.善︑
思慮︑快楽
プラトン ﹃ピレボス﹄三一B〜六七B
伊 東
斌︿験文要旨﹀ 快楽は善なのか︑それとも思慮のほうが人間にとってよいものなのか︒我々の人生にとっては︑快楽も思慮も両方
あったほうがよい︒快楽と思慮との混合した生がよりよい︒では︑その混合の生をよきものにしているのは快楽なのかそれとも
思慮なのか︒快楽と思慮の各々を分析して二等賞争いの決着をつけねばならない︒第−章︑快楽の分類︑第H章︑思慮の分類︑
第皿章︑両者の比較及び判定︒
第−章 快楽は一つかそれとも幾つかのものに分けられるのか︒快楽を考える時︑快楽を与えるものとの関係を無視できない︒
その対象との関係によって︑快楽には真なる快楽と単なる快楽の区別が立てられることになる︒思いなしに伴う快は︑思いなし
自身に真偽の区別が語られるので︑それに伴う快にも真偽が語られうる︒また︑苦痛がなくなることを快と思い違えることもあ
る︒かくて︑真なる快︑偽なる快︑苦痛と混じりあった快と︑純粋な快など︑快楽の間に分類が可能となる︒
第H章 思慮についてはそれと同族の知識によって分類が行われる︒永遠に変らない神的対象にかかわる知識もあれば︑感覚
的事物を対象とする知識もある︒それらの間には当然︑真実さの段階が認められるがしかし︑快楽の場合とは異なって︑偽なる
知識というものはありえない︒感覚的事物を対象とする知識も︑我々が感覚の世界に生きている以上︑必要なものとなる︒
第皿章 快楽︑思慮ともに様々に分類されたが︑そのうちのどれを混ぜればよき生が出来るか︒両者ともその全部を混合する
ことは危険︒ではどれを入れるか︒よき生のよさに貢献するものを選ぶのだからというので︑善の三つの姿︑適度︑美︑真実性
をとり出し︑その各々によって快楽と思慮の各分類を吟味する︒その結果をもとにして︑よき生のよさに貢献するものをランク
付けすると︑快楽のほんの一部のみがようやく第五位にひっかかる程度である︒
二九
三〇
快楽と思慮がその位を争った善とは何か︒この対話篇で語られる限りでは︑感覚の世界︑実在の世界を秩序づけ︑それらをし
てよきものたらしめるもの︑すなわち原因であり︑逆に︑我々の生はそのような生を可能な限り写しとっていく限りにおいてよ
きものとなるのであり︑知性と思慮はそのことを行うことを本来の使命とする︒
1
我々の生︑すなわち人間の生においては︑快楽と思
慮の双方を欠くわけにはいかない︒快楽のまったくな
い思慮だけの生は︑誰からも選ばれないし︑逆に︑思
慮のまったくない快楽だけの生は︑思慮がない故に︑
快楽ということ自体が認識されないので︑快楽の生と
いうことが言えなくなる︒したがって︑こちらの生も
選ばれることはない︒選ばれるのはただ一つ︑両者の
混合︑両方にまたがる共同の生のみである︒共同の生
が第一位となった︒では︑第二位に来るものはどちら
か︒一等賞を獲得した共同の生を真に成り立たせてい
るのは︑快楽と思慮のどちらか︒どちらが入っている
が故に︑共同の生が選ばれることになったのか︒どち ユ らが共同の生により同族的なのか︒この点をめぐって
二等賞争いが行われることになる︒だがしかし︑快楽
と思慮をすぐに比較することはできない︒各々につい
てその内容を明らかにしてからでなければならない︒ そこで︑両者各々の分類がなされる︒最初は快楽から である︒ 思慮の場合も同様だが︑見らるべきは﹁快楽があるのは何によってであるかということと︑生ずる場合は何の情態変化︵融昏晦︒り︶にもとづいて生ずるのか﹂
︵ωHしdbO一鼻︶ということである︒そして︑快楽を扱う
場合は︑苦痛と一緒に行うことが確認される︒快苦の
生成の自然的なあり方︵鶏洋灯黛て.ω一〇ω︶は共通
の類をもとにして︑同時に生ずる︑とされ︑その共通
の類とは︑﹁四つの類﹂で語られた第三番目のもの︑
すなわち混合体である︒そして︑その混合体の中には︑
健康や調和が置かれていた︒︵ωHbJlO︶
快楽の一つの種類︵穿瓢動︒り︶がこの調和との
関係で取り出される︒それは︑初期対話篇いらいおな
じみのもので︑自然状態の崩壊と復帰がそれぞれ苦痛
と快楽となるものである︒例えば︑空腹 自然状態
すなわち調和の解体−苦痛と︑食事を摂る 充足
すなわち自然状態の回復 快楽︑という身体的快楽
ヘ ヘ へがそれである︒自然のあり方への回復︑それが生ずる
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ過程︑及び︑生じた結果としての情態が快楽の一つの
種類である︵ωHロu〜ωb︒bσ︶︒そしてこの場合︑先づ崩
壊があって︑その次に回復ということがあるのだから︑
快楽が語られるためには苦痛が存在していなければな ヨ らないということになる︒
次の種類は︑﹁身体とは関係なしに︑魂黛§だけ
がもつ快楽﹂︵ω卜︒O︶である︒別名﹁予想の快﹂︵馬ミ
勲昏竃︒q窃実貯り︶︒予想だから現在のことではない︒
将来のことに属する︒したがって︑現在の快苦を混じ
えない︵無関係とはいわない︶︑つまり︑身体のパト
ス︵状態変化︶を伴わないかたちの快苦を考えること
を可能にする︒何故このような快苦を考えねばならな
いかといえば︑それは︑快楽の様々な種類を列挙する
ためではなく︑﹁快楽は類全体として歓迎できるもの
なのかどうか︑⁝⁝⁝それとも︑時と場合によって歓
迎すべきものともなれば︑歓迎すべからざるものとも
なるのか﹂︵ωb︒一︶一ーハ︶ということを考察するためで
ある︒ では︑その魂だけの第二の種類の快楽についてはど
のように語られるのか︒
予想の快︑期待としての快は︑当然のことながら︑ 将来のことに関係する︒但し︑快楽としては現在のことである︒例によって示そう︒喉が渇いて苦しい︒これは今現在のことである︒冷たいビールが飲みたい︒今は車を運転中だから飲めないが︑帰宅して冷蔵庫に冷やしてあるビールを飲めばさぞうまいことだろうと考えて生唾を飲みこむ︒実際にビールを飲むのは今ではなく将来のことである︒その将来の出来事を予想し へて︑期待して︑今快を感ずる︒このような構造を持つ予想の快は︑身体的快楽と決定的に違うところがある︒それは︑身体的快楽の場合︑快楽を与えるものを問題にしなくても︑快楽は語りえた︒だが︑この予想の快は︑将来のある出来事を抜きにしては︑何も語れないということである︒ 将来の出来事とかかわらねばならない予想の快は︑その生成の源を過去の記憶に求められる︒その記憶とは︑感覚の保全であり︑感覚とは︑身体の状態変化が身体の中で消滅してしまわないので︑魂にまで到達し︑魂が影響を受けて︑魂と身体とが一つの状態変化の中に共同の形で置かれ︑共同的に動くときのその動きだとされる︒また︑記憶は想起と区別される︒想起とは︑ここでは︑魂が身体と一緒に持っていた経験を︑魂だけでとり戻すことである︒︵ωωOiω斜○︶
=二
これらのことが語られたのは︑身体から離れて魂だ
けが持つ快楽を明確に把握するためと︑次に語られる
﹁欲求﹂︵窪馬§ご︶の把握のためである︒
﹁欲求﹂とは何か︒﹁飢え﹂や﹁渇き﹂などがそれに から属するものである︒﹁飢え﹂や﹁渇き﹂は﹁空﹂︵義て︒㍗
鶏^︶ということであり︑それが欲求であるという
ことは︑欲求とは空っぽの状態を充たすことというこ
とになる︒空っぽの情態と充足とは反対の事態である
から︑欲求とは︑経験している当の情態︵例えば︑渇
き︶とは反対の事態の欲求でなければならない︒当の
情態を経験しているのは身体である︒したがって︑そ
れと反対の事態をさぐりあてることは身体にはできな
い︒何故なら︑反対の事態を欠いているのだから︒出
来るのは魂だけということになる︒それも記憶によっ
て︒ということは︑人間やその他の動物のすべてにつ
いて︑欲求や衝動︑更には生のもとになるものは魂の
領域に属すということである︒したがってまた︑我々
は同じ時に快と苦を味わうことが可能だと言えること
になる︒すなわち︑空っぽの情態にあることで苦しん
でいるが︑充足されるという期待を持っている場合は
愉快な気持になっていると思われるからである︒︵ωらO
一ω①じσ︶ 三二 以上のような議論を行なう目的の一つは︑次に語られる︑快楽︵と苦痛︶の真偽の問題である︒快楽に真偽の区別があるのか︒快楽の間に種類分けの可能性を認めたプロタルコスも︑真偽の区別には抵抗する︒快楽の真偽はどのように語られ︑またどのような快楽が る 真なる快楽なのだろうか︒ 快楽には偽がないというのがプロタルコスの主張である︒それは﹁恐れ﹂や﹁予想﹂の場合も同様である︒ただ一つ︑真偽の別を彼が認めるのは﹁思いなし﹂
︵象嚇食︶だけである︒そこで︑この思いなしと快楽
とを比較しながら︑吟味は進められる︒
﹁思いなすこと﹂に対しては﹁快を感ずるというこ
と﹂があり︑﹁思いなされる当のもの﹂には﹁快を感
ずるものが︑まさにそれにおいて快を感ずる当のもの﹂
が対置されうる︒更に︑思いなしを行っている人は︑
どんな仕方であれ︑実際に思いなしをしているという
事実はなくすことが出来ないと同様に︑快を感じてい
る人も︑どんな仕方であれ︑実際に快を感じていると
いう事実をなくすことは出来ない︒このようにパラレ
ルに話は進んでいくのに︑思いなしには真偽が認めら
れるが︑快楽には偽は認められない︒但し︑﹁邪悪さ﹂
︵昌︒︿︑h袋︶は快楽にも認められる︒だから︑邪悪
な快楽ということは語りうる︒ところで︑快楽と思い
なしとは完全にはパラレルではなかった︒快楽には真
偽の区別は認められなかったが︑思いなしにはその区
別は認められた︒では︑その二つをドッキングさせれ
ばどうなるか︒すなわち︑思いなしを伴った快楽とい
うものを考えるわけである︒するとそこには二つの快
楽が考えられることになる︒真なる思いなしを伴った
快楽と︑偽なる思いなしを伴った快楽がそれである︒
思いなしは記憶と感覚から生ずる︒例えば︑遠くにあっ
てあまりはっきりとは見えないものについて判断しよ
うとすることがある︒そして︑あれは人間だと言うか
もしれない︒あるいは︑そうではなくてあれは彫像で
あるというかもしれない︒実際に他人に語りかければ
言表︵︾ミ︒り︶になるが︑心の中に持ち続けていれ
ば思いなしということになる︒これらのことは︑また︑
筆記者や絵師のイメージで語られる︒何も書かれてい
ない白紙の如き我々の魂に︑記憶と感覚が一緒になつ
らねて︑言表となるべきものを書きこむ︒その時︑筆記者
が真を記入すれば︑思いなしも言表も真なるものにな
るが︑逆に偽を記入すれば︑偽なる思いなしや言表が
生ずることになる︒そして︑その後に絵師が︑そこに
言われていることの絵すがたを魂の中に描くとされ る︒それは︑視覚や他の感覚から︑その時思いなされたり言われたりしたことを取り出して︑そこに思いなされたことの絵すがたを自分自身の中に見ているということであり︑その絵すがたの真偽については︑真なる思いなしや言表の遣すがたは真であり︑偽なる思いなしや言表のそれは偽だとされる︒言表にも絵すがたにも真偽の区別があり︑絵すがたの真偽は言表の真偽に依存してそれと直結するものである︒そして︑それらの言表や宿すがたは︑過去の事柄や現在のものについて成立すると同様に︑将来についても成立する︒我々は将来のことをあれこれ思いなす存在であるし︑期待に胸ふくらませる存在なのだから︒さて︑思いなしには真偽が語られた︒その区別は︑思いなしの対象による︒すなわち︑存在するものに基づくか︑存在しないものに基づくかの相違である︒思いなしの対象が存在するものであれば︑その思いなしは真だが︑存在しないものに基づく思いなしは偽だということになる︒そして︑このことには時間の別がなく︑過去・現在・未来いずれの場合にもあてはまる︒将来あるはずのないものに基づく思いなしは虚偽である︒してみると︑思いなしを伴った快楽には虚偽が成り立ちうることにな
る︒偽なる快楽は可能である︒偽であればまたそれは
三三
劣悪な快でもある︒︵ω刈>1自﹀︶ ところで︑右の要約の中で触れられなかったことが
二つある︒その一つは︑ωり田Ol轟Oゆ刈において語ら
れる︑﹁神に愛される﹂︵魅︒︒℃h憲り︶人々のことで
あり︑もう一つは︑それと関連するが︑幽O>Φi旨で
語られることである︒神に愛される人とは︑正しい人︑
神をうやまい畏れる人︑総じてよき人のことであり︑
不正な者︑総じてあしき者がそれと正反対の人と言わ
れるところの人々である︒このような表現が何故なさ
れるのか︒また︑我々の当面の問題とどう関係するの
だろうか︒右の要約では︑これらに言及することなし
に偽なる快楽について語ることが出来た︒しかし︑テ
キスト上では︑偽なる快楽が語られるのは︑まさに︑
神によって愛される人とのつながりで語られたのだっ
た︒それは︑次のような次第である︒よき人︑あしき
人が語られた後に︑期待が語られる︒これは︑よき人
もあしき人も︑要するに︑すべての人が持つことの出
来るものである︒そして︑先に語られたように︑期待
←言表←絵がすべての人に成立する︒但し︑よき人の
場合には︑﹁書き記されたことは大方が真﹂とされ︑
あしき人の場合には︑︵書き記されたことは︶大方が
︵真の︶反対ということになる︒そして︑このあしき 三四人々の場合︑偽なる快となるとされる︒偽なる快の存在は︑このような簡単なかたちで導き出され︑その後に︑要約でも触れた︑存在とのつながりによる説明がなされることになる︒しかし︑よき人・あしき人ということと︑真偽ということとはどうつながるのだろうか︒プロタゴラスの徒でなければ︑一般に︑人の思いとは独立に真偽は存在すると考えるのではないだろうか︒よき人と真とがつながれるのは︑彼らが﹁神に愛されているから﹂︵動h鋤Nい魅︒︒℃h︾急り●お︒σω︶という理由による︒では︑神が︑人の思いと真偽とをつなぐのかといえば︑あるいはそういうことも考えられるかもしれないが︑ここでの力点はそういうところにあるのではないように思える︒神によって愛される人はどういう人であったか︒ここでは︑突然神に愛されたということではなく︑正しく︑神をうやまい畏れるようなよき人が︑神に愛されるのであった︒順序を逆にしてはいけない︒神に愛されるからよき人なのではなくて︑よき人だから神に愛されたのである︒だから︑先の﹁神に愛されているから﹂という理由も︑無条件的に神の存在をたてるのではなく︑よき人︑神に愛されるほどのよき人であるから︑と解することが出来るのではなかろうか︒たしかに︑真偽という認識論的な
問題と︑よき人あしき人という倫理的問題とは区別し
なければならないということはあろうが︑ここでの真
偽︑つまり︑快楽における真偽は︑ただたんに認識論
的次元の問題では終らないということもあるのではな
かろうか︒それはまた︑偽なる快楽と劣悪な快楽とが
結びつけて論ぜられている︵轟O国り一自﹀ら︶こととも
関係しているであろう︒
もう一つの箇処︵心O>Φ1一b︒︶は︑慰すがたに関す
るもので︑書かれている場所は︑神に愛される人が導
入されて︑それから偽なる快楽が導出されるその間で
ある︒将来に関する期待は︑言表としても存在するし︑
また絵すがたとしても存在する︒ここでは︑その絵す
がたの一つの例として︑無尽蔵の金を入手して︑それ
によって多大の快楽が生ずること︑及び︑自分が自分
ですっかり愉快になっているところを心に描いて見と ハ れるということがあげられている︒すると︑標すがた
に二段階あることになるのだろうか︒今の例でいえば︑
無尽蔵の金の入手が一つ︑金がもたらす快楽によろこ
んでいるのが二番目︒快楽で言えば︑金の入手による
快楽と︑その快楽をよろこぶ快楽と︒この二つの快楽
の間に何らかの相違があるのだろうか︒真偽というこ
とでいえば︑金の入手との関係で定まることだから︑ 第一次の快楽の問題である︒第二次の快楽には真偽の区別があるのだろうか︒真なる快楽の快楽は真で︑偽なる快楽の快楽は偽だということになるのだろうか︒快楽のそもそもの出発点が金の入手だから︑真偽はあくまでも︑それによって定まるということになるのかもしれないが︑第二次の快楽には︑もっと別の取り扱いが必要なのではないだろうか︒しかし︑ソクラテスはここではそれ以上のことは何も語らない︒ さて︑第一の種類の偽なる快楽は以上の如きものである︒思いなしの真偽によって︑快楽の真偽が定められたのであった︒では︑思いなしとは独立に快楽の真偽は定められないのだろうか︒ 偽なる快楽の第二の種類は︑以前に同意された二つのことを前提とする︒その一つは︑身体の情態変化とは逆の状態を魂が欲求するということ︵ωαOIU︶︒第二の前提は︑快・苦はアペイロンの種族に属するとい フ うこと︵bO刈国︶である︒第一の前提において︑身体は情態変化にもとつく快・苦を提供するが︑魂は身体と反対の状態を欲求し︑そのことよって快が生ずるということが意味されているから︑この前提から︑快・苦
︵の感覚︶が隣り合って︑しかも同時に生ずるという
ことが言える︒また︑第二の前提のアペイロンという
三五
ことは︑﹁より多く︑より少なく﹂を受け入れるとい
うことであった︒そこで︑これらの前提から帰結する
ことは︑視覚において︑遠くから見られたり︑近くか
ら見られたりすることによって︑偽りの思いなしをす
ることになりがちだが︑それと同様のことが︑隠避だ
けで生ずること︑及び︑快と苦を並置することによっ
て︑より大きくまたより強く感じられるということで
ある︒従って︑各々が実際にあるよりも︑より大きく
見えたり︑より小さく見えたりする部分︑及び︑その
部分の上に生ずる快・苦は偽なるものであるというこ
とになる︒︵自bdQ︒一おO鼻︶
この第二の種類の偽なる快楽は︑第一のそれとは
異って︑快楽自身の中に偽の源を有している︒そして︑ ヘ へそれは比較によって生ずる︒その比較は二通りある︒
一つのものを近くから見たり︑遠くから見たりする場 合と︑二つのものの並置による場合とである︒比較し
て︑或る快を実際あるよりも︑より大きい︵または︑
より小さい︶快だと思うわけである︒したがって︑こ
の第二の種類においても︑第一のそれと同様︑思いな
しは語られねばならない︒但し︑第一の場合は︑思い
なされた事態があって︑それの快苦が伴うということ
だったが︑第二の場合は︑直接︑快苦を思いなすとい 三六う相違がある︒したがって︑真偽についても︑第一の場合は︑事態の真偽に依存して快苦の真偽があったが︑第二の場合は︑快苦の本性からそれの真偽が生ずるわけで︑快楽の本性の中に︑偽となる可能性があると言わなければならない︒ 尚︑第二の種類においても︑快の快が語られた︵幽Nglω︶︒但し︑今回は︑これも偽だと言われた︒それは︑第一次の快︑すなわち︑より大より小と見えるだけで実際にはない部分︑の上に生ずる快だが︑その第一次 ヘ への快自身が偽なのだから偽となるのであろう︒このことの意味は︑比較によって将来の快苦について思い違いをするということは︑また同時に︑現在の快苦についても︑実際にあるよりは違ったように見させるという可能性をも含んでいるということを示していること であろう︒遠近ということも︑これと併せ考えれば︑よりょく理解出来るであろう︒ 第三の種類の偽なる快楽も︑既に合意されたことを前提としている︒自然状態の崩壊が苦痛であり︑それ
への復帰が快楽であった︒だから︑我々の身体がその
どちらにも動かないならば︑快も苦も生じないであろ
う︒だが︑ヘラクレイトスの徒ではないけれど︑不断
の動きがあると言わざるをえない︒しかし︑我々は情
態変化の全てを感覚するわけではない︒例えば︑自分
自身の成長を感覚することはない︒だから︑動きがあ
れば快苦を生じさせるということにはならない︒大き
な変化のみが快苦を感じさせるが︑微小でおだやかな
変化は何も感じさせないということになる︒以上のこ
とから︑三つの生活を考えることが出来る︒快適の生
活︑苦痛の生活︑そのどちらでもない生活︒この三者
を区別するかぎり︑苦しみを感じないことイコール愉
快を味わっていることとは言えない筈だが︑一番快適
な生は︑一生を苦しむことなく送ることと言う人がい
る︒この人には︑苦しみのないことがすなわち快だと
言っているわけで︑快・苦の性質を持たない中間の生
を︑快または苦の性質を持つものと言っていることに
なり︑それは丁度︑金でも銀でもないものを︑金か銀
であると言うことと同じことになる︒したがって︑苦
しみがないことを愉快だと思うのは︑偽りの思いなし
をしていることになる︒両者の自然本来のあり方
︵℃qqhり︶は別なのだから︒︵心NOα1畠bdω︶
この第三の種類の特徴は﹁中間的生﹂の存在である︒
快と苦の間に︑その何れでもない中間状態を設けるこ
とにより︑苦からの脱却だけでは快にならず︑また︑
決でなくなることがすなわち苦というわけではないと いうことを示すことを可能にした︒すなわち︑快楽の本性についての思い違いの可能性を示すことにより︑快楽が偽と見えるだけでなく︑実際に偽であるということを示すことが出来るようになる︒ 以上が偽なる快楽の三種類である︒これらは何れも︑思いなし・判断の誤りによって偽となっている︒そして︑その判断の誤りは将来の何か曇ることに関してであった︒またその何か嵌ることとは︑将来において予想・期待されたものであった︒そしてまた︑期待としての快は︑魂だけに属す快楽として︑身体的快楽からは区別されたものであった︒したがって︑以上のことを併せ考えると︑魂だけに属す快楽のうち︑予想による快楽は︑託つ可能性︑すなわち偽の可能性を本質的に有していると言わなければならない︒ さて︑以上︑身体的快楽と︑魂だけに属することとしての予想の快が語られた︒そして︑後者に関しては偽の可能性が語られたが︑前者については︑苦の存在を前提とすることは語られたが︑偽の可能性は語られていない︒身体的快楽には真偽の区別はないのだろうか︒もしあるとすればどのようにして成立するのだろうか︒ソクラテスは︑﹁ピレボスの敵たち﹂ 彼らは自然本来のことがらに大変よく通じていると言われ
三七
る人々で︑ピレボス周辺の人々が快楽と呼んでいるも
のは︑苦をまぬがれているだけだと主張する の立
場を検討することによって︑快楽の一つの姿を浮き上
らせようとする︒それは一つには︑プロタルコスが︑
予想の快の第三のものを充分には理解しえなかったこ
とに基因する議論でもある︒それは次のように語られ
る︒ 何であれ︑自然本来のあり方を見るためには︑見よ
うとするものの最高度ものを対象とすることが必要︒
例えば硬さの場合は︑最も硬いものに注目するように︒
快楽の場合も同様に︑その絶頂にある最も強烈なもの
に注目しなければならない︒快楽の最大のものは身体
に関するものであり︑それへの欲求もまた極めて大き
いものが先行するものであり︑また︑最も度の強いも
のである︒そのような快楽は︑自制心の欠けた身持の り わるい人のような︑魂と身体の邪悪さの中に生ずるの
であって︑徳の中には生じない︒そのような快楽の一
つの例は︑済癬の治療に摩擦を用いる場合であって︑
そこに経験される情態変化は︑快楽なのか苦痛なのか
区別がつかないほどのもので︑これが︑快苦の混じった混合の快︵q骨交2ミミ︶である︒この混合の快
は三つに分けられる︒一つは身体の中に生じた身体寄 三八
りのもの︑第二は魂の中に生ずる魂だけのもの︑第三
には魂にも身体にもかかわりのあるもの︑の三種であ
る︒第一の身体だけのものは︑先の癖癬の例のように︑
苦が快よりも優勢な場合と︑逆に快が苦よりも多量に 混入されている場合とに分けられる︒身体と魂と両方
にかかわりのあるものとは︑以前述べられたものであ
るが︑空の時には充足を欲求することになるが︑それ
は充足の期待で愉快になり︑空の情態にあることで苦
しむことであった︒新たにつけ加えられたのは︑魂が
身体に異を唱えるかたちで快と苦が一つに混合される
ということである︒快苦の混合で最後に残ったのは︑
魂が魂だけで︑自分と混合を行うと言われるもので
あって︑それは︑憤怒︑恐怖︑憧憬︑悲歎︑愛欲︑競
争心︑嫉妬などで︑これらは︑魂だけの領域に属す苦
悩だが︑これらの中に快感が断りこんで存在している︒
これらの中には︑泣きながら悲劇を観る人の経験する
快と苦の混合も含まれているし︑同じように︑喜劇の
場合も︑妬みの苦と︑他人の不幸を喜ぶ快との混合が
見られる︒但し︑この喜劇の場合に関しては︑プロタ
ルコスもすぐには理解出来ないので︑隠忍の混合の斜
なる理解のためにも︑詳しい分析が必要になる︒先づ︑
嫉妬から話は始まる︒嫉妬は魂の持つ一種の苦しみで
ある︒だが︑嫉妬する人は︑隣人の災悪を見て愉快を
感ずる者というのがその正体である︒次なる前提は無
知︒無知は老酒の一つで有難くないもの︒そしてこれ
らから滑稽さが規定できる︒滑稽さとは︑デルポイの
神殿に刻まれている文句﹁なんじ自らを知れ﹂とは反
対の規定を持つ劣悪さの一種︒その︑自分自身を知ら
ないということには三種類の別がある︒金銭︵財産︶
について︑実際にあるよりももっと金持だと思うのが
第一の種類︒第二の種類は︑大きさ︑美しさなど身体
的なことがらについて︑自分を実際あるよりももっと
すぐれていると思っている人︒第三の種類は︑徳︑と
りわけ知恵︑において自分自身すぐれていると思って
いる人︒これらすべては劣悪で有難くないものである︒
そして︑これら偽りの思いなしを自分自身について抱
いている者たちは二つに分けられる︒一つは強さと力
のある人々︑他の一つは︑それと反対の人々︒後者は︑
ひとから嘲笑されても仕返しが出来ない者で︑滑稽な
者と呼ばれるにふさわしいし︑前者は︑仕返しをする
力を持つ強い人間なので︑恐ろしい者︑憎むべき者と へ呼べば正しいことになろう︒ところで︑敵の災悪を愉 へ快に思うことは正義に反しないが︑友の災悪を見て愉
快になることは正義に反する︒無知は災悪であると言 われた︒そして︑自分を実際よりは賢いとか美しいと思っていることは無知の一種であった︒すると︑友人の自分だけでそう思っている賢さ︑美しさなどは︑弱いなら︑つまり︑他人に害を与えない形で持っていれば︑滑稽であり︑また災悪である︒これを笑う時︑我々は愉快を感じている︒そして︑この︑友人の災悪に快を感ずるということは︑嫉妬心が生ぜしめたのであった︒そして︑嫉妬は︑魂だけの領域の苦悩であった︒したがって︑友人の滑稽な点を笑うのは︑嫉妬の情︵一1苦︶に快感を混入しているわけで︑つまりは快を苦に混合していることになる︒この喜劇に見られる快苦の混合は多くの快癒の混合の一例であり︑これと同様︑身体が身体だけの場合︑魂が魂だけの場合︑魂が身体と共同する場合︑何れの場合も︑これらの情態変化があると︑そこには快苦の混合が見られることになる︒
︵心月じdl㎝O国︶
さて︑プラトンは︑快は本当には存在せず︑快と呼
ばれているのは苦をまぬがれているだけだと主張する
﹁ピレボスの敵﹂の立場によって︑快楽の本性を明ら
かにしょうとする︒但し︑プラトン自身が彼らと同じ
立場に立つのかというと︑そうではない︒何故なら︑
彼らと違ってプラトンは快楽の存在を認める︒しかも︑
三九
ヘ ヘ へ真なる快楽を認めているのだから︒だが︑今は彼らの
立場で快楽の自然本来のあり方を問う︒そして︑その
場合︑極端なものが取り上げられる︒それは︑量の問
題ではなく︑大きさ︑度の強さで最大のものが取り上
げられる︒つまり︑典型的なものを取り扱うことによっ
て︑ささやかなものの場合には不明瞭なものを︑明ら
かにするためである︒そのようにして考察した結果︑
身体だけの場合︑魂だけの場合︑身体と魂が共同する
場合の何れにおいても快苦の混合が見られた︒すると︑
先に述べられたことが成立する︒すなわち︑身体的快
は苦を前提とするということは語られたが︑真偽につ
いては語られなかった︒快楽の真偽は︑魂だけに属す
る予想的快についてのみ語られた︒だが︑身体的快に
は真偽は語れないのか︒それに対しては︑今は答える
ことが出来る︒身体的快は苦を前提とした︒というこ
とは︑苦の故に快があることであった︒それはまさし
く快と苦の混じりあったものであり︑まさに混合の快
といわれるそのものである︒そして︑この混合の快は︑
﹁ピレボスの敵﹂の立場に立てば︑快楽ではないもの
であり︑快楽と呼ぶことは偽りを語ることであった︒
そうすると︑身体の快︑予想の快すべてを通して︑快
楽に虚偽性を斉らすのは︑苦の存在であると言ってよ 四〇
いであろうか︒苦の影を快とするかぎりにおいては︑
そのように言えるかもしれない︒ へ だがしかし︑プラトンはここではもはや︑快楽の真
へ偽については語らない︒語られるのは混合された快苦︑ ほ あるいは快苦の混合ということである︒そして︑それ
によって多くのものが説明されるが︑魂だけのことと
される︑憤怒︑恐怖︑憧憬︑愛欲︑競争心︑嫉妬など
までもが取扱われると驚きを禁じえない︒その中で︑
嫉妬について詳細に語られているのでそれを見てみた
い︒ 嫉妬︵S導きり︶はしかし︑全般的なかたちで語ら
れるのではなく︑喜劇見物とのつながりにおいて︑そ
の本性を明らかにするという仕方で説明される︒そし
て︑この説明において重要な位置を占めるのは﹁無知﹂
︵窺殴てoh食︶ということである︒喜劇の登場人物は滑
稽さを身上とするが︑それは無知に基づく︒金銭上の
ことであれ︑身体的なことであれ︑また徳 その中
でも知恵 であれ︑実際よりもすぐれたものと思っ
ているという︑﹁自分自身を知らないということ﹂の
意味での無知︑その無知が斉らす滑稽さを観て︑見物
人である我々は笑う︒笑うことにおいて快を感じる︒
だが︑喜劇見物のもう一面︑危険な一面にも注意を払
わねばならない︒それは︑喜劇の登場人物はもしかし
たら私自身のことかもしれないということである︒あ
の役者の紛している人物と同様に︑私も自分自身を知
らないでいい気になっているのかもしれないというこ
とを自覚したら︑恥かしくなるであろう︒そして苦痛
を感じるであろう︒笑っている私は快を感じているが︑
その私が同時に笑われるべき存在だということに気が お ついたら︑苦を感じることになる︒この意味で︑喜劇
見物には︑快と苦の混合が見られる︒そして︑滑稽さ
を斉らすのは無知だと言われたが︑その滑稽さを笑っ
ている私も︑無知ゆえに笑っていると言わなければな
らないだろう︒無知は二重の意味で働いているのであ
る︒ 一見︑無関係のようであるが︑嫉妬と喜劇見物の構
造は同じである︒但し︑表面上の順序は逆である︒嫉
妬は苦痛である︑ということから話は始まる︒嫉妬と は︑﹁他人の幸運をうらやむこと﹂であるから︑苦痛
以外の何物でもない︒そのどこに快が︑あるいは快の
要因があるのだろうか︒その他人が幸運である限り︑
我々は快を感ずることはない︒その人が幸運でなくな
り︑災悪を蒙るのを見れば︑そこではじめて快を感ず
るであろう︒さきの喜劇の登場人物を友人に置きかえ て︑また︑災悪の一つとしての滑稽さを登場させて言い換えれば︑嫉妬の快は次のようになるだろう︒友人の滑稽さを笑う︒すなわち︑うぬぼれの強い友人が︑実状を暴露されて︑彼の思っていたよりは劣っていたということが明らかになるのを見て︑快を感ずる︑と︒この場合︑快を感ずるのは︑その友人が自分よりすぐ ヘ ヘ ヘ ヘ へれていると思って嫉妬していたからである︒嫉妬が︑この場合の快の条件であり原因である︒嫉妬は苦痛であった︒しかし︑今はその嫉妬を起こさせたものに快を感じている︒したがって︑この快はまさに苦と混合しているといわなければならない︒そして︑その嫉妬は︑自分の無知ゆえに生じたのである︒友人が自分よ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へりすぐれた人ではないということを知っていたら嫉妬することはなかったであろう︒ここで︑友人の滑稽さを登場させたことで︑友人の無知︵だから滑稽︶を問題にする必要はないであろう︒友人はうぬぼれていないのかもしれない︒ただ︑こちらがそう思っていただ ヘ へけかもしれない︒だから︑問題はこちらの思いだけで ヘ ヘ へある︒他人が幸運だと思ってうらやむ︒友人が自分よ ヘ ヘ へりすぐれていると思って嫉妬する︒本当にこちらの思いのとおりかもしれない︒その場合には快は生じない
であろう︒だが︑本当はそうではなかったということ
四一
が示されると︑その場合には快が生ずるであろう︒し
たがって︑嫉妬の快は︑無知に基づくと言ってよいで
あろう︒喜劇見物において見られた無知の二重性は︑
嫉妬の快の場合には︑必ずしもあるとはいえない︒ま
た︑その二重性を問題にすることにはあまり意味がな
い︒嫉妬される人の無知は︑この快の必須条件ではな ゐ いからである︒
さて︑以上の考察が正しければ︑混合の快は無知ゆ
えの快だと言ってもよいかもしれな構
混合の快に続くのは︑当然︑混合のない快︑真なる
快である︒
真なる快は﹁美しさ﹂との関係で語られる︒
美しいと言われる色︑形︑匂いの大部分︑そして音
や響から生ずる快楽である︒この場合︑形の美しさと
は︑実際の動物とか描かれた事物とかの美しさではな
く︑直線とか円︑コンパスや定規で作られる平面や立
体の持つ美しさのことである︒それらが取り上げられ
るのは︑それらは何かとの関係で︵満恵り﹃h︶美し
いのではなく︑いつもそれ自体で美しくあるような本来自然のあり方をしている︵騨〜さ謡鳶偽.匙鈷
幕℃§伽ミh︶からである︒そして︑それらは或る固 四二有の快︵笥ミかり︒〜需ごり︶を持っている︒それは︑また︑色の場合も同様である︒音の場合も同様で︑音の響きのなめらかで︑明るくかがやくようなものが︑
一つの何か純粋なしらべを出す場合︑他との関係で美
しいのではなく︑それ自体だけで美しく︑またそれと
自然に結びついた快を伴っている︒だが︑匂いの快は︑
神々しさにおいて少し劣るが︑必然的に苦が混じり
合っていなければならないということはないという点
では前の三者と共通である︒この二種類の快がある︒
次いで︑学識に伴う快が追加される︒この快は︑学ぶ
ことへの飢餓感を含まないし︑その飢餓感による苦痛
が先行するということもない︒更に︑忘却による学識
の喪失が苦を含むこともない︒学識の快は苦痛の混じ
らない快で︑しかも︑ごく少数の人間が経験するもの
である︒これら︑今述べられた純粋な快楽は﹁適度﹂
︵㊥交交oN︑h食︶という規定を有し︑適度のものの類
に属すが︑これと反対の不純で強烈な快楽は﹁度外れ﹂
︵︾ ︑食漉nN︑h負︶という規定を有し︑アペイロンの類に
属するものである︒︵αH︾1αbO一︶︶ 純粋な︑あるいは真なる快楽を語るために︑二分法
が二回使われる︒最初は美しいものについて︒それ自
体で︑しかも本質的に美しいものと︑他との関係で︑
相対的に美しいものとが区別され︑前者にのみ真の快
が語られうることになる︒実際の動物や描かれた事物
が除かれるのは︑それらが後者であるということによ
る︒真なる快は美しいもののみに︑しかも︑自体的に
美しいもののみに語られるわけである︒美しくなけれ
ば快ではない︒しかし︑芸術作品や︑自然の美しさは
除かれる︒二回目は︑真なる快を二つに分けるために︒
神々しい種類の快楽と︑神々しさの劣る快楽とが区別
される︒前者には︑形︑色︑音︑しかも︑自体的な美
しさとの関係で︑単純な形︑単純な色︑単一なしらべ
が属し︑後者には匂いが属すとされる︒しかし︑この レ 区別の理由は語られない︒
最後に﹁学識︵蝕ミ覧譜ミΩ︶の快﹂がつけ加え
られるが︑これが前の二つとは別のものなのか︑それ
ともそのうちのどれか一つと同じなのかは不明であ
る︒だから︑美しいものなのかどうかも明らかではな
い︒はっきりしていることは︑飲食などの場合と違っ
て︑苦痛が先行したり︑随伴したりすることはないと
いうことである︒もう一つは︑この学識の快は︑少数
の人間のものだと言われていることである︒日常経験
の中で何かを学んで喜ぶというようなものではなく︑
もっと限定された︑学問上の喜びに関係することであ ろう︒ そうすると︑真なる快楽全体に共通な性格としては︑同時にであれ︑先行であれ︑あるいは随伴であ あ れ︑苦痛が存在しないということであろう︒だが︑このことだけであれば︑純粋ということですでに含意されていたことである︒ここで重要な意味をもってくるのが︑最後に言われた﹁適度﹂と﹁度外れ﹂ということである︒不純な︑あるいは強烈な快は度外れでアペイロンの類に属すと言われ︑純粋な快は適度を持ち適度のものの類に属すと言われたのだった︒この﹁適度﹂
︵リ @ ヤ︒交交︒﹃︑価貸︶はそのギリシア語から明らかなよう
に︑メトロン︵尺度︶を持つもののことであり︑﹁四 カ つの類﹂で言えば︑ペラスを持つもののことである︒
それは第三の類であり︑そして︑この第三の類は﹁美
しいもの﹂と語られている︵bO①bd︶︒してみると︑純
粋な快は美しいものである︒美しいものから生ずると
された純粋な快は︑それ自身がまた美しいものなので
あった︒したがって︑さきほどは不明と言われた﹁学
識の快﹂も美しいものと呼んでも間違いがないであろ
︵2︒酬︑つ
純粋な快楽と不純な快楽の区別は以上のようにして へ明らかにされた︒このことをもっとはっきりさせ︑︑真
四三
とのつながりを明確にすべく問は進められる︒ ﹁真実ある﹂︵架電2ミnごミ︶と言わなけれ
ばならないのは何か︒純粋なものか︑それとも純粋で
はないもの︵どぎついもの︑多いもの︑大きいもの︶
か︑どちらであろうか︒この問題を考えるために︑ソ
クラテスは︑純粋なものの一つとして﹁白﹂を取り上
げる︒白の純粋さとは︑まったくまざりけのないもの︑
その中には他のいかなる色のいかなる部分も含まれて
いないものであって︑決して︑きわめて大きいもの︑
きわめて多いものではない︒そして︑そのような白こ
そが︑最も真実な白︵聖鶏伽qNミミ︶であり︑同時
にあらゆる白のうちで最も美しい白︵忌︾︾ミベ︒︿﹃§
︾の霧§詠ミミ︶でなければならない︒最も多いも
のとか︑最大のものは︑決してそうはならない︒だか
ら︑わずかのものでも︑純粋な白は︑量的には多いが
まじりもののある白よりも︑より白く︑同時により美 ハぐしく︑またより真︵㌃q惑需︑ミ是負鶏〜忌︾︾hミ
蓉〜隻亀伽q誘︑︒て︶である︒この例から知ることのできるのは︑快楽においても同様だということであ ヘ ヘ へる︒すなわち︑快楽はすべて︑それが苦から純粋になっ
ていれば︑小は大にまさり︑少は多にまさって︑より
快であり︑より真であり︑より美である︵曽黛ミ鶏〜 四四
聖罵零N伽ミ費〜鶏︾︾ざこ︒︵αbQ一︶1α8︶
快楽が純粋な快楽と不純な快楽とに区分され︑前者
が後者よりすぐれているということが語られたが︑そ
のすぐれているのは何によるのかが示されたわけであ
る︒純粋さは︑大きさ︑強さ︑多さなどよりもすぐれ
ているといわれた︒それはまさに真とのつながりにお
いて確言できることなのである︒
度︵ペラス︶︑純︑美と語られて︑今︑真にまで到
達した︒これで充分ではないのか︒いやそうではない︒
最後の問が残されている︒それは︑真を真たらしめて
いるもの︑すなわち︑存在である︒快は存在とどう関
係するか︒ トーンは一変する︒頭のいい人々を登場させて︑反
快楽主義説が展開される︒
快楽には︑不断の生成︵リ タ ヤ窺nh 殴0て㊥qhり︶があるば
かりで︑実在︵ ︾ ︑Oqqh食︶はありえない︒このような︑
頭のいい人の説を紹介しておいて︑原理的なことを二
つ語る︒一つは︑それ自体だけであるもの︵3負驚Φ
要望︑匙﹁い︶と︑いつも他者を追い求めるもの︵3簿〜書轟交豊ミ響Σミ︶との区別︒これは︑本来
自然に尊厳の極にいつもあるようなものと︑これに不
足し︑これに劣るものとの区別であり︑また更に︑い
つも何かのためにあるものと︑その何かのために生ず
るものがそれぞれの場合いつもまさにそのために生ず
る当のもの︑との区別である︒もう一つの原理は︑生
成︵殴⑰て6qhり︶と存在︵︒いqご︶の区別である︒そ
して︑この二つの原理的なものを組み合わせて︑生成
は存在のためなのか︑それとも存在は生成のためかが
問われる︒船のために造船作業が行なわれるのか︑そ
れとも︑造船作業のために船があるのか︒答は当然の
ことながら︑生成は存在のために生成するといわれる︒
そして︑ここにさきほどの頭のいい人の説が持ちこま
れ︑快楽は生成である限り︑何らかの存在のために生
成するということが必然とされる︒そして︑それのた れ めといわれる当のものは善の部類に入り︑何かのため
に生成するものはそれとば別の部類に入らねばならな
い︒だとすると︑快楽は生成だから︑善とは別の部類
に入らなければならない︒快楽は善ではない︒快楽は
生成だから︑快楽の中にだけ生きようとする人々は生
成のうちにだけ終始し︑次のような状況の中に生きる
ことになる︒すなわち︑飢えや渇きを癒すことによっ
て愉快を感じ︑それらのない生を拒否する︒飢えや渇
きの同類のものはすべて生成によって癒されるが︑そ
れは生成が快だからである︒これらを選ぶ者は生成と 消滅を選び︑快も苦もなくて︑ただ最大限の純粋さをもって思慮を働かせる第三の生を選ぶことはない︒また︑快楽が善であれば︑勇気︑節制︑知性の働きなどは善きものではなくなり︑また︑快と反対の苦を感じている者は︑苦しんでいるその時においては︑すべて悪人ということになるし︑更には︑愉快にしている者は︑愉快を感ずることが多ければ多いだけ︑その愉快を感じている時には︑それだけ徳においてまさっていることになる︒これは不合理である︒︵αωOI窃㎝O︶ ここで取扱われている快楽は︑直前まで論じられていたものとは全然性格を異にするので︑読む者をして途惑わせることになる︒しかし︑議論の運びそのものからすれば︑それほどの違和感はない︒何故なら︑純粋な快楽において真ということが語られたが︑その真を真たらしめるところの存在についてはどうか︑という問からこの議論が始まっているからである︒快楽は存在にたどりつけるか︒答は否である︒存在にまでは へ到達できない︒したがって︑善にも至ることができない︒快は善ではありえない︒だから︑快楽主義︵快楽イコール善︶は成立しないということになる︒このような道筋からすれば︑ここで言われていることは別に唐突だということにはならないだろう︒快楽が︑存在
四五
にではなく︑生成に属すことは︑既に純粋な快楽にお
いて語られていることである︒純粋な快の最初の部分
で︑色︑形︑匂い︑音が登場した時に︑﹁不足は気づ
かれず︑苦痛を伴うこともないが︑充足は感覚され︑
快を感じさせるもの﹂︵㎝一bd㎝一覧︶が真なる快とされ ヘ へていたが︑この充足ということは︑それ自身︑生成で
お ある︒また︑純粋なものの一例として白が取り上げら
れた時︑純粋な白は不純な白より︑白さがすぐれて︑ ヘ へより美しく︑より真実なものとなる︵黒殴罵q魅ミ.
㎝ωoσ①︶と言われているし︑すぐ続いての︑純粋な快
楽の総括においても︑より真︑より美であるようなも
ヘ ヘ ヘ へ
のになりうる︵ へ リ リぜ殴h覧てOへ﹁ 起て・αらQ︵UbO︶と生成を語る
言葉で言われている︒
それでもやはり︑真なる快楽でも善と何も関係がな
いのか︑と考えたくなるが︑快楽は生成であって存在
ではない︑したがって善ではないというところで議論
は打ち切られ︑あとは︑快楽を全体として︵身体的快
楽を含めて︶眺めることで快楽の分類を終らせようと
したのではなかろう編㏄ 皿 四六
次は思慮の番である︒快楽は︑純粋な快楽と混合的
快楽とに分けて議された︒思慮もそうされるだろうか︒
分類は︑思慮と同族の知識・技術において行われる︒
知識は二つの部分に分けられる︒一つは︑職人的な
もの︑もう一つは︑教育や教養にかかわるものである︒
前者は︑手を使う技術的なものと言いかえられて︑更
に二分される︒一つは︑知識とのかかわりが多くて純
粋詩の高いもの︑もう一つは︑知識とのかかわりが少
なくて純粋度の低いものである︒この第二の二分割の
原理は︑算数︑測定︑計量の技術の使用の有無である︒
これらから切り離されると︑後に残るのは︑想像する
こと︑経験を重ね練習をくり返すことによって感覚を
練磨することであり︑見当をつける能力が用いられる
が︑それも技術の名で呼ばれる︒このようなものとし
て︑音楽堂︑医術︑農耕術︑操船術︑軍事術があげられる︒
これらと比較して精確度の高いものとして建築術が語
られるが︑それは︑この技術が尺度や道具を沢山使う
からである︒さてここで︑技術が二分されていること
が分る︒音楽術などのように精密度︵ロ もミ︑h曾へ食︶の低
いものと︑建築術のように精密度の高いものと︒だが︑
ソクラテスはこれらの上に算数などの技術を置こうと
する︒それは精密度が一番高い︵匙︑h鳶・q冬田り︶技
術だからというわけである︒そして更にこれを二分す
る︒一般多数の人が用いるものと︑知識追求を主とす
る人︵哲学者︶が取り扱うものと︒例えば算数の場合︑
数の単位となる一というものをその等不等は問わない
で︑例えば陣地が二つというように使う人と︑お互い
にまったく等しい単位を使う人とに分れる︒同様に︑
建築とか商取引に用いられる計算計量の技術と︑知識
追求を目的とする学問上の幾何や計算は別である︒こ
のような議論は︑知識と知識の間にも︑快楽間におけ
るが如き純粋度の相違がありはしないかを考察するた
めのものである︒︵ααOlα刈切d︶
話の運び方に不明確なところはあるものの︑知識.
技術が四種類語られていると言ってよい︒精確さ︑精
密さで区別され︑その程度の低いものから︑一番目が
音楽術などのグループ︑二番目が建築術︑三番目は算
数︑計算︑計量のうちの一般多数の人のもの︑それは
精確度において最高とされるが︑具体的事物を数えた
り︑空間的対象を計ったり際に使われるものであるか
ら︑絶対的な意味での精確さを要求することはできな
い︒そして︑ここまでの三者が︑一番最初の二分割で 言われた﹁職人的な技術﹂︵8動唱嚢ミミ薯曾.ααUド︶である︒そして最後の四番目が︑算数︑計算︑計量の うちの哲学者が取り扱うもの︑となる︒ これら四種の知識・技術は︑α刈bσ一Uでの整理を取り入れて言えば︑精確さ︑純粋さ︵α刈bu︶︑真実性︵㎝已︶において異なるが︑それは快楽が純粋さと真実さにおいて異なっているのと同様である︒ただし︑知識・技術の場合には程度の差はあっても︑快楽の場合のように︑真偽の対立は見られない︒そして︑これら四種の違いは何に起因するかといえば︑それはそれらが取り扱う対象の相違によるのである︒ さて︑このように︑知識・技術が四つに分けられて︑第四の哲学的計算術が︑﹁精確さと真実性の上ではかり知れない優越性﹂を持っていて︑他を凌駕するとされ︑﹁最も精確な知識﹂︵零国︶と呼ばれるのであるが︑知識・技術の分類はこれで終りになるのではない︒この上に︑更に﹁問答法﹂が置かれるからである︒ ゐ そして︑この問答法は﹁はるかに真実この上ない知﹂
︵ミ≧愚ミ亀nq蝕Nミざ含・・.㎝︒︒匙噸㎝︶とされ︑
前四者の上に置かれる︒何故最上位かといえば︑前四
者が対象によって区別されたように︑今回も問答法の
対象の故にそのような位置におかれる︒問答法の対象
四七
は︑﹁あるもの︑真実にあるもの︑常にあらゆる面で
同一性を保っているもの﹂ ︵NO讐謹〜3き﹁eリ
ノ ノ ノ ノ サ ノ グ へ≧食h﹃o≧食N負N食qNoて負oh満︒℃q≧oり罰袋て﹃eハαQ◎>
Nω︶だからである︒そして︑対象とも関係するのだが︑問答法が求めているものは︑弁論術のように︑有
用性や利益ではなく︑﹁明確なもの︑精確なもの︑こ
の上なく真なるもの﹂︵3q§零鶏〜蝕もh奮・︒り鶏〜
3登蔦伽qNミミ.α︒︒ONω︶を考察することだからで
ある︒そして︑この問答法を行うということは︑我々
の本源から来ていることである︒ソクラテスは言う︑
﹁我々の魂には︑歪なるものを愛し求め︑万事をただ
このためになすという力が生れつきそなわっている﹂
︵㎝o︒U野α︶と︒我々は﹁知性と思慮との純粋性﹂︵α︒︒一︶◎
刈︶をこそ最大限に獲得所有すべくさがし求めていか
なければならないのである︒それは︑ただただ︑問答
法が﹁真理の把持﹂︵尋つか︾津貯リミ誌誉亀ミ
α○︒国魂︒︶において他のどれよりもまさっているからで
ある︒ さて︑先の四つの知識・技術はそれぞれの取り扱う
対象の故に互いに異なるとされた︒そして今︑第五の
問答法における対象が示された︒では︑前景者と問答
法との間の相違点は︑具体的にはどのようなものであ 四八
ろうか︒ 技術を行使する人々は︑﹁まず第一に思わく︵象欝︶
を用い︑思惑に関連することがらを鋭意探求している﹂
︵αΦ﹀︶と言われ︑自然︵§qhり︶について探求し
ていると考えている人の場合でも︑﹁ただこの世界
︵N曾きq遠てN曾平侍︶について︑それがどのよう
にして生じたか︑どのようにして作用を受け︑また作
用を及ぼすのかというそれだけのことを生涯をかけて
探究している﹂︵αり﹀︶とされるように︑技術︵及び︑
技術をこととする人︶の対象は︑﹁生成しつつあるもの︑
生成するであろうところのもの︑生成したもの﹂︵αり﹀︶ ヘ へであって︑決して﹁常にあるもの﹂︵蝕警NQ勘M●
α⑩﹀︶ではない︒これは更に︑﹁同じ状態にあったも
のがいかなる場合にもなかったし︑これからもないだ
ろうし︑また現在をみてもない﹂と言われねばならな
いようなものである︒このように︑生成のうちにある
ものについては︑これを﹁明確なもの﹂︵q窺℃旧り
α⑩﹀﹂一︶と呼ぶわけにはいかず︑このような﹁確実
性﹂︵富祐ミ曾熟.α⑩ゆ鼻︶を持たないものを対象にす
るかぎり︑﹁我々の側に何らかの確実性をもつものが
生じ得る可能性があるだろうか﹂︵αりしu︶と問われね
ばならない事態になるのである︒したがって︑﹁確実
なもの︑純粋なもの︑真なるもの︑そして我々が明々
白々なと呼ぶところのものは︑ただかのものを対象と
する場合においてのみある︒かのものとは︑常に同一
性をたもち︑同じ状態で︑他との混合は少しも許さぬ
ようなものであって︑我々の対象となるのはこれか︑
あるいはこれに最も親しい同族関係にあるものでなけ
ればならない︒﹂︵G月㊤O︶という結論になる︒
以上のように︑問答法と他の技術とは︑それぞれが
扱う対象の相違によって︑異なる︒諸技術の対象はこ
の世のこと︑感覚的世界のことであり︑それらは常に
生成の過程にあるが故に確実にして真なる知識を生み
出すことが出来ないとされた︒問答法のほうは逆に︑
常にあり︑そして変らないところの聖なる存在を対象
とするが故に︑真なる知識であるということであった︒ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へしたがって︑問答法と技術は︑対象の存在論的差異に
ヘ ヘ ヘ ヘ へよって︑知識論的に前者が後者よりもすぐれたものと が なると言うことが出来るであろう︒そして︑問答法と
諸技術とは︑感覚的世界と知性的世界という異なった
対象領域を持っているわけであるから︑同じ存在論的
立場に立っているというわけにはいかない︒しかしこ
のことは︑両者が互いに対立したり︑お互いを排除し あうという関係にはないことは注意しておいてよい︒ さて︑このように存在論的にすぐれた対象︑﹁立派な存在﹂︵蝕忌︾︾hq鍵︶︑にはこの上なく立派な名前がつけられるべきである︒しかるに︑ひとが最も高く評価できる名前は︑﹁知性とか思慮﹂︵て亀り鶏〜℃︑曾唱ミリ︶である︒したがって︑これらの﹁知性︑思慮﹂という名前が︑本当にあるもの︵ タ ソゴ マへNO Oく OてNeり︶について知るはたらきの上に置かれるべきである︒
︵α⑩Ol一︶︶
皿
思慮と快楽の各々についての分類が終った︒﹁今度
は混合にとりかからねばならない﹂︵窃Φ両︶が︑その
前に記憶の更新が行われる︒善と快楽を同じとする考
え方︵ピレボス︶と︑善と快楽は異なり︑善の分け前
にあずかることでは快楽よりも思慮の方が多いという
主張︵ソクラテス︶とがあったが︑善のピュシスにつ
いては︑次のようなものだと︑両者によって同意され
ている︒すなわち︑﹁それが生物の何かに始終いつも
あらゆる仕方あらゆる面に宿るとしたら︑もはや他の
ものは何もそれ以上けっして必要とせず︑むしろ最終
的に充分なものとなるというそうした点﹂︵①OO︶.︵善
四九
の最初の規定はb︒OUωρρ︶︒そして︑理論上の実験を
して︑我々の生活で︑まったく思慮を欠いて快楽だけ
あるという生活と︑逆に︑快楽をまったく持たない思
慮だけの生活とを比較した時に︑どちらも誰によって
も選ばれなかった︒﹁窮極的に求められ︑すべての者
によって選び取られるもの︑すなわち全き善﹂︵ご
ノ ひ ハ ノ グ ノ へN伽︾oo虻≧貸h昌Qq︵て食へ︑①﹃oて≧負hNo潮QてN食満食qh℃ミ登窯曾﹀︶としては︑快楽も思慮も該当しない
のであった︒ここで注意しなければならないことは︑ へ善が考えられている場合︑いつも我々の生︵勲︒り︶
との関連で問題とされているということである︒そう
でなければ︑快楽のまったくない思慮だけの生が斥け
られることはなかったであろう︒そのような生は︑以
前︑神的と語られたように︑我々人間にとっては一つ
の理想の姿である︒だが︑身体を持ち︑それ故に様々
の感情や欲望をも持っている我々にとっては︑憧れ見
るだけで︑現実に選ばれるものではなかったのである︒ ヘ ヘ へそこで︑それに近いものとしてのよき生は︑快楽と思
慮との混合物とされたのであった︒だが︑混合された ヘ へよき生のそのよさに対して︑思慮と快とではどちらが
より貢献するかという問題は充分には答えられていな
かった︒それに答えるべく︑混合が行われるわけだが︑ 五〇その前に語られることに注意しておきたい︒それは︑善について︑二等賞をどちらに授与すべきかを知るために︑﹁その善というものを︑あるいは明確に︑あるいはその輪郭だけでも捉えねばならぬ﹂︵①H>︶といわれ︑−次いで︑﹁善へ導く道﹂︵①一﹀︶﹁住居﹂︵動じd︶を見出したとされ︑そして︑その位置が混合の生であると言われるそのことである︒これからの議論は二等賞争いを筋として行われていくわけだが︑その真の目的は︑︵我々の生との関係における︶善の姿を明らかにすることだということを今の短い箇処が示しているように思われる︒住居が知られれば︑その住人︑すな お わち善︑へ導く道を見出したと言えるだろう︒そして︑ ヘ ヘ へ善の住居だから︑その混合も︑﹁美しく混ぜられたもの﹂
︵①Hじd︶でなければならない︒だから︑我々も﹁出来
るだけ美しく混合することに意欲をもやさなければな
らない︒﹂︵①HO︶
目的は︑﹁美しき混合﹂︵①巳︶である︒そのために︑
すべての快楽をすべての思慮に混合することは危険
︵理由は①ωO℃戸後述︶だから︑それぞれの或る部分
を混合するしかない︒その或る部分とは何か︒生の分
類で︑快楽間にも︑技術間にも︑知識間にも︑真実性
や精密度において差異が認められた︒そこで︑思慮と