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Title

劇場と観客

Author(s)

清田, 幾生

Citation

長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1992, 32(2), p.71-81

Issue Date

1992-01-31

URL

http://hdl.handle.net/10069/15292

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

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劇場と観客

清田幾生

Theatres and Audiences

Ikuo KIYOTA 役者と台本がそろえば芝居が出来るというものではない。演じる場所や小屋,それ に何よりも見物衆が必要である。演劇というものを考える際,それを成立させる舞台 空間あるいは劇場と,観客の存在とはお互いにどういう意味をもつのであろうか。一 人の劇作家を中心にしてさまざまに考えをめぐらしたのが以下の文章である。 (-0 ハムレットは突然の謎の死をとげた父親の亡霊に出会って,現国王のクローディア スが父を殺害した王位纂奪者であることを知らされるものの,それが事実であるかど うか確信が持てないでいる。亡霊は人を託かす悪霊かもしれないという疑念を捨てき れないのである。今王冠をつけている叔父こそが真犯人であるという確実な証拠が欲 しい。ちょうど宮廷へやってきた旅役者を利用してクローディアス王の正体を暴く計 画を彼が思いっいたのはその確証をつかみたい-心からではあるが,もともと-ムレッ トは演劇に並々ならぬ興味をもっているからである。 「ゴンザーゴウ殺し」の芝居に 手を加え,亡霊が語った通りの毒殺の様子を国王夫妻と並みいる宮廷人の前で旅役者 たちに再現させて,探りを入れる。ハムレットの思惑は見事に適中し,芝居を見たク ローディアスの興奮ぶりは尋常でない。虚をつかれ,驚情と狼狽の表情で国王は席を 立つ。叫び声を上げ逃げるようにそそくさと退場するクローディアスを見て, -ムレッ トは心中快哉を叫んだであろう。彼が心の昂揚のあまり少し浮かれた気分になるのは 無理もない。事前に事情を打ち明けていた友人のホレイショウに対して,彼は計略の 成功に酔ったかのように得意然として軽口をたたくのである。 -ムレットどうです君,僕は役者の仲間入りして一座に株がもてそうじゃないか。

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72 清田幾生 ホレイショウ半株でしょう。 ハムレット一株そっくりさ,僕だもの。 (三幕二場) 『ハムレット』を書いた時すでにシェイクスピア自身「宮内大臣一座」の幹部・株 主の一人となってからおよそ六年が経過している。ハムレットとホレイショウが交わ す対話には当時の演劇人の一応の成功,あるいは出世の目安が劇団の幹部・株主とい う形で語られていて,この劇の流れの中でいわば楽屋落ちに近い姿をとっている。し かしもし「楽屋落ち」という言葉を,仲間うちや玄人筋には通じても一般には理解で きない,という意味だけに使うなら,この表現はここでは適切ではない。この劇を見 ていた当時の観客の大半は舞台上の二人の青年が交わしている対話を理解しただけで なく,クローディアス王を見事に晃にはめたと思い込んで有頂天になっているハムレッ トの将来に,ある危快感を抱いたであろう。 ロンドンに本格的な劇場が開設されたのは1576年であるがそれ以前はイギリスで はもちろん各地方で演劇活動は盛んであった。主に町の広場や貴族の邸宅の大広間, あるいはtownhallで行われたのが中世の演劇であった。特にサイクル劇といわれ るものの中で,職種別のギルドが演じる山車を使っての見世物的な素人芝居の聖史劇, あるいは巡回する職業的集団の行う道徳劇などは地方のカーニバル的なお祭り騒ぎの なかで演じられ,その後サイクル劇の形式はすたれても演劇のエネルギーは衰えるこ とはなかったといってよかろう。ロンドン市内外では特に宿屋の中庭で簡単な仮設舞 台を作って芝居が行われ,これは観客の飲み食いをあてにする宿屋側にとっても,ま た興行する劇団側にとっても儲けをあてこむことの出来るものであった。地方を巡る 劇団は『ハムレット』に出てくる旅役者の一行のようなものでもあったであろう。彼 らは演劇愛好家であるハムレットから大歓迎されるが,しかし当時の役者たちのすべ てが社会全体からこのような温かいもてなしを受けたわけではない。各地を遍歴する 芸人や曲芸師の中には浮浪者か乞食のような者もいて,胡散臭い目で見られたり,不 安感を与えたりする存在であったと思われる。特に治安を考える当局の目から見れば 演劇そのものがむしろいかがわしい存在であった。宿屋の中庭での興行にはしばしば 酒によった人間たちの喧嘩さわざが伴ったし,日曜日に教会に行かず芝居の方に人が 集まってしまう始末だったからである。 すでに-ンリー八世の時代から法律を成立させて浮浪者の取締りにかなりきびしい 態度があったことが分かっているが,エリザベス女王治下に於いても1572年に「浮 浪者処罰令」が制定され,それによると取締りの対象には役者も入っていて,演劇活 動にとっては一見した所きわめて不利な状況であったように見える。

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「剣術師,熊使い,狂言師,旅役者にしてこの国の貴族に属さぬ者,また曲芸人, 行商人,鋳かけ屋,香具師も含め,少なくとも二名の治安判事の許可なく各地を営 利して歩くものは-浮浪者及び乞食との判定を下す」 1) これと似た法令は1597年にまた繰り返されており,この種の法令の成立の背後には 社会の裏側の不穏な動きに対する当局の警戒ぶりがうかがわれ,またその社会問題が どのようなものであったかも想像できよう。当時のイギリスはスペイン無敵艦隊との 海戦で神風のような北西の強風に助けられ二度にわたって相手側を敗走させ,表面上 は輝かしい勝利に酔っているようであった。しかし議会でこの「浮浪者処罰令」と同 時に成立したものが「囲いこみ取締り法令」, 「村落と農家の崩壊をとどめる法令」や 「貧民のための救貧院と労役場を設置するための法令」などであってみれば,人々の 表面の陽気さとはうらはらに,社会の奥では病いが進行し,世相はむしろ暗いもので あった。 2)何よりも戦争の長期化による経済の逼迫と,不況による失業者の増大が その原因の一つにあげられよう。それは引用した法令の文章からも想像がつくが,更 に知識階級のレベルで言えば,以前から大学生は倍増されてきたがその結果卒業生が 就職難に直面することとなり, 「メランコリー」のポーズという知的社会病を生むこ とになる。 「メランコリー」はシェイクスピアの初期の喜劇でもその抑輪の対象となっ ているが,この病気を『ハムレット』の作者は主人公のデンマークの王子にも伝染さ せている。一方大学出身者の中で文学的才能にめぐまれた者たちは経済的不如意から その教養を生かして,不本意ではあるが,芝居の台本を書くこととなり,いわゆる 「大学出の才子たち」としてその後に出現するシェイクスピアの演劇活動の礎を築い たことになる。 社会の不安と混乱を作り出したものに不作による飢鐘もあげられよう。各地で食料 を求める騒ぎが記録されており,暴動の計画が発覚した地域もある。これに加えて疫 病が流行し, 1592年から94年の間のペストによる死者の数は一万人を越えたという。 この時劇場は閉鎖され,演劇活動は禁止されたので役者たちは各地に巡業の旅に出た ものもいる。3) 1603年にはこの疫病は再度襲っている。膨張してゆく首都ロンドン は国際的にも交易と商取引の中心地であり,その大通りは訪れた外国人を感嘆させる 程美しいものであったし,テムズ川ぞいには貴族の豪邸や高官や有力な商人の大きな 屋敷が立ち並んでいた。しかし一方裏通りや郊外の区域は道も狭く,衛生設備が粗末 なため悪臭を放つ乱雑な家屋が櫛比しており,通りは雑踏と喧騒にみちていた。人々 は不要なものを窓から投げ捨てるため通りはゴミの山となり溝には汚物がつまってい たという。特に郊外は盗人,スリ,お尋ね者,娼婦,乞食などがたむろする家の密集 する場所であったが,これは市壁の外にあるためロンドン市の管轄外となり,市当局

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74 清田幾'I-の手のとどかない特別区域だったためである。後世の人間が社会の矛盾と簡単に定義 できそうなことが,豪快なばかりに剥出しに騒々しく,堂々と狽雑に共存しているの がロンドンであった。あるシェイクスピアの伝記作者がテムズ川を描写するときその 表現は,その美と醜,生と死,高貴と野卑という対照で,さながらシェイクスピア劇 の舞台を象徴させているように思われる。 「麗しのテムズ川よ,静かに流れよ」と詩人スペンサーは歌っている。しかし・・・ 一般の家並みから川に捨てられた汚物と,犬や他の動物の屍骸が水面を漂っていた。 それでもまだ魚は群れをなして泳ぎ,無数の白鳥が並んで水面をすべってゆき,大 陸からの訪問者を驚かせるほどであった-船に乗る客の多くはバンクサイドの芝居 小屋や熊いじめの小屋,あるいは女呂窟を往来する遊興客であった。 4) (二) シェイクスピアが郷里の田舎町からロンドンへ出てきた頃すでにこの都市には本格 的な劇場が少なくとも二つはあったと推定される。イギリス最初の常設劇場「シアター 座」が1576年に開設され,その翌年には「カーテン座」が出現しており,その後次々 に同様のいわゆる公衆劇場が建設され, 『ハムレット』成立の1600年頃には公衆劇場 だけで6軒を数える程であった。さらに観客の動員数はそれらより少ないが,王室の 教会聖歌隊から発展した少年劇団の演じる私設劇場「ブラックフライアズ座」もあっ たのだから,当時周辺部も含めて20万人前後のロンドンの人口を考えてみれば,急 激とも言えるこの演劇の隆盛は驚くべきことである。あの「浮浪者処罰令」はたしか に旅まわりの群小劇団の数を減少させたものの,必ずしも演劇活動にきびしい環境を 作り出したのではなかった。劇団を再編成し,演劇を組織化し,結果的には常設劇場 の開設をうながした点で,むしろ有利な状況になったと言える。5)貴族の庇護を受 ける形にすると芝居をうてる可能性が強くなり,一方一座を召し抱える側の貴族にし てみても名前を貸してお仕着せを与えるだけでも何も財政的援助をする必要がなく, 劇団のパトロンとなることで自分の地位や称号に光をそえたからである。シェイクス ピアが最初に所属した劇団がストレンジ卿一座で,そこを離れてのちに加わったのが 宮内大臣一座という風に脊顧をあおぐ庇護者の貴族の相違で,仰々しい劇団名も変化 する。 エリザベス女王は1583年すでに当時のすぐれた役者12名からなる女王一座を結成 させ,宮廷での観劇を楽しんだこともある。女王の死後ジェイムズ一世が即位すると, 1603年宮内大臣一座は国王一座となって押しも押されぬ劇団であり,ロンドンの演

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劇界に君臨するが,これは座付作者である彼の寄与する所が大であったろう。商業演 劇はかくて確立したもののこれら公衆劇場がすべてロンドン市郊外にあるのは,ピュー リタン的勢力の強い市当局が演劇を敵視して市壁内での建設を許さなかったからであ る。 通常は劇場は興行主に属しておりそれを一定期間劇団に貸す形をとって興行主が 建物内外の管理と維持の責任を担い,上演の収益を両者が分け合うのが普通であっ た。 6)それ以前から劇団は財政的には座員が株主となる株組織であったが,シェイ クスピアにとって幸運だったことは宮内大臣一座を結成した時に,俳優でもある幹部 の一人が劇場主の息子だったことである。その劇場をとりこわしてテムズ川南岸バン クサイドに移して「地球座」という劇場を作ったが,他の劇団とちがって経営を自分 たち株主で自由にすることが出来たのである。当時はレパートリー制度だったので劇 団にしてみればたえず新しい台本が必要となり,俳優兼座付作者のシェイクスピアが その要求を満たすことになる。 宮内大臣一座の幹部・株主は1596年に彼を含めて8名,国王一座となったときに は12名となっている。彼らが合議制で一座の運営や方針を決定できたことがたとえ ばその後ライバル関係となった海軍大臣一座との大きな違いであった。劇団には幹部 座員の他に,記録では「雇用者」と書かれている楽士やプロンプター,その他料金受 け取りに至るまでの雑事役も兼ねた端役用の俳優もいて,彼らは役者としての訓練を 受けながら週給をもらう身分であった。老練な俳優の弟子の形の少年俳優が数名いて 子供役,女役をしたことは知られているが,彼らの演技は決してまずいものではなかっ たと言われる。当時イタリヤへ旅行したイギリス人がベニスの舞台で本物の女優を見 て,ロンドンの少年俳優に劣らず上手な演技だったと書き送っている。7)シェイク スピアはこのような座員を殆どすべて登場させる芝居を書き,一作について端役を入 れると最少15役くらいであり,歴史劇のように40人以上の登場人物が必要な時には もちろん一人の俳優が二役以上をこなすいわゆるダブリングを行った。彼は,かなり 自由に想像力にまかせて書く現代の劇作家とちがって座員の一人一人の特徴と顔を念 頭におきながら作品を書いていったのである。役者でもあったから下稽古の折に時に は若手の俳優の指導をかねて演出もやったかも知れない。 8) (≡) 旅役者がやって来た時ハムレットはその一人に腕だめLとしてある修羅場の悲壮な 場面を演じさせてみる。役にはまって熱演し,ついには涙までみせる役者の感情移入 の激しさにハムレットはいたく心打たれ,同時に我が身を反省する。たかが絵空事の

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76 清田幾生 芝居にしかすぎないのにその人物になり切って表現した熱情にひき比べ,父の亡霊に 命じられた復讐の決行に打つ手のないまま漫然とすごす自分の弱腰がなさけなく,己 れの優柔不断を責めないではいられない。ところがこの演技論に関して言えば,その 後「ゴンザーゴウ殺し」を演出するに当ってハムレットが旅役者に言うことはむしろ その逆である。彼は演技の情熱に節度を求めて役者たちの派手な科白まわしや大袈裟 な身振りをたしなめる。また演技過剰も不足もいましめながら道化役が台詞以外のこ とを喋って「にぷい観客」の笑いを取ろうとして自ら笑ってしまい「芝居の大切な要 点」を忘れてしまうことを戒めたりもしている。 万事穏やかにやってくれ・・・輩をっけた騒がしい役者がやたらに喚き散らし暴れ回 るのを見るとうんざりするよ。そんなのはいい加減な黙劇と馬鹿騒ぎしかわからん 大向うの雑魚連中の受けをねらっているのだろうがね-あれでは暴君へロデも顔負 けという所だ。 (三幕二場) 演技理論の講釈をしながらハムレットがここで言及しているへロデ王とはもちろん 14世紀以来エリザベス朝まで残っていたサイクル劇の中の聖史劇に登場する人物で ある。各地で上演された聖史劇は当初は信仰と教化を目的としたものであったが,餐 儀的な面を残しながらも世俗的要素がふくらんでゆき,お祭騒ぎの見世物になっていっ た。聖人や奇跡を語る枠組よりも面白おかしく肉付けされた悪の暴君や滑稽な副人物 の活躍が人気を呼び,広場や四辻に集まる人々を興奮と峡笑にまきこんだ。職種別の ギルド毎に莫大な費用をかけ凝った山車舞台を作成し定期市で賑わう広場に数頭の馬 にひかせて次々に運び込み,あるいは街頭を練り歩き,聖書の-挿話を演じては次の 山車に代わるため立ち去ったという。ただ地方によっては山車を定位置に固定してし まう方式もあったから,その場合は見物人の方が移動して見て回ることになる。 山車舞台の仕掛けについて言うと,中には二層三層になった舞台もあって最上部は 天国,最下部は地獄といった風で,これは登場する役者の行いによって最後にはどこ かに振り分けられる形をとったのであろう。地獄から火を吹く仕掛けもあったという。 素人役者も筋から逸脱して道化となってふざけまわり,即興の言辞を弄して皆を笑わ せ,罵菅雑言や卑殺な言葉を投げっけ,時には舞台から降りて観衆の中に入って問答 を交わしたりしたであろう。何よりもこれは観衆の参加する祝祭劇であり,そこに現 出するものは中世時代の熱狂と遊びの精神にみちた「大らかな演劇空間」 9だったの である。 聖史劇の中でも幼児虐殺の「へロデ王」はその荒れ場で有名であるが,残存してい る台本のト書に, 「コノトキ大王へろで山車舞台ニテ荒レ狂ヒ,大路へ飛ビ出ヅ」10)

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とあるから,へロデ王に扮した役者の活躍ぶりが想像される。 1530年代の宗教改革 のためプbテスタントの圧迫に通いサイクル劇は衰亡の一途をたどるものの,シェイ クスピアの郷里から程近いコヴェントリーの町では聖史劇が1580年まで上演されて おり,少年シェイクスピアはこの時へロデ王に扮した役者が喚き散らして暴れまわる 派手な演技を見ているのかも知れない。 (四) 「へロデ王も顔負け」するような大仰な演技に対してハムレットは軽蔑と嫌悪感を 示しているが,それはそのままアドリブで観客の受けをねらう道化への不信感につな がっているのであろう。しかもこの二つのことは「いい加減な黙劇と馬鹿騒ぎしかわ からん大向うの雑魚連中」や「にぷい観客」という表現に見られるように芝居通とし ての-ムレットの観客論と一体となっている。ハムレットの道化についての発言はシェ イクスピアの見解と重なる点もあると思われるが今ここでは問題にはしない。肝心な のは,演劇に対するこのよう発言は演劇愛好家の知性人ハムレットにはまことに相応 しく思われるものの,演出家として一連の「ゴンザーゴウ殺し」の芝居を旅役者に演 じさせたとき,シェイクスピアがハムレットをどう扱っているかということである。 ハムレットは自分の思っているほど成功したのだろうか。劇の流れから見ればその答 えは,常日頃彼が繞舌であるのと同程度に,黙劇を含んだ「劇中劇」は露骨でありす ぎたというべきであろう。 「ゴンザ-ゴウ殺し」の中でルーシエ-ナスが叔父の国王 を毒殺する場面に至ったとき,クローディアスに対して自分のひそかな復讐の意図ま であらわにしてしまったからである。 なるほどクローディアスは衝撃を受けて,当初のハムレットの思惑通り良心の珂貴 から神に祈ろうとする。しかし見殺しの罪の意識は重く,祈れない。この王位纂奪者 が同時に画策していることはもちろんハムレット暗殺である。自らを演劇の玄人と思 い込み,旅役者の演出の上首尾を信じて誇らしげに浮かれるハムレットの無邪気さに 対して,敵に手の内を見せてしまった危険性を悟らせたい親友ホレイショウの思いは, 「半株でしょう」の一言に要約されている。デンマークの王子に復讐をうながしたの が父の亡霊であってみれば,この亡霊が演出したのは二流の演出家ハムレットであっ たと言うべきであろう。 (五) シェイクスピアは自分の所属する一座の座員の顔触れを考えながら作品を書いた

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78 清田幾生 が11)それを上演する劇場の形式も当然念頭においていた。室内劇場の舞台を対象 にした場合もあるが,ここでは彼の大部分の劇作品がそこでの上演のために作られた 公衆劇場だけを問題にする。ただ彼の地球座の細部については他の公衆劇場と同様に 絶対に確実といえる資料は残っていないので,学者たちが間接的な資料から作り上げ るいくつかの舞台像から共通する部分を頭において,その舞台が劇作家と観客に対し てどういう意味を持っていたかを考えたい。劇場の外形はともかく,その内部の様子 を考えると,エリザベス朝の公衆劇場の一番の特徴は何といっても平土間の中央にま で突き出た張り出し舞台であろう。これは常設劇場開設以前に宿屋の中庭に仮設舞台 が作られ,観客がそれを囲む三方の地面と,建物の二階あるいは三階の内側につくら れた回廊からそれを眺める形式と基本的な類似点を示している。ただ常設劇場の場合 桟敷席が円形であったか多角形であったかはわからない。舞台が張り出しであったこ と,従って近代の額縁舞台とちがって舞台の上で演技する俳優は正面からだけでなく 多角度から眺められたということ,これが重要なことである。 何幕何場と分けるのは後世の編集者が行ったことで当時は暗転などで場の変化を示 すこともなく,かなりの速度で芝居が進んだらしい。舞台には後代のリアリズム的額 縁舞台のような背景となる書割もなく,舞台と観客をへだてる幕も存在しなかったの で,次々と起る場面や時間の変化は,俳優の口を通して観客に伝える以外方法がなかっ た。こうして台詞の重要性が出てくる。シェイクスピアはそのような舞台の条件を実 に巧みに利用している。例えば『-ムレット』で亡霊の最初の出現はちょうど夜中の 一時ということになるが,亡霊が舞台から立ち去ったあと,ホレイショウが語る美し い無韻詩は,時間の経過が周囲の状況描写を通して語られる。 ああ,見たまえ,暁が茜色の衣をまとって, あの高い東の丘に貫をふみしめてやってくる。 (一幕二場) まさしく「言葉が最も重要」12)だったのである。特に詩型で語られる台詞の比職 の喚起力によって舞台に於ける時間と空間の伸縮性が観客の心に訴えるのである。張 り出し舞台であるために俳優の表情が観客には見えない死角が出てくるが,その内面 の感情は独白や傍白で観客に伝えなければならないことになる。 しかしだからと言って観客は台詞を聴くことだけを期待していたのではない。大道 具や小道具も使われており,視覚に訴える仕掛けも行われている。特に衣裳には莫大 な費用をかけ,豪華をきわめたと言われている。簡単な音響効果もあり,また楽士に よる演奏,役者のうたうソングそれにジグ踊りなど観客の耳を楽しませる要素は役者 の科白以外にもあったのである。当時は照明が使われなかったので日光をとるため舞

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台を三方から取り囲む平土間だけは青天井であり,従って雨天は興行が不可能となる。 平土間は料金の一番安い場所であり,恐らく観客は立ったまま観劇したのであろう。 そうでなければ地球座の入場者が満席の時で二千人というのは信じられない数字であ る。桟敷席の方は草葺きの屋根でおおわれていたがそれだけに料金も高い。張り出し た舞台の上には桟敷席の屋根とは独立した高い天蓋がついており,その天井には太陽, 月,星斗をあしらった天宮図が描いてあった。これを当時の舞台用語では「天国」と いった。これについては, 『ハムレット』で主人公が自分の「メランコリー」を説明 するさいに次のように語る個所がある。 僕は気分が重いからこの見事な大地も荒涼たる岬同然さ。このすばらしい天蓋, 大空,ほら頭上をおおうこの見事な蒼胃,金色の星をちりばめた大天井も,僕には 汚れた毒気の集まりとしか思えんのだ。 (二幕二場) これは平土間に向って岬のように張り出し,今自分が立っている舞台と,天宮図の 描かれた舞台の天井を,ハムレットは下から上へと指さしていることになる。 一方舞台の下には「地獄」と呼ばれる部分があり上げ蓋を通して俳優が出入りでき た。亡霊や魔女が舞台から姿を消すと地下から声だけが聞こえてくるのは,この舞台 下から喋っているのである。こうしてみれば天国と地獄の中間に舞台があって,これ は中世の聖史劇にすでに見た見世物の一つ,三層になった山車舞台を想い起させる。 「地球座」という名前に相応しく,シェイクスピアの作品には世界や人生が劇場や舞 台の比職で表現されることが多いが,これは別に彼の独創ではない。 シェイクスピアはどのような観客を相手にしたのだろうか。たとえば1595年の二 つの劇場の入場者数を概算してみると週一万五千人が観劇したことになる。日曜日も 開いていたが,その動員数の多さには驚かされる。入場料ははっきりわかっていて, 平土間も立ち見が1ペニー,そこから階上の桟敷に行くものはもう1ペニー,更にそ こでの上席はもう1ペニーで計3ペンス払うことになる。もっともボックス席,貴賓 席などもあったらしく高いのは20ペンスというのもあった。当時の職人は週給であっ たが日給に換算すると1シリング弱であり,日給の12分の1が立ち見の料金という ことになり,この1ペニーは同じバンクサイドにある熊いじめ・牛いじめの闘技場の 料金と同額である。 客には紳士階級も貴族もいたが公衆劇場にはさすがに女王や国王,さらに最高位の 貴族の来訪はなかった。ロンドンは劇場で有名だったから外国の高官の見物がしばし ばあった。宮内大臣一座の場合女王の希望があればこちらから宮廷に出かけることに なる。いづれにしろシェイクスピアが相手にする観客はあらゆる階層にまたがってい

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80 清田幾生 たのである。宮廷人から職人に至るまで,彼は皆を娯しませる術を知っていた。ただ その割合は職人,徒弟,小売り業者あたりに属する人々が一番多かったであろう。ハ ムレットは旅役者の演出をする時に,見る眼をもった玄人の観客と区別して, 「大向 うの雑魚連中」, 「にぷい観客」という言葉を使った。シェイクスピアは座員との下稽 古の時に,客を神様とは思っていないものの,ハムレット風な侮蔑的表現をしたかど うか疑わしい。ただ,市壁内に建築を許されている私設劇場の方が料金が高かったの で「客柄」がよかったが,この差はのちにもっと開くことになる。シェイクスピアは 私設劇場のためにも作品を書いている。 ピューリタン幹部の多い市当局,あるいは演劇を認めないピューリタンの極論者や 説教師たちは悪の温床として演劇を攻撃した。その理由には,風紀の乱れ,犯罪性, 騒擾,怠惰などがあげられるがこれにはかなりの誇張があるとされている。しかし地 球座に関して言えば特別区域のバンクサイドに位置しそこは娯楽の地区であり,熊い じめをはじめ賭博場,娼家などもあり劇場の外側では騒ぎが起ったこともある。劇場 の内側にしても観客は現代の観客のように取り澄まして舞台に集中していたわけでは ない。客席ではビールやナッツも売られ煙草もふかしていた。ナッツを割る音がやか ましく俳優からの抗議の出た劇場もある。終演後にはジグ踊りもあり,観客は一体と なって声をあわせたであろう。スリが活躍するのもこの時であり,シェイクスピアは ジグ踊りの道化師に批判はあっても,こういう雰囲気の中で演劇活動をした。 荏 本文中に引用拙訳した『-ムレット』のテキストはアーデン版を使用し,行数までは指示していない。

1 ) Andrew Gurr, The Shakespearean Stage 1574-1642 (Cambridge Univ, Press,1970),p.19 2)植村雅彦, 『ェリザベスI世』 (教育社,1981), 85貢参照。

3) 1572年ある一座はエリザベス女王の芝居好きを当てにして,劇場閉鎖命令の解除を枢密院に嘆願した が,翌年疫病がさらに猛威をふるい,一座は演劇続行をあきらめているS. H. Burton, Shake-speare's Life and Stage, (Chambers, Edinburgh, 1989), p. 81

4 ) S. Shoenbaum, WILLIAM SHAKESPEARE A Compact Documentary Life, (Clarendon Press, Oxford,1977), pp. 119-120

5) A.Gurr,op.cit.,p.19 6) S.H.Burton, op.cit., p.184

7 ) G. E. Bentley, Shakespeare and His Theatre (Univ. of Nebraska Press, 1964), p. 38 8) S. H. Burton, op.cit.,p.187

9)石井美樹, 『中世劇の世界』,中央公論社,1984) 40亘。なお,奥田宏子, 『中世英国の聖書劇』 (教育 礼),特にロベルト・ヴァイマン(青山・山田訳) 『シェイクスピアと民族演劇の伝統』 (みすず書房) 参照。

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10) W.A.Armstrong, Actors and Theatres, (Shakespeare Survey,12. p.191).これはH.Craig(ed.) Two Coventry Corpus Christi Plays (1959)からの引用。

ll) G. E.Bentley,op.cit.,p.46 12) S.H.Burton,op.cit.,p. 178

なお上記以外参考にな.ったものとして,

O J. L. Styan, Shakespeare's Stagecraft, (Cambridge Univ. Press, 1975) ○菅泰男, 『Shakespeareの劇場と舞台』, (あぼろん社, 1970)

○青山誠子, 『シェイクスピアの民衆世界』, (研究社, 1991)をあげておく。

参照

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