与本国使請共帰啓
須 田 哲 夫
〈その一〉
空海は,入唐のため延暦23年(804)5月12日
かどのまろ
藤原葛野麿を代表とする遣唐船に乗り,難波ノ津 を出発した・肥前田ノ浦で風を得,7月6日に東 支那海にすべり出したが,翌日から暴風雨に遭い
1か月以上漂流し,8月10日ようやく福州(福建 省)長渓県赤岸鎮の海岸にたどりついた。そこで ようやく日本国の正使であることを認められ,陸 路長安に向い,12月23日都に入った。爾後,空海
しううやく
の真言密教請益の学業が続けられる。
大同元年(806)正月,長安にあった空海は,
たかしなりまひとうとなり
遣唐副使判官高階真人遠成とともに,本国に帰ろ うとし,唐朝に啓を上奏した・もともと,空海の 唐留学は.20年の予定であった。それを僅か1年 半で帰国しようとするのであるから事はむずかし い。しかし,空海の上奏が認められて帰国の実現 をみるに至るのである。もし,この船で帰国しな かったならば,どうなっていたであろうか。
いぬかみのみ 遣唐使というのは,舘明2年(630)に大上三 田紹が使いして以来,空海らが参加しての入唐まにすき
で,174年の歳月があり,次数は16回ある。とこ ろが,行われることに継続があり,入唐した翌年 また入唐ということもあったが,ときには,第9 次から第10次までのように,20年という断絶もあ
った。大同の頃,以前から一部で唱えられていた 遣唐使不要論が,とみに強くなっていた。その理 由としてr危険性のあること。」 r文物導入の目 的が,ほぼ目的を果したこと。」 「国粋主義的気 風が起りはじめていること・」r唐人の貿易船が
日本に渡ってくるようになったこと。」r桓武期 における経済の逼迫」などである。
r平城天皇,嵯峨天皇,津和天皇の三代は遣唐 使の沙汰なかりき。奈良の宮の始めの御世の頃よ りして延暦までは御世御世ごとに一たびは定まれ る例の如くにて必ず此の事ありしに,今は斯く絶 えたりしは,又いとめでたし。」と『叡戒概言』
にあるように,高階真人遠戚が入唐して以後,30 年間,遣唐の行事は絶えてしまうのである・承和 5年(838),日本史上最後の遣唐使が派遣され るのであるが,承和5年といえば空海はもうこの 世の人ではなかった。3年前の承和2年3月21日 62才で入寂しているのである。
帰国できなかった空海が,江南の貿易者の日本 行きの私船で帰ることを試みたとすれば果すこと ができたであろうか・留学生という身分の上から 不可能なことであったろう。留学生は,皇帝の好 意で長安に居らしめられている以上,唐を離れる のは皇帝の許可が必要であった。その許可は,日 本国を代表する大使の奏上を経なければならなか ったのである。
空海が,高階真人遠成の船で帰国していなけれ ば,真言密教の宣布も,学術の公布もなく,高野 山の伽藍建立も,東寺の真言密教の道場も,国民 普通教育機関の学校の綜芸種智院の建設も,讃岐 の万濃池の構築もなく,平安二大宗教の一つ,真 言宗の名も聞くことはなかったのである。空海の 入唐も劇的であったが,帰国も又劇的であった。
この帰国のための上奏文,即ち,空海の生涯を 大きく支配した一文が『与本国使諸共帰啓一首』
である。
〈その二〉
本国の使に与へて共に帰らむと請ふ啓一首
る まう
留住(留学)学問の僧空海啓す。空海,器(器 そさい
量・才能)の楚材(楚には良材を産出する意から
そう ごごう
人材を示す。)に乏しく,聰(聡明さ)五行(応 奉という人は,一度に五行を読み下して理解した という故事があるが,その応奉には及ばないとい あやま ぐばち
う意。)を謝せり。謬って求接(接は桧に通ず。
が 法を筏に例えて,法を求めること。)を濫りがは さうり
しくして海を渉って来る。草履(師を求めて歩き
は せい ム
まわる意。)を著いて城中(唐の長安)を歴るに・
24 福島大学教育学部論集33号
幸ひに中天竺國(イγド中部)の般若三蔵(北イ ンド迦畢試国の人一現在のカシミール)及び内
ぐ メ けいか
供奉(宮中の内道場に供奉する僧)悪果大阿闍梨
(空海の師)に遇いたてまつって膝歩接足(師に 対する弟子の礼。膝であゆみ,師の足に頭をつけ て,礼拝するを言う。)して彼の甘露(教え)を だいオ仰ぐ。遂に乃ち大悲胎蔵金剛界大部(一切の法門 ご ま ゆ がよ統摂した教え)の大曼荼羅に入って,・五部瑜伽
(五部とは,五智の瓶水を頭上に注ぐこと・瑜伽 は相応の意であり,金胎両部に通ずることであ
くわんぢよう
る。)の灌頂法(インド古代の国王即位式になら った密教伝承の儀式。ここでは密教が伝えられた ぼく
こと。)に休す。 (かぶることで恵を受けるこ
さん とく 」評ナ うたたね
と・)濃(食事)を忘れて讃に耽る,假牒して大
たい悲胎蔵(大日経類)金剛頂(金剛頂経類)等を書 かうよ写す。已に指南(教え導くこと。)を蒙って之の いつ文義(意味内容)を記す。兼ねて胎蔵大曼荼羅一
ム
鋪(一幅),金剛界九會(金剛界の諸仏の像を画 えたマンダラは九つのグループに分けられてい る。)大曼荼羅一鋪を回す。拉に七幅(絹を七は けん
・ば繋いだ幅)丈五尺拝せて新翻鐸輕二百鯨巻を爲
せんそう を
して、繕装(表装すること)畢へなむんとす。此
ほとけ しん しづめ
の法は仏の心, (仏法の真髄)國の鎮(鎮護国家 ふん はら
の法)なり。氣を撲ひ, (わざわいをはらいのけ
さしリホ ま に
ること。)祉ひを招く(福を招く)摩尼、 (如意 ぼん まぬか
宝珠。善福を招くとされる。)凡(凡夫)を脱れ
せい きよけい しふねん
聖に入る峻厘(近路)なり・是の故に十年(二十 しうん か年の誤写である。)の功,之を四運に兼ね, (一
年で兼ね具えることができる。)三密の印,(身 いっし・口・意の三秘密の印契。密教の教え)之を一志
つらぬに貫く。(一心によく体得することができた。)
めいしゅ
此の明珠(明月のような光を放つ宝珠。密教を喩 かえる。)を兼ねて(すべて)之を天命(桓武天皇
も し に
の勅命)に答す。衡使(若し。仮定詞)久しく他
きよう くび
郷(大唐)に客として,領(首)を皇華に引かば,
はっく(遣唐使を待っていたならばの意)白駒(歳月。
人,天地の間に生れて白駒の隙を過ぐるが如しの
くおうはっしへかが
荘子よりきた語。)過ぎ易し,黄髪何せむ。 (老 人となると髪が黄色になることをどうしょう。七,
ろうぐわん た
八十歳のこと。)今,随願(いやしい願い)に任
ほうけい
へず。奉啓不宣。 (述べつくさないの意)謹むで
まう
啓す。
以上がr本国の使に与へて共に帰らむと請ふ啓 一首」の文である。空海の生涯を支配する一大危
1981−12
機に対処する奏上文であるが,極めて簡潔であ る・しかし,その中に唐都における空海の学究,
求道の内容が網羅されていて,帰国して果すべき ことが暗示され,その言わんとすることには実に 厳しいものがある。
〈その三〉
表題r与本国使諸共帰啓一首」の読み方はどう あるべきであろうか。
従来, r性霊集』では, r本国の使とともに帰 らむと請ふの啓一首」と読まれていた。しかし,
語法からのr与」の宇は,空海の他の書啓がすべ てそうであるように,r本国の使に与えて共に帰 らむと請ふの啓一首」と読むべきであり,r本国 の使とともに帰らむと請ふの啓一首」とは読み難 い・しいて読めば,r本国の使のために共に帰る ことを請ふの啓一首」である。しかし,これでは 文意にぴったりしないものがある。
r本国の使に与えて共に帰らむと請ふの啓一 首」と読めば,空海は,この文を高階真人速成に 申し出て,高階真人遠成が,この上啓文を朝廷に 差し出しなことになる。さすれば,唐書の記事と も合致するものがある。が,この文はどうしても
r本国の使とともに帰らむと請ふの啓一首」と読 みたい。それが,状況的にも,心情的にも最も合 致するものがあるのである。そのためか,『性霊 集』の校記によると,醍醐本ではr請本国使与共 帰啓一首」と書き変えられている。これならば
「本国の使とともに帰らむと請ふの啓一首」と読 める。しかし,空海の書である御物の表題には
r与本国使請共帰啓一首」と明記されているので
ある。
もう一度,御物空海書r与本国使諸共帰啓一 首」の表題を見直してみよう。とかぐ,表題の書 き振りは,大抵固苦しくなっているものであるが この表題の書き振りは非常に壊けている・本文が 行書であるのに,これは草書的である。次に,本 文の行間に対して,表題の行間は極めて狭い・む しろ,行間に括入したという感じが強い。第三に 表題の字形は,本文の字形に比して小さい・本文 は1行が大体13字から15字程度の配字であるのに これは,10字が概ね半行に収まっている。以上の ような点から,表題と本文には,やや異質な書き 振りが感じられるのである。それを更に推測して ゆくと,本文を書き上げた後に,巻頭に表題を括
入したものと考えられるのである。なぜ,表題か ら書き出さなかったものか。それは,是非必要な ものは本文だったからではなかろうか。本文を書 き終えて,表題の必要を感じ,最後に書き加えた ものと考えざるを得ない。朝廷に上奏する文書と しては,こんな粗雑さがあっては不敬極まりな い。従ってこれは,上奏文の草稿として書かれた ものと思わざるを得ない。更に,もう一歩進めて 考察するに,r与」の一字の書き振りである◎こ れは,表題の10字の中では,特に異質さを感ず
る。表題の9字を書いた後,上部にいささかの余 白が残っていたので,ここにr与」を括入したも のではなかろうか。問題はr与」の字の位置であ るが,いささかおざなりに行首に書き込んだよう な感じがある。そのため,r与」の読み方に問題 が起らざるを得なかった。しかし,空海自身も,
図版 1
産着宣下履青嵐ギ孝温4大勢4薗 脅軽︐謝五行課盗求繧渉藤布来 暢荏疹間稗室必死経産秀瀦之楚 ﹂を⑳俵.傭装画縄寮を
r本国の使とともに帰らむと請ふの啓一首」と読 みたかったし,性霊集編集の際もそう読ませたか ったのであろう。空海が浄書した上奏文には,果 してどう書いてあったのかは知る由もないし,表 題があったのか,なかったのかも定め難いところ がある。もう一つ考えられることは,本文のみあ って表題は後で書かれたものであるという見方で あるが,これは成立し難い。その理由は,表題と 本文は,同じ時に,同じ筆を使って書いたものと 考えざるを得ないからである。書き振りに通ずる
ものがある。 (図版1参照)
表題の読み方の解決を求めているうちに,書き 振りにまで及んでしまったが,この表題は』後で 補ったものであって,初めからの完成を意図した ものではなかった。そこに読み方にも疑問が残る ようになったのではなかろうか。そう考えると,
これは本書の草稿であるとの推測が成り立つので ある。 (図版1参照)
〈その四〉
『与本国使諸共帰啓一首』の書は,幸いにも現 存していて,空海の自筆として研究の対称になっ ている。空海の人生の指針を示したr聾脊指帰』
が現存していることと共に,空海の半生の分岐を 支配したr与本国使諸共帰啓一首』が残っている
ことは・誠に奇遇の感が深いのであるが,この筆 跡に目を向けてゆきたい。
この書は,紙本であって,縦29,2センチメート ル,横54・5センチメートルの作品である。現在御 物として保存されているが,大同元年(806)の 春,唐の都長安で書写されて後,御物に帰するま での経緯は明らかではない。18行,238字のこの 書には,初めの方にr学問の僧空海啓す」とあっ て,巻尾には署名はない。
r性霊集』にまとめられた文と照合すると,欠 落,誤謬が見られる。本文6行目のr大悲胎蔵」
の下のr金剛界大部」が脱けている。6行目,9 行目,10行目に「曼荼羅」とあるが,この「茶」
を,古字を書かずにr茶」を使っている。7行目 にr耽読」とあるが,このr耽」を俗字のr耽」
が書かれてある。誤りではないかと見られるもの がある。13行目のr捷径」であるがr捲径」と書 かれてある。14行目のr兼」がr雲」となってい る。これらは,古字,略字,俗字にもなく託字化 のひどいものであろうか。
26 福島大学教育学部論集33号
行書で書かれてあるが,相当慎重さをもって書 き出されていることは,巻頭のr留住学問僧空海 啓」の7字によってもうかがわれる。そして,こ の調子は,巻尾まで続いているが,表題だけは,
やや変った調子を受けとらざるを得ない。
しかし,各字の結構の上で,やや奇妙さを感ず るのは,文字の上部が大きく,そのため重苦しさ を強く受けて心なしか不安定さを感じさせること である。手や足の伸びよりも,頭冠の派手さを感 ずるスタイルを取っていることである。同じく長 安で書写したr三十帖冊子」にはそれはなかった 筈である。
その例としてr奉」をあげてみる。文中に r奉」は二度出てくるが,いずれも第一画の横画 が以外に長く,二画目の横画が極めて短かく,第 三画が第一画よりも短いことである。これは,東 晋の書にも,初唐の書にも見られないことであり 後に書かれたr風信帖』のr奉」に比して破綻を 感じさせるものがある。もし,上部を広げた場合 は,これにひけを取らぬだけの脚の長さがあって もよさそうなものである。この傾向は, 「茶」に も, 「華」にも, 「運」にも, 「露」にもあるの である。
この書のままに上奏したとはどうしても考えら れない・空海は,これを元にして浄書し奏上した ものであろう。それは,もっと謹厳な書き振りで はなかったろうか。伝空海と称せられ,国宝であ る滋賀県宝厳寺蔵r紙本墨書空海将来経等目録表 一巻』,また,空海筆の京都醍醐寺蔵の国宝r狸 毛筆奉献表伝弘法大師第一巻』は,その真偽の程 は別として,上表文書としての謹厳さを保ってい るところがら, 『与本国使請共帰啓一首』も,楷 書で書かれ,大唐皇帝に差し出されたのではなか ろうか。そして,草稿として書かれたこれは,空 海の書箱に収められ,帰朝にあたって持参された
ものであろう。表題の不均衡や,欠落や誤謬は,
それを示しているものと考えざるを得ない。
とかく,伝空海と称せられる筆跡は数多く残っ ている。このことは,単に空海に対する信仰的な あり方から来るものだけではなく,空海自身が,
自己の筆跡を疏外することなく,慎重に蓄積保存 する態度を離さなかったからではなかろうか。非 常に計画的なところが深かったことが察知される のである。
この書の奇異的書ぎ振りは,どう考えたらよい
1981−12
のであろうか。
この時の空海は,必死の覚悟があったと思われ る・今,帰らなければ,自分の一生は大転換せざ るを得ない。果そうと考えていたことが,総て空 に帰するのである。この上奏文の如何によって自 分の生涯が決定づけられるのでもある。この切端 づまった心で筆を把つた。全智を傾けて文案を練 った。その時,空海の書き振りが,赤裸々に露出 されざるを得ない。波瀾に満ちた生きざまに耐え て来た空海の性格がその書に発揮されざるを得な いのである。
黒田正典教授の説によると,空海の書は, r動 乱的人生観型」であるという。空海は,宗教的天 才である。彼の一生の伝記は波瀾に富んでいる。
ことに青年期の苦悶,求道の様がうかがわれ,そ れが『三教指帰』となり,更に入唐となった。入 唐して真言宗を求めつつ,書道・美術・工蔵・天 文・地誌にいたるまで,あらゆる学問,技術を研 究し,書籍,参考品を蒐集している・帰国してか
らの全国諸野の遍歴,諸寺の建立,池水の開発,
学校の創設など,他僧に比しても最も豊富であ る。外的事業だけでなく,後世に残した宗教的,
教育的感化は偉大なものであった。彼の一生は,
宗教学者として偉大であっただけでなく,実践的 な宗教家として天才であったのである。宗教的天 才とその情意の巾広い動き一一さらに,彼は,日 本における密教の輸入者であり,祈蒋の権威とな ったのであるが,祈りを求める心は動乱的な心情 生活の必然的な結果である。彼の書もまたそれに ふさわしく強大な筆力,豊かな変化を示してい
る。
空海の書の代表作である『風信帖』を見ると,
動乱性はあまり受けとることは出来ない。とぎ澄 まされた光沢を感ずるからである。しかし,卒意 の書である『灌頂記』や,霊気を含んだ『益田池 碑』などには,動乱性を感ずるものがある。そし て,この書の奇異性は,空海の書の動乱型が,上 奏文としての厳正さを保ちながら発揮されている
ものではなかろうか。 (図版H参照)
〈その五〉
中田勇次郎教授はrこの書は空海の筆意を想わ せるところが多い。 r大日経疏要文記』がいくら か近いが,なおその書としての確証はえがたい。」
と述べている。
須田哲夫:与本国使請共帰啓 27
図版 皿 図版 皿
茶
冨
溜勢
6、
泰
そこで,『大日経疏要文記』との考察を加えて みたいと思う。
『大日経疏要文記』第一・巻の5行,6行,7行 目あたりは,質朴,渾厚を感ずるところであって
r与本国使請共帰啓』の渾厚な線質に共通点を多 く見い出す・これは,空海の他の書にも多く感じ とられる共通点でもある。 (図版皿参照)
しかるに,大日経疏第十巻あたりになってくる と,その様相がやや変ってくる。線が平盤になっ てくることである。側筆的な傾向が強くでてくる。
即ち,鋒の開きが顕著に感じられることである。
重石嵐窓Ψ広報朝肇塗を 名著初き乃釘振遣ゆ第二蒸室 是夏脅篭提趣西ゑ是義貧の享垂声し
28 福島大学教育学部論集33号
軽快さが加わって,やや上っ調子に奔り過ぎる傾 向になっている。これは,空海の本質的なよき方 ではない。よほど急いで書いたもののように受け 取られる書き方である。『三十帖冊子』の細字の 水ももらさぬ書き振りとは違っている。そこに,
『与本層使請共帰啓』と『大日経疏要文記』は,
近いものを持っているが,帰を」にすることは出 来ないものである。
〈その六〉
こめ書を,空海の他の書と比較検討してみるこ とにする。例として『風信帖』 『灌頂記』 r沙門 勝道歴山水篁玄珠碑』 『聾瞥指帰』をとりあげて
みる〇一『.
まず『風信帖』との比較である。『風信帖』は 明澄で爽快,気品高い書であり,線に悠長な伸び のある書である。そのことは,例に出したr何」
「共」 「法」 「也」 「十」 「此」 「空海」 「金」
r与」の十字を見るとよくわかる。この十字を,
両方から取り出して比較するに実に共通点が多い のである。r与本国使諸共帰啓』の方辱,やや固 着さがあるが,そこに内在する線の動きは,『風 信帖』のそれと動きを同じにすることが多い。
「何」の第一画は,.やや方向を異にして炉るが,
以後の進み方は全く似ている。一r共」の字は,画 のそりの程度の差こそあれ,絶妙な動きには多く の共通点をもちつつ,リズムカルに進行して ρ る・ 「法」も,その動きが同じなのに驚かされ,
r也」は,弾力性の相違こそあるが,その一貫す る線質には,通ずるものが多い。 r此コは一見,
違った感じを受けるが,細かに考察すろと帰を一 にするものが多い。r空海」の2字は,態勢が違 う。左傾斜と右傾斜になっているが,.その線の進 行方向は,奇妙なほど合致している。前者の左傾 斜は,これから書き続けるための方向を示したも のかも知れないし,後者の右傾向は,終尾の完結 の態勢を見せるものかも知れない。(図版W参照)
全く異質と考えられるものにr与」がある。前 者のr与」は,第一画と第二画にはつながりがな い。というよりは,第一画の方向は,なげやりで ある・従って第二画と.あ連繋は無視されている。
又,おしまいの結びち、中途半端の感がある。そこ に,このr与」は,最初から意図されて書かれた ものというよりは,後で書き添えたものの感が深 い。このことは前述したことであって,この行の
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十字が,全文を書き終えてから巻頭に書き加えら れたものであろう。しかし,外見は異にしている が,内浴する筆意には, r風信帖』のr与」と全 く通ずるものがある。むしろ『風信帖』のそれよ りも,鋒の「開き」が生きていて,単独でとりあ げた時には生彩を感ずるものがある。
次に『灌頂記』との比較を考えてみよう。
五字を取り出して並べてみると,文字の大小の 差こそあれ全く同一作品のものかと思われるほど の共通点がある。まず,線の方向に類似点の多い ことである出線が進むに従って方向が微妙に変化 するのであるが,この変化が実によく合ってい る。r成」丁阿」などの線がその典型的なもので はなかろうか。 r成」の第四画の斜右下に引く画 には,なぜこんなにまで通ずるものがあるのであ ろうか。この画の頭頂の始筆に全く似かよったも のがあり,それから下りだして進むうちの変化は 微妙なうちに同一方向をとって進んでいる。即ち 線のrゆれ」である。このrゆれ」には大きな理 由がある。即ち,筆管の傾斜からくる鋒の摩擦に よって生じたTゆれ」であろう。とすれば,この 筆管の持続は,共通した筆者によって保てるもの
と推測せざるを得ない。
この五字を並列させて感ずることは, 『灌頂 記』には重厚さのあることであり,『与本国使諸 共帰啓』には軽妙さのあることである。しかし,
作品を全体的に観察するときには,反対の印象を 受けるのである。即ちr灌頂記』には酒脱さがあ り, 『与本国使請共帰啓』には,固浜さが漂って いることである。これは,特別な文字を抽出した ための結果であろうが,作品全体的な印象という ものは,各字,各字の組み合せ,配字の如何によ っても,大きく変るものがあることを認識しなけ ればなるまい。
ともあれ, 『与本国使請共帰啓』は, 『灌頂 記』と共通するものを多分に有している。その中 に,心理的凝縮さを感ぜざるを得ないことは,上 奏文であることの束縛さから脱け出せなかったの ではなかろうか・無意識の間に圧迫があったのか
も知れない。 (図版V参照)
次に, 『沙門勝道歴山水榮玄珠碑』との比較を 考えてみたいと思う。
『与本国使請共帰啓』は在唐中の作品である。
図版w
与本国使諸共帰啓 風帖帖
■−ヤ
与本国使諸共帰啓 風信帖
●
覧︑
30 福島大学教育学部論集33号
図版 V
与本国使諸共帰啓
灌頂記
の 敬
武
ぢ 葬
柔
移
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大同元年(806),空海33才の書である。その後,
弘仁3年(812)頃に『風信帖』 r灌頂記』が書か れた・即ち39才から40才のことである。この間,
空海の書は更に円熟した。更に弘仁5年(814)に r沙門勝道歴山水肇玄珠碑』が書かれている。従 って,そこに磨きがかかっているように思える。
7字を列挙してみるとこの感が深いものがある。
即ち『沙門勝道歴山水榮玄珠碑』は偏奇さが薄 れ,円滑さが加わっているように見られる。しか し,この間に,多くの共通点も見出されるのであ る。上奏文という緊張感に対して,後世への伝承 を意識した碑文の謹厳さの差こそあれ,両者の帰 一するものの多いのに驚かされる・字形の上から も,用筆の上からも通ずるものが多い。 r金剛」
という二字があるが,若さからくるものかr与本 国使請共帰啓』には,やや間隙を感じさせる不調 和音がある。このことはr南」の字も同様であ る。偏平さを極端にとった前者の結体は,後者に おいてその度を少くしているが,第四画の筆致は よく似ていて余すところがない。
独得な異体をとったr歩」とr渉」を終りに掲 げてみた。この二字は独自な結体をとりつつ,そ の筆意は全く同じであるといえる。
r与本国使請共帰啓』とr沙門勝道歴山水篁玄 珠碑』は1文字の大きさも,字形のとり方も,用 筆もよく似ていて判別に困難さを感ずるものが多 い。ただ,そこに成熟度というか,安定感という か,研磨度というか,表面にはきわだたない違い を感ずるのは,やむを得ないことであろう。 (図 版斑参照)
『聾嘗指帰』との比較を考察してみよう。 『聾 普指帰』は,空海青年期の書である。従ってこの 書は, 『与本国使請共帰啓』と大部かけ離れてい て,共通点は少いものかと考えられるが,そうで もない。r聾嘗指帰』との参考例は数多くあげる ことが出来るのであるが,都合によって4字のみ を掲げてみると,そこには共通するものが多い。
例えば, r学」やr為」などは筆意に似たものが 多い。特に奇異を感じたr功」の字についてであ るが,最終画が以外にも長く書かれているのであ る。これは,どこから来たものであろうか。空海 独自の虚飾性の発露ではなかろうか。時にみせる 空海の奇異性でもある。これが『与本国使請共帰 啓』にはちらっき,品位を欠く結果ともなりかね
図版 w
与本国使請共帰啓 沙門勝道歴山水釜玄珠碑
裂1
鯛
,南南
.婁濃
図版 w
与本国使請共帰啓 聾誉指帰
嵐
32 福島大学教育学部論集33号 1981−12
ない。又,『聾菩指帰』の青くささと結びつくも のでもありそうである。この弱点というか,虚飾 にも近いものが窺われて,空海の傑作である数々 の壮年期の書と比較され,遜色をみるところでも あり,素直に空海の書として受け取り難いところ でもあろう。f城」の字にも同様なことがいえる が, r城」の場合の『与本国使請共帰啓』は,こ の装飾さが,けずり取られて落ち着きを取りもど
しているようである。
r鰭魏』は,若い頃の空海嘩学習の集積 された作品とみられるものであり,未完成さは残 しているとしても,以後の空海の書の本源をなし ているものと考えられる。『聾菩指帰』とr与本 国使請共帰啓』との関連が深いのももっともなこ
とである。
り,長安滞留7か月の間に青竜寺,大興善寺に学 んだ。天安2年(858)6月に帰朝したが,在唐 5年,帰朝に際し,441部,1千巻の経巻を請来 している。以後叡山を統率し,天台密教の大成に つとめ,空海の東密に対して台密と称せられてい る。書は,最澄の踏襲といわれているが,必ずし もそれに限らず,濃厚さや,変幻自在さもみせて
いる。
それにしても,奇しき縁ではなかろうか。もし 空海がr与本国使請共帰啓』を書かず,剛引に帰 朝の請願をしなかったならぽ,唐土に朽ち果てて 姪円珍が渡唐した際にも相見ることはできなかっ たであろう。この書が,如何に空海の生涯を支配 するに至ったかを証拠だてているのである。
〈その七》
空海が長安を去って四十数年経って,天台座主 円珍が入唐した。その『行歴抄』によって窺うと,
円珍は中国の寺僧恵灌に遇っている・恵灌は,円 珍が日本僧であることを知ってr五筆和尚はご健 在か。」と問うたのである。五筆和尚とは空海の ことである。 「その僧,すでに亡化せり。」と答
える訟欝胸をか馳しって蔽し・瞑芸
未だ曽て倫あらず。」.といったという。
後に,轡証大師とおくり名された円珍は, 『天 台宗延暦寺座本円珍伝』によると,「母は佐伯氏。
故僧正空海阿闍梨の姪なり。」とある。仁寿3年
(853)8月,唐船に乗じて入唐した。福州の開 元寺,天台山国清寺,越州開元寺を経て長安に入
この書は,空海の明日からの生きざまを左右す る重要な役目をもったものであっ#。畢生の意を 注ぎ文案を練り筆を執った。終って表題ρ必要さ を知って加筆した。その後,浄書に入ったもので
あろう。
原稿としてのこの書は,文箱の底に眠り,経緯 を重ねて御物として真姿を見せてくれる。
参考文献一
日本古典文学大系 書道全集
書道芸術 空海の風景
71巻 11巻 12巻
中央公論社 平凡社 中央公論社 中央公論社
A Study on K廿kaiフs Calligraphy
Te鱈uo Suda
As to K廿kai s handwriting,a fair am㎝nt of d丘㏄t and ind丘㏄t data has b㏄n㎞ded down and pr℃served and is now avaihble enough ねD trace廿1e process of h蛤 ca皿igra−
phy. Ahd f㎝n old times lots of treatises have b㏄n published regard血g K敵ai,s、
ca皿igraphy and 廿1e value of his canゆphic works.
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which his style of ca皿igmphy has had down the ages.
(1981年7月2日 受理)