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あべの巨∃

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Academic year: 2024

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(1)

KSKQ  

第三種郵便物窟可KSKQ(サロン・あべの)増刊通巻462号1993年 6月19日   

出会しヽ ノミ、れあし、 助lナ合しヽ  

あべの巨∃  

サッカーサッカーサッカー  

毎月十二回︵二・四・六・∧の日︶発行一九九一年九月三日夢二種郵便賭鹿而  

●   

● ●  

●  

●   

○  サロン・あべの五月の出会い   平成五年五月十五日︵土︶︑  

育徳コミュニティセンター二階  

研修室において︑サロン・あべ  

のの五月の出会いを開催した︒   

この日は︑大阪市立身体障害  

者スポーツセンター︵大阪市住  

吉区長居公園内︶で︑電動車椅  

子サッカークラブ﹁大阪ローリ  

ングタートル﹂の代表をしてお  

られる土井俊次氏に︑そのスポ  

ーツの歴史や楽しさについて︑  

試合や練習風景のビデオを見な  

がらお話をしていただいた︒   

スポーツの中でもサッカーと  

いえば︑瞬発力や速攻性が求め  

られ︑行動範囲の広い活動的な  

ものと考えられているが︑この  

電動車椅子サッカーは︑重度障  

害者でも電動車椅子を動かせれ  

ば︵手・足・顎等で⁝︶︑誰に  

でも出来る︒言い換えれば︑健  

常者でも電動車椅子に乗れば︑  

お互いにハンディを持たないで  

このサッカーに参加出来るとも  

いえる︒  

(2)

弟三種郵便物認可KSKQ(サロン・あべの)増刊通巻462号1g93年 6月19日   

この電動車梅子サッカーは︑  

十一年前︑土井氏が長居の身体  

障害者スポーツセンターで︑風  

船ボールを電動車椅子で転がし  

て遊んでいるのをセンターの指  

導員が見て︑スポーツ∧サッカ  

ー∨に考えつかれ︑同好会が生  

れクラブへと発展してきた︒   

現在︑大阪ローリングタート  

ルには﹁イーグルズ﹂ ﹁ミラク  

ルパワーズ﹂ ﹁けったローズ﹂  

﹁トライアルズ﹂ ﹁ブルースタ  

ーズ﹂の五チームがあり︑男女  

掘合で一チームに七〜八名がク  

ラブ員として所属している︒各  

チームにはそれぞれにキャプテ  

ンがいる︒   

練習は︑毎日曜日長居・身体  

障害者スポーツセンターの体育  

土井俊次氏  

館で︑午後三〜五時︵変更もあ  

り︶にバスケットのコートを使  

って行われている︒   

電動車椅子の足置きの金具に  

自動車のタイヤを︑横半分︵半  

円︶に切った物をカバーとして  

取り付けられている︒この場所  

でボールを転がしたり︑突いた  

りしながらゴールに運ぶ︒   

初めの頃のボールは︑ビーチ  

ボールに革を被せた物︑その後  

ゴム製のバレーボールを革包み  

にした︒現在は︑電動車椅子サ  

ッカー用のボール︵直径五〇セ  

ンチ程ある白黒のサッカーボー  

ル模様︶を使用している︒   

ルールの基太は︑一般のサッ  

カーと変らない︒   

二年前より︑名古屋のAMF  

Cエスカルゴと大阪ローリング  

タートルが年二回の定期大会試  

合を行っており︑大阪勢は︑四  

対一で勝っている︒   

サッカーを通して︑スポーツ  

電動車椅子J廿ノッカ ー 十年の止少み  

一九九一三塵丁四月−0︻ロ慧  

(3)

第三穏郵便物認可KSKQ(サロン・あぺの)増刊通巻482号1993年 6月19日  

の楽しさを知っただけでなく︑  

人との交流︑社会との繋がり等  

幅広い人間形成の場ともなって  

いると言われる︒   

この日参加されたメンバーの  

方は︑クラブ名が入ったお掬い  

のトレーナー姿で︑団結の絆の  

固さを見せてくれた︒   

今のところ電動車椅子サッカ  

ークラブは︑大阪と名古屋にし  

かないが︵外国ではカナダにあ  

る︶︑このスポーツがより多く  

の人達に知ってもらうと共に︑  

スポーツとしての輸も広がり︑  

多くの人達が集しまれることを  

願うとともに︑六月十三日の名  

古屋大会の成功を祈念して︑参  

加者一同三々七拍子で︑大きな  

エールを贈った︒  

三〇名  参加者 =  

司 会 =加賀谷 正  

まとめ =冨田 慶子  

⑳⑳⑳・㊥⑳◎㊨・  

5月のテーマiこ  

添って、 各々カヾ抱   レ、てレ、る想レ、や夢  

を書レーてレーただき   ました○  

●  ●  

●  

●  

●  

自立に向って⁚・田中朱美  

我が子康之が誕生したのは︑モントリオ  

ールオリンピックの話題が街に流れる一九  

七六年︵昭和五一年︶二月二九日午後九時  

四八分⁝︒数々の難を乗り越え︑助かった  

のが不息巻と医師より⁝生後三日目︑脳性  

マヒの疑い有りと診断︒当時としては︑早  

期発見︑早期治療を目ざしましたが︑重度  

肢体不自由︑言語障専と重いハンディーを  

受ける身となりました︒   

この子に将来自書と考え︑残る機能を  

生かそうと中学二年生の頃︑電動車椅子︵  

足用スイッチ︶の練習を始めました︒︒そ  

の練習中に大先輩の土井さんを縮介してい  

ただきました︒この機会が︑電動車椅子サ  

ッカーとの出会いになりました︒そして︑  

母子分触︑自立への一歩となりました︒   

親が元気な内に子供の将来を考え︑その  

道をつけてやるのが親の勤めだと思います︒  

(4)

弟三種郵便物紘可KSKQ(サロン・あぺの)増刊通巻482号19g8年 6月19日   

●  

隔世の感 ..昔の蹴球少年  

●      ●       ●      ●       ●  ●  いよいよ五月十五日からサッカーJリー  

グが始まりました︒   

小学校四〜六年生の担任だった先生がサ  

ッカー大好き人間︵選手だったように思う  

︶だったからでしょうか︑体操の時間には  

円くなって蹴る練習を授業に取り入れてい   たのを思い出します︒そうです︑キックと   はいわず蹴るでした︒戦争中から戦争直後  

この子が将来︑重い障害を乗り越え︑自  

分の可能性を最大限に括用し︑難しい地域  

社会の中で︑一人の人間として︑心まで障  

害者にならないよう︑強く明るく︑人を思  

いやる心と︑感謝の気持ちを忘れず︑出会  

いを大切にして︑人生の一ページを綴って  

欲しいと願っています︒   

現在は高等部三年で︑進路選択を目前に  

控え施設見学︑現場実習など︑自立に向け  

て親子共に頑張っています︒   は蹴球と呼ばれていたので︑それがまだ完  全にサッカーに変っていない頃でした︒   

その先生が試合に出場する日には︑中も  

ずへ応様にも行きました︒放課後は野球を  

するか︑それに飽きると︑野球に使ってい  

たボールを蹴って︑暮れるまで進んでいま  

した︒授業ではそれなりのボールがあって︑  

蹴球をしていました︒が︑帰ってからの蹴  

球はボールの入手が大変で︑比較的似てい  

るドッジ・ボールのボールを持っている子  

も非常に稀で︑やむなく似ても似つかぬ野   球用のボールを蹴っていたというわけ︒と  が︑なかなかどうして︑その頃の蹴球人口   いえばいかにも盛んだったように聞えます   は野球のそれにくらべればまだまだの時代  でした︒   

隔世の感あり︑です︒一入七三年日東に  

サッカーが伝わって一二〇年︑ブロのリー  

グが成り立つまでに愛好者が増え︑支持者  

の裾野も広がり︑層も厚くなったのです︒   

ますますサポーターの吹くラッパもホー  

ンが上ることでしょう︒  

●  ●   

●  

●  

●  

電動サッカークラブ⁚・山本篤江  

電動サッカークラブには土井君を通  

じて6年前に初めて参加しました︒重  度の障害者にもやっとスポーツが楽し  

める機会ができて嬉しかった︒実際に  

自分の身体を動かすわけではないので  すが︑車イスの操作によって車イスが  自分の足になって身体になって息は切  

れるし︑汗ば吹き出て来ます︒  

(5)

第三鍾郵便物認可KSKQ(サロン・あべの)増刊通巻462号1993年・6月19日   

私達の電動車椅子サッカーも︑早いもの  

で今年で十一年目を︑迎える事になりまし  

た︒   

私が電動車椅子サッカーに出会ったのは︑  

一九八三年︵昭和五八年︶でした︒   

当時の私は︑養護学校の高等部を卒業し   ●  

て三年目で︑自宅でアニメーションの彩色  

の仕事をしながら︑重度障害者にとってお  

決まりの︑在宅という形を取らざるをえま  

せんでした︒   

そんなある日︑友人から︑﹁長居のスポ  

ーツセンターにおいでよ!友達を紹介する   

サッカーを通じて国体にも参加でき  

ましたが︑今までたくざんの重度のひ  

とがスポーツをやれないでいたことを   改めて感じました︒   

今は大阪と名古屋しか︑チームはな  いと隠いていますが︑どんどん全国に  

も広がって欲しいと思います︒  

●      ●  

●  

●  

●  

サッカーに参加して⁚・上田  

から﹂と電話があり︑行ってみる事にしま  

した︒そこで︑現部長の土井さんと知り合  

い︑﹁電動車椅子でサッカーをやってみな  

いか!﹂と︑誘われたのがサッカーとの出  

会いの始まりでした︒   

参加して最初に思ったのは︑﹁重度障害  

者でも電動車椅子を使えれば︑こんなに兼   八二号でもお話しした﹁はんぶ〜  

ん﹂のH君︒   

先日の午後︑大変御機嫌が悪い︒  

心配した彼の作業料の職員が︑色々  

尋ねたところ︑原因は私︒   

昼休みに事務室の机でうたた寝を  

していた私を見た彼は︑  

﹁事務室にいる=仕事﹂  

﹁仕事中に寝る=お給料がもらえな  

い﹂  ﹁お給料がもらえない=私が困る﹂   仕事中寝たら減俸  

しく︑しかもエキサイティングなスポーツ  

があるんだ!﹂と感動し︑当時︑家に閉じ  

こもりがちだった私にとって︑スポーツを  

して心地良い汗を流す事が︑こんなに素晴  

らしいものなのかと思ったのを︑今でも覚  

えています︒   

それ以来︑サッカーのとりこになり︑得   と考え︑私を起すことも出来ず︑一  人悩んでいたらしい︒   

周りの職員が﹁休朝中はいいんだ  

よ﹂と説得したそうですが︑彼に通  

じたかどうかは疑問︒   

以来︑彼の目につくところでの昼  

寝はやめました︒  

田 渕 美登利  

(6)

第三棚鞠好可KSKQ(サロン・あぺの)増刊通巻462号1g93年 8月19日  

点王も何度か取る事が出来ました︒キャプ  

テンや会長︵クラブになる前は同好会︶を  

した事もあり︑リーダーとして人の上に立  

つ事の粧しさを︑サッカーを通して勉強さ  

せていただきました︒妻の久美子とも︑サ  

ッカーで知り合い結婚する事が出来ました︒   

スポーツに綾の無い重度障字音でも︑月  

分白身をアピール出来るスポーツ︑それが  

電動車椅子サッカーだと私は思います︒   

オーレ!   

平安末期後  納か噛んになる。  

1873年  日大にサッカーが伝わる。  

1921年   日東サッカー限艶。  

1936年  ベルリンオリンピック出場。  

1956年  メルボルンオリンピック出場。  

1964年  東京オリンピック出場、  

ベスト8。  

1g=65年  第1回日大サッカーリーグ開碁。  

1968年  メキシコオリンヒ●ック出場、  

銅メダノ傭持。  

1982年  桝イスサッカー」大阪に組。  

1992年  Jリーグ鰯河印晩ナヒ■スコカッ   フP棚○  

アジアカッフP初健勝。  

1993年   94年ワー・ルドカップPアジ  

ア地区1次子避笥政。  

1g巨g仁3年  5月15日日東プロサッカー   リーグ開幕。  

近 東 来  電馳車イスサッカーJリーグ   岨。  

電動車イスサッカーが私して10年。その1   0年のエナジーを声]褒と拍手に変えて、私は力   の限り応援したい。私の敷いラブコールがとて  

つもない夢をかなえてくれるように。・・  (Ⅰ)  

私にとって電動車椅子サッカーは︑スポ  

ーツの巣しさ︑人とのかかわり方︑結婚︑  

自立まで︑考えさせてくれた素晴らしい場  

所でした︒この十一年間︑サッカーと共に  

成長してきた様な気がします︒   

これからも妻と二人で︑電動車椅子サッ  

カーと共に︑もっともっと︑自分自身を成  

長させていきたいと思っています︒   ︑⁚i・  

(7)

鈎三種郵便物認可KSKQ(サロン・あぺの)増刊通巻462号1993年 6月19日  

ボランティア括動をめぐる動きのひとつ  

として﹁企業ボランティア﹂ への関心が非  

常に高まってきたことがあげられる︒所詮  

企業のイメージアップのためのPRに過ぎ  

ないのではないかといった批判もあり︑実  

際︑それが大きな要素になっていることは  

事実であろうが︑ボランティア活動を通じ  

て社員がさまざまな問題に触れ︑個人とし  

て︑また︑企業での仕事を通じて少しでも  

その問題を踏まえた取り組みができるきっ  

かけとなる可能性は少なくない︒   

また︑こうした企業ボランティアの動き   エピローグ  

Volunteer Center  

の影響もあり︑ボランティア活動に対する  

市民の捉え方も変化してきているようだ︒  

福祉と関係のないマスコミにもよく取り上  

げられるようになり︑大阪ボランティア協  

会でも塙動希望者が急増して﹁第三次ボラ  

ンティアブーム﹂といった状況がみられる  

そうである︵月刊ボランティアより︶︒困  

っている人に何かをしてあげるということ  

よりも︑新たな人間関係を創る機会として︑  

人のためではなく自分自身のために参加す  

るという人も多く︑ボランティア=変わっ  

た人︑奇特な人というイメージは変わりつ  

つあるのだろう︒ブームに終わることのな  

いよう︑ボランティア痛動の表面的な部分  

だけでなく︑活動を通じて社会を︵ほんの  

小さな部分でも︶変えていくという魅力を  

知ってもらうことが望まれる︒    さて︑卒論をもとにしたこの連載も︑寿  がついてみると二年間にもおよんでしまっ  た︒かなりの加筆はしなければならなかっ  たが︑つい最近思いついたと思っていたこ  とがすでに書かれていたりして︑さっぱり  

進歩していない自分には呆れてしまった︒   

自分自身はというと︑ボランティア括動  

といえるようなものは情けないことにほと  

んどしていない︒せめてといえば︑地域計  

画づくりに関わるという仕事のなかでは︑  

できる限り突っ込んで︑決められた仕様書  

以上の仕事をしたいとは思っている︒こう  

いうのは昨年発行された岩波新書の﹁ボラ  

ンティア﹂ ︵金子郁容著︶ では﹁ボランテ  

ィア・イン・スピリット︵精神としてのボ  

ランティア︶ ﹂といわれているが︑仕事と  

いう立場でのそうした取り組みも︑個人の  

力だけでは関わりにくい問題解決への手が  

かりとしては必要なものだと感じている︒  

︵おわり︶  

長い間お読みくださいましてありがと  

うございました︒また︑さまざまなご  

意見をくださいました方々に心よりお  

礼申しあげます︒  

原 田  仁  

(8)

第三饉郵便物偲可KSKQ(サロン・あべの)増刊通巻462号1993年 6月19日  

数人の人に同じことをいわれた︑私  

の文章には澄んだ心が映っているとい   う︒   

そうかもしれない︒なぜなら私は自  

分の心の一番澄んだ部分だけを︑ここ  

に書いているのだから︒どんなに濁っ  

た水でも︑コップのなかに入れて静か  

に放っておけば︑いちばん上の方に澄  

んだ部分があらわれる︒そうい︑つ上澄  

︵うわず︶ みの僅かな心を︑平たいス  

プーンで削るよ︑つにして集め︑私は文  

章にしているのである︒   

私の文章を読んで︑きっと人間のド  

ロドロした部分を知らないで育ってき  

たのだろうと言われたこともある︒澄  

んだ心は人間の醜い部分を知らないよ  

うにも見えるのだろう︒   

しかし︑私は私自身の醜いドロドロ  

とした心を︑ここに書かなければなら  

ないのだろうか︒そのようなものを表  

現して何になるのか︒それは小貌とい  

う形であれば可能だろ︑つ︒自分の醜い   上慧の心  

部分を別の人物の動きとして突き放し  

た言葉で描いていく︒そうしてこそ︑  

私は醜いが︑その醜い部分を許しては  

いないのだということを明らかにでき  

る︒   

だが︑随筆の形で︑つまり私が私自  

身を語るという形で自分の醜さや汚さ  

を表現すれば︑それは俄悔︵ざんげ︶  

になるか︑それとも醜さや汚らしさを  

そのまま認めてほしいという際限のな  

い甘えた言葉になる︒儀悔は難しく︑  

甘えた言葉は読んでいても不愉快だ︒  

そのよ︑つな甘えを自分に許さないとし  

ても︑かといって俄悔する力強さもな  

いときは︑醜さと弱さでいつぱいにな  

った心で私は何を書けるだろう︒   

いつもならば︑それでも汚れた弱い  

心を静かな器のなかに入れて︑しばら  

くは放っておく︒すると澄んだ部分が  

上の方にわずかに膜︵まく︶ のように  

現われる︒その上澄みの心をすくって  

文章に綴るのだが︑それには静けさと   時間が必要なのだ︒   

いまは︑そのよ︑つな時間も静けさも  

私の心にはない︒私の濁った心は︑上  

澄みの部分を浮かべることもできない  

ままに︑ゆらりゆらりと揺れている︒  

静かなときには底に沈んでいるはずの  

心の排泄物が︑ゆらりゆらりと渦をま  

いてあざ笑うように踊っているのであ  

る︒  

︵知︶  

一−一−・一・ト一︑−1・−一1・′一﹁・−−一・−  

7 月 の 出 会 い  

日 時 7月17日(土)午後1時〜4時   内 容 「障害者としての出発」  

−みんなに命を担がれて−  

そ が ′く のりこ   パネラー:曽我部教子氏  

(尼崎市立若草中学校教諭)  

場 所 育徳コミュニティセンター 2階   研修室[阿倍野区阪南町5−15−28  

車椅子トイレ・スロープあり]  

会 費 な し  

申し込み・問い合わせ先   

℡06−691−1028(冨田慶子)  

(9)

第三踵郵便物臆可KSKQ(サロン・あぺの)増刊通巻462号1993年 6月19日  

ふれ愛 上平幸雄  

空の旅 ⑪   

施設見学の最後は︑クリップドチルドレ  

ンズソサイエティ・イングルウッドハウジ  

ングです︒元々は身体障害児のためのリハ  

ビリテーション施設ですが︑そこのグルー  

プ・ホーム部門を見学しました︒   

グループ・ホームと言うより︑少しケア  

をしてもらえる福祉住宅と言った方がいい  

かもしれません︒四十ある部屋は︑バス・  

トイレ付きの独立したものです︒低所得の  

障害者を対象にしており︑ケアは一目に二  

時間です︒費用は︑年間所得の三十%を負  

担します︒家族とも同居でき︑同居人をア  

テンダントにすれば︑その人の住居費は無  

料です︒年限はなく︑もし所得が多くなっ  

ても︑負担する費用が増えるだけです︒こ  

こから仕事に行ったり︑外泊も可能という  

ことでした︒   

アメリカに釆て︑本当にあっという間に  

lてぐ︑llせJヽ§しせ小き︑︑しモ川lヽ  一週間がたちました︒九月一日はいよいよ  最後の見学地︑ディズニーランドです︒   

三十五歳のおじさんとしては︑遊園地の  

ようなところは少し恥ずかしくて︑最初は  

あまり喜べませんでした︒ところが︑一度  

乗り物に乗った後は︑完全に子供に戻って︑  

はしゃぎ回ってしまいました︒   

障害者は優先的に乗せてもらえるので︑  

人気のある乗り物でも︑列に並んで待つこ  

とはありません︒おかげで︑八種類ほどの  

乗り物に乗ることができました︒もちろん︑  

おみやげも物色し︑ディズニーランドでの  

一日を存分に楽しみました︒   

いくら有名なディズニーランドであって  

も︑もし乗り物に乗れなければ︑その楽し  

さもおそらく半減したと患います︒でも︑  

心臓病などの特別な場合を除いて︑介護人  

がいれば︑障害者も乗ることができるので  

す︒中には少し危険かなと思う乗り物もあ  

りましたが︑それで断られることばありま  

せん︒乗りたいんだというお客の自主性が︑  

まず尊重されるのです︒ただし︑万一事故  

が起こった場合の責任もお客にあるという  

ことです︒また︑エレベーターやスロープ   などのハード面も︑しつかり整っていまし  た︒階段があるからとか︑危険だからとい  うことで︑最初から断られる日本とは︑だ  いぶ違うようです︒   

その日本でも︑東京ディズニーランドは︑  

アメリカのものと全く同じ規格で造られて  

いるそうです︒ぼくは︑まだ行ったことが  

ないのですが︑運営方針もアメリカと同じ  

なら︑一度行ってみたいですね︒  

(10)

第三鍾郵便物避可KSKQ(サロン・あべの)増刊通巻462号1993年 6月19日   

毎年夏になると︑府立工芸高校グランド  

で阿倍野区民祭りの﹁あべのカーニバル﹂  

が開催されています︒   

今年は八月八日︵日︶に開催されます︒   

この﹁あべのカーニバル﹂では︑グラン  

ドの中央の舞台で歌や踊り︑音楽等が催さ  

れます︒その周囲には︑﹁なんでも市どお  

り︵区民の参加による色々な店が並ぶ︶﹂  

や官公署等︵警察︑脾防暑等︶の展示・草  

花・特産物販売等のコーナーが並びます︒   

開催時間は︑午後三時〜九時までとなっ  ていますが︑お客さんは一時過ぎからぞく  ぞくと来られます︒それは︑﹁なんでも市  どおり﹂のバザー店がお目当てで︑店出し  の時から品定めをして︑上手にお買い物を  されるのです︒この﹁なんでも市どおり﹂  に<サロン︒あべの∨は︑昭和六一年の弟  十三回﹁あべのカーニバル﹂から︑サロン  活動を地域の人達に知っていただきたい︑  運営費を得たいという希いを持ってバザー  店を出しました︒店を出すには︑それなり  の手順︵バザーの案内︑品物寄贈のお願い︑  品物の収集と保管︑値札付け︑搬送︶や︑  こまかい準備が必要ですが︑それらは多く  の方︑例えば会場への搬送はいつも阿倍野  肢体部カークラブ︑品物の収集はだれとだ  れというふうにご協力を得られていますの  で︑私個人としましては︑何の苦労もない  わけです︒が︑私が一番骨身にこたえまし  たのは︑夏の日差しと暑さでした︒それまで︑  恥ずかしながら直射日光の下で長時間攣﹂  すという経験がなかったもので︑夏の日差  しがどんなものであるか︑考えもしません  でした︒   

昭和六一年の最初の年は︑石田氏がピー   チパラソルを持参されて立て1下さったの︑  ですが︑小さな日陰はどこへいったのか目  にもとまりませんし︑風が吹くたび右に左  に揺れて︑とうとうた1んでしまいました︒  帽子を被っていましたが︑強い日差しに両  腕がヒリヒリ︒その時の私︑どんな顔をし  ていたのか解りませんが⁝︒見るにみかね  て連絡協議会のボランティアをされていた  小倉氏が︑ボーイスカウトの人といっしょ  に︑丸太と大きなシートでにわかテントを  立てゝ下さいました︒この時の日陰の捺し  かったこと︒息が楽に出来て︑生き返った  思いがしました︒いうまでもなく︑両腕は  

初めて皮がむけました︒   

翌年から以後︑バザー店の準備は︑まず  

テントからと痛感しました︒しかし︑専門  

店で貸りるには高すぎて⁝   

昭和﹂ハニ年は﹁あべのたんぽぽ作業所﹂  

の協力でテントは立ちました︒ところが︑  

皮肉なことに昭和六二年八月二三日は︑思  

いのはか掠しくて︑早々にテントをたたみ︑  

夕暮れの風を楽しんでいましたら︑いきな  

りどしゃぶりの大雨︒大慌てで品物にシー  

トを被せて︑避赦しました︒グランドを横  

切る間に︑靴の中までぐしょ濡れになり︑  

(11)

第三桝鞠鹿町KSKQ(サロン・あぺの)増刊通巻482号199i年6月19日  

髪の毛先からしずくをしたたらせた︑なん  

て初めての体験でしたので︑歌でも口ずさ  

みたい様な興奮を覚えました︒グランドが  

其白になる程の雨で︑この日のカーニバル  

はその時点で中止になりました︒この雨の  

中︑カークラブの方々も心配して駆けつけ  

て下さったり︑委員の方々のお心づかい等  

ご厚意がとても嬉しいでした︒   

弟十五回目︵昭和六三年八月二八日︶の  

テントは︑大丸氏にお貸りしました︒   

テントを立てるという事は︑力持ちの人  

手が十人は要るわけです︒サロンの委員だ  

けでは︑手が足りず︑カークラブの方や︑  

それに姐さんの声かけで毎年開店準備や販  

売等お手伝いしていただいている文の里手  

話グループの人達も乗て下さり︑お手伝い  

いただきました︒この年︑角方さんが横断  

幕を縫って下さり︑それに原田氏が﹁サロ  

ン・あべの﹂の字を大きく染めつけ︑立派  

な嘆簾を付けることが出来ました︒   

弟十六回︵平成一年八月十三日︶の時の  

テントは︑あぺのボランティア・ビューロ  

ーと革隣同士ということで︑貸しテントを  

利用して費用も日陰も折半しました︒この  

時︑旭さんの知人からTシャツの寄贈を受   けましたので︑当月参加の人達とお細いで  着ましところ大変好評でした︒   

翌年の弟十七回︵平成二年八月十九日︶  

に︑サロンのTシャツを作る事にしました︒    石田夫人のデザインで︑山本篤江さんか  

ら染め付けの指導を受けて︑手作りのオリ  

ジナルTシャツが出来ました︒この年は︑  

岡夫妻が東京から乗られて︑値札付け・販  

(12)

第三種郵便物蘭可KSKQ(サロン・あぺの)増刊通巻482号19g3年 6月19日  

売等お手伝い下さいました︒テントは︑堺  

の大阪義肢装具センターの石原氏が貸して  

下さったのですが︑一区画分の大きさしか  

なく︑お隣のビューローさんは︑日陰なし  

の状態になりました︒テントの大きさの確  

認をとらなかった私の落ち度で︑ビューロ  

ーの方々には太当に申しわけないことをし  

ました︒この年からサロンのバザー店は︑  

﹁さろん草﹂と屋号を付けて︑原田氏のレ  

タリングになる暖簾をかけました︒   

弟十八回︵平成三年八月四日︶は︑販売  

面積を二区画に広げ︑﹁さろん亭﹂として  

整ったバザー店となりました︒テントは︑  

前年同様に堺の石原氏にお貸しいただきま  

した︒この年は︑バザー用の品物だけでな  

く︑おなじみ石田夫人のイラストで︑オリ  

ジナルグッズ﹁サロンのメモ帳︵一五〇円  

︶ ﹂を販売しました︒   

弟十九回︵平成四年八月二日︶目になっ  

て︑ようやく貸しテント︵一万円︶を利用  

出来るまでになりました︒これで︑多くの  

方にご迷惑をおかけしなくてすむと考えま  

すと︑ホッとしました.と言いますのもカ  

ーニバル終了の九時以後でないとグランド  

に辛が入れず︑その為に品物の搬出が出来   ませんでした︒九時過ぎに乗ると︑帰るの  は十時を過ぎてしまいます︒善意からして  下さっているとは言え︑何ひとつお礼も出  

来ず︑本当に申しわけなく思っていました︒   

この年から私達もテントをそのまゝにし  

て︑品物のあとかたづけをして出ればよい  

わけで︑早い帰宅が出来るようになりまし  

以前住んでいた所から西へ五〇メートル  

ほどの︑新しく建ったばかりのマンション  

に引っ越しました︒   

全部で十二所帯の小さなマンションです  

が︑出入り口に段差がなく︑エレベーター  

が付いています︒これでやっと車椅子のま  

ま︑部屋の前まで行けるようになったので  

す︒また︑以前より広くなって︑陽当たり  

も良くなりました︒その反面︑家賃はかな  

り高くなりましたし︑細かな間藩点︵トイ  

レが狭いとか︑部屋の中に段があるとか︶  

を言い出せば切りがありません︒でも︑四   た︒   

毎年︑様々な人々との出会いがあり︑楽  

しい思いをさせていただいていますが︑そ  

の話は︑後日とします︒   

今年の﹁さろん亭﹂も︑八月八日に開店  

します︒どうぞよろしくお願いします︒  

月の末に引っ越して︑早くも二カ月︑やは  

り︑ここにして良かったと患っています︒  

なにより︑子供の保育所とガレージを変え  

ずに済んだことが良かったと患います︒   

﹁サロン紙﹂に家を探していることを書  

いてから︑もう随分になりますが︑みなさ  

ん本当に気にかけてくださっていて︑つい  

最近も空き家の情報をいただきました︒ど  

うもありがとうございました︒   

ぼくもこれで︑やっと本当の阿倍野区民  

になったような気分です︒  

(13)

第三種郵便物鰭可KSKQ(サロン・あべの)増刊通巻462号1993年 6月19日  

前回に引き続き︑大阪市内の障害者を対  

象にしている介護制度について掲載してお  

きます︒この内容を読んでもらってもわか  

るように︑地域と施設では大きな差があり  

ます︒施設障害者がなぜ四八時間なのか︑  

また内容が外出だけなのかわかりません︒   

外出した時には︑施設障害者もトイレ介  

護や食事介護ももちろん必要ですし︑着替  

えなども介護が必要になってくることは当  

然なのです︒一人でも多くの施設陪審老の  

方もどんどんこの制度を使っていき︑より  

よい制度を作り上げていきたいと思います︒   

どんどん︑使いましょうね︒   美智子のこんな話  

全身性障害者介護人派遣事業について   ・大阪市だけの制度で︑外出介護︑生活介  護など︑どんな介護でも利用できる︒   

ただし︑市は単に介護料を出すだけで︑  

市が介護者を見つけて派遣するという形は  

とっておらず︑障害者は自分で介護者を見  

つけなければならない︒︵親が介護者とし  

て登録することはできない︶  

・脳性マヒなどの全身性障害者︵一級のみ︶   

しか対象にならない︒  

・当初は在宅障善書のみ対魚であったが︑   

外出サービスの成果で九一年から施設障   

害者も利用可能になった︒しかし︑施設   

の中で自力で介護者を見つけることはほ   

とんど不可能で︑制度利用者のはとんど   

は︑外出サービス会員にとどまっている︒   ◆全身性障害者介護人涯迫事業  

︵大阪而独自の制度︶   ・介護料の対象と  

なる 時間数︑  

時給︑介護 料  

は︑九三年度か  

ら表のように変   

った︒  

・表の時間数は︑   

三つのランクに  

分けられている︒  

・①﹁入浴﹂︑  

⑧﹁外 出﹂︑   

⑨﹁トイレ︑着  

替え︑その他﹂   

の三つとも介護  

が必要な在宅障  

害者は月一四四  

時間まで利用できる︒  

・このうち二つの介護が必要な障害者は一   

四四時間の%︵九六時間︶まで利用でき   

る︒  ・一つの介護が必要な障害者は一四四時間   

の掲︵四入時間︶まで利用できる︒施設  

障害者は﹁入浴︑トイレなどは施設で実  

施されていて︑外出のみ必要﹂とされ︑   

このランクにされている︒  

在 宅 障 害 老    施 設 障 害 者   

時間数(月)  最大126時間が144時欄に  最大42暗闘が48時間に   

(14)

餌三種郵便物認可KSKQ(サロン・あべの)増刊通巻482・号1993年 6月19日  

♯ 感 謝 し ま す ♯   

カンパ・冊子等︑ありがとうございまし  

た︒お礼を申し上げます︒  

五月のカンパ  

金一一︑000円   

水戸春子︑匿名四名︒  

︵敬称昭︶  

ます。子供が大人になると、同じ豪族と一緒   に住むことは普通ではないのです。   

ドイツでは、大変な数の独身者を見るでし   ょう。年ごとにその数は増しています。   

それ故、又、鈷始なしにパートナーと一緒  

に住むことが受け入れられています。あなた   の娘さんも結婚していらっしゃいますか。   

今日、私たちはJJイースター〃と呼ぶ宗教   的な祝日を祝います。すべての人が四日聞、  

働いてはいけないのです。   

私はカトリックです。ドイツでのふたっの   大きな宗教のひとつです。私は信仰喋い方で   はないのですが、このお祝いを楽しみます。   

あなたの宗教は何ですか。   

そろそろこの手紙を書き終えます。   

あなたと、そして私たちの手紙を訳してい   る友達が健康でありますように。   

あなたの次の手紙を待っています。  

ブリギッテ  

ー、一二  

.丁;・  

分があります︒五〇号は五周年記念紙にな  

っており︑九〇分と六〇分の二木のテープ ナンペイの﹁ひとこと&ふたこと﹂は休み   

に収録されています︒   00サロン・あべの紙の  

朗読テープが出来ました∞   

山木敏子さんのご協力で︑サロン・あべ  

の紙八三号の録音テープが出来ました︒   

バックナンバーは三九号から︑八三号の   

ノ1/  

州いつかJ〈い  

ます   ダ 

、  

・.J・再  

、  

甘bぺ  

、。や.㌧震ニュ  

っh。−し㌣、し軋∫  

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‥・  、  

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(15)

第三緩郵便物認可KSKQ(サロン・あべの)増刊通巻462号1993年 6月19日  

ブリギッテさんからの手紙  

去年俵顔、私たちの卒中グループは働くこ   とを続けようとしています。しかし、前より   もっとたくさんの間趣があります。   

あなたのグループも財政的な問題がありま   すか。   

あなたの日常生活を知ることは、とても興   味深いです。   

ドイツの社会では見合い結婚はありません。   

だから、多くの男女がひとりで暮らしてい  

∧う1ろ  

慶子さんへ  

ぉ手紙ありがとう、そして、あなたのグル  

ープの新聞も。   

ありのまゝ、私の手紙をこの新聞に載せて  

下さって結構ですよ。   

ウンナにこのような新聞がなくてごめんな  

さいネ。私のような卒中の人々を助ける組織  

は解散しました。なぜなら、この団体は充分  

なお金がないからなのです。  

八ト1・  

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上.∴.、、  

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1 ︑  小 −  甘㌦もユ.㌦  − 

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二㍉∴二.: ̄・  

ヽt■  

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扇ごぜ小ヾ 

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n∴。仇⊥、、   が辟  

粒  

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○■  

・ Jい ■ 

−・ 

._    .ミ1、、ご、、  

(16)

弟三種郵便物領可KSKQ(サロン・あべの)増刊通巻462号1993年 6月19日  

BOOKS  

<サロン・あぺの>の本ト   

魯   名    蕃   老    出   版   元   

Vヽのち燃やして  

一筋重昭症という鹿みの中で−  志 風 忠 毒免    志 風 忠 毒蔭    与えて思わず(エッセー兜)    岡 二本こ 栄 一    大阪ボランティア限    患者・ま族会のつくり 二万と進滅〉二万  岩田泰夫・岡知史・外ロヨE子   

ひろオiれふれあいの輪  

在宅援助ボランティア繊斐  大阪而ボラニンティアセニ/ター  大阪側虻個金   

谷Iまq民っていた(甘良野塾の班)  圭 一・ 二■;‡    理雛l二    知らされなレ→愛lこつしヽて  

(エッセー集)    岡 知史    大阪ポラこ/ティア限   

伊丹辛いすガイドブック    伊丹坤ルヽすガイドブサクを作る金    伊丹串レ、すガイFみタを作る金    現場カヽらの発言    召延生日あり夢とう 迎肋大阪友の会    挺巨日削膠とう謝メd反二友の会    現場からの発雷(二)  

ちえおくれをとりまく人々の呂己録∃艇  岳陸生日ありがとう 迎ヨ弘大阪友の会  艶日ありかとう猷阪友の会    西桂生田ありがとう_ 甘▲さい 雪舟き一b  20周年在捻払縮集萎艮金    挺巨日ありがとう迎恥部   

ちえおくれの話    伊 藤 隆 二    菰姓日ありがとう 避鋸絡   

しょうかル、じのす占    イデ 藤 隆 二    召軽生日ありがとう猷灘    騨:l尊意の人権20の課長狙    全国相客巷間飴研究会    全国阿頓着研究会出版部    見えないお母さん舞畠未をa歪む  岩 田 糞律子    せせらぎ出版   

わたしは.、生括i垂人  八ンディキササブ・ライフ研究会細    ハンディキ抄プーライフ研究会    よレヽ土lこなること(エサセ「兼)    岡 知史  

推もカゝ舟ヽな:オゝった著自社鹿妻酔の太  ユーダーブック製作萎且会    H粂)ユータ、−   

夕やけ空のオニヤンマ    牧 口 ーー    明日魯店「   

毎月十二回︵二・四二ハ・八の日∵発行一九九一年九月三日夢二礫郵便物胞司  

0<サ亡丁ン・あべの>の裁西を多くの皆】譲にも読んでいた7三けたらと思います0    1著し出しこ′森望の二万は、1こ註ミまでお問合】つせ下さい○  

〒545大阪鵡阿倍野区阪細町6−3−26_ 田・06−691−1028.(冨田庶子)  

日本プロサッカーリーグ(一リーグ)が5月15日、東京  

・国際競技場で開暮した。同じ日、大阪・育徳コミュニティ   ーセンターでは、土井俊次氏が電動車イスサッカーの歴史・  

編 集 後 記  

ルール・見どころなどを、30名のサポーターを前に熱弁を振った。原田氏のVolunt   eer centerは、今回で終ります。長い間、おつかれさまでした。  

太紙は<100号>まであと16(石)  

編集人;サロン・あべの運営委且会・<サロン・あべの>NO.糾【−93.6.19発行卜定価¥100・  

代 表;上平幸姓〒545大阪市阿倍野区阪南町2−19−2−303.電話06−62ト4365   連鮨先;冨田慶子〒545大阪市阿倍野区阪南町6−3−26.電話06−691−10ユー主  

義 塵;斉藤孝文・筆  

印 刷;セルフ社〒545大阪市阿倍野区西田辺町2−2−10−101.TEL.08−691−2365・  

発行人;関西障害者定期刊行物除虫【大阪市城戯区東中浜2−10−13線描グリーンハイツ1F]  

参照

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