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古代遺構の転用による中世都市組織の形成         〜ルッカ・ローマ・オスティア〜

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Academic year: 2024

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古代遺構の転用による中世都市組織の形成

        〜ルッカ・ローマ・オスティア〜

黒田泰介(関東学院大学)

イタリアの歴史的都市に見られる高密な都市組織は、長年にわたる様々な史的痕跡の積層から形成された ものである。既存建物の遺構が基礎や下層に転用されることにより、上部構造には過去との強い形態的関連が 生まれた。そこには各々の史的痕跡間に発生した、層位学的な関係を読み取ることができる。

今回の発表ではルッカ、ローマ、そしてボルゴ・ディ・オスティアの3都市を対象として、都市組織形成の 原点となった古代ローマ建築の姿を考察すると共に、中世期に進行した遺構の転用による都市組織の形成過 程を、建築類型学的観点から考察していきたい。

ルッカ:円形闘技場

イタリア中部、トスカーナ州の都市ルッカの歴史的中心地区には、円環状の街区を形づくる円形闘技場遺 構(2C)が残されている(図1)。放射状配置の構造壁に挟まれたクネオは、中世イタリア都市の代表的住宅 類型であるスキエラ型住宅の挿入に適したものであった。遺構の住居化はアレーナの分割と菜園化と共に進 行し、ついには楕円形平面の1街区を構成するに至った。街区前に広がるスカルペッリーニ(石工)広場の名 称は、遺構の石材が周辺の教会や住宅の建設に転用されていった事実を伝える。

遺構周囲を巡るアンフィテアトロ通り沿いには、道路に対して鉛直に置かれた構造壁をもつ住宅が並ぶ。

円形闘技場の楕円形平面は、環状道路を介して延長・拡散し、周囲へと放射状に投影されていった。円形闘技 場街区の周辺には、ローマ市壁やフィッルンゴ通り、S.フレディアーノ教会などの先行する都市的要素間の競 合と相互調整の結果として、高密度な街区が形成される過程が明瞭に読み取れる。

1838 年、建築家 L.ノットリーニは食料品市場移転のため、街区内部の建物や庭園を完全に撤去し、長・短軸 上に4つの入口をもつ楕円形平面の広場をつくりあげた。観客席跡に立ち並ぶ中世の住宅群はそのままに残 しながら、アレーナの空間が復活したのである。ノットリーニは長年にわたる建築行為の堆積を、ひとつの美 しい円環にまとめ上げることに成功した。

    図1 住居化した円形闘技場遺構(ルッカ)        図2 居住空間に表出する古代神殿の円柱(ローマ)1

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ローマ:オクタウィア回廊

テヴェレ川沿いのカンプス・マルティウスにはかつてマルケルス劇場の西に、ユノーとユピテルの2柱を 祀る神殿を囲む、オクタウィア回廊が建っていた。回廊はアウグストゥス帝によって、既存のメテルス回廊

(131 BC)を改修し、姉オクタウィアの名を取った一大文化センターとして再建されたものである。回廊はそ の後も歴代皇帝によって再建されたが、帝国崩壊後は廃墟と化し、建設資材の採掘場となっていた。

8世紀には回廊前門を転用して、S.アンジェロ・イン・フォロ・ピシウム聖堂が建設される。聖堂前には ピラネージの版画が伝えるように、ローマ市内最古といわれる魚市場が開かれていた。

聖堂脇から北へ延びる S.アンジェロ・イン・ペスケリーア通りに面しては、かつてのユノー神殿の遺構を 転用した住宅が残る。外壁には神殿の円柱が顔を覗かせる。3階に位置するL邸内部には、居間と玄関室に表 出する円柱2本が明確に視認される。2本の円柱の存在は、住宅の平面構成に大きな影響を与えた。住宅の居 間は、円柱があったユノー神殿前柱廊の領域の一部を占める。壁や床は、並び立つ円柱をサポートとして設け られた構造壁によって支持されている。L邸に見るような、古代の史的痕跡と今日の生活空間とが不可分に融 和した、深い歴史性の表出は、建築的堆積によってつくられたイタリア都市の本質の一端を示す。

ボルゴ・ディ・オスティア:水道橋

サラセン人海賊の襲撃からオスティア市民を保護すべく、教皇グレゴリウス4世によって建設された小さ な防御集落(830)は、グレゴリオポリスと呼ばれた。マルティウス5世が建設させた円形の塔は、ユリウス2 世によって大規模な要塞へと改修され、ボルゴはテヴェレ川河口の河川通行をコントロールする基地として の役割を果たすに至った。オスティア司教(1461-83)でもあった枢機卿ギョーム・デストゥトヴィルの指揮 の下、ボルゴの市壁強化と内部の都市化が進められ、今日見られるスキエラ型住宅の街並みが生まれた。

古代都市オスティアに水を供給した水道橋(2C末〜3C始め)の姿は、ピウス2世による回想録(1471)

中にも記されている。ヴォルパイア(1547)、チンゴラーニ(1692)、アメンティ(1693)らによって描かれ たオスティア周辺の地図に見られるように、水道橋はオスティエンセ通りに平行して進み、オスティアの市壁 上部へと接続していた。地図は水道橋の一部がボルゴに取り込まれ、中断する様子を描いている。

S.アウレア聖堂の横に建つ司教館の裏手の壁面には、水道橋の半円アーチ3つ、及び水路の断面が明瞭に 視認される。直線状に伸びる水道橋の存在は、アーチの埋め立てによる市壁化によって、9世紀のボルゴ建設 において大きな役割を果たしたものと考えられる。

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図3 司教館外壁に残る水道橋のアーチ(ボルゴ・ディ・オスティア) 図4 司教館の 3D モデル(九州大学 堀研究室作成)

参照

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