• 検索結果がありません。

社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理--ミュルダールの所論を中心として---香川大学学術情報リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理--ミュルダールの所論を中心として---香川大学学術情報リポジトリ"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

社会科学における偏見的実在

判断の形成と価値判断の処理

一一ミュノレダーノレの所論を中心として一一

笠 原 俊 彦

I 序 ミコルダール (Gゎ Myrdal) は,その著書『社会科学における客観性.~ (Opj釘ー が 均 的

S

o

c

i

a

lR

ωmnh,NewYork,

1

9

6

b

j

において,社会科学的研究の客観 性はいかにして達成することができるかという問題の解決に,一つの貢献をな そうとする。 経験科学としての社会科学は,実在(reality)の一つで・ある人聞の社会的行動 に関する知識の獲得を目指す。ここに知識は,実在に関する人聞の観念(idea) ないし見解(view)の一つであり,客観性をもっ点で,同じく実在に関する人間 の見解のーっとしての偏見(biasedview)な い し 偏 見 的 実 在 判 断(bias)から区 別される。そして,経験科学的学説の客観性の試金石は,実在,すなわち諸事 実 お よ び 諸 事 実 聞 の 諸 因 果 関 係(factsand causal relationships between

f

a

d

U

と当該学説との対応に求められよ

;

4

偏 見 的 実 在 判 断 は , 実 在 で な い も の (1) 本稿においては,以下 ,Objectiv#yと略称する。 この書物は邦訳されている。丸尾直美訳社会科学と価値判断J,竹内害届, 1971年。 (2) 本節におけるミュノレダーノレの所論は,主として,つぎによる。 Myrdal, Objectiviry., pp.. 3-5 (3 ) ただし,ミュノレダーノレは,笑在という言葉と事実という言葉とを,一貫してこのように 厳密に区別して用いているわけではなし、。 ( 4) Cf Myrdal, Value in Social Theoη A Selection

0

/

Essl1Ys on Methodology, edited by Paul Streeten, London, 1968, pp..232-233. (本稿においては,以下, l匂lueと略 称する。〉

(2)

を実在として表明す町る点で,知識から区別されるのであり,この意味において, 知識は,実在についての一つの客観的見解(anobjective view of reality)であ る。 ミュルダールは,社会科学において,し、かにしてこのような知識が獲得でき るかを問題とするのであるが,かれは,とりわけ,人間の社会的行動に関する 観念を偏見的実在判断から解放する方法を探求す}ることによって,この問題の 解決に貢献しようとする。 このようなかれの努力について,われわれは,とくに二つのものを指摘する ことができる。第ーは,社会科学における偏見的実在判断はいかにして生じる かの解明である。ミュルダールによれば,社会科学者は,その研究において, つぎの三さつのものの影響を免れることができない。 (1) その研究分野におけるこれまでの文献を中心とする遺産ないし伝統

(

2

)

みずからが生活し,働き,その生計および地位を得ている社会の文化的, 社会的,経済的,政治的な環境の全体 (3) 伝統と環境のみならず,倒人史,気質(constitution)および好み(inclina -tions)によっても構成されているみずからの個性 がこれである。 ミュルダーノレは, この三つを,伝統(tradition),環境(environment),個性 (personality)と略称する。 (3)にしづ伝統と環境とは, (1)および(2)に説明された 伝統と環境にほかならない。われわれは,これら三つを順次,研究の伝統,社 会環境,研究者の個性とよぼう。このうち,研究の伝統が広義における社会環 境の一部をなすことは,いうまでもない。前者は,社会科学者の研究に対する その特別の重要性ゆえに, ミュルダールにおいて,後者から区別され,独立の 項目として表示されているものと考えることができる。また,研究者の個性を 構成する要素のうち,われわれが注目するべきは,個人史,気質および好みで ある。研究の伝統と社会環境は,研究者の個性を構成する要素として,たしか に重要ではあるが,社会科学者の研究に対する影響要因としては,すでに,前 記二項目においてとりあげられているからである。

(3)

857 社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理 -107-研究の伝統,社会環境,研究者の個性は,社会科学者の研究に影響を与え, 偏見的実在判断を形成してきたものである。しかしながら, ミュノレダールによ れば,社会科学者の世界においては,今日でさえ,このことが気付かれていな い。それどころか,これを論議することを忌避する一般的傾向さえ存在する。 このようにして,社会科学者は,自覚することなく, 日々,偏見的実在判断を 形成することとなっているのである。そこで,社会科学における偏見的実在判 断の形成過程を解明し,この点における社会科学者の無知をなくすことが,偏 見的実在判断回避のための第一歩lである。それのみではない。のちに明らかに なるように,それは, ミュルダールの第二の努力の前提となっている。 ミュルダールによれば,社会科学における偏見的実在判断形成過程の解明は, 科学および科学者の社会学

(

s

o

c

i

o

l

o

g

yo

f

s

c

i

e

n

c

e

and s

c

i

e

n

t

i

s

t

s

)

の課題であ り,それは,社会科学のもっとも遅れた研究分野である。 ミュルダールの努力の第二は,社会科学者がその研究において客観性をより よく獲保しうるための論理的手段(l

o

g

i

c

a

lm

e

a

n

s

)

の研究であり,かれによれ ば,これは,社会科学の哲学

(

p

h

i

l

o

s

o

p

h

yo

f

s

o

c

i

a

l

s

c

i

e

n

c

e

)

の一課題である。 ミaルダーノレは,研究の伝統,社会環境,研究者の個性の三つが偏見的実在判 断を形成するのは,この三つにおける価値判断

(

v

a

l

u

a

t

i

o

n

)

の特定の作用のため であると考え,価値判断を適切に処理することによって,この作用をできるか ぎり除去しようとする。そして,そのためにかれが提示するものは,価値判断 を研究から排除するのではなく,むしろ,価値判断を明示し, これによって研 究を意識的に規制すること,これである。このような行き方は,社会科学にお いて通常行われている価値判断の処理の仕方と,際立って異なるものである。 そして,それは, ミュルダールのいう偏見的実在判断の特殊な性格によるので ある。 わたくしは,これからの一連の研究において, ミュルダールの所論の検討を 介して,社会科学における方法問題の解明に資そうと考えるのであるが,まず, 本稿においては,如上のかれの主張を, とりわけ『社会科学における客観性』 を中心として,明確化することに努めよう。かれのこの主張は,社会科学の方

(4)

法に関するかれの所論の根幹をなし,また,それは社会科学における客観性』 において,もっとも体系的に述べられていると思われるからである。以下,第 II節および第四節においては,かれのいわゆる「科学および科学者の社会学」 の課題を,第

I

V

節および第

V

節においては,かれのいわゆる「社会科学の哲学」 の課題をとりあげることとする。 II 常識における偏見的実在判断の形成と価値判断 l 実在判断と価値判断 ミュルダーノレは,社会科学における偏見的実在判断が,研究の伝統,社会環 境,研究者の個性という三つの要因における価値判断の特定の作用によって形 成される,と考えるものであった。かれによれば,社会科学は,高度に洗練さ れた常識(highlysophisticated common sense)以外のなにものでもなし、。そ れは,知識の獲得をみずからの使命として意識しそのための専門的努力を行う 研究者によって担われている点で,たしかに,社会の人々一般が世の中につい て抱く考え(worldoutlook)である常識とは異なるのであるが,しかし,それに もかかわらず,そこにおける価値判断の特質,およびこれがもちうる偏見的実 在判断形成作用は,常識におけるそれと,基本的に同一である。そこで, ミュ ルダールは,まず,常識をとりあげることにより,価値判断の特質,およびそ の偏見的実在判断形成作用を説明する。 ミュノレダールによれば,人々が世の中について抱く考え(conception)につい て純粋形態(pureforms)を求めれば,そこにこつのものが区別される。知的, 認識的(intellectualand cognitive)性格をもっ実在判断(beliefs)と,情的,意、 (5 ) 本節lにおけるミュノレダーノレの所論は,主として,つぎによるぶ Myrdal, Objectiviiy, pp..14-19 Myrdal, Value, pp 58-62, 71ー78 ( 6) Cf.also Myrdal, ObjectivziY, p 50

(5)

859 社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理 -109-志的

(

e

m

o

t

i

o

n

a

land v

o

l

i

t

i

v

e

)

性格をもっ価値判断

(

v

a

l

u

a

t

i

o

n

s

)

がこれで ある。 このうち,実在判断は,世の中がし、かなるものであるか,または,いかなるも のであったか,についての人々の考えを表す。これは知識として表明されるの で,これについては,これを科学の成果としての知識と比較し,その真偽およ び真理からの偏りを確認することによって,正確性

(

c

o

r

r

e

c

t

n

e

s

s

)

を判断するこ とができる。また,それを,より包括的性格をもっ科学的知識と比較して,そ の欠落箇所を確認することにより,その相対的完全性

(

r

e

l

a

t

i

v

ec

o

m

p

l

e

t

e

n

e

s

s

)

を測定することもできる。 これに対して,価値判断は,世の中がし、かにあるべきか,または,いかにあ るべきであったか,についての考えを表す。これは,何らかの社会的状態(a

s

o

c

i

a

l

s

i

t

u

a

t

i

o

n

)

が正当(j

u

s

t

)

,妥当

(

r

i

g

h

t

)

,公正

(

f

a

i

r

)

または望ましし、

(

d

e

s

i

-r

a

b

l

e

)

か否か,または,そうであったか否かを示しており,これについては,実 在判断の場合と同じ基準を用いて,その正確性を判断したり相対的完全性を測 定したりすることはできなし、。 価値判断に関するミュルダールのこのような論述については,われわれは, ここにおけるかれの主たる意図が, とりわけ,価値判断についてはこれが正し いか否かを判断するための客観的基準が存在せず,この意味で,価値判断は主 観性をその特質とすることを述べることにある, という点に注意するべきであ る。特定の社会的状態が存在するべきだ,またはべきであったとしづ判断に対 しては,誰もが納得せざるをえないような解答を与えることが不可能であると, かれは主張したいのである。これは,かれが,いわゆる客観価値論ないし価値 絶対論ではなく,主観価値論ないし価値相対論の立場に立つことを意味する。 この場合, ミュルダールによれば,価値判断がこのような主観性をもつこと は,何らかの個人または集団の有する価値判断を科学的研究が確認できないこ とを意味するものではなし、。何らかの個人または集団が有する価値判断は,そ の有する実在判断と同じく,実在の一部であり,それゆえに,これを科学的研究 によって確認することができるのである。 さて, ミュルダールによれば,一人の人聞は,一つの価値判断ではなく,複

(6)

数の価値判断をなす。しかも,これらの価値判断は,これを道徳的観点からみ るとき,同ーの段階に属するものではなし、。一人の人聞は,そのうちに多様な 道徳的人格 (moralpersonality)を有しており,しかも,これは, ¥,、くつかの段 階を構成している。そして,一人の人聞がなすさまざまな価値判断は,それぞ れ, この段階のどこかに位置す!るのである。 この段階の高低は,特定の社会において人々が有する道徳上の高次・低次の 観念によって決定される道徳的な高低の段階である。そして,特定の価値判断 がこの段階において占める位置は,われわれの社会においては,ふつうには, この価値判断の一般性の程度に対応する。経験的観察によれば, 『われわれの文明においては,人々は,通常,抽象的命題としては,一一全国 民さらには全人類に妥当すると感じられている一一一般性の高い価値判断が, 特定の個人または集団にのみ妥当すると感じられている価値判断よりも,道徳 的に『高次』であることを承認するのである。』 一個人が有する, このような道徳的に低次から高次におよぶ複数の価値判断 は,その相互関連において,決して整合的ではなし、。それらは,通常, とくに 近代社会においては,相互に矛盾していることが注意されなければならない。 ミュルダールによれば,人聞は,みずからの内部におけるこれら複数の価値 判断を,同時に意識す町るわけではない。日々の行動において,人聞は,通常, 自己の道徳的人格の一面における価値判断にのみ意識を集中し,その間,他の 諸面における,しばしば対立する価値判断を意識の陰に隠してしまう。このよ うにして,人聞の行動は一種の道徳的妥協 (amoral compromise)の産物とな り,人聞は,ふつうには,自己の内部における複数の価値判断聞の矛盾対立を 意識せず,したがってこれに悩むことなく,生活することができるのである。 (7) この高低の段階は,もちろん,普遍妥当性をもつものではなし、。それは,たんに,特定 の歴史的社会における一つの経験的に確認されうる実在であるにすぎなし、。 もっとも,ミュノレダーノレは,著しく高次の価値判断については,さまざまな歴史的時代, さらにはさまざまな文明に共通のものがみられると考えている。(CfMyrdal,。勿ectivi -ty, p..77, and also Against the Stream, New York, Toronto, 19'73, pp 34-36 加

藤寛,丸尾直実訳『反主流の経済学.n,ダイヤモンド社,昭和 50年, 37-39ページ。)) ( 8) Myrdal, Objectivity, p 16

(7)

861 社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理 111-この場合¥,、かなる価値判断に意識の焦点を合わせるか, とし、う人聞の選択 は, ミコルダールによれば,明らかに御都合主義的 (opportunistic)である。人 聞は不完全な生き物であり,日常生活においてかれが意識の陰に押しゃるのは, 多くの場合,道徳的に高次の価値判断である。かれは, これを,より儀礼的な 機会または日常生活から離れた機会のためにとっておく。かれの日常生活を もっとも多く支配するのは,道徳的に低次の価値判断である。これは,近視眼 的であるがゆえに,より利己的であり,特定の情況および特定の時点、における 経済的,社会的または性的利害および妬みと結合しており,普遍的な慈善性お よび人道性に欠けるのである。 2 価値判断の合理化 ミュルダールによれば,人聞は, しばしば,価値判断を価値判断として表明 せず,それを,実在判断,または実在判断から生じる論理的帰結として装おう とする。このためにかれがなす都合の良い理由づけが,合理化 (rationaliz a-tion)である。この合理化は,近代社会に顕著な現象である。合理主義文明 (rationalist civilization)としての特質をもっ近代社会においては,人々は一般 に合理的であることを欲し,自分をとりまく実在についてみずからが考えかっ 行動する諸々の仕方を理由づけ,これらが一貫しているようにみせたいと思う カミらである。 ミュルダールによれば,このような合理化は, とりわけ,道徳的に低次の価 値判断について行われる。低次の価値判断と高次のそれとの葛藤は,通常は意 識されないが,潜在的に存在する。そして,それは,ひとたび意識されると, ( 9 ) 本節2におけるミュノレダーノレの所論は,主として,つぎによる。 Myrdal, Objectivzか,pp.14, 17, 18-19, 23-24, 29, 32, 34. (10) Cf also Myrdal, Value, p.72 かれは,つぎのように述べている。 “They seek the“good reasons" which usually cannot qualify as“true reasons" Their opinions then become what we call“rationalizations." " (Myrdal, Objectivity, p 18) (11) このような合理性願望は,同時に,科学の基礎でもあることに,われわれは注意しなけ ればならなL、。それは,まさに,諸刃の剣である。

(8)

明白な情緒的負担となって,ひとを圧迫する。ひとは,自己の内部に低次の価 値判断が存在し,これが,社会において高次と考えられており自らも高次と認 める価値判断と矛盾することに悩むのである。この圧迫は, しばしば,絶え難 いものでさえある。この圧迫こそ,ひとに合理化を促す要因である。ひとは, 通常,高次の価値判断と矛盾すuる低次の価値判断を修正あるいは放棄すること によってではなく,みずからが低次の価値判断を有していることを隠し,この 価値判断を合理化することによって,二つの価値判断の聞の矛盾を解消し,情 緒的負担から逃れようとする。 われわれは,この過程を,例えばつぎのように理解することができるであろ う。ひとは,低次の価値判断において望む社会的状態,あるいは, この状態に とって都合のよい社会的状態を自己の意志と関係のない実在そのものとして意 識することにより,低次の価値判断と高次の価値判断との不一致を,自己の内 部における価値判断聞の矛盾, したがって自己の意志の内部における矛盾とし てではなく,実在と価値判断との矛盾として意識する。ここに実在として意識 されたものは,かれにおいては,高次の価値判断からみて望ましいものではな いが, しかし,これは,自己の意志に関係なく, したがって自分には責任のな いことがらである。このようにして,それは,もはや,情緒的負担を感じさぜ るものではない。 このような合理化によって,ひとは, 自分が実在であると信じたいものを実 在であると信じることになり,ここに,装われた実在判断(pretendedbelief)な いし査められた実在判断(distortedbelief)が成立する。これがミュルダールの いう偏見的実在判断(bias)である。かれは,これを,倫理低次的価値判断の偏見 (prejudice)から区別する。ここに倫理低次的価値判断の偏見とは,道徳的に高 (12) ここにわたくしが述べた合理化過程は,黒人の肉体的あるいは精神的特質についての, アメリカにみられる偏見的実在判断(CfMyrdal, O~jectivify , pp 21-22)形成の説明 に適しているように思われる。 合理化過程は,もちろん,単ーではない。例えば, ミュノレダーノレがかつて見出した,ス ウェーデンにおける平均的家族の住宅の広さに関する,同国の高所得者層における偏見的 実在判断(CfMyrdal, Objectiviか, p.23)の形成については,別の合理化過程による説明 がなされなければならない。

(9)

863 社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理 -113-次の価値判断からみた道徳的に低次の価値判断であど ミュノレダールによれば,価値判断の合理化は体系的に行われる。ひとは, し ばしば,自己の価値判断を,一般に知識として認められているものと結びつけ ることによって合理化するのであるが,このとき,かれは,合理化に不都合な 知識を避け,都合の良い知識のみを熱心に得ょうとするのである。このように して,合理化過程においては,知識のみならず無知も, 目的に沿って方向づけ られることとなる。 自己の価値判断を合理化したし、という心理的欲求は,以上のように,特定の 個人において偏見的実在判断を生み出すのであるが, ミュルダールによれば, より重要なことは,それが,何らかの集団あるいは階層に共通する価値判断を 合理化するために都合よく歪められた実在判断の複合体としての決り文句

(

s

t

e

r

e

o

t

y

p

e

s

)

あるいは俗説

(

p

o

p

u

l

a

rt

h

e

o

r

i

e

s

)

を生み出すことである。この場 合,合理化される価値判断は,決り文句あるいは俗説に情緒的力

(

e

m

o

t

i

o

n

a

l

c

h

a

r

g

e

)

を与える。そこで,これらは,通常,あたかも特別に重要な実在に関す る言明であるかのように断定的に言及される。ミュルダールによれば, このこ とこそ,ある社会における偏見的実在判断を正そうとする教育的努力のすべて が,強力な抵抗に遭遇することとなる理由である。 III 社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断 ミュルダールによれば,社会科学は,実在を重視し,実在に反する見解を拒 否することによって,偏見的実在判断を修正し,知識を増大させ芯ここにお いては,研究者が,ある実在について,御都合主義的に歪められた見方から出 (13) cf.Myrdal, Objectivi~y , p 17 (14) 本節におけるミユノレダーノレの所論は,主として,つぎによる。 Myrdal, Objectiviか,pp 40-41, 43-53, 72 Myrdal, Value, pp.120-153 Myrdal, Against the Stream, pp.. 52-64, 147-148 (邦訳, 55-67, 149-151ベージ。〉

(10)

-114- 第57巻 第4号 864 発したとしても,これを実在と比較することによって,その研究の過程におい て,次第に,かれの見方を修正することが期待されるのである。この意味で, 社会科学は自浄力

(

p

o

w

e

ro

f

s

e

l

f

-

h

e

a

l

i

n

g

)

を有している。しかしながら,社会 科学の自浄力は即効的でも完全でもない。その理由は,なによりも,社会科学 者が,その研究の伝統,その社会環境およびその個性の三面において,価値判 断の強力な作用を受け,このことによって,社会科学の自浄力が妨げられるこ とにある。 ミュルダーノレによれば,社会科学において,価値判断は,研究分野

(

f

i

e

l

do

f

r

e

s

e

a

r

c

h

)

の選択と研究方法

(

a

p

p

r

o

a

c

h

)

の決定とに作用する。 それは,第一に,研究分野の選択に決定的役割を演じる。研究分野の選択が 研究者によって何らかの意味で主体的に行われざるをえない以上, ここに,研 究者の個性に由来する価値判断が作用することは,容易に理解されるところで あろう。それのみではない。研究者は,研究の伝統に根ざす価値判断の影響を 受け,これが,かれの研究分野の選択に作用する。しかしながら, とりわけ重 要なのは,研究者が生きている社会のさまざまな環境に由来する価値判断であ る。ミュルダールによれば,なかでも,当該社会において支配的な政治的利害 に由来する価値判断こそ,これまで,社会科学者の仕事の方向を絶えず変更し てきたのである。 価値判断は,第二に,研究方法の決定に作用す、る。ここに研究方法とは,ミュ ノレダールによれば,概念規定,モデル作成,理論の提示,観察結果ないし資料 の選定および配列,理論的および実践的推論,研究結果の呈示に関する仕方を 意味する。この決定においても,研究者の個性に由来す!る価値判断はもちろん 無視されえないのであるが,われわれは,ここでは, とりわけ研究の伝統に由 来する価値判断が直接的に作用することを理解しうるであろう。だが,われわ れは,この後者の価値判断のかなりの部分が,研究者が生きている社会の環境 に由来する価値判断によって影響を受けていることを看過してはならない。も (15) ミュノレダーノレによれば,この場合,社会科学は,俗説を排除するどころか,逆に,少な くとも部分的および一時的に,これを支持しさえする。 (C.fMyrdal, Objectiviか, p 47.)

(11)

865 社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理 -115-ともと,社会環境, とりわけこれを構成する政治的さらには経済的利害,に由 来する価値判断は,直接的のみならず,研究の伝統に由来する価値判断を介し て,間接的にも,研究に作用する。われわれは, ミコルダールが,社会科学的 研究への価値判断の作用について, とりわけ社会環境に由来する価値判断を重 視することに注意するべきである。 価値判断が研究分野の選択と研究方法の決定とに作用するというミュルダー ルの論述については,われわれは,研究分野の選択と研究方法の決定との区別 が必ずしも明確で、はないことを指摘しておくべきであろう。われわれは,一応, 研究分野の選択を,研究されるべき範囲の決定として理解し,研究方法の決定 を,この決定された範囲の研究において用いられるべき諸手段の決定として理 解することができるのであるが,研究されるべき範囲は,この研究のために使 用される概念その他の諸手段,すなわち研究方法,の決定によって,はじめて。 具体的に決定されるからである。われわれは,研究されるべき範囲が,研究の 最初の段階において厳密に規定されるものではなく,概念その他の研究方法の 決定によって,次第に具体的に規定されてゆくものであることに注意しなけれ ばならない。もっとも,研究分野の選択と研究方法の決定との区別は, ミュノレ ダールの重視するところではないであろう。われわれは,社会科学的研究が, その始めから終りまで価値判断によって規定されていることこそ,かれの主張 したいところである,と解することができる。 この場合,社会科学的研究が終始価値判断によって規定されているというこ とが,研究の始めの段階で導入された価値判断によって,研究のその後のすべ ての段階が規定されていることのみを意味しないことは,もはや明らかであろ う。社会科学的研究においては,その始めから終りまでのさまざまな段階にお (16) われわれは, この例を,経済学における「失業」概念についてのミュノレダーノレのつぎの ような論述に,読み取ることができる。 ミュノレダーノレによれば,経済学が,当時の世界でもっとも富裕であった国イギリスで最 初に発展し,しかも,イギリスの富裕階層によって主として展開されたという事実は,そ の研究方法の選択を決定した。このことは,例えば,当時,高い失業率が存在したにもか かわらず r失業」とし、う言葉が, 19世紀の遅くまで,一般に使用されなかったという事 実に示されている。 (Cf.Myrdal, Objectiviiy., pp..44-45.)

(12)

-116ー 第57巻 第4号 866 いて, しばしば,新たな価値判断がなされるのであり, それは, この意味にお いても,終始,価値判断によって, 規定されているのである。 このことヵ、ら, われわれは,特定の社会科学的研究が,通常,一つではなく,複数の価値判断 によって規定されていることを知ることができる。 社会科学的研究は,このように価値判断によって規定されている。だが,ミュ ルダールによれば,社会科学者はこのことを隠そうとする。社会科学者は,価 値判断を価値判断として明示せず, 「道理J

(

r

e

a

s

o

n

s

)

のみを与えようとする。 すなわち, 一般の人々と同じように, かれも, その価値判断において望ましい と考える特定の社会的状態,またはこの状態にとって都合の良い社会的状態を, これぷ,実在,または実在からの論理的帰結であるかのように述べることによっ て,その価値判断を隠そうとする。 このようにして, かれの実在把握は査めら れる。偏見的実在判断が形成されるのである。 ミュルダールによれば,社会科学的研究におけるこのような偏見的実在判断 形成の機構は,基本的には, 一般の人々の思考におけるそれと同じである。社 会科学者も,私人または市民として,矛盾する諸々の価値判断の網に巻き込ま れており, かれの研究は,合理化への心理的欲求の影響を受ける。 この合理化 は,常識の場合のそれと同じく,体系的に行われる。そして, 一般社会におけ る諸集団と同じく,集団としての科学者も,集団構成員に共通の利害および価 値判断を有する。仲間が自分と同様に条件づけられているというこの事実は, 科学者を安心させ,合理化への心理的欲求の効果を強化する。このようにして, 社会科学者は, 一群として動き, 自分達が共有している偏見的実在判 断の基本体系に疑問を提起しないような諸事項のみに論議および創意を振り向 一般に, ける。

I

V

偏見的実在判断克服の方法としての価値判断の排除 ミュノレダーノレt, これまで社会科学者が行ってきた, 社会科学の客観性追求主

(13)

867 社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理 -117ー のための価値判断の処理の仕方として三つをあげ,これが偏見的実在判断を克 服しうるかを検討している。 一つは,学説を実在と比較する方法であり,これによる実在判断の客観化を ミュルダールは社会科学の自浄力とよんだのである。 ミュルダールによれば,社会科学における偏見的実在判断は,このような方 法によって払拭されてしまうわけではない。この理由の一つは,前節に述べた 合理化への心理的欲求の存在である。われわれは,とりわけ,科学者が一群と して,その共有する価値判断を合理化しようとする欲求をもっとき,かれらが, 実在によって学説を考査 (test)することを避ける傾向を有することに注意しな ければならない。だが,より重要な理由は,この考査の方法自体にある。学説 を考査する基準である実在とは,実在そのものではなく,統計的資料その他の 経験的資料であるが,この資料が必ずしも実在を表さないこと,これである0 4ュルダーノレによれば,学説を実在によって考査し偏見的実在判断を克服し ようとする努力は,つぎのような考えと結びついている。すなわち,実在を把 握しようとするに際して,人間は, しばしば価値判断を混入し,これによって 偏見的実在判断を形成するため,かれが提示した実在像ないし学説を実夜ない し経験的資料によって考査すれば,そこから,価値判断,したがってこの合理 化による偏見的実在判断が排除され,実在のみを表す知識が得られる, と。 だが, ミュルダーノレによれば,実在は,たんに観察されることによって,お のずから資料になるわけでも,体系的知識へと組織されるわけでもない。実在 そのものは混沌であり,そもそも実在に関する知識を形成するためには,問題 が設定されなければならない。そして,問題とは世界に対するわれわれの関心 の表現であり,この関心は,結局は価値判断にほかならない。かくして,価値 判断は,当初から必然的に研究に入り込む。この意味において,それは,すべ ての研究における先験的要素である。価値判断は,研究方法, したがって概念 をも,必然的に規定するのであり,実在は,このように規定された概念によっ (17) 本節におけるミュルダーノレの所論は,主として,つぎによる。 Myrdal,Objectivity, pp..9, 46, 51-52, 57-59, 60-62 (8) Cf.alsoValue, p 254

(14)

て収集されてはじめて,資料となる。資料は実在そのものではなく,せいぜ、い, 概念によって切り取られ加工された実在でしかない。このことが忘れられると き,資料による学説の考査は,偏見的実在判断を払拭することができない。す なわち,資料は効果的に偏見的実在判断をはねつけず,自浄過程は中断する。 ミュルダーノレによれば,資料は, これがしばしば,まさに実在そのものと誤解 されているがゆえに -r純粋の思想J

(

p

u

r

e

t

h

o

u

g

h

t

)

よりも,偏見的実在判断を 形成する傾向をもっ。 もっとも, ここで,われわれは, ミュルダールが資料による学説の考査その ものを否定しているわけではないことに注意しておくべきであろう。かれがこ こで問題視しているのは,学説を資料によって考査するに際して,ひとが,資 料がすでに価値判断に基づいていることに気づくことなく,これを実在そのも のと誤認していることなのである。 ミュノレダールのこのような論述は,学説の 考査に関する重大な問題提起をなすものといわなければならない。 二つは,実践的ないし政策的結論の導出を避ける方法である。 この方法による偏見的実在判断の排除は,実践的結論が価値判断を含んでお り,したがってこれによる偏見的実在判断の形成作用を受けるのに対し,実在 の記述は価値判断を含まず,偏見的実在判断を含まない, という考え方を前提 とせざるをえない。だが,さきに述べたように,すでに実在の記述そのものが 価値判断に基づいてのみ行われる以上,このような方法によって偏見的実在判 断を回避することはできないのである。 ミュルダー/レは,ある研究が実践的ないし政策的結論を導くか否かは,この 研究が偏見的実在判断を生み出すか否かと無関係であると解する。それゆえに, ひとは,偏見的実在判断の排除を理由として,ある研究が実践的結論を導くこ とを拒否することはできない。それのみではない。 ミュノレダールは,多くの研 究者が,その研究から実践的結論を排除することを明言しているにもかかわら (19) ミユノレダーノレによれば,例えば東南アジア諸国研究における資料の多くが,無意味で あ るか,または,意味するとされていることとまったく異なるものを意味している。そこで は,先進国とはまったく違ったこれら諸国の実在にそぐわない近代的方法の概念によっ て,資料が形成されているからである。 (CfMyrdal, Objectivi(y, p 46 )

(15)

869 社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理 --119-ず,実際には,ほとんどつねに,実践的結論を述べていることに,注意を喚起 する。その際,実践的結論は,明示された価値前提からの帰結としてではなく, 客観的資料(objectivedata)からの当然の帰結として主張される。このやり方 は,この研究が基づいている価値判断を隠し酸味にすることによって, この合 理化による偏見的実在判断形成への道を聞くのである。 三つは,価値を帯びた言葉を避け,かわりに,価値判断と明瞭な関係をもた ない言葉を用いる方法である。 ミュノレダールによれば, この方法による客観性追求は,すでに,客観的な価 値判断が存在すると信じられていたベンタムの時代から存在し,経済理論にお いては,とりわけ近代厚生理論の全体に,そして,数式,ギリシャ文字および その他の記号を採用する多くの理論に見受けられるものであり,これまで,社 会科学において,まさに体系的に行われてきたのである。 だが, ミュルダールによれば,価値判断は,論理必然的に,すべての社会科 学的研究の始めから終りまでに染み込まざるをえないので,この方法によって 偏見的実在判断を排除しようとする努力は無駄である。この努力は,研究に含 まれている価値判断を隠し,酸味にするだけである。このように価値判断が隠 され暖味にされるとき,偏見的実在判断の形成への道が聞かれる。価値判断と 明瞭な関係をもたない新しい言葉を用いようとする努力は,誤った安心感を研 究者に与え,大衆を欺くことに役立つだけである。 (20) Cf'also Myrdal,均lue,pp 1-2, 162-164 (21) ミュノレダーノレによれば,経済学においては,実践的ないし政策的結論を引き出さないよ うにしようとする努力,および価値判断と明瞭な関係をもたない言葉を用いようとする 努力は,ある意味において,平等主義という,経済学が暗黙のうちにその前提としていた 急進的な価値判断から,直接的に結論を引き出すことを避け,その国の支配的価値判断お よび政治権力の情況に迎合しようとする,経済学者の姿勢の現れであった。 (CfMyrdal, Objectivity, p.102,1l0,and also Value, pp 231-232) (22) ミュノレダーノレは,その研究から実践的結論を排除すると明言している多くの研究者が, 実際には,こっそりと実践的結論を述べ,その際に,しばしば,価値判断と明瞭な関係を もたない言葉を利用していることに,注意を喚起している。ミュノレダーノレによれば,この 場合,このような研究者のいわゆる客観的分析と政治的処方笈との橋渡しをしたのは,均 衡,平衡,安定,正常などの諸用語であった。 (CfMyrdal, Objectivity, p..52, and also Value., pp..138-153 ) このことについては,なお,つぎを参照されたい。

Myrdal, The Political Element in the Development of Economic Theory, London, pp.17-22 (山田雄三,佐藤隆三訳経済学説と政治的要素1.,春秋社, 1967年, 28-36 ページ。) (以下 ,The Political Elemen.fと略す。〉

(16)

V

偏見的実在判断克服の方法としての価値判断の明示 以上三つの方法による偏見的実在判断克服の努力は,いずれも,価値判断を 排除することによって,偏見的実在判断を払拭しようとする。それらは,学説 への価値判断の混入に,学説の客観性の欠如の原因を求め,価値判断を排除す ることによって,学説の客観性を獲保しようとする。 だが, ミュルダールによれば,社会科学における客観性は,社会科学の価値 判断からの独立によって獲保されるわけではない。かれによれば,そもそも社 会問題の研究は,たとえそれがし、かに狭い範囲のものであっても,すべて,価 値判断に規定されざるをえないし,また事実,規定されている。このことは, 実践的推論をなす研究のみに妥当するわけでは決してなし、。社会科学者は,経 験的観察をなし分析をなすために概念を規定しなければならないのであるが, かれは, この段階において,すでに,価値判断を必要とし,これに規制されざ るをえないのである。社会科学は,決して r中立的J(neutral)であることも, たんに「即事的J (factual)であることもできない。「利害関係のないJ (disin -terested),したがって価値判断と無関係の,社会科学なるものは,これまで存 在したことがなかったし,もともと論理的に存在することができないのである。 ミュルダーノレによれば,偏見的実在判断は,隠された価値判断の不幸な結果 である。価値判断は,計画から最終的叙述にいたるあらゆる段階において研究 に入り込むのであるが,それは,隠されるがゆえに適切に区別されず,かくし て陵味なままに放置されることによって,合理化過程を引き起こし,偏見的実 (23) 本節におけるとユノレダーノレの所論は,主として,つぎによる。 Myrdal, Objectiviか, pp. 33, 51-52, 55-56, 74 (24) この行き方をミユノレダーノレは,素朴経験主義(naiveempiricism)とよぶ。 (CfMyrdal, ObjμtiviiY, P 9.) かれは, 1930年にスウェーデン語で初めて刊行されたあと, ドイア語その他に訳され, 1953年に英語版として出版された,その初期の著書,The politiω1 Element が,この ような立場に立つものであり,すでに,その出版以前に,かれが,みすeからのこの立場に 疑問を懐くようになっていたことを述べている。(CfMyrdal, Value, pp.238,253-254) (25) Cf a.lso Myrdal, Value. p 164

(17)

871 社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理 -121-在判断を形成する。社会科学的研究において偏見的実在判断が生じる原因は, 社会科学的研究を実際にかっ必然的に規定している前提である価値判断が隠さ れるところにある。 このように考えるとき,社会科学的研究において客観性を求めることのでき る唯一の方法は,当該研究が基づいている価値判断を,研究者みずからが明確 に意識し,これをこの研究の前提として明示し,これに研究を規制させること 以外には存在しない。このような研究の前提としての価値判断を, ミ ュ ル ダ ー ノレは,価値前提

(

v

a

l

u

ep

r

e

m

i

s

e

s

)

とよぶ。 かれによれば,研究は,何らかの価値前提に注目するところから始められる べきであり,また,この価値前提に対して,つねに調整されなければならない。 このことは,研究の理論的局面と実践的局面とに,ともに妥当する。研究の実 践的局面においては,明示された価値前提と,この価値前提を用いた理論的分 析によって確立された与件とが,すべての政策的結論の前提をなすべきである。

V

I

結 社会科学的研究は,その始めから終りまで,価値判断によって規定されてい る。それは,事実上,このように価値判断によって規定されているだけではな く,論理必然的に価値判断によって規定されて

1

、る。社会科学的研究は,価値 判断に基づかざるをえないのである。 このことは,社会科学的研究が,その開始時点、において価値判断を必要とし, この価値判断によって,研究成果の最終的呈示にいたるまでの全過程を規定さ れざるをえないことのみを意味しなし、。われわれは,研究を始めるに際して, (26) なお,このように社会科学的研究が価値判断に基づかざるをえないことからさかの ぼって考えれば,科学より洗練されていない常識における実在判断も,これが価値判断か ら区別されていたにもかかわらず,必然的に価値判断に基づかざるをえないことは,もは やいうまでもないであろう。

(18)

いかなる問題を研究するかを決定しなければならなし、。この決定は, わ れ わ れ の関J心, し た が っ て 価 値 判 断 に 基 づ い て 行 わ れ る の で あ り , 特 定 の 研 究 が 一 貫 性をもつべきものである以上, このようにひとたび導入された価値判断は, た しカ寸こ, この研究の全過程を規制するべきものである。 だが, 社 会 科 学 的 研 究 が 終 始 価 値 判 断 に よ っ て 規 定 さ れ ざ る を え な い と い う ことの意味は, これに尽くされない。社会科学的研究は, その開始時点、におい てのみならず,研究成果の最終的呈示にいたる全過程において, しばしば新た に価値判断を導入せざるをえない。 こ の こ と は , 研 究 さ れ る べ き 問 題 が , 研 究 の当初においては, せ い ぜ い 概 略 的 に の み 決 定 さ れ う る に す ぎ ず , 研 究 の 進 行 (28) につれてはじめて,漸次,具体的に決定されていくものであることに対応する。 この後者の決定は, しばしば,新たな価値判断を必要とするのである。 ミュノレ ダ ー ル は , 何 伝 か の 研 究 が そ の 基 礎 と し て い る 価 値 判 断 を 価 値 前 提 と よ ん だ の であるが, われわれは, こ れ が , 研 究 の 開 始 時 点 に お い て な さ れ る 価 値 判 断 の みならず, ま さ に 研 究 の 全 過 程 に お い て な さ れ る 価 値 判 断 の す べ て を 含 む こ と (27) これは,しばしば,研究の対象とこの対象を研究する観点との決定として,論じられる ものである。このうち,研究の観点は,価値関連づけの原理(Prinzipder Wertbeziehung), 選択の原理(PrinzipderAuswahl),同一性原理 (Identit~tsprinzip) ,整序原理 (Ordnungs­

prinzip) などとよばれるものにほかならなし、。(これについては,たとえば,つぎの書物 を参照されたし、。笠原俊彦著技術論的経営学の特質J,千倉書房,昭和58年, 8,22-23, 222, 253ベージ。〉 研究の対象と研究の観点のうち,決定的なものは,後者である。(つぎを参照されたL。、 笠原俊彦,前掲書, 235, 238ページ。〉わたくしには,研究の対象も,究極的には,研究 の観点によって決定されるように恩われる。 ただし,研究の対象と研究の観点とは,しばしば,個別科学を区別するために用いられ るのであるが,個別科学の区別は, ミュノレダーノレの認めるところではなし、。〔個別科学の 区別に関するミュノレダーノレの主張については,つぎを参照されたし、。Myrdal,O~jectiv#y , pp 10-11, The Political Element, pp 154-155 (邦訳, 238-240ページ。), Against the Stream, pp..141-143 (邦訳, 143-145ベージ。)) もっとも, ミユノレダーノレが個別科学の区別に反対するとき,かれは, この「区別」にお いて,経済学,..社会学,心理学等の区別を考えているのであり,例えば国民経済学ないし 社会経済学と経営経済学との区別については,かれは何も述べていなし、。また,かれのこ の立場が,かれのいう「科学および科学者Jの社会学」と「社会科学の哲学」との区別とい かなる関係にあるかも明らかではない。 (28) このことについては,つぎを参照されたい。 笠原俊彦,前掲書, 23-24, 283, 286ページ。

(19)

873 社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理 一 123-に注意しなければならない。 このような価値判断は,研究者の個性,研究の伝統および社会環境に由来す る。とりわけ,研究者が生活し働いている社会の政治的,経済的環境に由来す る価値判断は,かれの研究に対して決定的影響を与える。それは,中立の社会 科学的研究ないし利害関係のない社会科学的研究を不可能とするのである。と ころが,社会科学者は,かれがみずから,その研究の全過程において,価値判 断を導入していることに気づいていない。かれは,一方において,その研究に, 意識することなくして価値判断を導入しておきながら,他方において,自己の 研究が価値判断から免れており,実在のみを表す, と主張する。このような行 き方は,不明瞭で不正直であるだけではない。それは,価値判断を隠し酸味に することによって,この合理化を促し,実在に関する誤った観念すなわち偏見 的実在判断を形成させるのである。この場合,とりわけ道徳的に低次の価値判 断は,一般の人々に対してのみならず,研究者に対しても,それを合理化し偏 見的実在判断を形成するよう強力に作用する。 ミュノレダールは,以上のように,社会科学的研究が事実上のみならず必然的 に,その始めから終りまで価値判断に基づくこと,および,この価値判断が隠 され暖昧にされるとき,この合理化によって偏見的実在判断が形成されること を指摘する。この場合,研究に導入される価値判断は,主観性をその特質とす るものであった。そこで,研究は,第一に, このような価値判断がそこに導入 されることによって,第二に,導入された価値判断が合理化され,偏見的実在 判断が形成されることによって,その客観性を損うのである。 (29) 山田雄三博士のつぎの論述は,われわれのこのような論述とほぼ同じことを意味して いると考えることができるであろう。 「経済的・社会的問題の科学的論議においてわれわれは決して価値判断から自由ではあ り得なし、。しかしそれは「完全な客観性」ということがわれわれの絶えず努めていくべき 理想でありながら決して到達し得るものではないといヲばかりでなく,社会科学者とい えどもまた彼の生きる文化の一部であり,彼の環境の支配的な先入見や偏見からまぬか れ難い運命にあるという事実によるのである。J(山田雄三稿 r価値判断に関するミユノレ ダーノレの最近の見解についてJ, r一橋論叢』第42巻第6号, 1959年, 41ベージ。〉 ただし, ミュノレダーノレのいう「バイアス」が rおよそ特殊のものを一般化したり,相 対的なものを絶対化したりする」ことから生じ,したがって r特殊の価値を特殊のもの として自覚するところにパイアスから脱する途が求められるというのがミュノレダーノレの 見解」である, という山田雄三博士の主張(同博士,前掲稿, 42ページを参照されたい〉 は,われわれが本稿で述べてきたミユノレダーノレの所論の理解と同ーではなし、。

(20)

ミュルダールの論述が, もしも以上に尽くされるならば,われわれは,そこ に,社会科学における客観性追求の放棄を読み取らざるをえないであろう。だ が,かれにおいては,上述の指摘は,社会科学における客観性追求のための終 点ではなく出発点である。この場合,かれは,社会科学の客観性を損うニつの 要因のうち,第ーのものについては,これを基本的に容認する。社会科学的研 究への価値判断の導入が不可避lである以上,ひとは,これを拒否することがで きなし、からである。社会科学的研究は,価値判断に基づかざるをえず,利害関 係をもたざるをえないのであり,この意味においては,主観的たらざるをえな いのである。 しかしながら,このことは,もちろん,社会科学的研究が客観性追求をまっ たく放棄せざるをえないことを意味するものでは決してない。社会科学的研究 は,価値判断をその前提として導入しつつも,これに基づいて実在を解明し, 実在を正確に表す観念ないし知識を追求することができる。このことは,研究 に導入される価値判断の妥当性を絶対化することなく,この価値判断を実在研 究の前提として仮定する行き方において可能となる。ここに得られる実在像は, 研究の前提として導入される価値判断のし、かんによって異なりうる。実在は, 研究の前提として導入される諸々の価値判断に応じて,いわば違った姿を現す のである。このことは,研究の前提となりうる,絶対的に妥当する唯一の価値 判断,すなわち客観的価値判断,が存在しないことから生じる一帰結である。 (30) このことは,ミユノレダーノレが,研究に導入される価値判断を,まったく研究者の怒意に 委ねようとすることを意味しなし、。かれは,後述する,価値前提の選択に関するその論述 において,このような価値判断に,一定の制約を課そうとする。 (31) このことは,社会科学的研究にかぎられるわけではなし、。われわれは,自然科学的研究 においてさえ,程度の相違はあれ,基本的に同じ事態が存在することに注意しなければな らなL、。このことは,自然科学が工学的色彩を強めるにつれて,顕著になりつつあるよう に思われる。 (32) 正確性という言葉は, ミュノレダーノレにおいては常識における実在判断について使われ ていた。かれは,これを科学の研究成果と比較することによって,その正確性を確認しよ うとしたのである。その場合,常識における実在判断と比較される科学の研究成果は,実 在を正しく表すことが前提されていた。ミュルダーノレは,この科学の研究成果自体の客観 性を問うことになったのであるが,正確性が,実在を正しく表すとし、う意味をもっ以上, この言葉を科学の研究成果について用いることは,不都合ではないであろう。われわれ は,科学の研究成果自体の正確性いかんを問わなければならないのである。

(21)

875 社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理 -125-そして,また,このことは,研究に価値判断が導入されざるをえないことによっ て生じる,社会科学の客観性の限界にほかならない。だが,この場合において も,ひとたび,特定の価値判断が研究の前提として仮定されるならば,われわ れは,この前提から実在を考察し,実在を正確に表す観念ないし知識を追求す ることができる。社会科学的研究の客観性を損う要因の第二のものに対する ミコルダールの行き方は, この意味における客観性追求のための一施策をなす ものである。 社会科学的研究の客観性を損う第一の要因と異なり,第二の要因は,不可避 ではなく,それゆえに,われわれは,この要因に対しては,これを除去し,客 観性を獲得するための施策を工夫することができる。ミュルダールがこのよう な施策として提示するものは,研究に導入される価値判断をこの研究の価値前 提として明示し,この研究の全過程をこれによって意識的に規制す}ること,こ れである。このことによって,かれは,価値判断を適切に区別し, これが合理 化されて実在に関する誤った観念を形成する余地を排除しようとするのであ (33) このように,価値判断を仮定として研究に導入することは, 般に,仮言的価値判断 (hypothetische Werturteile)とよばれる。 ミュノレダーノレの行き方を,この行き方のーっとして理解することについては,山田雄三 博士のつぎの所説をも参照されたし、。 『経済学説と政治的要素~.解題 III. とくに. 347-348ベージ。 この場合,仮言的価値判断は,そこに仮定される価値判断の普遍妥当性の主張と相容れ るものではないが,しかし,それは,そこに仮定される価値判断の意味を問うこと自体を 全面的に否定するものと解されてはならない。われわれは,研究の前提として仮定された 価値判断が,研究を規定し,このことによって,研究成果に怠味を与えること,および, われわれがこの意味を問題にしうることを,看過してはならないのである。 しかしながらまた,自己の研究成果がこのようにしてもつ意味は,研究者に社会的責任 を課すことにもなる。〔笠原俊彦,前掲書.291ベージ以下を参照されたい。〉 以上のことは,後述する,価値前提の選択に関連する。それは,価値前提の選択の条件 を規定するのである。だが,このことについての考察は,別稿に譲らなければならない。 (34) なお,主観的,相対的でしかない価値判断を客観的,絶対的であると主張するとき,わ れわれは,ここに,これまでに述べたものと別種の偏見を見出すこととなる。この偏見ふ 価値相対論をとるミユノレダーノレがもちろん排除しようとするものである。しかし,これ は,かれのしづ偏見的実在判断および倫理低次的価値判断の偏見から厳密に区別されな ければならない。これらは異なる種類の偏見であり,これを克服するための施策も,おの ずから異ならざるをえないからである。(このことについては,わたくしの次稿を参照さ れたL、。)

(22)

る。 ミュルダールのこの施策は,客観性を損う第二の要因を排除し, この意味に おいて客観性を獲保しうる完全な方法ではない。この施策を用いようとする場 合においてもなお,研究者が不注意から,価値判断を無意識のうちに,したがっ て明示せずに,その研究に導入する可能性は,依然,残されているからである。 そして, ミュルダーノレ自身も,客観性を損う第二の要因を排除しうる完全な方 法の提示を意図したわけでeはない。われわれは,かれの意図するものが,客観 性をよりよく獲保しうるための論理的手段の提示にあったことを想起するべき であろう。しかしながら,われわれは, ミュルダールの上記施策を,高く評価 しなければならなし、。みずから価値判断を導入しながらもこのことを認めよう とせず,それを合理化して偏見的実在判断を形成することは,客観性を追求す るべき社会科学的研究において決して許されてはならないことであるにもかか わらず,あまりにもしばしば行われていることだからである。 ところで, ミュルダールはIi社会科学における客観性』の第一章で,社会科 学者がその研究において客観性をよりよく獲保しうるための論理的手段を,あ らかじめ,つぎのように要約して示している。

(

1

)

われわれの理論的研究,すなわち因果関係的研究,および実践的研究, すなわち手段目的関係的研究,を実際に規定しているさまざまの価値判断 を十分に認識すること

(

2

)

これら価値判断弘研究の対象とされている社会における実在関連性 (relevance),重要性 (significance)および実現可能性(feasibility)の観点 から,綿密に吟味すること (3) これらの価値判断のなかから,研究のためのいくつかの価値前提を特定 し,明示すること (4) この一組の価値前提に基づいて研究方法を決定し概念を規定すること 以上四項目のうち,少なくとも第二項目に関するミュルダールの論述につい ては,われわれは,これまで一言も触れていなL、。われわれが本稿においてと (35) Cf Myrdal, Objeaivity, p..5

(23)

877 社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理 127ー りあげたものは,厳格にいうならば,第三項目の一部および第四項目に関する ミュルダーノレの論述のみで、ある。 ミュルダーノレのいわゆる客観性をよりよく確保しうるための手段が, 上記四 項目から構成されるとすれば, かれのこの手段に関するわれわれの以上の論述 ft

不十分であるといわざるをえないであろう。われわれの理解によれば,上 記四項目のうち, われわれがこれまでとりあげなかった部分は,価値前提の選 択に関連する。そして,価値前提の選択に関するミュルダールの論述としては, われわれは, これのみならず, さらに価値前提の道徳的批判についてのかれの 論述をあげることができる。そこで,われわれは,つぎに,価値前提の選択に 関するミュルダールの論述の検討に進まなければならなし、。

参照

関連したドキュメント

これは基礎論的研究に端を発しつつ、計算機科学寄りの論理学の中で発展してきたもので ある。広義の構成主義者は、哲学思想や基礎論的な立場に縛られず、それどころかいわゆ

これらの定義でも分かるように, Impairment に関しては解剖学的または生理学的な異常 としてほぼ続一されているが, disability と

世界的流行である以上、何をもって感染終息と判断するのか、現時点では予測がつかないと思われます。時限的、特例的措置とされても、かなりの長期間にわたり

 

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

あれば、その逸脱に対しては N400 が惹起され、 ELAN や P600 は惹起しないと 考えられる。もし、シカの認可処理に統語的処理と意味的処理の両方が関わっ

層の積年の思いがここに表出しているようにも思われる︒日本の東アジア大国コンサート構想は︑

神はこのように隠れておられるので、神は隠 れていると言わない宗教はどれも正しくな