祁
建
民
The State Power and the Custom of Kan Qing in North China Rural Area
Jianmin QI
概 要 本稿は『中国農村慣行調査』と1990年代の再調査の資料を利用して,近現代華北農村 における看青慣行から国家権力の働きについて考察してみたい。筆者は村落における国 家権力に対して,国家側の面のみから考えるのは不完全だと思っており,村側の理由か らも考えるのが必要だと考える。村落の社会結合において国家権力の受け皿が存在する かどうかが問題である。農村社会の看青慣行から,基層社会における国家権力の存在を 再検討した試みである。看青慣行は当初村民の間の協力行動であった。その後に村落全 体の行動となったのである。こうした過程においては村落エリートが看青を組織して, 村政の一部にさせた。しかし,看青と権力との関係はこれだけではなく,沙井村の看青 の形成過程の変化に示されるように,国家権力が介入したことも証明される。 キーワード:国家権力,看青,共同体,慣行はじめに
1980年代以降,社会史及び人類学研究の手法が中国農村研究の主流になった。研究の基本理論 と概念は土地・搾取・階級・革命などの言説から宗族・村落・共同体・宗教信仰結合・秘密結社 などの言説に変わった。脱階級論の研究は盛んになってきた。しかし,このような研究は国家権 力の存在をよく見落としてしまった。階級論的研究は階級と権力特に国家権力との関係を重視し てきたが,近年の社会史及び人類学的研究は特定の地域における人間・社会関係を中心とし,国 家権力を外在的な存在として考えられている。また,近年,中国農村社会に対して人類学的調査 を行った時に,常に未開社会を研究する在来の理論に基づいて,中国農村社会を認識してきた。 実は,太古以来,中国における基層社会は完全に国家の編戸斉民政策によって編成し,人々は全 て国家の行政システムに巻き込んできた。一般的な社会人類学的調査と異なる視点から中国の社 会結合について考察する際,最も核心となる問題は,国家が存在する状況下の地域の範囲内にお ける社会秩序の維持と国家権力との関係である。中国農村社会を研究する際に,基層社会におけ る国家権力の存在は軽視できないと思う。本稿は『中国農村慣行調査』1などの資料を利用して, 近現代華北農村における看青慣行から国家権力の働きについて考察してみたい。 ―249―一,農村社会における国家権力
中国の帝政時代における専制国家権力は,里甲,保甲,郷地制度のような「編戸斉民」政策の 下に,徴税,徭役,治安,勧農,教化などを実施し,人民の一人ひとりを直接把握する個別的・ 人身的支配体制を整備した。秦漢以降,王朝による民衆へのコントロールは,血縁関係ではなく 戸籍制度を通じて行われ,ある学者は「中国専制国家は前近代の国家のなかでは国家の社会から の分離・独自化が最も進んだ国家である。」2と指摘し,比較史の視点から,古代中国における王 朝支配と社会との関係を明らかにした。 伝統中国社会における国家権力の存在は,膨大かつ整備された官僚組織が働いていた一方,支 配的イデオロギーとしては,皇権国家統治の正当性は,すべての土地と臣民が皇帝を頂点とした 支配体制の下に組み込まれ,「溥(普)天の下,王土に非ざるは莫く,率土の浜,王臣に非ざる は莫し」という言葉に示されるように,皇帝はすべての臣民に対する支配権力を有するという点 も重要である。事実,1940年代当時の華北の調査村に於ける農民たちの認識も,被支配者の立場 に立って,このようなものであったことは,以下に紹介する満鉄調査員が農民に対して行った聞 き取りからも裏付けられる。 [質問]「一体土地は誰のものか」 [答え]「これも国家のものだ。人々は借りているから田賦を納めているのだ。」 [質問]「土地は国家のものだが,雨水は地上に落ちると民有になるのか」 [答え]「否,双方とも国家のものだ。」 [質問]「土地の上の方は何代も使い慣れ肥料を与えたりしているから,これは個人のもので, 下は純粋に国家のものと考えられていないか」 [答え]「上も下も国家のもの」さらに,「(地下)水は四方より来たものであるから。即ち元来 その土地の下にのみあつたのでない。又土地も国家のものだから,一人の人が我尽に独占しては 不可だ。」3 このように「王土・王臣」の観念が庶民レベルの政治文化として,中国における専制国家統治 の基盤になっていたことが知られよう。 中国農村社会における国家権力の存在を見落とす考え方は,昔の東洋史研究の幾つかの定説に も関連した。帝政以降の中国における国家権力については,伝統的東洋史の観点として,大体県 レベルまでと認識されている。和田清は中国の帝政時期の政治体制について,国家の統轄は州県 まで,その以下の一般庶民には殆んど及ばなかったと指摘した。4清水盛光も県以下は国家機関と 直接に関与せず「郷人をして郷を治めるという方法を採用した」5という見解を示している。ス キナー(G, William Skinner)も清末では,県レベル以下の政治統治は「非公式な準政治組織より 弱く,ほとんど効果的ではなかった」と述べている。6 県レベル以下の村落に於ける国家権力と権 威がどのような形で動いたのかについては,多数の研究者が共同体,郷紳,宗族,権力的文化ネ クサスなどの「自治」・「自律」・「慣習」及び「仲介」・「第三領域」などといった面から解釈して きたが,国家権力そのままの形の存在は軽視されてきた。 しかし,近年では,県レベル以下,或いは民間社会にも国家権力がきちんと存在するという観 点及び中国における「国家」と「社会」との関係の独自性に関する研究が現れた。以下の研究は 注目すべきであろう。第一には,日本の中国史研究会の専制国家論について,基層社会における 国家権力をめぐる研究が目立つ点が挙げられる。この研究会の共同研究によれば,主権が集中し た専制国家は小経営を直接に編成した。国家編成の展開の基底は小経営の生産関係であるとい う。唐宋以降は人間関係の基調が,家族主義的な集団的関係を基本とするものから,個別の人間 ―250―関係(契約関係等)を基本とするものへ変化していったという観点が提出された。7日本の中国史 研究会のこの研究は,国家・個人間の統治関係を明らかにし,家族を国家の社会統治に於ける仲 介役に据える見方を否定した。第二には,へレン・シュウ(Helen, Siu)が伝統的な中国社会で は県以下の社会が自治的社区だという主流的な理論を批判した。へレン・シュウによれば,国家 は基層社会からエリートを培養し,国家の行政を担当するエリートはそれぞれのネットワークを 利用して,民間社会を制御しているという。8この研究はエリートを村落社会側の代表として見な すことが困難であり,実際には彼らの基本的な立ち位置が,国家の側に引き寄せられたことを明 らかにした。第三には,魏光奇が秦漢以後,国家組織はつぎつぎに他の社会組織を吸収し,中国 社会は徐々にばらばらとなり,弱体化してきた状況を指摘した。9国家権力の強大化は社会の弱体 化を招き,社会組織の管理は,自律的な要因ではなく,主に国家権力によって左右された,とい う。第四には,夫馬進の善会善堂についての研究からヒントが得られる。夫馬によれば,パブリッ クなものの成長という視点から研究して,国家から独立的なパブリックなものは発見できなかっ たという。清代における善堂経営を見るかぎりで言えば,「国家と社会は相い交わらないものと いうことは決してなく,逆に大きく交わり影響を与えあった。」中国の「国家も生命体として極 めて柔軟であり,新しいものを貪欲に吸収していったのである。」また,民間人は国家が善堂経 営に介入することを拒否しない。「国家庇護は必要であった。」従って,「国家が介入してゆくメ カニズム,介入してゆかざるをえない構造を我々はここに思うべきであるし,「国家」がいかに 「社会」を変形するかをも思うべきである。そしてここにこそ,ヨーロッパ史とは違う中国史の 独自性を見るべきである。」と提起した。10夫馬進の研究は,国家と対立的で且つ独立性を具える パブリックは存在しないという観点について,善会善堂が出現した城市の社会組織を考察対象と して導き出した結論ではあるものの,村落と国家との関係についての研究にも啓示を与えるもの であった。第五には,小田則子は清末華北村落の「公議」11のなかには,県政府と対抗するかに 見える自律的な輿論形成の活動や,広域的な公益事業が出現するわけではない。郷保の選出,同 族の土地の管理,首事人への訴訟,村廟の修理,祭りの運営,道や橋の修理,共有物の管理,賭 博の禁止,打更の実施など様々のことを県へ報告,提訴,請願,命令を求めた。12 この研究成果 は,村落の権威は柔軟であり,村落秩序の維持には国家権力の介入が必要不可欠であったことを 説明している。確かに岸本美緒が指摘されるように,中国において秩序というものを考える場合 に,「民間で形成されてゆく日常世界的秩序と,それこそ天下国家的秩序との関連が」きわめて 興味深いところである。13 また,中国の農民運動の視点から,ビアンコ(Bianco, Lucien)が次のような見解を示してい る。即ち統治者のエリートとしての代表者は官吏で,地主ではなく,国家権力は農民自体が身近 に,直接的に感じられた統治者であった。14農民にとって,そのような圧迫者は村落内からでは なく,国家権力からもたらされた者であり,国家と農民の統治関係が,中国に於ける統治の基本 的な構造関係であることを明示したのである。 以上の研究は中国での善堂などの団体と県レベル以下の国家権力の存在などの特質について明 らかにしており,本稿に大きなヒントを与えてくれる。しかし,筆者は村落における国家権力に 対して,国家側の面のみから考えるのは不完全だと思っており,村側の理由からも考えるのが必 要だと考える。村落社会結合の立場から国家権力の介入の必要性を分析すべきである。村落の社 会結合において国家権力の受け皿が存在するかどうかが問題である。 ―251―
二,共同体理論と看青慣行の研究
華北村落には,農作業の面では看青15と搭套16,村落生活の面では打更(夜警),郷社,碗社, 請会17等と称される各種互助結合関係が存在した。看青慣行に対して,最初看青を研究した平野 義太郎は「北支の看青会は,又,支那社会の構造上,充分に注目されねばならぬ」18と指摘して いるが,このように看青を「共同体」の共同性として捉える研究は,戦前の日本のマルクス主義 史学の延長線上に位置づけられ,戦中の大東亜共栄圏論理と関係があるといえよう。 華北農村における村落結合の特質に関して,戦前,「共同体」理論の視点から度々にわたって 論争が繰り広げられた。平野義太郎は沙井村の会に関する研究の中で「それ自体において,この 自然聚落たる「会」が廟を中心としつつ自然生的に共同生活し,共同の村落組織に結成して来て いることを示す。」19と述べ,共同体は存在していたという見解を示している。これに対して,戒 能通孝は,第一に,中国の村には境界(村界)がなく,固定・定着的な地域団体としての村は成 立していない。第二に,最も重要な点であるが,高持本百姓あるいはバウエルが存在せず,した がって,かれらを中核とする組仲間としての団結がなく,中国の村長や会首は村民の内面的支持 のない単なる支配者にすぎない,と述べている。201940年代前半には,平野の「アジア論」は既 に「大東亜共栄圏論」へと転化し,日本政府の戦争行為を支持し,日本が指導するアジアの新秩 序を打ち立てようとするのである。平野と論争を展開している戒能通孝は中国の農村におけるい わゆる共同体の存在を否定しているが,その深層意識では,平野のあのような反西洋,反近代の 視点に反対である。戒能は近代市民社会を肯定するものであり,中国村落の土地私有権について の考察を通して,平野の共同体理論を否定している。21 その後の現地調査によって,華北村落の「共同体」性については,否定的な結論が得られてい る。旗田巍は華北農村に於ける現地調査を通じて,村落の境界,村民の資格,「看青」と協同関 係,「開葉子」22及び村公会, 五会23などの面から村落の「共同体」性質を検証した結果,村の 土地と村の人は乖離しており,「看青」のような協同関係はいわゆる共同体とは全く違っており, 「開葉子」では,「他村に対し封鎖・排他的でなく,また協同的でもない」,といった結論を導き 出している。24 旗田巍は,「ここ(看青―引用者)に生まれる協同関係は,いわゆる村落共同体とは全くちが う。」共同体においては,「その生活の全部,少なくとも主要な部分が,共同体に依存し,共同体 を離れては各個の生活は成立しない。しかるに看青における協同は,各各別に独自の生活の基礎 をもつ人々が,ただ看青という,生活の一面において結ぶ協同であり,その関係は合理的打算的 である」25と述べ,看青を村民の間の一種の合理的な協力行為と見て,これによって,戦前の中 国農村共同体理論を否定した。しかし「看青」は結局,村落全体の範囲に関係する活動であり, 「看青」と村落地域結合,及び国家権力とは必然的に種々の連係があり,これについてはさらに 研究する価値がある。このように共同体を否定するような捉え方は,戦後,学界に於いて支配的 な見解となった。 戦後,内山雅生は「看青と村落統治の二重構造」という視点から看青研究を進め,「民国成立 後の看青は,一面,腕っぷしの強い貧民を看青夫(村民個人によって雇われる看青を担当する者, たいてい村の中に貧しく独身で,さらに腕の強い者)として取り込み,貧民救済的性格を保持し ながら村落防衛を成り立たせていただけでなく,他面,会首を中心とする村落統治機構の維持・ 強化を計っていた」26との見解を示した。看青にみる扶助行為と,会首によって主導された村落 結合とを結びつけて考察し,看青が単なる農業扶助行為ではなかった,との認識を示した内山の 研究は,共同体をめぐる論争枠から抜け出し,新たな研究の方向性とその可能性を指し示したも ―252―のといえる。
三,看青慣行の移り変わり
看青活動は初めに民間の活動として始まり,その後に国家行政によって管理されてきた。旗田 巍は看青の発展過程について,次のように認識した。看青は四つの段階を経ており,それはすな わち!看青を必要としなかった時代,"個々の農家が看青した時代,#光棍,土棍の私的看青の 時代,$村民協同して看青する時代である。27村民の協同する看青制度としては,寺北柴村は「公 看荘稼」と「公看義坡」という慣行があった。2∼3軒の農家が共同で看青夫を雇って,これら の農家の畑を一緒に見張ることは「公看荘稼」と呼ばれた。しかし,農家と看青夫との間によく トラブルが起こるので,農家が交代で見張りをするようになって,これは「公看義坡」と呼ばれ た。しかし,「公看義坡」はその後,機能を果たさなかった。その理由は,この「協同関係の内 容は,村民の自発的奉仕的な協同ではなく,自己本位の打算的協同であり,その背後には相互の 不信不安がある。」28 清末以降,看青慣行は大きな移り変わりが生ずる。国家権力と村民の要望が結合されたといえ る。とくに,国家権力が徐々に介入の度を深めているという点は見逃すことができないであろう。 看青を組織して,盗人を罰することや看青の範囲と青苗銭等はすべて国家(県知事)の命令に従っ て行われた。1940年代,満鉄調査員の河北省順義県(現在北京市順義区)沙井村の村民への聞き 取りによると,清末までは,村落には看青組織はなかった。「昔は村に何の仕事もなかった。城 内には紳董が二名いたが,村にはいなかった」と言われるとおりである。29個々の農家が看青を 行った時代には,「盗人があっても会は責任なく,ただ持主や看青夫が殴ったり叱ったりした」 という。30また,村民と看青夫は私的関係で結ばれていたので,様々な問題があった。そのため 村民が協同して青苗会を作り,会を通じて看青夫の不法行為を抑制し,作物の安全を計りたいと いう要望が生まれていた。丁度この時,国家は税を徴収するために青苗会の設立を命令した。「村 民の要望と県の命令とによって,今や青苗会が成立した」のである。青苗会は「県から公認され た機関であるから,光棍や土棍に気がねすることなしに,村民の協同事業として,看青すること が可能になった」。31沙井村の青苗会は光緒32年(1906年)に県の湯知事の命令で成立しているが, 県下にそれぞれ個別に成立していった。32「光緒三十二年に青苗会が出来た理由」は何か,という 質問に対して,村民は「増大する村費を賄うため,また看青の方法を改めるため」と答えた。「看 青の方法を改める」ということは,「それは看青夫の悪いことを取締るという意味」があった。33 青苗会の成立後,看青の方法が変わった。それまでの看青は乱暴者の私的看青であったが,いま や青苗会が主宰する看青に変わった。看青夫は,村の有力者である青苗会の世話人(即ち会首) が選定し,看青夫への報酬は,青苗会が村民から集めた金のなかから支払い,作物の被害につい ては,その賠償金額を青苗会が公定し,盗人の処分は,青苗会の世話人が行うようになった。34 これによって,盗人に対する処分は国家の権力も介入し始めた。これから,作物盗人が見つか ると「看青夫が会に連れて行って会が罰する」という。1940年代に,青苗会があるから盗人が見 つかれば青苗会に連行して青苗会が罰を与えた。もしくは会に名前を報告し,時には警察分所に 報告して罰して貰うこともできる。看青的(看青夫)はただ見張をすればよいという。35つまり こうした犯罪行為を犯したものは会あるいは国家の行政機関としての警察分所によって罰せられ たのである。 日中戦争の時,寺北柴村の看青活動は基層行政によって管理されるようになった。聞き取り調 査によれば,[質問]「この村で村が看青的(看青夫――著者)を雇うことありや」,[答え]「近 ―253―頃は看青的なし」。[質問]「昔は如何」,[答え]「事変前にはあった」。[質問]「看青的村で雇っ たか,一家が雇ったか」,[答え]「たいてい自分自身で雇って見張った。去年から自衛団ができ, それが畑の見張をした」。36 また,看青の範囲は,昔は一部の土地が他の村の人のものであったため,青苗銭をめぐり,し ばしば紛争が起った。37これも政府の命令によって解決された。民国25年(1936年)に順義県の 安知事の命令が出た。看青の範囲を固定して,「死圏」を決め,その「圏」内に土地があった他 の村の人は「一畝十銭」の青苗銭を出した。38看青のような生産協同関係は国家の管理と離れら れないものとなったのである。 看青の形成過程から見ると,その発端は村落の生活の必要から生まれたが,その制度化は国家 による命令の結果である。沙井村では散発的なものであった看青が青苗会として共同組織となっ たことや,看青の範囲の確定などいずれも県知事の命令の結果であった。つまり村落の共同組織 は国家権力によって形成され,管理されていたといえよう。 看青慣行に近似したものは「打更」(夜警)制度である。後夏寨では,打更は「昔から毎晩やっ ている」,「打更についての以前の規約はない」といい,これは村落の慣習であった。しかし,こ の村落の慣習は1940年代から,国家行政によって管理されることになった。1941年10月に,村の 公所が「博夫的規章」を作った。その内容は次の通りである。「夜警の規則,各割り当て当番 の日に欠席の時,罰金として洋銀1元を払わせ,以って灯油代の費用にあてる。夜間,鎮公所の 役員が検査に来たときに欠席の場合は,直ちに罰金洋銀二元を科す,全員に知らせる。親族長幼 に拘わらず,一律に適用する。規定に照らして処理し,容赦を許さぬ,ここに公告す,後夏寨弁 公所,記す」(「博夫的規章,毎到値日不到時,罰洋一元,以作煤油之費,如夜間鎮公所来査験, 不到,立刻罰洋二元,大家知悉,無論親後,一律寔行,照章 理,蓋不寛恕,切切此告 後夏 寨 公所具」)。ここで,注意すべきところは第一に,その制定者が「後夏寨 公所」で,即ち「現 保長が甲長等と相談して規定した」という点である。第二に,打更に対して,鎮公所の検査があ り,さらに打更の博夫の人数は大幅に増加したことである。村民の聞き取りによれば,[質問]「現 在一晩何人出ているか」,[答え]「三十人。九時から十二時まで十五人,十二時から五時まで十 五人というように交代してやる」。[質問]「事変以前は何人位であった」,[答え]「十人位」とい う記録が残っている。39そして1941年以降,県の命令で保甲自衛団が組織され,打更の機能は保 甲自衛団に組み込まれていった。その結果,打更(夜警)も一種の民間自衛行為から国家の治安 管理行為へと転換し,国家権力の統制範囲の中へと組み込まれた。 解放後,特に集団化以降,村落における互助的結合は大体村落の行政組織に吸収された。特に 生産面での合作と村落の治安は完全に村政に属していた。生産隊は村落の生産全般を運営した。 村落の安全確保と「看青」は民兵によって実施された。「打更」は解放初期にはなかったが,文 革後行なわれるようになった。現在では「打更」ではなく,「保衛」といっている。「看青」や「打 更」は「保衛」となり,皆民兵がおこなうようになった。40
おわりに
本稿は,農村社会の看青慣行から,基層社会における国家権力の存在を再検討した試みである。 看青慣行は当初村民の間の協力行動であった。その後に村落全体の行動となったのである。こう した過程においては村落エリートが看青を組織して,村政の一部にさせた。しかし,看青と権力 との関係はこれだけではなく,沙井村の看青の形成過程の変化に示されるように,国家権力が介 入したことも証明される。看青のような生産協同関係は国家の管理と離れられなかったのであ ―254―る。村落エリートが看青を運営したことは,村落の自律的側面と国家権力からの他律的側面との 両方を含んでいたと言えるだろう。近代華北農村における社会秩序の維持においては,国家権力 と社会結合とは相互に依存していた。国家権力と社会結合の両者ともに単独では社会秩序を維持 できなかったのである。 注 1 中国農村慣行調査刊行会編『中国農村慣行調査』一∼六巻,岩波書店,一九五二∼一九五七 年。 2 中村哲編『東アジア専制国家と社会・経済――比較史の視点から』青木書店,一九九三年, 三二∼三三頁。また,杜正勝『編戸齊民――伝統政治社会結構之形成』聯経出版事業公司,一 九九〇年,三二∼三三頁を参照。 3 中国農村慣行調査刊行会編『中国農村慣行調査』巻五,岩波書店,一九五二∼一九五七年, 二九八頁。以下「『慣行調査』""巻""頁,即ち五巻二九八頁」の如く略称する。 4 和田清は中国の帝政時期の政治体制に関して,「上は天子より下は微士卑官に至るまで,中 央政府では宰相から属僚まで,地方官では総督巡撫から知州知県の及ぶまで,ピラミッド型の 官僚階級が整然として出来上って居り,独裁専制の政権を維持して来たのであるが,その統轄 は知州知県等の所謂「親民の官」までに止まり,更にその下の一般人民には殆んど及ばなかっ た。」と述べている。和田清編『支那地方自治発達史』汲古書院,一九三九年初版,一九七五 年復刻版,二頁。 5 清水盛光によれば,「中国のおける官治機構の末端が州県衙門に止まり,州県以下の郷村統 治に関しては官みずからの機関を以て直接これに関与することなく,庶民に役を課して官治の 補助機関たらしめ,いわゆる郷人をして郷を治めるといふ方法を採用した。」という。清水盛 光『中国郷村社会論』岩波書店,一九五一年,十三頁。 6 スキナーによれば,「地方の準政治組織はより弱く,ほとんど効率的ではなかったし,地位
の低い指導者によって支配された。」という。G, William Skinner (1993) Marketing and Social
Struc-ture in Rural China, Association fo Asian Studies, Inc=日本語版:G.W.スキナー著・今井清一他 訳『中国の農村市場・社会構造』法律文化社,一九七九年,日本語版,一一九頁。 7 中国史研究会が刊行した二冊(中国史研究会編『中国史像の再構成―国家と農民』文理閣, 一九八三年。中国史研究会編『中国専制国家と社会統合――中国史像の再構成!』文理閣,一 九九〇年)の論文集の中で,春秋戦国期に於ける土地制度の様子を検討した渡辺信一郎は,各 国の王権に集中させるとともに,小経営生産様式及び土地所有次元の萌芽的支配―隷属関係を 主権のもとに編成・集中し,やがて皇帝権力のもとに統一してゆく過程である,という見解を 導き足している。(渡辺信一郎「国家的土地所有と封建的土地所有」『中国専制国家と社会統合 ――中国史像の再構成!』)また,唐宋変革期に於ける家族関係の視座から検討を加えた大澤 正昭は,人間関係の基調は,家族主義的な集団的関係を基本とするものから,個別の人間関係 (契約関係等)を基本とするものへ変化していったと言えるであろう,そしてこれは,国家の 裁判などの公共機関へと集中して行く性質をも持った関係として立ち現れていた,(大沢正昭 「『笞』・『僕』・『家族関係』――『太平広記』・『夷堅志』に見る唐宋変革期の人間関係」『中国 専制国家と社会統合 中国史像の再構成!』)と結論付けている。足立啓二は,これらの共同 研究の成果について「第一巻では,小経営を直接に編成し,その剰余をもとに社会を再生産す る主体,中国における生産関係として専制国家をとらえた。その上で前近代社会発展の原動力 ―255―
であり,国家編成の展開の基底ともなる。小経営の中国における発展の諸階段を示した。第二 巻では,非共同体的社会構造とその上に存在する主権の集中した専制国家を論じ,専制国家が
社会を統合し再生産する過程としての財政・貨幣の構造について分析した。」と述べて,研究
史上に位置付けている。足立啓二『専制国家史論――中国史から世界史へ』柏書房,一九九八 年,四八頁。
8 Helen Siu, 1989, Agents and Victims in South China,Yale.
9 魏光奇によれば,まず門閥世族などに代表される各種の血縁組織が吸収され,長らく続いて いた郷官制度にあっても唐代に至ると「郷職」の地位は「差役」へ下がり,そして里社制度が 衰退し,それに代わって郷地制度が誕生した結果,国家の地縁組織が強化されたものの,その 一方で社会は弱体化への途を辿った,とされる。魏光奇「清代直隷的里社与郷地」『中国史研 究』第一期,二〇〇〇年。 10 夫馬進『中国善会善堂史研究』同朋舎出版,一九九七年,五二三∼五二六頁。 11 華北村落の中には,村落即ち里,甲,あるいは宗族の構成員は共同事業を行っていた時に, 郷村の有力者や「荘」の首事人たちは合議の席で取り決めを行い,これに対して村人や宗族の 構成員が協議したり同意したりしていた。こうした活動を「公議」という。 12 清代順天府宝 県県衙の文書を調べた小田則子は,郷保の選出,同族の土地の管理,首事人 への訴訟,村廟の修理,祭りの運営,道や橋の修理,共有物の管理,賭博の禁止,打更の実施 など様々な用件について,村民が県に報告・提訴・請願し,命令を求めていた事実─例えば, 賭博の禁止を定めた「公議」の拘束力が弱かったために,村民はその解決を国家権力に委ねな ければならなかった─を指摘した上で,「もとより華北の郷村の合議(「公議」)のなかには, 県政府と対抗するかに見える自律的な輿論形成の活動や,広域的な公益事業が出現するわけで はない」と述べ,村落の自律の弱さと国家権力の存在を明らかにしている。小田則子「清代の 華北郷村における公義――順天府宝 県の事例」『名古屋大学東洋史研究報告』第二十五号, 二〇〇一年。 13 岸本美緒「ソシアビリテ論の射程は東方に届くか」,二宮宏之編『結びあうかたち ソシア ビリテ論の射程』山川出版社,一九九五年,一一二頁。 14 「統治者のエリートとしての代表者は官吏で,地主ではない,だから,官吏こそは農民の攻 撃の目標である。農民の自発的に反抗する対象に関する選択は,中華民国の農民は顕著な国家 からの圧迫意識をもっており,階級的な被搾取意識は却って薄いということを証明した。
」Fair-bank,John King The Cambridge History China. Vol.13, Republican China 1912-1949, Part 2. Cambridge University Prees 1986;中国語版:畢仰高(Bianco, Lucien)「第六章 農民運動」,費正清主編, 章建剛など訳『剣橋中華民国史』第二部,上海人民出版社,一九九二年,三三一∼三三二頁。 15 農作物の盗難を防ぐための見張ること。 16 驢馬の体を繋ぐ縄を套という。搭は互いに交わること。“搭 種地”という言葉がある。共 同して役畜を使う意味である。 17 これらはすべて日本の頼母子講と似通う。 18 平野義太郎『北支の村落社会――慣行調査報告――』!出版者不明,一九四四年,八〇頁。 19 平野義太郎は「会首の集合協議する公会が自然村落自治機関であった,この公会は,前清時 代より存在するが,古来,政府の作ったものではなく,自然部落の自治機関である。そして, この会首の「公会」の背後には,県政府の命令によって作られた保甲,隣閭制や国家の行政組 織の単位たるべき行政村とは異なるところの自然的生活協同態たる「会」がある。この「会」 こそ村民の自然的な生活共同体である。この「会」は廟を中心とし,地理と歴史によって自然 ―256―
に発達した村民の自然聚落に外ならない。村の財産を「会裏財産」といい,廟産も公会の建物 その他の村有財産をも統一して指称し観念していることは,それ自体において,この自然聚落 たる「会」が廟を中心としつつ自然生的に共同生活し,共同の村落組織に結成して来ているこ とを示す。」と主張した。平野義太郎『大アジア主義の歴史的基礎』河出書房,一九四五年, 一五八∼一五九頁。 20 戒能通孝『法律社会の諸問題』日本評論社,一九四三年,一四九∼一五九頁。 21 旗田巍『中国村落と共同体理論』岩波書店,一九七三年,参照。 22 畑にある高粱の葉を,一定期間だけ,誰が取ってもよい慣行である。 23 毎年元宵節(正月一五日)・観音の誕生日(二月一九日)・釈迦の誕生日(四月八日)・関帝 の誕生日(六月二四日)・地蔵の誕生日(七月三〇日,以上( )内は均しく旧暦)の計5回 にわたって,村民が村内の廟に集合して,祭神に供物をささげ焼香叩頭した後,廟の中庭で会 食する。 24 旗田巍前掲書,二四八頁。 25 旗田巍前掲書,二六六頁。 26 内山雅生によれば,「看青にみられる村公会中心の村落統治機構は,むき出しの暴力的装置 のみでは維持され得ず,ここに従来より村民の多くを結集して実施された『団体的協同事業』 という外衣をまとい,村民に共同関係によって存立しえるのだというコンセンサスを授与して こそ,その役割を果たしえたと考えられる。」という。内山雅生『中国華北農村経済研究序説』 金沢大学経済学部,一九九〇年,一二一頁。 27 旗田巍前掲書,一九〇∼一九一頁。 28 旗田巍前掲書,二二四頁。 29 『慣行調査』 一巻一八七頁。 30 『慣行調査』 一巻一八七頁。 31 旗田巍前掲書,一九〇∼一九一頁。 32 『慣行調査』 一巻二〇四頁。 33 『慣行調査』 一巻二〇五頁。 34 旗田巍前掲書,六四∼六五頁。 35 『慣行調査』 一巻一八七頁。 36 『慣行調査』 三巻四二頁。 37 『慣行調査』 一巻二〇五頁。 38 『慣行調査』 一巻二〇四頁。 39 『慣行調査』 四巻四一二頁。 40 三谷孝編『中国農村変革と家族・村落・国家――華北農村調査の記録――』二巻,汲古書院, 二〇〇〇年,二巻三三一頁。 ―257―