやくの年より七旬にあまる迄難波津の道に望をか
け︑飛井の二楽軒宗世より印可せられ侍るなり︒あつまの方に二のと
ころとは見の㌧くに関の事をさせり︒
叉ある時仏土寺へつかはさる㌧詠可可に︑ ︵カ︶法をさへ捨ねとそとく老の㌧ち心と㌧むるしきしまの道
︵マ・︶法尚応捨何況非法の心とかや︒
叉ある人のかたより奉らる㌧寄に︑
︑22 遊行二十四祖御修行記i︵上︶︒︵河野︶
.あつまより弘し法も立春も君か恵に久かたのそら
となんきこえけれは御返し︑
東路にいたヶて遠き法の水たえし流を叉結はや ︵マ・︶津の国兵庫真元寺にτ諸神法楽に十百鵠を始給発句︑
花に月むかしの春のひかりかな
ところは福原の京の旧跡︑寺は 先祖上人の旧跡なり︒心を含給ふも
のか︒.. 二江州小野の宮へ参詣の時奉り給ふ一巻云︒
去永正十一甲戌春三月廿四日之夜︑瑞夢云︒
ンテ ニ︵マ︑︶ ヲル
予引二率於大衆一号参一詣干 当杜一分︒令レ経ご過申殿之回廊一分︒到二大ニ ヲニヲニテヲ
床一即掛二腰於縄床一向二面於南方一湛二温湯於内宋外漆之盤一欲二洗足一而ルニ リ ︑ンテ ンテク
見二彼器物一炊飯満二其申一︒干レ時有二恐惇之心一爾而神官命レ予日︑大上ヘ ヲンテシンヌ
人宝殿可レ有二入御一云々︒余即遂ゴ参内一号︑焼香礼拝而成二十念廻向一畢︒︵マ︑︶ テ テ ナリ此儀所レ懸 神慮也︒因以今日結一二褐一粗題二旨趣一者也︒
ソー−功ミ ︵マ・︶ ︵マ・︶ ケナリ■当時大聖与二尊神一 ヒ勅契盟其告頻 六歳夢魂逢二去歳一古今護法
我知レ真 永正十六已夘五月廿一日 廿四世他阿弥陀仏撤
アハス ヲ翌月再而相二遷干上坂乗台寺一給︒其時之詩井レ序︒
リニ︵カ︶ . ニフ
余再来之瑚至二干門外一号下レ於レ輿分即不レ入二干仏前一分︒向二先師上人二︐ . シテ ソム . ノ ミ︑ トンテ之石塔一︒時脱帽避履而令二長脆合掌一夷︒此剋有レ風無レ人而玉扉俄然
ケリ カ タリ ルニ ヲ ︵マ︑︶ノ ニ而開集︒併 聖君如レ在殆似レ蒙一尊命一弥発二輻仰心一倍銘二感涙肝一者也︒
テ ヲ ︵カ︶個以綴二拙偶一述二卑懐一云︒ 乞願昭鑑
レテ ニ ニ ル コノトキ ニク ソ スルカ ノニカ冬別ヒ 先師一夏此釆斯辰石室自然開 尊霊有レ語如二相対一何日同二 セン ノ ニ生半座台一叉真影前に奉らる㌧寄︑神無月去年の時雨のふる跡に叉袖ぬらす五月雨のそら近江国より敦賀へ赴き給ふころ︑国々大概飢饅し侍る問︑気比大神宮の御前の御道造りも要脚調へ難に付ては 神慮くもりなくしろしめすへし︒此度はさしをかれてた㌧法施のみはかりに参詣あるへしどの儀 ︵力︶定内の落居ありけるに︑その隣地井河の新善光寺へ移り給ひて後ある ︵力︶ ヤ・夜︑河越の宿相阿俄に発病にて前後不覚也︒良ありてかたりけるは︑ ︵マ・︶今夜う地まとろむころ御道造をなされんとて相阿承り公物の入へき限り注文を書て捧ると︑夢みてやかて振付ぬ︒此趣を披露に及はれて御十念あらは定て虫もしつまりなむと申︒則申夜の勤の始まるころ彼の宿所へ出させ給ひて御十念ありしかは︑御還りの㌧ちしつまりゐねていく程なく本心に覆しけり︒時に上人感歎ありて大上人の祖意も亦気比大神宮の神慮も一代の其数とおほすにこそとそ︒しからは冥慮にてかならす此度の儀式成就してんとよろこはせ給ひぬ︒果して六月十日に西方寺におはせしにはからす十一日に諸人合カの事ありける間︑午剋はかりに明日加例の儀式を遂へしとの給ひ出させけり︒誠に此度は 本ノマ・幣とりあへぬ程の事なるに︑海衆輻湊と来り集り瑞離の辺りより浜ひさしに到る迄道俗男女限をつゐて道去あへぬ程所せきなりき︒療したる道雀おこ心︑絶たるところを継せ草をけつらせ沙を運ひ侍に貴賎思ひくの衣服を着し老少取々の器物にて荷戴しける間︑辰時吉未剋はかりに造り納て︑其後惣門かたはらにたかく棚をかまへ餅子をつませ僧俗に手つからひかせ給ひ︑をはりて客殿に帰座ありて沐浴以後
太神宮へ大衆と共に詣給ひ焼香惣礼等恒例のことく行ひ侍りて短冊を
参らせらる︒法の師のつくり初し此道を伝て神にまうて執賀那
次の日︑上宮へ徒衆あまたの船にのり漕出らる㌧に︑俄に南の風吹出 リ ヒて幾程なく着岸ありて︑日申の行事執行給ひて︑叉船にのり押出させ
侍るに十町余の程は浪風もなく見えわたりしか︑やかて北風吹出て叉
々追手心のま㌧にして侍る間是則 神慮にこそとて一首を手向らる︒
けさはみなみ夕は北の風にして追手や船も神のまにく
をのく同撰奉の衆読薯︑着岸の後︑清書して神主一つかわさ ︵マ・︶る︒抑大上人御在世の時当津御逗留のう地︑近江国小野宮大菩薩の神 ︵力︶主法名炊阿に神詫有て云︑上人を当杜に請し奉るへしとしきりに告有
けれは︑海津へ御迎に舟を参らせらる㌧日は南風吹︑翌朝に乗船し給
ぺは北風になりて順逆意のことく侍しとなむ︒古今の不思儀符節を合
たるかことし︒是併末師の戒徳にあらす︑大聖と神慮との御契約の余
風なり.と信をとり給ひけり︒先条に注せることく去甲戌の仲春廿四日
︵マ・︶の 小野の宮よりの瑞夢に神官当代へ対し奉らる㌧大上人神殿へ入御
あれと云;自と廿四日の告︑廿四代を冥にあて給ふか︒叉此度井川お
いて御道造のさいそくと今日︒の南北両風の追手とふたつの御神と串︑
ふたつの在所と申︑二祖の時にかはらさるもの也と随逐の老僧批判有 ︵カ一き︒去程に十四日にきのめたうけを越給はんと荷造以下たやすかるへ
からす︒然れは船にてかうの浦へ七里の渡りをこし奉ろへき由︑とこ
ろの代官串ける間其旨に任せられけるに︑此渡海は難渡なりと人々申
あへるに︑叉俄に北風追手に吹出て半日斗に事ゆへなく船着ぬ︒しか
くして遊屋の宿と云所にて申飯を長崎の末寺よりと㌧のへけるに疾雷
︵カ︶なり暴風吹来り︑大雨軍軸をなかす程にふりあれけり︒此風雨半時さ
きにかくありしかは船皆難渡に沈むへしといひあへり︒弥おかの順風
遊行二十四祖御修行記︵上︶︑︵河野︶ 神慮の儀顕然たるものか︒同月十八日に五十八杜参詣有之︑前々のことく行事遇て︑一首を手向 ^挿入︶らる︒昔正応三隼に大上人へあすよりはたれにとはましの神寄を思ひ出給ひて︑木綿してをかけてやらしの法の師の其跡守れ萬代まてに長崎称念寺へ移り給ふ比︑光明院覚阿当住持の影像とて名号を申沙汰有しかは一首を題︑をくらる︒十あまり二の代をし続寺の称念は南無阿弥陀仏同ころ七タに︑天の河とをき流のま砂をやけふのあふ瀬の数に契りし月と日のめくらむ程は法の名も星の相瀬も絶しとそおもふ予州奥谷宝厳寺へ去三月津の国兵庫より人を遣され︑両尊の衆一処倶 〆カ㌧会の瑚なれは︑勤行声博士調子等指南のために当坊主召もよほさる︒然るに折節檀辺の儀につゐて差合事有て︑七月半に越前の国の兵庫光触寺に御移の刻︑参着有それより夜を以て日につき声をと㌧のへほと拍子の沙汰あり︑そのころ書て宝厳寺其阿へつかはさる㌧短可可︑たひころも はるのそらより たちいてん 事をしきそひやる文の 臆の使も 帰り釆て かたるをきけはしら浪の 八重の塩路を からくして 渡りし船の ︵力︶梶まくら 夢も結はぬ うきねをも うきなから叉こん人の 心つくしを かねて吉盲ひくて夏もすき 秋のはしめの ふみ月の 十日あまりにまちえつ㌧ みれはいにしへ なれ/\し すがたも老のさかこして 六十にちかき 翁さひ 人なとかめそ
拠
遊行二十四祖御修行記︵上︶︵河野︶
われはなお よはひの程も ますか\み ょそのうへて
をとろふ呑 我身のかけも みるはかり 涙いかなる
物なれは 逢かたく1して いまあへる 此うれしさを
つ㌧みかね うるほす袖と なりぬらん 是やしくれの
ふりをける ならの都に 寺たてし 祈のために
法の師を 月の名におふ 国よりも むかへし時に
難波江の 岸にあかりて よむ寄に しやかの御前に ︵カ︶契りてし 真如くちせす あひみつと いひし昔の
ことくさも 思ひ過せは こ㌧に叉 浮木の亀の
たとへまて まれの逢せに 思ひあはせぬ
右宝厳寺当坊主素生武州の人也︒十九代上人の御弟子になり︑本調声
をつとむる斗︑廿一祖の時代迄身命を尽せり︒即廿一代宝厳寺へ下向
せられき︒ ︵カ︶抑賀州潮津西光寺にやすらはせ給ふ折節︑越後より越申へ弓矢を取か
けて乱入あり︑然間修行の道前後を忘却し進退共にたよりをうしない
給ふ間︑長崎称念寺同末寺の年寄衆を召請せしめ両尊の衆儀平従しけ
れ共︑是非ひとみぢの異見にも及ぱれぬ間︑八月廿三日に此修行を先
︵カ︶ ︵力︸々さしをきをのく所縁にまかせちらすへきよしのたまひ出し給ふ
比︒夢想の告有︑時に詩拝レ序云︑ ノ永正己夘伸秋廿日之暁感二夢想一夷︒第二第三句也︒因以相二続於彼前
カ ヲ ニ後一耳即用二於唐人長継本鵠一︒然而後拝二進干聖廟之影前一集︒遊行廿四 ツル世他阿弥陀仏上︒ キ ノナル テ ク両旬神人示二夢申一青山不レ改旧時客来迎引接可二何日一眠覚猶聞半 ノ夜鐘. 西光寺にして五十日を㌧くり給ふうちに越後衆退散して越申衆無為に属してやかて出歩し給ふものなり︒八月十五夜の一会に︑ ︵カ︶月もわかかつらをおくらはこよひかな十九代上人の御影賛︑伊予の宝厳寺其阿所望に付て︑釈迦尊像在二清涼一済度万年盟約長 十九上人真影像 利生猶可二四州目一︐忘れしの其悌をうつし絵にむかふ度にや南無阿弥陀仏為二斎藤別当真盛一於二篠原一塔婆銘日︒ソノカミ ノ ノ当時魂晩結縁後累代祖師斯地来可レ識真阿成仏日高名錦服既 ナリト塵挨 ︵力︶ ト ノ聞説︒斎藤別当真盛者平家重職之良従武略無双之勇士也︒ 匹夫志冠ニ ノレ レヌ ニ ︵カ︶一十群侶一分忠節誉長二干衆臣一号︒然琴手此地一号討死畢︒碧吾祖第十 ヘテ ル・コト四世上人蜘二騒干西光寺一之醐︒彼亡霊観云仰願尊者得レ免二 於闘静之 ヲ ヘト トヅテ ニ苦域一令レ入二干和合之楽邦一給ギレ時法一手昔日之講一即見レ授二戒名於真︐ト ナル ナル ニスルコト ン ツカタ阿一︒臆喀時耶︒命耶︒如レ斯為レ之奈何︒自レ爾以還十一代之祖師当 ︵マ・︶ス ヲ所遷来之刻︒令レ起二立於塔婆一分祷二爾於仏果一集︒今亦予題二小褐碩一
ハス ヲ モ ク キ ニ ハンテ ント ニ ナル旗二其旨趣一者也︒抑世話日勤レ悪者翻叉勤レ善集︒誠哉此詞笑︒循々然
タルカナ タルカナ クハ乎仏祖之法カ︒悔々如乎精霊之願心夷︒希源平両家一陣一戦之軍勢乃 ︵マ・︶至修羅患苦之群属法界無差平等而已︒永正已抑年秋上旬日︒
ある時の会に︑ 旅宿夢 ︵カ︶さよ枕かりて越えはや飯にむすあはれわか身の夢の行衛を
山月
分ていつ日を叉みむ馬草かるかまくら山の露のふるみち ヲ越前幡岡仏徳寺十代坊主弟子彼影像とて名号串沙汰せし時︑呼レ名出
ス ノ現︒本釆仏豊借二工夫一聞二面目一︒
︵カ︶知や今なにの御法の道も皆南無阿弥陀仏の声有とは
廿二代一周忌卒塔婆之銘︑ セ トモレ ノ ノ ニナリ ノ春往秋来人不レ復 花開葉落我無レ忘 去年一別暁風夢 残月西明本有
朗観︒半日見レ花芳友之春契不レ浅一脅翫レ月来客之秋興猶深︒何況於二
ニレバ ノリ ︵力︶ レヤ
光大善知識之因縁一哉︒何矧於二附法相承之深恩一乎︒以レ麦先師清浄光
寺第廿二祖他阿上人相二迎諸還之辰一東西之大衆面々之志各々之営也︒
レ︿ヨリスヲ ︵ンヲ ヲ ニ
豚仏眼素照二寸心一福田空嬢二小善一乎︒仲尼日慎レ終追レ遠民徳販レ厚焉︒ テ ヲ メ ヲンテ抑故聖平日之風志諌二乎小弟一分勧二乎螢雪之学一果而欲レ令レ塾二宗之 ニ ク ヲ ﹂ ︵挿入︶ ノ法燈一訓二乎法侶一分琢二戒行之玉一遂而擬レ令レ為二一門之明鏡一者也︒此ノ スルニ ン外慈心之徳記録不レ違︒然間老若僧尼集二会干本誓寺二二日之勤行三夜 テ ニ ヘ ヲ之念仏時々刻々不断也︒尊霊定有一莱二臨干道場樹下一須下相二交自光於 〆 ニ フ . ンテ ヲ レ ヲ ナリ ︵マ︑︶ 二行道徒衆一給上︒価造二立於小母駄一述二作於小褐聖所レ備二報射之資糧一 クハ ノト ンコトヲノ ζ ヲ ニ ミ ︐ヲ焉︒庶幾已成二窮理聖一真有二遍空威一集︒倍布二慈雲於三界一弥注二法雨 ニ テフ ニ ヲ チ於十方一焉︒敢乞遺弟各至皐命為期之貝塑奉事師長之孝行一共待二来
迎引勤ち勘彰邦常住之伴侶一而已︒時嚢正易孟冬初九大衆噂
艮博多前住議其阿用一先塑見一奉一駕奉其阿九拝・
レカ レン廿二先尊歎二訣別一徳容温潤執相忘
ノ リ取光
叉 一ノ ニ欽奉レ供二 御遊廿二世一周忌辰牌前一
出世番々廿二雄 還釆穣国事二神通一
遊行二十四祖御彦行記︵上︶ ノ従レ元聖果自然躰伏乞霊鑑昭徹 ノ ソ十方済度今何処
一河野︶ ︵マ・︶善悪無レ差摂其阿稽類︒去歳別二南浮 ヲ日東一 ︵マ・︶叉上人追膳之御詠寄︑山のはの時雨もこれか一めくり月にしくる㌧おもかけの雲 十月なかはの比︑賀州梅田光摂寺へ移らせ給ふうちに奥谷宝厳寺下向に付て チトリ一会有御発旬︒ 忘れめや声に霜ふる小夜衛
同脇宝厳寺其阿︑ 茅原にさゆる月の河風
十月廿日光摂寺をた㌧せ給ふときのこし置せらる㌧彼前住は十二代坊
主に当れり︒平生帰命を先とし寺家を興せり︒濃州二岩に故上人在寺
の瑚両度参侯ありて一度めに往生をかしこにて遂侍り︑此刻梅田の山 ︵力︶なる大木の松開山以来の植木なり︒恋慕しけるにや坊主出行の時分よ
り色かはりて没後に枯ける程の道人なり︒誠に抜提河の四双の檀木に
ひとしきものか︒
夢うつ㌧おきふしそひてなき人の面影さらぬ宿の朝夕
道ありし人をはたれもしのふ草其たねのこせふるき軒はに
此心は当坊主を御いさめのためとかや︒
同国富田花林寺にて︑ 霜にいまみるさへ花の林哉
越申報土寺へ十一月十一日に移らせ給ふ︒此寺は上人三十余年居住の ︵カ︶地なり︒近きわたりに朝日の観音とてむかし蒼海よりあからせ給ふ千
手の霊像まします︒永正十五年正月五日の夜︑此とし化導あるへき瑞
夢を感し給ひて︑同月十八日に縁日なれはとて御代官として寺僧をま
いらせられけるに︑此使者帰路のとき南風俄にはけしく吹釆り︑かふ
りたる物を吹さそひて四五日山きはのかたへ吹おとせり︒そのわたり
雪ふかうして道たどぐし︑行て帽をとりあけけるにしたにすけ笠の
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遊行二十四祖御彦行記︵上︶︵河野﹀
いまた人の着さる有︒そえて帰りぬ︒ある人これをあはせて云く︑笠
は旅の道にて頂上に有物也と云々︒果や︒同年九月その夢想と瑞相と
あゐて修行のうへにて翌年十一月帰国ありて︑彼の観音の告を思合
て︑のたまはく︑見レ義不レ為無レ勇也と云本叉あれはとて叉次の年の
正月十八日重て御代官をまいらせらる㌧とて︑大なる名号に一首を題
し給ふ︒むは玉の夜の夢路に兼てみし朝日の山の光をそしる
︵コノ一行挿入︶遊行と云事を
遊行法の車のわか心神や仏のひくにまかせむ 同報土寺におゐて別
時取行給ひしに︑廿九日辰の時すこし法座にして睡侍に︑幾代ともさ㌧
︵カ︶しとを㌧の庭の雪︑.と見侍り給ひ︑即是は仏勅なれはと思給ひ︑其座
にて手つからしるし給ふに︑二重の莚とこもとをもてかけかこひたる ︵カ︶ ︵カ︶に︑朝日のかけとをりて彼示現の句を注し給ふ紙筆を照しけり︒抑永
正九年壬申八月廿代上人入滅以後翌年廿一代上人五月遷化︑同十六年
五月廿三代上人同十月廿二祖浬築に入給ふ間︑内々門徒の事心ほそく
思ひつ㌧け侍しに︑幾代ともさ㌧しとの告を蒙らせ給ひて安堵し給ふ
とや︒此心を作し給へり︒ ヘンテ︵マ︑︶ヲ ノナルヘン ニレ般舟三昧定申静 不レ覚睡眠昼二章一有レ命萬隼斯法壮 仏神共是感
カラン ︑ ︑応長
かきりあれはことしもけふに暮にけりたのまて叉や春に逢なん
庚辰正月元目於報土寺試筆︒
コトヲ ノ南去北来還遇レ春 々秋旅雁共聞レ穣今年六十一隼裏 過年天涯干里
雲の上にことしむかへはかのへたつ六十の老のさかもこえきぬ 身 軽命重義忠節士 吾今回向此軍場 大悲順逆二門照 横裁弥陀利劔 ス ス ノ 数百人討死す︒その弔の為也︒高丈の塔婆を立︑勤行有︒碩云︒ 月越申へ能登越後衆同心に打こえ侍りて此所におゐて一戦も有罷と衆 ︵カ︶ 一挿入︶ 二月上旬に氷見と云所へ大衆と共に出させ給ひき︒しさひは去年の九 二日加例の会に︑ 越てとしけふや二葉の花のはる
光リ
右意趣者恐レ繁略レ之︒
報土寺におはせしうちに︑ちかき日ある女性まいりて十念うけ︑名号
︵マ︑︑︶を給はりて後の夢に︑上人にたひし奉り︑ありし結縁のときの心ちし
︵カ︶ ︵マ︑︶て一首の寄を見侍るとて重て参り人して秦しけるは︑
何事のそれを是とはしら雲のか㌧る御法をうるそうれしき
となんきこえし︒此女性は兼ては可可をはよまぬ人なりと︒抑此趣向誠
に他力本願の深意こもれり︒一代教主の尺迦如来すら阿弥陀の三字を
はひるよる一劫の間︑この功能をとく共尽すことあたはしとなり︒こ
とに我宗の安心は信不信をもた㌧さす浄不浄をむえらはす唯南無阿弥 ︵マ・︶陀仏と唱ふる斗︑熊野権現の神詫 一遍上人の相伝也︒其せうこは老た
るにもをさなひにも南無阿弥陀仏とたにもこゑに出て唱れは算をさつ
くる也︒是叉ある文に︑不論不浄不論心乱仰念弥陀即得往生と有︒も
とより念仏往生のをこりは︑天竺こくのいたいけぷにんのはしめに
て︑女人往生の縁起となりしは︑五百人の侍女もおなしく如来の記別
に預りしなり︒法花の女人成仏は八歳の龍女壱人也︒それ三千大干世
界にもかえましきほとのむけ宝珠をふせし奉れり︒しかも女人なか㌻
は成仏かなはすして変成男子して南方無垢世界へ生れし也︒然に葦提
は女人の身なから記別をかうふり一人のみならす五百の侍女まで往生
をとけし事︑念仏と法花との分別有へし︒
ツイテ ︵カ︶文く次よろしくおほし給て一首をよみて︑同かやうにことかきをし
一てあたへ給ふ︒
なに事としらすはからす唱れはなむあみた仏に後はなるなり
此女性は麻生谷のなにかしの妻女なり︒越申の国人也︒ ︵カ︶報土寺の庫裏役もち㌧梵阿過し年︑恋劇に事よせ︑秋の寺納弓矢にと ︵カ︶りまきらはして引ちかふる事おほかりしにとかく打をかせ給ふに︑し
わすの暮まてますく無沙汰の子細ありける間︑︒別時のなかは吉出 ︵挿入︶仕を先々と㌧めさせらる︒追放程の事はなかりけるに︑正月十八日よ.り傷寒を此梵阿悩出て幾程なく物くるはしくなり︑おさめのうつは物
を取持て地下人の家々へかけいり狂乱しけり︒その㌧ち病増気して正 興糺月廿三日に死す︒此よし寺家より披露に及しにのたまはく仏物をこま
うによて仏罰を忽に蒙るうへは我ゆるすへきやうなしとて捨をかれ
て︑叉のたまはく︑此詫ならは重て其しるし有へしと云々︒然に二月 ︵マ・︶ お ﹀なかはの比︑親類なりけるをんなみこをかたらひて口をよするとカ
や︒時にこの神子にのりうつりて死人謡しけるは我身欲念のあやまり
によりて寺領を掠侍る故御とかめに預りたちところにおいて仏智のせ
めを蒙れり︒是によりて後生迄も捨れまいらせて沈倫の苦をうく︒ねか
はくは我にかはりて上人へそせう申︑御たすけに預るやうにといひて
涙にむせひぬと申と云々︒同かの死人とくみして侍る寺の下人の男同
前に発病して死せり︒これは在家のものなれはとて︑やかて法名を授
け御代官をつかはし取をかせられけり︒扱叉不往生の不遣人の事報土 ︵力︶寺御立の瑚仏前において藤沢遊行本僧等にかの件のことはりを演給ひ
遊行一一一十四祖御修行記︵上︶︵河野︶ て本名を改れて御十念有︒誠に希有なり︒不思議なり︒筆にのこす物はもしゆく末にみる人も有て現在僧物をもをかさぬためしにとて此儀をは日帳に注させられしを今此一巻に写す者也︒かの横惑者をはしめは捨らる㌧こと諸人見聞の衆後を慎せんか為也︒是抑止の心かはたしでは助させ給ふる摂取の悲願と有難く覚侍き︒︵マ・︶永 正 ユ . ケ同十七年四月四日越申ハ津を立給ふ比︑黒辺四十八 瀬水かさいと高 ンヰナき比なれはとて︑檀方椎名新七郎前後の浦より船をあまた集て︑海上を㌧くり奉らる㌧に石田と云浦に報土寺の末寺有︒過し乱にあひて道場はかり屋にて侍るとて寺の本尊を浜へ出し奉りて︑御十念を串さたする︒亦いるかと云大魚其数をしらす汀近く御船の前後左右をかみし ナキサもへと残る事半時はかりのうちに三度なり︒時に上人渚のま砂の上にて硯をとり出させ給ひて詠しもて手向給へり︒此法を思ひいるかと成にける神のちかひの海ふかくして ︵カ︶件の一紙の事書に我祖 一遍上人出世の後氏神にいます伊予の三嶋大明神に詣て給ひまた修行の道に赴せ侍りし日︑いるか数千うかひ来り ︵マ・︶て御座船の跡先をかこみとをりし夜︑御神けきやうし給ひて︑上人に対しまいらせてのたまはく︑われうほと現して送り奉りしをはしろしめしきやいなやと告給ひて︑叉のたまはくたとひ萬代に及とも法孫渡海の時には必かく化して守護し奉らんとの誓おはします事︑廿四代の今に至る迄かはらさる事を思合侍りぬど云々︒在所の海人も串けるは︵マ︑︶︵マ︑︶ ・ ︵力︶鰻とをる事侯共かやうに汀ちかく人をもをそれすある事ためしなく侯イルカ ま ︵挿入︶こと云々︒叉其後越後田伏極楽寺をたち給ふ日能生と云所へうらつたひにかちよりしてつかせ給ふとき︑叉いるかかみのかたより送り来り
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遊行二十四祖御彦行記︵上︶︑︵河野︶.
侍る比︑八旬はかりの聖道の老僧上人へ申て云く︑先年も御遊行当所 ︵カ︶へ御うつりの日かやうに現し来り侯き︒御十念侯へと申︒上人はや
く御十念なされ侯と御返答有ける比︑いるか越申のかたへかへるや
うに浪路はるかにみえける︒抑過し三月のはしめ越後より越申へ飛脚 ︵マ・︶を立て申けるは︑去年の乱以後は国さかひの通路もとゾまりぬ︒こと
に敵国より大衆うつらせ給ひ候へはいふかしき事ポ侍りぬとて御修行
をおさへとかめ申時にのたまはく︑諾国修行のならひ弓矢のなかをも ︵カ︶敵味方送り迎をえて透申事︑此化導はしまりレ昔よケ今に此分也︒我 トホ為に新関を立て押通さん所迄移るへしとて重ては案内に及はす︒去歳
の秋︑来春御座を移され侯へと云︑返礼の案文を写して彼飛脚にこと ︵挿八︶はりきか茸出して移り給ふ︒然に黒岩と去所に関をすへけれ︒さすかお
し返しまいらするに及はすして結旬関守共名号を給はり法名を望っき
しなり︒これしかしなから遊行擁護の神 三嶋の大明神送らせ給ふ故 ︵ホトトギス︶也と云々︒叉越申の乗船のとき船申にて︑ 行舟を追かぜにきけ杜宇
︵力︶脇 竹井右近大夫磯は夏山花残る比︒間□ 叉小津より竹井右近大夫と云俗人塚川迄
同船にて送り奉りて帰し比つかはさる︒ ︵カ︶忘めや四十八の瀬なみこえてとをきさかひにをくるこ㌧ろを
越後府中称念寺にて一会に︑ 杜宇やとさは月のかつらかな
或時よみ給ふ道可可︑
唱れは同し仏になる故に名を阿弥陀仏と我人をいふ
よしあしの心なからに唱れは南無阿弥陀仏に往生る也
思ふ事叉いふことの限りにはなむあみた仏と息たえぬへし
唱れは口より出つる息ほとけむねの蓮を台にはして 窮一如実知恩のこ㌧ろ叉赤肉段云西門に有一々無為真人と云かれこれなる へしと︑叉男女老少に算をくはり給ふ︒道路にてまうけ給ふ一首︑もとよりの南無阿弥陀仏の名をよへは南無阿弥陀仏とこたへ出ぬる︒五月五日に︑ ︵カ︶ ︵カ︶あやめ草かりの此世に思ひきや六十一夜の枕せんとは叉ある時当座の題に寄︑山恋といふことを︑おしこむる胸のおもひをあらはさはふしの煙やしたになひかん 轟中雲いつくにて消ん隈りもしら雲のまよふを旅の行衛とやみん同し六月信濃国高梨摂津守入道一座興行有しに︑八干代見よ花さべさ㌧れ石の竹 その㌧ち長子孫太郎三重の亭にて ︵カ︶発句︑ 風ふかぬ世にさへす㌧し宿の松 叉津守入道の所にて一続に︑ 月前杜宇︑月のうちの宮古鳥かは時鳥雲よりもる㌧夜はの一こゑ 尺教あし原の国にそ仰く彼の仏なにはを法のはしめにはして ︵カ︶申野新善光寺におひて或人の老母申陰のうちに絶入し奉りて︑塔婆を立しかは意趣を作らせ給ひ︑同一褐を結給ふ︒意趣こと書多々に及間略抄す︒ ︵挿入︶ ニソ ノ ス ノ善光寺東報身土 往覆衆生一子同 本是弥陀悲母徳 転定開悟仏名
功
黒川西念寺におはせしときやうやく近日︑廿五代を定させられ閑居へ
赴かせ給ふへき心あてにてよませ給ふ︒
暁の月にあらねといりかたの山のは近き我身なりけり
六月廿八日海野常照寺にて一会ありしに︑
鴉
︵マ・︶伊のる事なる瀬もちかし御稜川
代々の尊像を常照寺にて画師に命せられて二幅に移しせらせ給ひて︑
ケ ︵挿入︶ヲ ノカス ノ賛金札と云事を︑ 挙レ多接レ少古今語 六十万人金札員 日本州名斯
ニリ マトカナルコトヲ裏在 宜哉天下修行円
叉一幅の賛 二寮其阿拝賛 ソテ ノ ︵マ・︶東上還釆勧二出離一教門末法萬余時 要津立尽度二群品一世々伝灯歴
ノ代師
信濃野沢にて八月十五夜に︑ あさかほや有明の月の花の宿 ト同廿九日信濃より甲斐へ移らせ給ふに︑国堺近き所に村山云里に日な
たの図書助と云人有︒上人に海野におひて結縁し奉り︑此度途申迄牛
馬など数多引せ迎にまいり自身兄弟共に輿をかきさ㌧けてわか氏寺へ ︵マ・︶入まいらせ申一日してわか見この長泉寺へ移せ給ふに︑次の夜当国の
利益始にとて臨時のをとりを図書助興行す︒然に其礼謝のために等覚
イン院臨阿を遣さる︒時に図書助かたりて云︑今夜親類の老者俄に頓死
す︒をの1\集りて歎きあひけるに数刻有て目をみひらき物を云出
ぬ︒われ広き野を西へさしてあゆみ行けるに︑此度上人より遊はし給
はる名号我先にたちと導給ふとみるに道申にて此名号のたまはく︑汝 ︵カ︶か命いまた限りにはあらす︑然れは是より帰り候へ︑必はたして死せ ︵マ・︶ん時は︑我むかふへしと云・︒此儀を等覚院帰参して披露し耐る瞥
首をよみ給ふ︒
名と躰二なけれは六の字の黄泉かへりをひくもことはり ︵マ︑︶ ︵カ︶叉その比長泉寺へ信野の伴野出羽守︑同名修理進といひけるを使者と ︵カ︶して申され︑今日はことしの御越年海野太平寺にてと兼約申され侯へ
遊行二十四祖御修行記︵上︶一河野︶ ︵力︶共既の御一代の御定を海野常照寺にて御沙汰のうへは︑伴野金台寺の アミコ巨モ儀 一遍上人様御編衣の光りも此所よりあらはれ︑叉金馨を初て鋳さ アルせ奉る事も此地よりおこり侍る程の由緒有事なれは御越年をは伴野にて申へしと云使者に修理進まいられし時伝語有しは︑去五月十九日にことし十四になる子を先たて㌧侍るとて︑その親遇去帳に入侍る︒其 ︵マ・︶後或夜かのわらはへ母の所へ夢のう地に来りて︑我よき所へうつされ奉りぬ︒此後はいつも上人の御座の所にあるへし︑こよひは臨時のおとり有まいるへし︑出立に食事せんと乞ける間︑やかて飯をと㌧のへてあたふるとおほして夢おとろきぬと云々︒こよび臨時のおとり有とは九月三日の夜︑長泉寺にてのよるのおとりの事也︒価一首︑梓弓はつれぬ数もなき人のことはの筈に思ひあはせぬ 是はむかし西行法師天王寺の過去帳に入て 梓弓はつるへしと思はねと兼て無身の数に入かな と詠せしをもと可可となし給ふとなり︒ ︵マ︑︶ フニ モ廿二祖追膳於二蓮寺一執行給時塔婆銘日︑ 伝燈弘法恰三歳 回国修 ︵マ︑︶ス ノ レノ ソ ノ レハ ︵カ︶行西叉東恋慕先師遷化后同生何日一蓮申 爽以加葉如来者付二法於 ニ ニ ク尺迦如釆一尺迦如来者付二法於弥勒菩薩一焉︒番々世々之成道共以如レ斯 キ ヲ耳︒麦先師上人者元祖続ゴ廿二世之高縦一給勧化両年之申従二海東駿州一 二 ︵挿入︶ テ ︵力︶ ン .ヲ ス ン︵マ・︶迄二京南河内一夷︒功成名遂後三歳之間営二新地一庁隠遁ム矢︒而兼察二国 ヲ ス チ レテ︵マ・︶ 一プ之安危一給退出夷︒濃州轍逆乱分 干レ今不レ治夷︒韓二江州乗台精 二︵ツ︶ク テ ニ テ舎一詳二滅度一焉︒爾来暑往寒来分既一干日︑花開葉落方第三回也︒ 幽 ︵マ・︶ ヘハ ヲ ノ ヘノ タリ ニ メハ ンノチソ ルカ 江漢問レ雲往還之古跡似レ空孤山望レ月行路之昔姿如レ見集︒平日潤樹行雲 ︑・㌔ コト ウケ ヲ ニ フ ヲ ニ ノ レカルトモ之情東語西話之因更無レ忘集︒稟二慈悲於性一備二柔和於心一豚恩誰歴ニ ヲ ケンス ︵力︶ マ レテ ノ くフ億劫一可レ尽︒離レ送二多生一猶難二報窮一︒而今慈顔隠号不レ販夜月雷違二恋 リニ テ ン︵キク︶コト リ ヲ ノ ニ昔之光一徳音絶今無レ 葺 タ嵐独増二懐旧之響一︒不レ如積二一善於此界一
.30 遊行二十四祖御修行記︵上︶ ︵河野︶
ンニハヲニ︵コレ︶ト
賛毒会於彼土一以レ族為二報恩之妙業一焉︒ 抑予去戊寅年秋之頃化導相︵マ︑︶ヅテケ ソ続 号三稔自一江州一分山城已下乃至北国撃一甲州一結縁連レ月而増光集︑テヲス ヒトヘニ ノノ
利益逐レ日繁昌実︒是子師恩也︒冥カ也︒彼晴蜴帝者欲レ酬二智者大師 フモトニ シテ ント ︵カ︶ヲ之恩一竜顔之涙流二台兵之脚一︒周文王者欲レ謝二太公之憂一許商軍一分︒ヨリ ヲ ト一 二販二於潤浜一実︒雪山重子者投二身於一句下一常蹄菩薩者裂二肝於半褐前一 リ テ レン ︵イハン︶ヤ ヲヤム矢︒菩薩大聖尚然実︒聖主賢王皆以是等集︒何矧各累年之慈訓乎︒何
ヤ ノ ヲヤ ヤ矧予付法因縁乎︒然者叉於二代之知識一乎︒亦復二世之加会乎︒ ︵回カ︶ ︵マ・︶ ︵カ︶ ︵挿入︶ヲ ニ ト凡夫四生必滅有百年匹レ保集︒輝二糟素於新旧一皆消二北亡之露一訪二親
ヲ レモ ノ テク
疎於遠近一何昇二東岱之姻一実︒尊霊浬拝後鳥免之光陰押移早撃夫祥之ニ ハ ル ヘ ニ ︵カ︶忌辰一所レ展者弥陀三昧之斉席也︒蓬伝二法音於摩尼殿風一所レ修者昼夜
ニ ヲ セン六時之行法也︒将レ顕二証理於安養界之月一三日三夜称名功力廻二施十方
二 ︵ノ︶フ ︵カ︶ヘノ世界群塑︒価起立駄都之旨季一上件之儀一実︒嵯乎︑清浄光寺者古之 ノ︵挿人︶住所往二西刹一不レ返上品蓮台者今之宝座也︒得二無生一不レ退有縁之真
ニ ニ キ ス俗此時悉導無縁之迷侶今日可レ度而已︒ 敬永正上章執除去莫初九辰 沢山当住持廿四世陀阿 白
十月十七日武田大井入道宗芸一蓮寺の客殴をかりて一会転行の時︑ ︵マ︑︶ ︵マ︑︶ と も カ時雨きぬ雲や申たちあひやとり 脇楽けそちきるこて紅葉ちる山 宗芸叉その㌧ち宗芸よりまいらせらる︒一 汽一ねてあかし詠めてくらす空の雲に同し心の行衛しらせよ
御返し︑
ねてありし詠て暮すことのはの花や蓮の上迄をみん泉のさかひ永福寺坊主其阿︑伸冬十日わたりの霜雪遠路を凌参られけ
るにつかはさる︒
嚢塁ばふりつ嘉衣はるく木曾の末やかひかね
︵カ︶これは両尊うけおちの人数彼寺に集ると既めし御たより有けれ共︑参る上はとてやかて免許し給ふ︒其心を末やかひかねとよませ給ふ︒叉五天到日応頭白といふ詩の末のこ㌧ろかと云々︒ ︵カ︶霜月廿五日に武田殿俄に新造をと㌧のへて申上らる㌧時御発句︑なれてきけ声を八干代の友ちとり ︵マ︑︶ チトリ一当国の名所にしほの山さし出の磯に住衛君か御代︒をは八千代とて鳴 ︵マ・︶と︑古て第十四巻に侍るをとり給へりと︒抑藤沢旧跡の御本尊は去癸酉年より駿河長善寺に移し還奉らる︒既に十年に及ひ藤沢の徒 一癸酉年の左右に後筆註あり︒︶一海上人云︑永正十年 ︵力︶ 也︑此隼伊勢早雲ト三浦道寸ト合戦剰四月十九目藤沢山一□不残□火也︒ ︵挿入︶衆此本尊の御まへにして昼夜の行事をつとむる事もなかく︑叉再興の期もいまた到らさる事を常に愁歎有しも︑廿五代化導相続以後やかて越申へのほらせ給ふへき処に︑彼国大乱おこりける間︑弓矢おさまらん時迄と甲斐迄不慮に移り給ふ︒然に駿河近き所へかく移釆ぬれは︑本尊を迎一移し奉らんと云心ひしくと思ひ立給へり︒是則仏智にこそとて御代官をまいらせちる︒よつて事故なく御来侯有︒上人庭前へはたしにならせ給ひ帽子を脱て出迎ひ給ひ︑御輿に手をかけ一蓮寺の仏檀へ入奉られて惣礼十念有て︑半は歓喜し半は悲歎し給ひき︒其故は仏智も御同心有て滞なく御光臨をはよろこはせ給ふ︒難然宿世 ︵マ・︶つたなくか㌧み時代の藤沢の有名無実の衆頭となる事︑叉は此本尊には円光もましまさす蓮花座もなく︑観音には御手もうせ︑同く御光も蓮花座もうせ給ひ︑勢至も同前にやつれさせ給ふことをみあへさせ給はす︑彼此に落涙し給ふとや︒乍去金剛那羅延身の仏躰の三十二相八 ︵力︶十程好百福荘厳は仏敵の伊勢の早雲も三浦の道寸も損亡し奉らしとを
のたまひける︒かやうに移し置申されて後は︑午夜座師に六度つ㌧祈 コラ念を凝しめらる㌧事有︒一には一山建立を遂て本尊鎮守鎮座し奉り大
衆倶会の儀也︒二には此所願時至らす機熟せす︑命をつ㌧めさせ給ひて
早く来迎引接有へしとなり︒願として成就せすと云事なしとあれは︑
定て仏智は往生の一路そ御同心あらんすらむと時々ひとりことし給ひ
き︒まことに命にもかへて思ひ給ふをは︑仏もあはれにも悲しくもお
ほすらんかし︒叉有る老僧原にかたりたまはく︑如此本尊をも迎へま
いらせ越申に閑居の地をもしめ置ぬれ共︑求一得苦の有為のならひ叶
はぬうちに生死一大事に及ふ共ゆめく一念も妄心を残すましきなり
とて︑発願の文の虚空法界尽我願亦如是の心を一身のうへになそらへ
て読し給ひぬ︒此折節一条に塔頭の弥阿と云寺僧一日藤沢六寮坊主僧
阿にかたりていはく︑去春或夜の夢に広き所に仏檀有︑三尊まします︒
子細を人に尋ね申に︑これは藤沢の御本尊にておはしますと云々︒依て
御前に参り礼し奉るに観音おりくたらせ給ひ︑蓮花座を傾け寄て是に
のれとのたまふ︒深く恐れまいらせて合掌すとおほえて折驚ぬ︒其以 ︵力︶後此由を火ともし覚阿にかたり侯得は︑彼覚阿合て云扱は出世し給ふ
へきそと云々︒然間叉人にもかたり侯はすして打過る処に︑上人九月の
末にはからす御移り有を見奉りて思ひ合るやうは︑ありし告は此御移
りの事なりと云々︒叉此門前に当寺結縁の俗人近日ひるねをいたしけ
る所に夢申に人の云やうは︑藤沢の御本尊寺へ御出有をはしらきるか
なとまいらきると答て云︒いまたしらすと叉人返して云︑.しらすんは
塔頭の弥阿にとへ︑それか子細を知へしと云々︒時に庫裏へ彼俗人来
りし折節弥阿も庫裏へ出合せぬと云々︒此旨を六寮坊主披露有しか コ・モトは︑上人わか当国修行の事も拠は仏智なりけるそと云々︒此度麦許へ
遼行二十四祖御彦行記︵上︶︵河野︶ 勧化有へき事は︑九月上旬にふと大守の方へ届させ給ひぬ︒仏の夢想は遇し春の事也︒ ニ ニ ク庚辰之歳暮別行前一絶口課日︒ ルニ ノ老去閑居求不レ成 今年既暮欲レ還レ明 何時消尽満頭雪 縦遇二春風一 ン スルコト莫二緑生一
二行三昧の心を別時以後書出し給ふ︒
萬代の末を兼てそ彼ほとけ教置ける御名の一こゑ
八萬四の干くさのおしへまて唯一声に唱へうるかな
永正十八辛巳元日試筆︑
ナン ヤ カ ノ飯去来吾本家 多年為レ客隔二天涯一東風可レ送西行道 今日逢レ春先
憶レ花 右本家者指二西方一云々︒ ︵挿入︶あらましの山をはよそにきゆる共身の浮雲よ心かへすな
遇し十二月廿九日辰剋法座におゐて夢想︑
長閑に向ふ住吉の影 去々年幾代ともさ㌧しとを㌧の発旬の告も同
日同時也︒ ︵カ︶正月一日に近所に大明神まします︑其神子伊知と云もの始て参り︑御
十念受給はりぬ︒彼夢想をこ㌧に思ひ合給ふとや︒二日の会に︑
おさまみや春のかひかね天津風
同七日 松に有二春色一と云事を︑
住吉の神やしるらん緑そひ春に幾代かあひ生の松
山早春
立かへり春は来にけり富士の根におほふ霞や天の羽衣
これは一条に開山法阿より以釆天衣つたはり侍りしか︑前住十二代時
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遊行二十四祖御修行記︵上︶
回録の時煙と共に天にのほりしとや︒ ︵河野﹀
それを祝し給へりとなん︒
︵マ・︶ 叉彼
羽衣当寺の住持代に吉て害ねて現缶すへしと云告︑炎上の薯
とかや︒越申と越後の鉾楯年を重ぬ︒然に庚辰十二月廿一日に時節極
りて軍破れぬる由︑二月八日実説有︑則位牌を立︑三昼夜の弔を始︑
同十日は四十九日に当りける間︑臨時のおどりを興行し︑塔婆を立彼
の意趣に云く︑ ︵マ・︶
極詠蒲転︑ク脱一鎧向一西称一仏多平日終焉無言弥陀感影
タマハン来迎
蕨以釈氏璃瑠王之闘者天竺之往事也︒釈軍皆滅実︒漢桓楚項羽之謡者
震旦之古事也︒楚陣悉亡ム矢︒源平両家先代当家之合戦者套藷人之耳一 ︵オヨプ︶夷︒是皆欲界之衆有為之習也︑愛去乙亥以降双越結二確執一乱入事軍ニ
ニ スルコト ラ三度一実︒失レ利事両度也︑其間七ケ年絶二往還一併如二呉越一実︒旧冬大
︵力︶ ︵マ︑︶呂廿一日従二辰剋一至酋時一越后之軍旅六百余越申之軍兵三百余討死
ンテ ク云々︒遷二夕陽一国軍敗北分残党或渡二氷河一事十一瀬︒或凌二素雪一事四 ハ シハ スル ト ヨリ五里也︒因レ薮半溺水半凍死者二干人云々︒干時越前守慶宗下レ馬分脱ゴ
︵カ︶ ス︑イテヲ ンテ スト ︵挿入︶二甲胃一臓レ雪西面合掌念仏十声号自殺云々︒鳴呼是更非二卒然之儀一所
以者何死生有レ命ム矢︒叉奮因果必然之理歎︑抑予為二師檀一事近二干四十
ニ ク ト ヲヤ ヲ年一実︒曾葺一日之檀那者百劫之結縁也︒矧哉累年乎︒兼付二与法名
︵力︶ レテ ニ於弥阿一而三年也︒相二凝他カ於西方一而多歳也︒伝聞騰月廿日夜夢向レ
スル ト ︵挿入︶スル ニ西称名事三返云々︒摂取不捨之告是也︒以レ此題二干上一拙褐含二彼旨一 ニ ス耳︒迎接如レ指レ掌往生不レ廻レ眼実︒乃至為二当日一戦之群陣衆一書レ之︒
若在三途勤苦之処見此光明皆得休息無復苦悩文亦復法界平等利益耳︒
永正辛巳春時正申日︒
永正かのへたつ十二月廿一日に身まかりし人︑三十あまりのとしこ㌧ ︵カ︶ろさしをうけ取わき法のえにしを結ひぬる間︑此世ひとつならぬ契ふかし︒彼とふらひとして六宇を沓冠にをき︑三首の和母をつらねもて手向の誠をあらはし︑日を重ね夜をつらねつとめあかしつとめ暮し︑臨時のおとりといふつねには稀なる行ひ迄営侍者也︒無数にとなへかゑつ㌧今よりや蓮の上をなかくいのらむあさタにわれに心をそへし人を思ひおもへはまさるかなしみたのむより弥陀の弥の字を法の名に書あたへぬる跡おしそ思ふいにしとし しはすのうちの はつかあまり 一日のそらにみこし路や なかなか国に みたれあひ いつるひかりの入まてに た㌧かひあひて その㌧ちに むまよりおりてよろひをも ぬき捨しとき 雪をとり くちをす\きてにしへむき 十声のみ名を となへつ㌧ みつから命きへにしを つけんと使 きつらきや あとを十日に七日つ㌧ 七にあたる タより つとめ行ふ日をかさね 夜をもつらねて うたをよみ 叉もろこしのことの葉に 文字をならへて かの人に 四十にをよふえにしをも かきなかしぬる なみた川 思ひしっみてなき人の わも︑かけのみの 身にそへは おくるもあみた︵力︶飯るも叉 南無阿みた仏と その人の 名をとなへいれ跡をとふ 心の程は かの池の 蓮のうへにひらけぬる悟りのむねに しるらめや さてもくとをたまきの いとくり返し おもふにも つきしたかひし
人のかす 千人くを 十あまり あはせあらそふ
ときの間に
なりはてし
身のをはる
むくひなり
ふた㌧ひは
雪とのみ弥陀の国 弓矢いかなるはてを思へは夕のかきり ︵力︶今行末はゑどに帰らぬ消にし数は
人をえらはぬ みちなれは生れこしさたまれはこくらくに身なるへししたしきも
台にそひく た㌧ひとりにはその朝よりた\先の世の往生れつ㌧おなし野原のうときもひとつ
相州藤沢再興の間︑越申の府に閑居の地一山建立の契約︑越前守慶宗
︵力︶去々年の冬越年の比より内証外用談合畢︒因薮去年の三月彼地出歩の
瑚此儘逗留あて︑廿五代相続の儀と㌧のへらるへき由懇望有けれ共︑善
光寺の御事本願の念仏のあるしにてましませは一代一度の参詣をもと
けその㌧ち信州のうちにて化導をもゆつり侍らむとてた㌧せ給ふ比︑
かの報土寺の新地のかり屋に吉江仏土寺坊主其阿に遊行軸屋僧阿をあ ︵カ︶ひそへのこしをかせられけり︒慶宗存生ならは三年五年の間には如形
造営もなり︑新寄をもあるへき事うろおもひもなかりしゆへ︑過し七
月九日に御定の儀成就有て︑やかて十日あまりには海野より越申へ趣
かせらるへき分にて侍りしに︑越後の軍勢再乱のきこえ有し故︑一運 二落居の間と伴野より甲斐へ修行なし給ふ︒扱も越申おゐて帰伏の檀那
如此なり来る事門徒の愁歎一代の不運と思はせ給ふ︒錐然両国のあら
そひの儀は天命のなす所︑彼一族のほろふる事︑時節の極る故也︒夫天
意は一人の為にその時を狂す︑日月は一物の為にその明を晦まさすと
云々︒兼叉大上人十六年諸国勧化のうち或時は諸神詫宣の告有︒或時
︵雲力︶は紫寒散花の相を現す︒天も感応し神も納受す︒しかれは上一人より ︵力︶下萬民に至迄崇敬をなし︑絶代の奇特目にふれ耳に蒼る間︑嘉元二年
遊行二十四祖御修行記︵上︶︵河野︶ ︵マ・︶甲辰より当麻山無量光寺を草剣有て︑元応元年已米に至る迄叉十六年居住のうちに造営成就して遷化︑のち第三祖三年在寺有て入滅し給ふ︒四祖は元応元年己未四月因州西光寺にて賦算し給︒三祖は次年庚 ︵挿入︶申七月朔日浬薬に入給ふ︒然共四代上人しゐて六年勧化あり︑合修行七年也︒加様に回国年をふるうちに当麻山の事相違出来すとみえたり︒ ︵カ︶正中二年乙丑藤沢山開闇此年以来三年独住也︒叉五代上人は正申乙丑潤正月十一日武州芝宇宿にて化導相続有︒かくて四祖無量光寺へ入院有へき所に鎌倉の相公の命として内阿弥陀仏住持あり︑静此儀討︑惟 ガ︑一宝の山に入て空く帰り渡海に望て船なきに︼たり︒難然相襲血脈三四と次第せるによて藤沢山へは諸門徒一味同心に帰敬す︒当麻山は孤独なる故威光をとりぬる事顕然なりき︒叉後開山上人独住三年のうち夏 ︵レイカク︶は黎蕾を食とし冬は松葉を薪とし給ふと云々︒昔は知識も真知識︑時衆も道心ふか㌧りける間飢寒に堪て同伴をなす人数大−衆有と御入滅の記にみゆ︒寺は元より極楽寺と云小舎有と云々︒次五代上人十一年山住の間も間蓼の躰同前にして春秋を㌧くらせ給ひぬ︒六祖の時代より敷地を転し仏殿を八十一坪に興し侍り︑其後第十一祖の時回録の後百坪になり︑亦復十四祖の在世に炎上ありし時︑一丈二尺間一百廿坪 ︵マ・︶に増興ありと云々︒伝聞弘法大師高野山を開基有しも一代には造切ならす︑西之堂東之堂と云小精舎はかりを立て一山の諸伽藍者地形を定 ︵カ︶め訴図を残し置給ひて入定有しに︑其後星霜をかさねて御造畢有と ︵マ︑︶ カツホウノ ヨリ云々︒いつれの霊仏霊社も少より大に至る︒合抱之木生二於毫末一九層 ト ニ之台起二於累土一老子経に有︒抑越申より注進出来の比上人歎してのたまはく︑われ去年当年の吉凶をしかしなから四代上人の隠遁の始に大