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サイードのために―アーレントとパレスチナ問題1

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サイードのために

――アーレントとパレスチナ問題

1

 

 

謙一郎

死にゆく人々は目にし、感づき、分かっていた、 自分たちの死が世界の死であるということを。 (ジャン・ジュネ『恋する虜』 )       不可避の問い   パレスチナ問題について 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 、 アーレントはどのよ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 うに考えていたのか 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ?   この問いに答えることは容易ではない。彼女の履歴と関連する資料、そしてまた歴史──あるいは決して十分には 書くことのできない無数の事実──が複雑に絡み合っているからである。問題自体も深刻化するばかりで、解決から 35

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はむしろ遠ざかっている。しかもそこにはひとつの強力なイデオロギーが作用しており、これは国家や言語の枠組み を 超 え て 一 個 人 の 履 歴 と 文 字 資 料 の あ い だ に 齟 齬 を 生 じ さ せ る ほ ど 根 深 い の だ。 錯 綜 す る 情 報 も し ば し ば 歪 め ら れ、 現実 0 0 を把握すること自体が難しい。だが、ここに賭けられているのは「学問の自由」であり、究極的には「内面の自 由」なのである。   ひとまず、同定可能な事実を確認することから始めよう。   一九三三年七月、ナチス・ドイツの誕生から半年足らずのうちに、アーレントは逮捕された。その頃住んでいたベ ルリンで、 シオニストの地下運動に協力したためだった。幸運にも一週間程度で釈放されると、 すぐにパリに逃れる。 フランスでもシオニストの組織で活動、とりわけ「青年アリヤー」に尽力した。目的はヨーロッパのユダヤ人青少年 を祖先の地に届けることにあり、一九三五年にはアーレント自身も一度パレスチナを訪れている。同年に発表された 論考のタイトル──「若者の職業の再編成」 「若者の指導者   マルティン ・ ブーバー」 「若者は故郷をめざす」──は、 当時の彼女の問題意識を如実に反映していると言えるだろ う (( ( 。   しかし一九三九年九月に独仏開戦、ドイツ出身だったために敵性外国人とみなされたアーレントは、南西部のギュ ルス収容所に送られる。翌年のフランス降伏時に脱出、一九四一年にはニューヨークに到着した。アメリカでもドイ ツ・ユダヤ人向けの新聞に寄稿し、ヒトラーに対抗するユダヤ軍の創設を訴えるな ど (( ( 、ユダヤ人の民族的存続を念頭 に置いた記事を多数執筆することになる。   他 方、 シ オ ニ ズ ム の 主 流 派 が ユ ダ ヤ 人 の「 郷 ホーム・ランド 土 」 を 超 え て 主 権 国 家 の 建 設 を め ざ す よ う に な る と、 ア ー レ ン ト は 運動全体から離れていく。たしかにユダヤ人にも住む場所は必要で、その「 家 ホーム 」をパレスチナという「 地 ランド 」に建てる こ と に は 歴 史 的 意 義 も あ る だ ろ う。 だ が、 そ れ に は ま ず 現 在 の 住 民 た る ア ラ ブ 人 の 理 解 を 得 る の で な け れ ば な ら ず、 36

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先住者の存在と意向を無視すべきではない。彼女はまた 国 ネー シ ョン・ステート 民国家 という形式自体に疑念を抱いており、ユダヤ人とア ラブ人が共存できる一種の連邦制を構想してい た (3 ( 。   そのため一九四四年一〇月のアメリカ・シオニスト機構の年次大会で、純然たるユダヤ人国家を建設する方向性が 固まると、アーレントは明確に異議を唱える。この決議はアラブ人の排除── 軍事的な 0 0 0 0 排除──を主張していた修正 派に与するものと映ったのだ。論文「シオニズム再考」は、当の会議をシオニズムの大きな転換点とみなし、その方 向性を強く非難してい る (( ( 。   そして戦後の一九四八年五月一四日、イスラエルの建国が宣言された。周囲のアラブ国家は宣戦を布告、第一次中 東戦争となる。とはいえ、 前年に採択された国連の分割決議案以来、 パレスチナはすでに内戦状態にあった。デイル ・ ヤシン村では、 アラブ住民の虐殺事件も引き起こされてい る (5 ( 。一連の事態の結果、 七〇万から八〇万人の難民が生じ、 パ レ ス チ ナ 問 題 が 本 格 的 に 始 ま る。 イ ス ラ エ ル 国 内 に と ど ま っ た パ レ ス チ ナ 人 も 実 質 的 に 二 級 市 民 と し て 扱 わ れ、 七〇年後の今日 0 0 0 0 0 0 0 イスラエル国会はユダヤ人にのみ自決権を認める「国民国家法」をついに可決した(ここまでの過程 全 体 を 代 議 制 議 会 主 義 に よ る 民 主 主 義 の 合 法 的 簒 奪 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 と し て 捉 え る 必 要 が あ る だ ろ う )。 だ が も ち ろ ん、 そ の 間 に も 確 認すべき事実── 大 ナ ク バ 災厄 から連綿と続く人種差別と人権侵害と集団殺戮の歴史──がある。   も っ と も、 こ の 観 点 か ら す る と、 『 全 体 主 義 の 起 源 』 は 画 期 的 な 著 作 だ っ た は ず で あ る。 帝 国 主 義 0 0 0 0 を 主 題 と す る 第 二 部 最 終 章「 国 ネー シ ョン・ステート 民 国 家 の 没 落 と 人 権 の 終 焉 」 に は、 す で に 一 九 五 一 年 の 英 語 初 版 か ら「 最 近 の イ ス ラ エ ル 国 家 の 例 」 に 関 す る 言 及 が あ る (6 ( 。 五 五 年 の ド イ ツ 語 版 か ら は、 「 入 植 し て か ら 領 土 を 奪 う 」 政 策 と「 ア ラ ブ 難 民 」 の 存 在 に 関 す る 記 載 も 追 加 さ れ て い る (( ( 。 さ ら に『 エ ル サ レ ム の ア イ ヒ マ ン 』( 一 九 六 三 年 ) が、 い わ ゆ る「 イ ス ラ エ ル の 大 義 」 を 国際的に訴えるための一種の 見 スペクタクル 世物 としてアイヒマン裁判を捉えつつ、 殲 シ ョアー 滅 の担い手を利用したこの国策をあくまで 3(

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も批判的に論じていること──そしてそのために引き起こされた巨大な論争においても何ら主張を変えなかったこと ──を考慮するなら、戦前から少なくとも六〇年代半ばまで、アーレントの姿勢は一貫していたことになるだろう。   つまり、ユダヤ人も居住地を必要とする以上、何らかの「土地」はたしかに不可欠だが、しかしそれを「奪う」べ きではない。軍事力を背景とした土地取得は植民地主義的暴力以外の何ものでもなく、ホロコーストをはじめとする どのような出来事も、決してこれを正当化することはできない──アーレント自身が直接そう述べているわけではな いにせよ、アイヒマン論争までの彼女の立場を簡潔に示すなら、およそこのように要約できるだろう。   しかしながら、ここでひとつの転機が訪れる。一九六七年の第三次中東戦争である。スエズ運河の利権をめぐる第 二 次 中 東 戦 争( 一 九 五 六 ─ 五 七 年 ) 後、 関 連 地 域 で は 英 仏 の 旧 帝 国 主 義 勢 力 に 代 わ っ て、 米 ソ の 影 響 が 強 ま る よ う に なっていた。イスラエルは周囲のアラブ国家に承認されておらず、地理的には孤立していた。ソ連は中東での支配力 を 高 め る べ く ア ラ ブ 側 を 支 援、 こ れ に 応 じ る 形 で エ ジ プ ト、 シ リ ア、 ヨ ル ダ ン が に わ か に 軍 備 を 整 え た。 そ し て 一九六七年五月、第二次中東戦争後に駐留していた国連軍の撤退をエジプトが要求、さらにアカバ湾から紅海へ通じ る チ ラ ン 海 峡 の 封 鎖 を 宣 言 し た こ と で、 事 態 は 一 気 に 緊 迫 し た。 か く し て 機 先 を 制 す べ く 攻 撃 に 出 た イ ス ラ エ ル は、 六月五日から一〇日の六日間で大勝利を収める。結果的に、エジプトからはシナイ半島とガザ地区、シリアからはゴ ラン高原、ヨルダンからはヨルダン川西岸地区全域を奪うことになった。   これに対して一九七三年一〇月六日、エジプトとシリアはそれぞれシナイ半島とゴラン高原に展開していたイスラ エ ル 軍 を 攻 撃、 第 四 次 中 東 戦 争 が 勃 発 し た。 作 戦 は イ ス ラ ム 暦 に お け る 断 ラ マ ダ ン 食 の 月 、 ま た ユ ダ ヤ 教 の 祭 日 で あ る 贖 ヨ ム ・ キ プ ー ル いの日 に開始されたため、これらの名をもって呼ばれることもある。不意を突かれたイスラエルも徐々に反撃、ア メリカの支援も受けて優勢な形で停戦を迎えた。中東地域におけるイスラエルの軍事的優位とそれを擁護するアメリ 38

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カという構図は、こうして現在まで続くことになる。   ところで、以上の一連の事態に対して、アーレントはどのように反応したのか?   これはパレスチナ問題に関する 彼女の考えを検討するにあたって避けることのできない問いである。そしてこの問いについては、エリザベス・ヤン グ = ブ ル ー エ ル に よ る 有 名 な 伝 記 の 次 の よ う な 一 節 が、 ひ と つ の 答 え と し て あ ら か じ め 与 え ら れ て い る( 研 究 者 た ちにはよく知られた一節だが、やや長くとも全文の再読が必要だ) 。   一九六七年の〔第三次〕中東戦争の間、ハンナ・アーレントはイスラエルの勝利を情熱的に誇りとした。普段 はイスラエルの政策に批判的だったのに、 友人の一人が述べるところによれば、 「戦争花嫁のように」振る舞った。 軍事的関与について、 アーレントは攻撃的なものと防衛的なものとを截然と区別し、 一九五六年の〔第二次中東〕 戦 争 は 愚 か し い も の だ っ た が、 一 九 六 七 年 の 戦 争 は 理 に 適 う も の だ と 考 え た。 一 九 六 七 年 一 〇 月〔 sic 〕 の 六 日 間戦争を振り返りながら、 彼女はメアリー ・ マッカーシーにこう書いている。 「イスラエルに真の破局が訪れれば、 他 の ほ と ん ど 何 よ り も、 私 の 心 を 深 く 揺 さ ぶ る で し ょ う 」。 一 九 七 三 年、 エ ジ プ ト と シ リ ア が 贖 ヨ ム ・ キ プ ー ル い の 日 に イ ス ラ エルの領土に侵攻したとき、破局は差し迫っているように見えた。そして今回はイスラエルが破壊されるかもし れ な い、 と ア ー レ ン ト は 恐 れ た。 〔 第 四 次 中 東 〕 戦 争 は 一 〇 月 九 日〔 sic 〕 に 始 ま っ た。 そ れ は ア ー レ ン ト が フ ラ ン ス・ テ レ ヴ ィ ジ ョ ン の た め に ロ ジ ェ・ エ レ ー ラ と の 一 週 間 に わ た る イ ン タ ヴ ュ ー を 始 め た 日 だ っ た。 イ ン タ ヴ ュ ー の 書 き 起 こ し は、 彼 女 の 心 を 占 め て い た 思 い を 反 映 し て い る。 「 ユ ダ ヤ 人 は イ ス ラ エ ル で は 一 つ に な っ て います」と彼女は言った。そしてさらに進んで、 ユダヤ教は 国民 0 0 宗教です、 と何の批判もなく説明した。ロジェ ・ エ レ ー ラ は ス フ ァ ル デ ィ 系 ユ ダ ヤ 人 で、 パ リ の カ ル マ ン = レ ヴ ィ 出 版 社 の 叢 書「 デ ィ ア ス ポ ラ 」 の 編 者 だ っ た。 39

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二人は一緒にコロンビア大学ロースクールで開かれた会議に行ったが、そこではイスラエルの大義を援助するた めのさまざまな提案が検討された。アーレントは一九六七年にしたのと同じように、ユダヤ防衛連盟に寄付をし た。 ま た 戦 争 が テ ル = ア ヴ ィ ヴ に い る 親 戚 の 安 全 を 脅 か し た 場 合 に は、 す ば や く 財 政 援 助 が で き る よ う 準 備 を 整えた。一〇月の第二週に戦闘の形勢が変わると、彼女は〔 『精神の生活』第二部〕 「意思」の草稿に再び着手し よ う と し た。 「 私 は 仕 事 に 戻 る の に ち ょ っ と 支 障 が あ る の で す が、 そ れ は も ち ろ ん 主 と し て 予 期 し え な か っ た 今 回の「歴史」の勃発のせいです」 、と彼女はメアリー・マッカーシーに書い た (8 ( 。   あえて一言で要約するなら、アーレントは第三次中東戦争でも第四次中東戦争でもイスラエルを支持した、という のである。 「普段はイスラエルの政策に批判的だったのに」 、一九六七年にも一九七三年にも「ユダヤ防衛連盟に寄付 をした」 。   本当だろうか?   仮に本当だったとして、彼女の姿勢はいかにしてほとんど一変するにいたったのか?     し か し な が ら、 伝 記 の 記 述 が 本 当 か ど う か を 検 証 す る 作 業── 引 用 中〔 sic 〕 と し た 箇 所 に は 懐 疑 を 抱 く べ き 根 拠 がある──に着手する前に、いわゆる先行研究を押さえておく必要がある。つまりこの一節について同じ疑問を抱い た人物がすでにおり、その指摘はここでの議論に直結するということだ。それどころか、彼自身が問題の当事者のひ とりにほかならず、しかもヤング = ブルーエルは彼に対してひとつの間違いを認めているのである。   まずは彼の言葉に耳を傾けてみよう。 (0

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      疑問と指摘   一九八五年の論文「差異のイデオロギー」のなかで、エドワード・サイードは次のように述べている。   ハンナ ・ アーレントのことを考えてみよう。パレスチナにおける二民族共存のためにユダ ・ マグネスやマルティ ン・ブーバーが重ねてきた努力に、彼女は長年のあいだ密接に関わってきた。戦前はユダヤ人のパレスチナ移住 のために働いたものの、主流派シオニズムに対してはつねに批判的だった。このことは論集『パーリアとしての ユ ダ ヤ 人 』 や、 『 全 体 主 義 の 起 源 』 及 び『 エ ル サ レ ム の ア イ ヒ マ ン 』 に 含 ま れ る 様 々 な 指 摘 か ら 証 明 さ れ る。 だ が一九六七年、彼女はユダヤ防衛連盟に寄付金を送り、七三年にもそうした。この情報──アーレントの伝記の な か で エ リ ザ ベ ス・ ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル が 一 連 の 矛 盾 に 何 ら 気 づ く こ と な く 伝 え て い る 情 報── は、 注 目 す べ き も の だ。 シ オ ニ ズ ム が パ レ ス チ ナ 人 に 行 っ た こ と に 対 し て、 〔 ア ー レ ン ト は 〕 他 の 点 で は き わ め て 同 情 的 か つ 反省的な人物だったのだから。マグネスの支持者たちやメイル・カハネは、この不一致とどう折り合いをつけた の だ ろ う か?   難 点 を 解 消 し よ う と す る ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル の 暗 黙 の( お そ ら く は 無 意 識 の ) 試 み も 意 義 深 い。 一 九 七 三 年 の イ ス ラ エ ル に 対 す る ア ー レ ン ト の 興 奮 し た 関 わ り 方 に つ い て 述 べ る 際、 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル は 次 のような文章で始めている。 「エジプトとシリアが 贖 ヨ ム ・ キ プ ー ル いの日 にイスラエルの領土に侵攻した」 。注記されてしかる べきことだが、エジプトとシリアが実際に侵攻したのは、それぞれシナイ半島とゴラン高原、つまり一九六七年 にイスラエルが占領したエジプトとシリアの領土だった。願望はこのようにして真実を踏みにじる ! (9 ( ((

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  サ イ ー ド の 見 解 は 明 確 だ。 ア ー レ ン ト は「 主 流 派 シ オ ニ ズ ム に 対 し て は つ ね に 批 判 的 だ っ た 」。 先 述 の よ う に、 事 実そのことは「シオニズム再考」 (を収めた論集『パーリアとしてのユダヤ人』 )や『エルサレムのアイヒマン』から 読み取れる。彼女はまた「シオニズムがパレスチナ人に行ったことに対して、きわめて同情的かつ反省的な人物だっ た 」。 や は り 先 述 の よ う に、 事 実 そ の こ と も「 入 植 し て か ら 領 土 を 奪 う 」 政 策 と「 ア ラ ブ 難 民 」 の 存 在 に つ い て 明 記 し た『 全 体 主 義 の 起 源 』 か ら 読 み 取 れ る ((1 ( 。 し か し、 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル の 伝 記 に よ れ ば、 「 一 九 六 七 年、 彼 女 は ユ ダ ヤ防衛連盟に寄付金を送り、七三年にもそうした」 。   これは本当なのだろうか?   仮に本当だったとして、 「〔ユダヤ人とパレスチナ人の二民族国家論を提唱していたユ ダ・〕マグネスの支持者たちや〔ほかならぬユダヤ防衛連盟の設立者である〕メイル・カハネは、この不一致とどう 折 り 合 い を つ け た の だ ろ う か?」 。 念 の た め 換 言 す れ ば、 こ う な る だ ろ う── そ れ ま で イ ス ラ エ ル 国 家 の 政 策 を 鋭 く 批判していた人物が、 一九六七年以降は唐突にこれを支援するようになったのだとしたら、 その転向、 その「不一致」 には、左右どちらの側も首を傾けるよりほかないのではないか?   サ イ ー ド は こ う し た 疑 問 を 提 示 し た 上 で、 さ ら に ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル の「 無 意 識 」 あ る い は「 願 望 」 を 指 摘 す る。 第四次中東戦争でエジプトとシリアが攻め入った「シナイ半島とゴラン高原」は、第三次中東戦争で両者が失った領 土にほかならない。にもかかわらず、伝記はあたかもそれが 元来 0 0 「イスラエルの領土」だったかのように記述してい る。いわゆる大イスラエル主義の欲望が、アーレント自身の弟子にして精神分析にも通じていた著者を導いているの だ(それゆえ「真実を踏みにじる」ヤング = ブルーエルの看過=乗り越え override は一層注目に価するだろう) 。   もっとも、ここで当の伝記『ハンナ・アーレント──世界への愛のために』が翌年の 全米ユダヤ図書賞歴史部門 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 に ノ ミ ネ ー ト さ れ て い る こ と を 考 慮 す る な ら、 「 願 望 」 は も は や 著 者 個 人 の「 無 意 識 」 に は 還 元 で き な く な る。 事 実、 ((

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この本が出版された一九八二年には、イスラエルが内戦状態のレバノンに侵攻、実質的な目的はPLOの壊滅──そ し て 民 族 的 存 在 に 関 わ る 資 料 を 多 数 保 存 し て い た パ レ ス チ ナ 研 究 所 の 破 壊── に あ っ た。 結 果 と し て P L O は ベ イ ルートからチュニスへ本拠地を移さざるをえなくなり、さらにサブラとシャティーラの難民キャンプでは、数知れぬ パレスチナ人が文字通り虐殺されている。だが年末の国連総会でこの事件をジェノサイドと非難する決議には、イス ラエルはもちろんアメリカも棄権をもって応じた(パレスチナ人のあらゆる抹消が「世界への愛」の条件であるかの ようだ!) 。   他 方、 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル は、 サ イ ー ド の 論 文 が 掲 載 さ れ た『 ク リ テ ィ カ ル・ イ ン ク ワ イ ア リ ー』 誌 に 手 紙 を 書 いたらしい。一九八七年冬号の 編 エディターズ・ノート 集後記 には、 「エドワード ・ サイードへの返答」 と題された文章が掲載されている (具 体的な日付や挨拶文はなく抜粋と思われる) 。彼女はそこでひとつの「間違い」を認めた。   一 九 八 五 年 秋 号( 四 七 頁 ) で、 サ イ ー ド 氏 は ア ー レ ン ト が パ レ ス チ ナ に お け る 二 民 族 国 家 論 を 支 持 し な が ら、 いかにして同時に(一九七三年に)ユダヤ防衛同盟を支持できたのか、と問うています。サイード氏がこの情報 を得たのは、私が書いたハンナ・アーレントの伝記からで、脚注のひとつにそう書かれていました。この脚注は 後の版では訂正されていますが、アーレントが支持したのは全国ユダヤ運動で、最初からそうなっているべきで し た。 こ れ は 私 の 間 違 い で、 原 稿 段 階 で 注 の 箇 所 を 移 し 変 え た 際 に 生 じ た の で す が、 大 変 遺 憾 に 思 っ て お り ま す ((( ( 。   「 ユ ダ ヤ 防 衛 同 盟 Jewish Defense League 」 で は な く「 全 国 ユ ダ ヤ 運 動 United Jewish Appeal 」 だ っ た、 と い う の (3

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が「 間 違 い 」 の 内 容 で あ る こ と は 理 解 で き る。 だ が、 「 脚 注 footnote 」 と「 後 の 版 later editions 」 と い う の が、 よ く わからない。先ほど見た一節は、あくまでも本文のなかの一節であり、そこに脚注はない(出典を示す後注はあるも の の「 ユ ダ ヤ 防 衛 同 盟 」 と は 関 係 が な い )。 ま た 引 用 は あ え て 第 一 版 第 一 刷 か ら 行 っ て お り、 し か も 第 二 版 が 出 る の は 二 〇 〇 四 年 の こ と で あ る( し た が っ て「 版 」 と い う よ り「 刷 printings 」 の こ と を 言 っ て い る は ず だ が、 そ れ も 含 めて後に見る) 。いずれにせよ、 「原稿段階で注の箇所を移し変えた際に生じた」と言われても、どこか雲をつかむよ うな話で、技術的なミスを「間違い」の要因にしている印象を受ける。   『 ク リ テ ィ カ ル・ イ ン ク ワ イ ア リ ー』 誌 も そ の よ う に 感 じ た の か ど う か は わ か ら な い が、 編 集 部 は と も か く サ イ ー ド 自 身 に 手 紙 の こ と を 知 ら せ た ら し い。 編 エディターズ・ノート 集 後 記 に は、 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル の 文 章 の 直 後 に、 サ イ ー ド の 返 答 も 掲 載されている(こちらも抜粋と思われる) 。これを読む限り、サイードも同じ印象を抱いたようだ。   エリザベス ・ ヤング=ブルーエルがハンナ ・ アーレントとイスラエルについて述べている文脈では、彼女の「訂 正」はほとんど意味がないように思われます。事実、彼女の本の第一版には、アーレントがJDLに寄付したと い う 脚 注 は あ り ま せ ん 0 0 0 0 0 。 そ の 情 報 は 本 文 の 四 五 六 頁 に あ り、 ア ー レ ン ト は「 一 九 六 七 年 に し た の と 同 じ よ う に 」 一九七三年にユダヤ防衛同盟にお金を送ったと、ヤング=ブルーエルは(脚注なしに)記述しているのです。こ の文脈で重要なのは、ヤング=ブルーエルがアーレントを熱烈なシオニストだったことにしている点です。イス ラエルの軍事的勝利を喜び、 「戦争花嫁」のように振る舞った、と。 〔しかし〕アーレントはしばしば反シオニズ ムないし非シオニズムという評価を与えられてきたのであり、その主たる理由は彼女がユダ・マグネスと活動を ともにしたことにあります。マグネスは一貫して領土主義的シオニズムに強く反対していたのでした。したがっ ((

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て、論文「差異のイデオロギー」のなかで私が疑問を付したことはそのままで、ヤング=ブルーエルは何の回答 もしておりません。関係のないことをもって答える、あるいは答えないことをもって答えることができると考え ている点で、彼女は徴候的な間違いを犯しているのです。JDLと全国ユダヤ運動は、方法は異なるにせよ同じ くシオニストであり、排他的なのですから。アーレントのような人物がいかにしてイスラエルに関する立場を右 側に転じることができたのか、今回よりもっと上手な説明が私たちには必要です。そして一九七三年にエジプト と シ リ ア に 侵 略 さ れ た シ ナ イ 半 島 と ゴ ラ ン 高 原 は イ ス ラ エ ル の 領 土 だ っ た と 明 言 し て い る ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル が、 彼 女 自 身 の 間 違 い に つ い て── 印 刷 工 の 誤 り で は な く── ま だ 何 も 言 っ て い な い の は ど う い う こ と な の か、 やはり説明が必要です。事実、そのときシナイ半島とゴラン高原はエジプトとシリアの領土だったのであり、今 でもそうなのですから。ここでの過失や事実に関わる誤りは、とても意味深いように私には思われます。それら をヤング=ブルーエルは続版で訂正していないので す ((1 ( 。   サイードの見解はここでも明確だ。ヤング=ブルーエルは提示された 疑問 0 0 と 指摘 0 0 に実際のところ答えていない。つ まり 「〔ユダヤ人とパレスチナ人の共存を訴えてきた〕 アーレントのような人物が 〔一九六七年の第三次中東戦争以降〕 いかにしてイスラエルに関する立場を右側に転じることができたのか」という 疑問 0 0 と、 「〔一九七三年に第四次中東戦 争が勃発した〕そのときシナイ半島とゴラン高原は〔イスラエルによって占領されていたとはいえもともと〕エジプ トとシリアの領土だった」という 指摘 0 0 である。   こ れ に 対 し て、 伝 記 の 著 者 は「 関 係 の な い こ と を も っ て 答 え る 」。 す な わ ち、 ア ー レ ン ト が 寄 付 し た の は「 ユ ダ ヤ 防衛同盟」ではなく「全国ユダヤ運動」だったのだ、と。しかしサイードからすれば、両者は「同じくシオニストで (5

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あ り 排 他 的 」 な の で あ る。 「 答 え な い こ と を も っ て 答 え る 」 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル は、 こ こ で も 看 オ ー ヴ ァ ー ラ イ ド 過 = 乗 り 越 え を 貫 い ている。つまり依然として「徴候的な間違いを犯している」のであって、伝記においても手紙においても、同じ「願 望」と「無意識」が不都合な事柄を無視している。しかも精神分析を学んでいた──そしてアンナ・フロイトの伝記 も出すことになる──彼女自身がそのことに気づいておらず、だからこそ「ここでの過失や事実に関わる誤りはとて も意味深い」ことになるだろう。その検証作業にサイードがみずから携わることはなかったものの、あらためて着手 してみる意義は今日なお失われていない。   だが、ここで補足しておくべきことが少なくとも三点ある。   ま ず、 「 ユ ダ ヤ 防 衛 同 盟 」 の 設 立 時 期 に つ い て で あ る。 サ イ ー ド は こ の 組 織 が メ イ ル・ カ ハ ネ に よ っ て 設 立 さ れ た ことを踏まえていたが、その時期は一九六 八 0 年、第三次中東戦争の 後 0 だった。つまり「アーレントは一九六 七 0 年にし たのと同じように、ユダヤ防衛連盟に寄付をした」というヤング=ブルーエルの文章は、そもそも成り立たないので あ る。 こ の 事 実 が ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル に「 訂 正 」 を 促 し た わ け で は な い こ と も、 「 徴 候 的 な 間 違 い 」 の ひ と つ と み な すことができるだろう(伝記全体のなかで「ユダヤ防衛同盟」の名が出てくるのはこの一箇所にすぎず、それが「全 国ユダヤ運動」 に変わるのなら完全に皆無となる。だが、 それならなぜこの組織名は 「原稿段階で」 紛れ込んだのか?) 。   次 に、 「 ユ ダ ヤ 防 衛 同 盟 」 は 端 的 に 言 っ て 過 激 組 織 で あ り、 サ イ ー ド は「 方 法 は 異 な る 」 と し て い た も の の、 そ の 過激さは「全国ユダヤ運動」とは比べものにならない点である。というより、ほかならぬサイード自身がそのことを 経験していたのであり、論文「差異のイデオロギー」が発表されたのと同じ一九八五年には、コロンビア大学の研究 室が放火されたのだとい う ((1 ( 。『パレスチナ問題』 (一九七九年)の著者がさまざまなグループの標的になっていたであ ろうことは察するに余りあるが、彼の著作やインタヴューからする限り、誹謗中傷や脅迫のみならず、物理的な危害 (6

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を加えるべく実際に試みた組織は「ユダヤ防衛同盟」くらいのものだろう(ヤング=ブルーエルはこうした事実を知 らなかったのだろうか?) 。   最後に、 「それら〔過失や事実に関わる誤り〕をヤング=ブルーエルは続版で訂正していないのです」というサイー ドの手紙の最終行についてである。前述のようにヤング=ブルーエルの言う 「後の版」 が何のことなのか判然とせず、 またサイード自身が参照しているのも「彼女の本の第一版」である以上、この最後の一文は一種の 戯れ 0 0 ないし 皮肉 0 0 と みなすことができるだろう。もっとも、ヤング=ブルーエルの言う「訂正」が水面下でなされた第一版の重版が存在 するため(さしあたり第三刷と第四刷を確認することできた) 、 サイードもこれをあえて「続版 subsequent editions 」 と 呼 ん で い る の か も し れ な い。 同 様 の 所 作 は「 原 稿 段 階 で 注 の 箇 所 を 移 し 変 え た 際 に〔 「 間 違 い 」 が 〕 生 じ た 」 と い う ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル の 文 言 を、 「 印 刷 工 の 誤 り 」 と 誇 張 的 に 解 釈 し て い る 箇 所 に も 見 て と れ る。 い ず れ に せ よ、 ヤ ング=ブルーエルには彼が必要だとする「説明」をする気がなく、またできもしないであろうことを、サイードはお そらく十分にわかっていた。   しかし、それだけではない。       残されたもの   な ぜ な ら、 「 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル は 続 版 で 訂 正 し て い な い 」 と い う 評 言 は、 い わ ば 事 後 的 に 0 0 0 0 妥 当 す る こ と に な る か らである。先に触れた通り、伝記の第二版は二〇〇四年に出されている。アーレントの死からは約三〇年後、そして サイードの論文からは約二〇年後のことだ。 ((

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  この第二版に付した序文の冒頭部で、著者ヤング=ブルーエルはこう述べている。私は新たな若い読者のために伝 記を改訂することをときどき考えたが、いつもそのままにする方がよいと思った、この本はアーレントの生を彼女が 経験した世界のなかで描いているのだから、 と ((1 ( 。その上で彼女はひとつ注を付し、そこでさらに次のように書いてい る。   伝記〔一九八二年の第一版〕を改訂しようとは思わなかった別の理由は、自分の知る限り、事実に関わる重大 な誤りはおよそなかったからである。ただ例外が一つあって、これは恐ろしい結果をもたらすことになり、深く 後悔している。四五六頁に私はこう書いた。アーレントは一九六七年と一九七三年にユダヤ防衛連盟に寄付をし た、と。この誤り(今は訂正されている)が生じたのは、彼女が寄与した組織と拒絶した組織の長々しいリスト を作成していたときだった。照合時に私はミスを犯したのだ。実際のところ、アーレントが寄付したのは、全国 ユダヤ運動(UJA)だった。ユダヤ防衛連盟(JDL)は拒絶していたのであり、彼女とその周囲のリベラル なユダヤ人の見解によれば、これはファッショ的な組織だった。このような組織には決して寄付などしなかった だろう。文芸批評家、活動家、そして政治評論家でもある秀逸なパレスチナ人エドワード・サイードは、私のミ スに乗じて『クリティカル・インクワイアリー』誌(一九八五年秋号、四七巻)でこう論じた。アーレントはパ レスチナ人の苦境に対して感じるところはなかったのだ、と。私はサイードに手紙を書いて自分の誤りがどのよ うに生じたのかを説明し、その責任をとろうとしたが、彼の論考「差異のイデオロギー」はそれから再び印刷さ れ、間違った情報が広まったのであ る ((1 ( 。 (8

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  こ こ ま で 確 認 し て き た こ と を 振 り 返 っ て み る な ら、 一 文 一 文 が ほ と ん ど 驚 愕 に 価 す る。 最 も 驚 く べ き は、 「 間 違 っ た情報が広まった」という「恐ろしい結果」が「パレスチナ人エドワード ・ サイード」のせいにされている点である。   一九八五年の論考「差異のイデオロギー」は、 論集『収奪のポリティクス』に収められ、 一九九四年に「再び印刷」 された。サイードの文章はたしかにそのままで、ヤング=ブルーエルが『クリティカル・インクワイアリー』誌に出 した手紙とそれに対するみずからの返答にも言及していな い ((1 ( 。   しかし、このことが「間違った情報が広まった」原因なのか?   そもそもの原因が「私のミス」にあることは明ら かだ。そしてヤング=ブルーエルの伝記自体が すでに 0 0 0 広く知られていたからこそ、サイードもまたその一節をみずか らの論考で検討するにいたったのであり、この順序を変えることはできない(同様に第一版を底本とする日本語訳も 「間違った情報」を広めている) 。論集に再録される際に「訂正」がなされるべきものと彼女は考えていたのかもしれ な い が、 他 人 の 著 作 の な か で 自 著 の 間 違 い が 正 さ れ る こ と を 期 待 す る の は 筋 違 い だ と 言 わ ざ る を え な い だ ろ う。 「 手 紙 を 書 い て 自 分 の 誤 り が ど の よ う に 生 じ た の か を 説 明 し、 そ の 責 任 を と ろ う と し た 」 と 彼 女 は 言 う。 だ が、 「 重 大 な 誤り」に気づかせてくれたサイードに感謝するどころか、反対にあえて「パレスチナ人」と名指しながら彼を非難し ている以上、ヤング=ブルーエルが実際に行ったのは悪質な──人種差別的潮流に裏打ちされた── 責任転嫁 0 0 0 0 以外の 何 も の で も な い ((1 ( 。 し か も「 領 土 」 に 関 す る 指 摘 に つ い て は、 結 局 の と こ ろ 何 も 語 ら ず、 「 訂 正 」 も し て い な い の で あ る(かくして真実の 蹂 ー ヴ ァ ー ラ イ ド 躙=看過=乗り越え は続く) 。   さ ら に 驚 か ざ る を え な い の は、 「 自 分 の 誤 り が ど の よ う に 生 じ た の か 」 と い う 当 の「 説 明 」 が 変 え ら れ て い る こ と である。 『クリティカル ・ インクワイアリー』誌に出した手紙──直接「サイードに」書いたのではない──では、 「原 稿段階で注の箇所を移し変えた際に生じた」ことになっていた。しかし今度は、アーレントが「寄与した組織と拒絶 (9

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し た 組 織 の 長 々 し い リ ス ト を 作 成 し て い た と き 」「 照 合 時 に 私 は ミ ス を 犯 し た 」 の だ と い う。 だ と し た ら、 手 紙 で 言 われていた「注」はいったい何だったのか?   第一版第一刷にそのような「注」は存在せず、そもそも不可解だった ことはすでに見た通りだが、彼女の新たな説明は当初の説明が 嘘 0 だったことをみずから証明しているのではないか?   そ し て も し 彼 女 の 言 っ て い た「 注 」 な ど そ も そ も 存 在 し な か っ た の だ と し た ら、 「 長 々 し い リ ス ト 」 の 方 に も 同 じ 嫌 疑をかけなければならないことになる。   そのことはまた 「寄与した組織と拒絶した組織」 という分類をも疑わなければならないことを意味する。実際、 アー レントが関わったあらゆる組織を「寄与」と「拒絶」という二分法で一律的にリスト化することが、そもそも可能な のだろうか?   時と場合によって組織のあり方自体が変わることは一般的にありうるし、それに応じてアーレントの 関わり方が変わることもありうるのではないか?   そのような微妙な変化もすべて含めてリスト化することが本当に 可能だったとして、ヤング=ブルーエルは伝記のうちのどこで当のリストと分類を参照しているのだろうか?   こ う 考 え て く る と、 彼 女 の 言 う「 誤 り 」 そ の も の も 怪 し く な っ て く る。 「 ア ー レ ン ト は 一 九 六 七 年 と 一 九 七 三 年 に ユダヤ防衛連盟に寄付をした」というのは「事実に関わる重大な誤り」だと彼女は認めていた。アーレントはこの組 織を「ファッショ的」と考えていたという。それどころか放火や殺人も厭わない過激派──結局のところテロ組織に ほ か な ら な い── を、 ア ー レ ン ト が 支 持 し て い た こ と に し て し ま っ て い た 伝 記 は、 た し か に「 恐 ろ し い 」( 前 述 の ご とく 「パレスチナ人サイード」 は直接の被害者だった) 。アーレントが 「このような組織には決して寄付などしなかっ た だ ろ う 」 と い う の も 当 然 と い え ば 当 然 だ。 だ が、 She would never have contributed to it と い う 表 現 は、 過 激 派 0 0 0 でなければ寄付しただろう 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 という意味には必ずしもならない。つまり 「ファッショ的」 ではなかったからといって 「全 国ユダヤ運動」に賛同する理由にはならず、そしてこの組織に「アーレントが寄付した」という 証拠 0 0 を、ヤング=ブ 50

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ルーエルは何一つあげていないのである( 「実際のところ in fact 」と言っているにもかかわらず) 。   アーレントが一九六七年にしたの同じように一九七三年にも全国ユダヤ運動に寄付をしたというのは、 本当 0 0 なのだ ろうか?   この問いに対して、ヤング=ブルーエルの伝記は何も答えてくれない。むしろ「四五六頁」の当該箇所を 含む一節は、 彼女が事実として述べていることに疑念を抱かせる。冒頭で引用した際に 〔 sic 〕 として示した部分だが、 六日間戦争が「一九六七年 一〇 0 0 月」だったとか(正しくは六月) 、贖 ヨ ム ・ キ プ ー ル いの日 戦争が「一〇月 九 0 日」に始まったとか(正 し く は 六 日 )、 こ う し た「 誤 り 」 は 彼 女 に と っ て あ ま り「 重 大 」 で は な か っ た の だ ろ う。 第 一 版 が 全 米 ユ ダ ヤ 図 書 賞 歴史部門にノミネートされたこともすでに述べたが、選考に携わったユダヤ人たちにとっても、歴史的に重要なこと は 事 実 的 な 正 確 さ と は 別 の と こ ろ に あ っ た に 違 い な い。 「 後 の 版 」 と さ れ た 重 版 か ら 第 二 版 に お い て も、 第 三 次 中 東 戦争の「一九六七年一〇月」は そのまま誤って 0 0 0 0 0 0 0 記載されており、第四次中東戦争の勃発日こそ「一〇月六日」に訂正 されているものの、これによって今度は「ロジェ・エレーラとの一週間にわたるインタヴューを始めた日」がひそか に変えられてしまってい る ((1 ( 。さらに言えば、本文からは削除された「ユダヤ防衛連盟」が、索引では「四五六頁」と いう指示のまま残されているのだ ! ((1 (   こうした杜撰さを前にすると、もはや驚きを通り越して呆れるほかない(だが 「学問の自由」の名に恥じないのはどこまでだろうか?) 。   かくして、 「それら 〔過失や事実に関わる誤り〕 をヤング=ブルーエルは続版で訂正していないのです」 というサイー ド の 言 葉 が、 あ ら か じ め す べ て を 見 透 し て い た か の ご と く 想 起 さ れ る こ と に な る。 彼 自 身 は し か し 二 〇 〇 三 年 九 月 二五日に「世界」を去ってしまったために、二〇〇四年の第二版に付されたヤング=ブルーエルの序文には反論でき な か っ た。 と は い え、 通 常 の 読 解 力 さ え 持 ち 合 わ せ て い れ ば、 「 ア ー レ ン ト は パ レ ス チ ナ 人 の 苦 境 に 対 し て 感 じ る と ころはなかったのだ」などと、サイードはまったく書いていないことは容易に理解できるだろう。念のため繰り返す 5(

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な ら、 ア ー レ ン ト に 関 し て 彼 が 述 べ て い た の は、 パ レ ス チ ナ 人 に 対 し て 逆 に「 同 情 的 か つ 反 省 的 な 人 物 」、 そ の た め に「しばしば反シオニズムないし非シオニズムという評価を与えられてきた」当の人物が、ヤング=ブルーエルの伝 記に描かれているように、一九六七年以降イスラエルに関する立場を一変させたのだとしたら、それは一体どのよう にしてか、という 疑問 0 0 だった。 「もっと上手な説明が私たちには必要です」とサイードは述べていた。   したがって、失われた「愛」とともに私たちに考えるべく残されているのは、依然として必要なその説明にほかな らない。 ( () Hannah Arendt, The Jewish Writings, edited by Jerome Kohn and Ron H. Feldman, New York, Schocken Books, (00 (, p. xxxvii, (9-3 ( ( 反 ユ ダ ヤ 主 義── ユ ダ ヤ 論 集 (』 山 田 正 行・ 大 島 か お り・ 佐 藤 紀 子・ 矢 野 久 美 子 訳、 み す ず 書 房、 二 〇 一 三 年、 三 九 ─ 五一頁) 。 ( () Ibid., p. (3 ( (一九七頁) 。 ( 3) Ibid., p. (9 ( (二八六頁) 。 ( () Hannah Arendt, “Zionism Reconsidered” ((9 (5), in The Jew as Pariah : Jewish Identity and Politics in the Modern Age, edited and with an introduction by Ron H. Feldman, New York, Grove Press, (9 (8(「シオニズム再考」寺島俊穂訳、 『パーリアとしてのユダ ヤ人』寺島俊穂・藤原隆裕宣訳、未來社、一九八九年) ; in The Jewish Writings, op. cit. (「シオニズム再考」齋藤純一訳、 『アイヒ マン論争──ユダや論集 (』齋藤純一・山田正行・金慧・矢野久美子・大島かおり訳、みすず書房、二〇一三年) 。 ( 5)アーレントはこの事件とその首謀者─ ─ にもかかわらず三〇年後には首相としてノーベル平和賞を受けることになる──メナヘム ・ ベ ギ ン を 非 難 す る 声 明 に 署 名 し て い る( “New Palestine Party : Visit of Menachem Begin and Aims of Political Movement Discussed”, in New York Times, December (, (9 (8, p. (( )。なお、署名者のなかには、アルベルト・アインシュタインの名もみら れる。 ( 6) Hannah Arendt, The Origins of Totalitarianism, (st ed., New York, Harcourt Brace, (95 (, p. (95 ; Elemente und Ursprünge totaler H err sch aft , F ra nk fu rt am M ain , E ur op äis ch e V er lag sa ns ta lt, (9 55 (( 96 (), S. (8 0 ; T he O rig in s o f T ota lita ria nis m , N ew e d. w ith 5(

(19)

added prefaces, New York, Harcourt Brace Jovanovich, (9 (3, p. (99 ; Elemente und Ursprünge totaler Herrschaft, München, Piper, (986 ((00 (), S. 6( 9 ( 全 体 主 義 の 起 原 (── 帝 国 主 義 』 大 島 通 義・ 大 島 か お り 訳、 み す ず 書 房、 新 装 版、 一 九 八 一 年、 二 八 五 ─ 二八六頁 ; 新版、二〇一七年、三二二頁) 。 ( () Hannah Arendt, Elemente und Ursprünge totaler Herrschaft, op. cit., (955 ((96 (), S. (65 ; The Origins of Totalitarianism, op. cit., (9 (3, p.

(90 ; Elemente und Ursprünge totaler Herrschaft, op. cit.,

(986 ( (00 (), S. 600-60 ( (二六九 ─ 二七〇頁 ; 三〇二頁) 。 ( 8)

Elisabeth Young-Bruehl, Hannah Arendt : For Love of the World,

(st ed., New Haven, Yale University Press,

(98 (, p. (55-(56 (『ハ ンナ・アーレント伝』荒川幾男・原一子・本間直子・宮内寿子訳、晶文社、一九九九年、六〇五 ─ 六〇六頁) 。 ( 9)

Edward W. Said, “An Ideology of Difference”, in Critical Inquir

y, Vol. (( , No. (, Autumn (985, p. (( . ( (0)なお、サ イードは当 の一節を『パレ スチナ問題 』の冒頭で引 用している( Edward W. Said, The Question of Palestine ((9 (9), with new preface and epilogue, New York, Vintage Books, (99 (, p. xxxix ; 杉田英明訳、みすず書房、二〇〇四年、六頁) 。『全体主義 の起原』に対するサイードの肯定的評価は終生変わらず、以後もさまざまな箇所で言及している。 ( (()

“Editorʼs Note”, in Critical Inquiry, Vol.

(3, No. (, Winter (98 (, p. (08. ( (() Ibid., p. (08-(09. ( (3) Edward W. Said, “Returning to Ourselves” ((99 (), in Power, Politics, and Culture : Interviews with Edward W. Said ((00 (), edited and with an introduction by Gauri Viswanathan, New York, Vintage Books, (00 (, p. ((( (「わたしたち自身への帰還」田村理香訳、 『 権 力、 政 治、 文 化── エ ド ワ ー ド・ W・ サ イ ー ド 発 言 集 成( 下 )』 大 橋 洋 一 ・ 三 浦 玲 一・ 坂 野 由 紀 子・ 河 野 真 太 郎・ 田 村 理 香・ 横 田 保恵訳、太田出版、二〇〇七年、二三八頁)及び Edward W. Said, “Between Worlds” ((998), in Reflections on Exile : And Other

Literary and Cultural Essays (

(000), London, Granta, (00 ( ( (0 (( ), p. 56 ( を参照 (後者は抄訳となった 『故国喪失についての省察』 (全 二巻)大橋洋一 ・ 近藤弘幸 ・ 和田唯 ・ 三原芳秋 ・ 大貫隆史 ・ 貞廣真紀訳、みすず書房、二〇〇六 ─ 二〇〇九年には訳出されていない) 。 また Edward W. Said, “On Palestinian Identity : A Conversation with Salman Rushdie” ((986), in The Politics of Dispossession : The Struggle for Palestinian Self-determination 1969-1994, New York, Vintage Books, a Division of Random House, (99 ( ( (995), p. ((( -(( 3 (「パレスチナ人のアイデンティティ─ ─ サルマン ・ ラシュディとの対話」川田潤訳、 『収奪のポリティックス──アラブ ・ パレスチナ論集成 (969-(99 ( 』川田潤 ・ 伊藤正範 ・ 齋藤一 ・ 鈴木亮太郎 ・ 竹森徹士訳、NTT出版、二〇〇八年、一八七 ─ 一八九頁) では、この事件が一九八二年のイスラエルによるベイルートの破壊と関連づけられている。 ( (()

Elisabeth Young-Bruehl, Hannah Arendt : For Love of the World,

(nd ed., New Haven, Yale University Press,

(00 (, p. x. ( (5) Ibid., p. xxxv. 53

(20)

( (6) Edward W. Said, “An Ideology of Difference” ((985), in The Politics of Dispossession, op. cit., p. 95 (「差異のイデオロギー」川田潤 訳、 『収奪のポリティックス』 、前掲書、一五八頁) 。 ( (()これはまさに「被害者を非難する」一例だろう( Blaming the Victims : Spurious Scholarship and the Palestinian Question, edited

by Edward W. Said and Christopher Hitchens, Verso, New York,

(988 ( (00 () ) ( (8) Elisabeth Young-Bruehl, Hannah Arendt, (nd ed., op. cit., p. (55. ロ ジ ェ・ エ レ ー ラ 自 身 の も の と さ れ る 説 明 文 に よ る と、 イ ン タ ヴ ュ ー は「 一 日 二 時 間 、数 日 に わ た っ て 」行 わ れ た 。そ の と き 、第 四 次 中 東 戦 争 は「 始 ま っ た ば か り だ っ た

had just taken place

」( Hannah A re nd t, “T he L as t I nt er vie w : In te rv iew b y R og ge r E rr er a, U n ce rta in r eg ar d, O R T F T V , F ra nc e, O cto be r (9 (3 ” ( (9 99 ), translated by Andrew Brown, in The Last Interview and Other Conversations, Brooklyn, N. Y., Melville House, (0 (3, p. (( 0 )。こ れ ら の 言 葉 は、 契 約 条 件 を め ぐ っ て 後 日 交 わ さ れ た 関 連 書 類 の 内 容 と も 符 合 す る。 そ の ひ と つ に よ れ ば、 ア ー レ ン ト は「 一 九 七 三 年 一 〇 月 九 日 か ら 一 三 日 ま で 」 イ ン タ ヴ ュ ー に 応 じ る こ と に 同 意 し た の だ っ た( The Hannah Arendt Papers at the Library of Congress, The Digital Collection, Series: Correspondence File, (938-(9 (6, n.d., Organizations, (9 (3-(9 (6, n.d.---Office de Radiodiffusion--Television Française---(9 (( -( 9(( , Image (3)。したがって、インタヴューの開始日については、伝記の第一版第一刷 は正しかったのであり、 「訂正」 はむしろ新たな誤りを生み出していることになるだろう。 逆に言えば、 第四次中東戦争とインタヴュー の 開 始 日 が 同 じ 0 0 だ と 固 執 し て い る 点 に、 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル の「 無 意 識 」「 願 望 」「 徴 候 的 な 間 違 い 」 の 一 端 が 見 出 さ れ る よ う に 思 われる。なお、 インタヴューの書き起こしは、 最新の論集

Hannah Arendt, Thinking without a Banister : Essays in Underst

anding, 1953-1975, edited and with an introduction by Jerome Kohn, Schocken Books, New York, (0 (8にも収録されているが、多少の異 同があるほか、エレーラの説明文もかなり省略されている。 ( (9)

Elisabeth Young-Bruehl, Hannah Arendt,

(nd ed., op. cit., p. 556.

前注の箇所を含め、少なくとも第二版第七刷まで放置されている。 * 引 用 し た 文 献 の う ち 邦 訳 が あ る も の に つ い て は、 原 著 と 照 合 し て 訳 文 を 適 宜 変 更 し た。 な お、 本 稿 は 平 成 二 九 ─ 三 〇 年 度 武 蔵 大 学 総 合 研究プロジェクト及び JSPS 科研費 JP (8K00 ((( の助成を受けている。 5(

参照

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