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九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository 占領期沖縄における尖閣諸島沖の海底油田問題 宮地, 英敏九州大学附属図書館記録資料館産業経済資料部門 : 准教授 出版情

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

占領期沖縄における尖閣諸島沖の海底油田問題

宮地, 英敏

九州大学附属図書館記録資料館産業経済資料部門 : 准教授

https://doi.org/10.15017/1807620

出版情報:エネルギー史研究 : 石炭を中心として. 32, pp.107-127, 2017-03-24. 九州大学附属図書館

付設記録資料館産業経済資料部門

バージョン:

権利関係:

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一、はじめに 沖縄県八重山諸島(石垣島や西表島など)の北方約一五〇㎞の東シナ 海上に、魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島、沖の北岩、沖の南 岩、 飛 瀬 な ど か ら な る 尖 閣 諸 島( 尖 閣 列 島 と も い う ) が 点 在 し て い る。 二〇一〇(平成二十二)年九月七日に、中国(中華人民共和国)の違法 漁船が海上保安庁の巡視船に突撃して公務執行妨害で逮捕された。しか し な が ら、 尖 閣 諸 島 の 領 有 権 を 主 張 す る 中 国 政 府 か ら の 圧 力 を 受 け て、 菅直人内閣の仙谷由人官房長官らによる政治的な判断で漁船乗組員達が 処分保留のまま釈放されることになり、尖閣諸島は日中間を巡る一大問 題へとクローズアップされていくこととなった。その後も中国漁船など による領海侵犯が繰り返される中で、二〇一二(平成二十四)年には石 原慎太郎東京都知事が、地権者から魚釣島を購入して東京都所有にする 計画を発表し、それを受けて野田佳彦首相が魚釣島・北小島・南小島の 国 有 化 を 行 った た め、 日 中 間 の 緊 張 関 係 は さ ら に 高 ま った。 二 〇 一 七 (平 成二十九)年三月現在においても、日中間の対立の焦点の一つとなった ままである。 周 知 の よ う に、 尖 閣 諸 島 沖 に 海 底 油 田 が 埋 ま って い る と さ れ た こ と が、 この問題の発端であった。一九七二(昭和四十七)年に自由民主党の学 習シリーズ第三十八集として刊行された『尖閣諸島の歴史と領有権』で は、次のように述べている。   戦後二十余年にわたり、アメリカの施政権下におかれてきた沖縄の 一部としての尖閣諸島について、台湾の国民政府も中華人民共和国政 府 も、 そ の 領 有 権 に つ い て な ん ら の 主 張 を 行 っ た こ と も な く、 ま た、 議論をされることはなかった。 (中略)なぜこのように、 北京や台湾か らその領有権について、あらためて問題が提起されてくるのであろう か。それは、これまで漁業を除けば、経済的にはほとんど問題視され なかった海域が、大陸棚条約(一九五八年採択、一九六四年発効)と 関連して、この諸島近海の海底にも存在するという、石油資源の問題

【論説】占領期沖縄における尖閣諸島沖の海底油田問題

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として論ぜられるようになったからであ る ( 1 ) 。   以上のような日本側の見解に対して台湾および中国は、尖閣諸島は歴 史的に中国歴代王朝の統治下にあったことを主張し、日本側がそれに対 し て 資 料 的 な 批 判 を 繰 り 広 げ る と い う 遣 り 取 り が 繰 り 返 し 行 わ れ て い る。 さて本稿は、従来繰り広げられてきた尖閣諸島の領有権の歴史につい て、新しい資料や新しいフレームワークを提示して分析する論文ではな い。 そ の 対 立 の 出 発 点 と な っ た 尖 閣 諸 島 沖 の 海 底 油 田 の 開 発 に つ い て、 資料実証的にいくつか確認していくことを目的にしている。筆者と同じ ような問題関心としては、すでにロバート・D・エルドリッジ(二〇一 五) 第 三 章 が、 「国 連 E C A F E の 調 査 と 尖 閣 問 題 の 起 源」 と し て 多 く の ファクトファインディングをしてい る ( 2 ) 。そして、その翻訳者である吉田 真 吾 と 中 島 琢 磨 が 解 説 で 述 べ て い る よ う に、 「尖 閣 諸 島 を め ぐ って は、 国 同士ではなく、先に沖縄住民同士の対立、および沖縄住民と本土の関係 機関・会社との対立という構図があっ た ( 3 ) 」点を発見しているのが重要で ある。 ところがロバート・D・エルドリッジの論文は、新しい資料を多く発 見しているものの、その論旨の一部を高橋庄五郎(一九七九)に大きく 依拠しているという問題を抱えている。特に、先程の吉田真吾と中島琢 磨が強調した、沖縄住民同士や沖縄住民と本土との対立の構図を、高橋 庄 五 郎 (一 九 七 九) に 依 拠 し て い る の で あ る。 し か し な が ら 脚 注 で ロ バ ー ト・D・エルドリッジ自身が記したように、高橋庄五郎は親中的な貿易 団 体 「日 本 国 際 貿 易 促 進 協 会」 の 常 任 委 員 を 務 め る 企 業 経 営 者 で あ っ た ( 4 ) 。 そして、海底油田の発見を契機として尖閣諸島の領有権を中国が急に主 張 し 始 め る よ う に な った と い う 日 本 政 府 や マ ス コ ミ の 指 摘 に 対 し て、 「問 題は全く逆である」と述べ、 「わが国は、 尖閣列島を起点として、 広大な 東中国海の大陸棚に食いこもうとしたのである」という反論を行ってい る人物であ る ( 5 ) 。このように中国側の主張に依拠した高橋庄五郎の論旨に 沿っているロバート・D・エルドリッジの分析は、再検証される必要が あるであろう。 その再検証の際に論点となるのは、やはり「沖縄住民同士の対立、お よび沖縄住民と本土の関係機関・会社との対立という構図」が、何故に 発生し、深刻化していったのかという点についてである。この点につい ては秋山満宏 (二〇一二) が、 「県益」と 「国益」という対立軸を看取し てお り ( 6 ) 、本稿でも基本的な構図は秋山満宏のフレームワークが正しいと 考えている。しかしながら秋山満宏の問題関心は尖閣諸島の開発をめぐ る島ぐるみ運動にあり、海底油田の開発それ自体は分析対象としては軽 ん じ ら れ て し ま っ て い る。 そ こ で 以 上 の よ う な 研 究 史 を 踏 ま え な が ら、 本稿では海底油田の開発をめぐる沖縄住民同士や沖縄住民と本土側との 対立が、何故に発生し深刻化してしまったのかという点について分析し て い き た い と 考 え て い る。 こ れ は、 沖 縄 と 日 本 本 土 と の 絡 み 合 った 糸 を、 少しでもほぐしていくためでもある。 「は じ め に」 に 続 く 第 二 節 で は、 尖 閣 諸 島 沖 の 海 底 油 田 が 話 題 と な る 前 の沖縄における祖国復帰と経済問題について紹介する。第三節は新野弘 らの論文によって尖閣諸島沖の海底油田が注目を浴びる前の沖縄におけ る石油探索を、大見謝恒寿に焦点を当てて整理する。第四節では、新野 弘らの論文の影響を受けてECAFEなど世界的に尖閣諸島沖の海底油 田が注目を浴び始めた状況下で、琉球政府が制定した鉱業法に焦点を当

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てて論ずる。第五節から第六節にかけては、沖縄がなぜ日本本土と強く 対立することになったのかという分析視角から、沖縄側における資源ナ ショナリズムの高まりと、それに対する日本本土側の官僚らの立場や失 言 に 着 目 す る こ と で 推 移 を 確 認 し て い き た い。 最 後 に 「お わ り に」 で は、 本稿の整理を行うとともに、沖縄と日本本土の対立という形で表出する こととなった日本社会全体の歪みに着目することでまとめとしたい。 二、沖縄の祖国復帰への動きと経済問題 東京オリンピックを成功に導いた池田勇人首相が病気退陣をしたこと を受け、一九六四(昭和三十九)年十一月九日に新首相に就任した佐藤 栄作は、翌年一月十日から十五日にかけて初の海外訪問先としてアメリ カを訪れた。首相就任二ヶ月目でのこの初訪米において、佐藤栄作首相 は沖縄返還を政権最大の使命だと考えたといわれてい る ( 7 ) 。一九六五(昭 和四〇)年一月十二日の日記には、 「三時半からつっこんで中共、韓国、 沖縄、 小笠原、 航空、 漁業協定、 短期農業移民等、 次々に重要な話をすゝ めた」ことが記されてお り ( 8 ) 、沖縄の施政権返還の問題を取り上げたこの 日の全体会談 で ( 9 ) 、 佐藤栄作首相からリンドン・B・ジョンソン( Lyndon Baines Johnson ) 大 統 領 へ の 沖 縄 復 帰 に 関 す る 最 初 の 提 案 が な さ れ た と 思 わ れ る。 こ れ を 受 け て 翌 十 三 日 の 共 同 声 明 で は、 「大 統 領 は、 施 政 権 返 還 に対する日本の政府及び国民の願望に対して理解を示し、極東における 自由世界の安全保障上の利益が、この願望の実現を許す日を待望してい る と 述 べ た」 こ と が 発 表 さ れ た )(1 ( 。 ま た 同 日 の 『佐 藤 栄 作 日 記』 に は、 「国 務 省 ラ ス ク 長 官 の 午 餐 会、 (中 略) 食 中 ラ ス ク と 低 声 に か た る。 沖 縄 は か へしてもいゝのだが、まだ中共が安心出来ぬ、国防は引きうけたと確信 を得た」と記述してい る )(( ( 。 この時の両首脳の共同声明および、デイヴィッド ・ ディーン ・ ラスク ( David Dean R usk ) 国 務 長 官 か ら の 将 来 的 な 返 還 を 予 期 さ せ る 好 感 触 の 発言があったこともあり、同年四月二十三日の松岡政保琉球政府主席と の 東 京 で の 会 談 を 経 て )(1 ( 、 佐 藤 栄 作 首 相 は 直 接 に 沖 縄 を 訪 問 す る こ と と な っ た。八月十九日には日本の首相として始めて沖縄を訪れた佐藤栄作首相 に よ り、 「沖 縄 が 本 土 か ら 分 か れ て 二 十 年、 私 た ち 国 民 は 沖 縄 九 十 万 の 皆 さんたちのことを片ときも忘れたことはない。私は沖縄の祖国復帰が実 現しない限り、わが国にとって戦後が終わってないことをよく承知して いる」という歴史に残る名演説がなされてい る )(1 ( 。佐藤栄作首相は、一月 の初訪米の際に決意した沖縄返還にあたっての覚悟を、沖縄を含む日本 国民全体へと宣言したのであった。 しかしながら、アメリカからの施政権返還問題は小笠原諸島の方が先 行していく一方で、沖縄返還交渉はなかなか進展をしなかった。そのた め、 「ほんとうの意味の政府間交渉が始まった」のは、 一九六七 (昭和四 十二)年十一月十五日の佐藤栄作首相とリンドン・B・ジョンソン大統 領との共同コミュニケ以降であったとい う )(1 ( 。こうして一九六五(昭和四 〇 ) 年 か ら 一 九 六 七( 昭 和 四 十 二 ) 年 に か け て の 一 年 半 ほ ど の 期 間 は、 復帰後の沖縄がどのような形になるのか、多くの人々が期待感と不安感 を抱えていた時期であったのである。 さて、この時期前後の状況について櫻澤誠(二〇一四)は、沖縄にお ける当時の様々な経済構想の分析を行っているが、 そこでは 「自立経済」 へ の 一 貫 し た 願 望 が 看 取 さ れ て い る。 し か し な が ら 実 体 経 済 は、 「自 立 経

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済 」 が な か な か 困 難 で あ る こ と を 示 し て い た。 琉 球 政 府 副 主 席 な ど を 歴 任 し て い た 瀬 長 浩 が )(1 ( 、 一九六七(昭和四十二)年八月十九日に琉球新 報 ホ ー ル に お い て 「 沖 縄 の 基 地 と 経 済 」 と い う タ イ ト ル で 報 告 を 行 っ て い る 。 当 時 の 沖 縄 の 人 々 の不安感を表しているこの報告を簡単に紹介し ておこう。 瀬 長 浩 は ま ず、 「将 来 基 地 が 撤 収 さ れ る と き 沖 縄はどうすればよいか」という問題意識から講 演を行ってい る )(1 ( 。本稿を執筆している二〇一七 (平 成 二 十 九) 年 初 頭 に お い て も 沖 縄 に お け る 米 軍基地が撤去される気配は全く無いが、一九六 七(昭和四十二)年時点においては、沖縄の祖 国復帰は沖縄からの米軍の早晩の撤退を引き起こすと考えられていたこ とが分かる。そのような認識の上で、沖縄から米軍基地が撤退した後の 経 済 状 況 に 関 す る 推 算 が 行 わ れ て い る の で あ る。 瀬 長 浩 の 推 算 に よ る と、 表1のような結果が得られたという。これは、経済企画庁発表のGNP デフレーターで物価差を補正した上で、一九三四(昭和九)年~一九三 六 (昭和十一) 年平均を一として、 一九六四 (昭和三十九) が何倍になっ ているかを比較した表である。戦前から戦後にかけて、明らかに沖縄の 方が本土平均よりも経済成長していた様子を読み取ることが出来る。 このデータを基準にして、瀬長浩はもし戦後沖縄に基地が無かったと したならば、 「本土の平均以上に増えたとは考えられない」と位置付け、 「 仮 に 本 土( 全 国 ) の 倍 率 で 沖 縄 も 増 え た と 仮 定 」 し た 計 算 を 重 ね て い る。 そ の 仮 定 に 基 づ く と、 県 民 総 所 得 は 約 六 〇・五%に な り、 「人 口 が 現 在 通 り と す る と 一 人 当 所 得 は 本 土 平 均 の 三 十 七%と い う 勘 定 に な」 る し、 「 若 し 一 人 当 た り 所 得 が 現 在 と 同 じ と 仮 定 す る と、 今 度 は 人 口 が 今 の 六 割、 約 五 〇 数 万 人 に 減 ら な け れ ば な ら な い 勘 定 に な」 る と い う の で あ る。 そして「恐らくはその二つの枠内の中間を想像した方がよい」との発言 をしている。こうして、一人当たり所得が本土平均の約三十七%、人口 が 今 の 六 割 と い う、 二 つ の シ ョ ッ キ ン グ な 数 字 が 提 示 さ れ た の で あ る。 当時の沖縄から米軍基地が無くなるということは、それ程に強いインパ クトを与える出来事であると認識されていたことが分かる。 そ の 上 で 瀬 長 浩 は、 「基 地 経 済 か ら 基 地 無 し の 経 済 へ の 移 行 は、 そ れ こ そ綿密周到、段階的、計画的、弾力的におこなわれるべきであ」ること を述べた。佐藤栄作内閣によって沖縄の祖国復帰の機運が高まっていく 一方で、沖縄における祖国復帰後の経済状況への見通しは、それほどま でに前途多難だと思われていたのである。そのような中で瀬長浩は、一 つ の 意 味 深 な 発 言 を 行 って い る。 「何 か 特 に 有 利 な 条 件

例 え ば 石 油 や ウラニウムの発見とか、何かが加わ」らなければ、上記の想定以上の沖 縄経済の状況は望めないと語ったのである。ここで瀬長浩が述べた「石 油やウラニウム」という発言が、単なる運が良ければという比喩であっ たのか、それとも具体的な地下資源開発が念頭にあったのか、今となっ ては知るすべも無い。しかしながら一九六七(昭和四十二)年八月十九 日という絶妙なタイミングで、後に琉球政府の復帰対策室室長になる人 物 が 、 石 油 で も 埋 ま っ て い れ ば 祖 国 復 帰 後 の 沖 縄 経 済 の 見 通 し も 変 わ っ て く る と 述 べ て い た こ と は、 特 筆 に 値 す る と 言 え る の で は な い で あ ろ う か。 【表1】  戦後における沖縄と本土の経済の伸び率(1964 年時点) 実質国民所得 人   口 実質国民所得1人当たり 本土 3.24倍 1.41倍 2.30倍 沖縄 5.37倍 1.56倍 3.44倍 出典)瀬長浩(1968)73頁。

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三、沖縄における石油資源探索のはじまりと大見謝恒寿 「一、 はじめに」でも述べたように、 高橋庄五郎(一九七九)が「一九 六一年、 東 マ マ 海大学 の新野弘教授(地質学)の『東中国海および南中国海 浅 海 部 の 沈 積 層』 と い う 論 文 が 発 表 さ れ た こ と に、 こ の 問 題 は は じ ま る」 と 述 べ )(1 ( 、 ロ バ ート ・ ル ド リ ッヂ が 東 京 水 産 大 学 の 新 野 弘 と ケ ネ ス・ O・エメリーとの共同研究であると加筆修正しつつ、その位置付けを踏 襲してい る )(1 ( 。そして、中国の秦蘊珊の一九六三年の研究や、新野弘とケ ネス・O・エメリーの一九六七の共同研究へと繋がって行くという学術 研究の系譜が明らかにされ、それがECAFE(国際連合のアジア極東 委員会)における一九六九年の報告書へと繋がったとしてい る )(1 ( 。確かに 尖閣諸島における石油資源を、日本本土からの視点や、台湾や中国大陸 からの視点で語るならば、その位置付けで良いであろう。 しかしながら視点の軸足を沖縄に置き、沖縄の石油資源探索という視 点からみた時には、それらではなく大見謝恒寿らによる石油資源探索を 出 発 点 と し な け れ ば な ら な い。 一 九 二 八( 昭 和 三 ) 年 に 大 阪 で 生 ま れ、 一九四六(昭和二十一)年には家族の故郷である沖縄へと居を移してい た大見謝恒寿は、沖縄復興のためには地下資源が有望であるとの確信の 下、一九五一(昭和二十六)年頃から自費を投じて沖縄各所でサンプル 調査を行っていたのであ る )11 ( 。 そのような大見謝恒寿の独自の石油資源探索と並行して、沖縄では鉱 業権に関する戦後の新しい制度が始まりつつあった。一九五一(昭和二 十六) 年十一月二十六日の琉球列島米国民政府布 ( USC AR ) 令第五十五 号として、 「琉球列島における採掘権並びに試掘権」が公布されている。 これを受け、鉱区が軍要地に含まれていなかった戦前の鉱業権者に対し て は、 鉱 業 権 が 解 放 さ れ て い った の で あ る。 し か し な が ら 同 布 令 に よ り、 「試 掘 権 の 申 請 は 採 掘 権 と 同 じ 方 法 で 実 施 し な け れ ば な ら な い」 と さ れ た た め )1( ( 、戦前にすでにあった試掘権は再申請が可能であったものの、戦後 の新しい試掘権については棚上げされたのである。 この状況が九年間続いたが、一九六〇(昭和三十五)年六月二十四日 付 け の 琉 球 列 島 高 等 弁 務 官 布 令 第 三 十 三 号「 採 掘 権 及 び 試 掘 権 の 管 理 」 によって、その業務は琉球政府へと移管され た )11 ( 。これを受けて琉球政府 では、新規の試掘権の付与も行い始めるのである。石油に関する試掘権 の 付 与 に つ い て、 一 九 六 二( 昭 和 三 十 七 ) 年 か ら 一 九 六 五( 昭 和 四 十 ) 年までの四年間分について表2を作成した。 一九六二(昭和三十七)年十二月四日には、嶺井元奉名義で四件、稲 嶺一郎名義で五件の登録がある。このうちの嶺井元奉は東部配電株式会 社の前社長であ り )11 ( 、稲嶺一郎は琉球石油株式会社の社長であっ た )11 ( 。前者 は社長退任直後の新しいビジネスとしての、稲嶺一郎は会社の事業での 申請であったと思われるが、それぞれ詳細については不明である。それ に続いて登録されたのが大見謝恒寿名義の二件であった。嶺井 ・ 稲嶺の 登録が沖縄本島であったのに対して、大見謝恒寿は竹富島での試掘登録 であったところに特徴がある。 この登録が行われると、大見謝恒寿は自費を投じて、一九六四(昭和 三 十 九 ) 年 四 月 に は 竹 富「 島 の 中 央 部 に 掘 削 ボ ー リ ン グ を 施 行 し 」 て、 「深度はおよそ一〇〇メートルの層序は泥土、絹雲母、灰色頁岩を鋏み、 黒色頁岩に移り深部に行くにつれて珪石が乱脈をなし、珪質頁岩に逢着 し、更に硬質黒色頁岩に逢着し、そして珪石となっている」ことを確認

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した。ここで重要なのは 「古生層黒色硬質頁岩」であり、 「古第三紀 (中 生代) 、白亜紀、ジュラ紀(古生代) 、デボン紀、石炭紀、二骨紀時代の 水 成 岩 堆 積 環 境 の 有 機 炭 層 で あ る」 た め、 「そ れ ら に も 有 孔 虫 の 化 石 を 含 有していることは層序的見解からすれば石油ガスが無尽蔵に埋蔵されて いる根源岩の裏付け」であると判断し た )11 ( 。大見謝恒寿が、竹富島におけ る岩石等の調査から、竹島周辺における石油発掘について確信を強めて いった様子が分かる。また、年を超えて、再び琉球石油株式会社社長の 稲嶺一郎名義で五件の、琉球立法院議員の新垣安助名義で四件の試掘登 録が行われているが、こちらも詳細は不明である。 さて、再び石油に関する試掘権の付与に関して、一九六六(昭和四十 一)年および一九六七(昭和四十二)年の二年間分について表3を作成 した。一九六六(昭和四十一)年三月十日には、大見謝恒寿名義で十七 件の試掘登録がなされている。竹富島と石垣島の間は約六・五キロメー トルほど離れているが、今回はその間の海域をはじめとして、竹富島周 辺 の 海 域 か ら 石 垣 島 に か け て が 調 査 地 点 と な って い る。 こ れ は、 「竹 富 島 海域から噴出している天然ガスには窒素、硫化水素が含まれている」た め で あ った。 「地 下 に お い て 石 油 ガ ス の 源 と な る 有 機 物 質 中 に 窒 素 を 多 く 含んでいる。これは底棲有孔虫の微小動物などの堆積物が嫌気性バクテ リ ア の 動 き で い ろ い ろ な 生 化 学 的 作 用 が 行 わ れ、 (中 略) そ の た め 地 球 科 学的な変化を受けて熱分解、分子の水和、酸化、重合などの結果から石 油が造成される」とし て )11 ( 、大見謝恒寿は着目したのであった。 稲 嶺 一 郎 名 義 の 沖 縄 本 島 で の 七 件 の 試 掘 登 録 を は さ ん で、 一 九 六 七 (昭 和四十二)年六月十四日には、三度、大見謝恒寿名義での試掘登録が行 われている。なんと、今回は三十六件もの大量の試掘登録であった。今 回は、石垣島の近海が四件、湾内が七件含まれているものの、残り二十 三 件 は 石 垣 島 の 島 内 で の 調 査 で あ っ た。 ま た、 一 九 六 八( 昭 和 四 十 三 ) 【表2】1962年-1965年における石油の試掘権(登録分) 登録番号 登録年月日 鉱業権者 島  名 鉱 区 所 在 地 試登12号 1962.12.4 嶺 井 元 奉 沖 縄 本 島 佐敷村 試登13号 同 上 同 上 同 上 与那原町 試登14号 同 上 同 上 同 上 西原町 試登15号 同 上 同 上 同 上 南風原町 試登16号 同 上 稲 嶺 一 郎 同 上 佐敷村 試登17号 同 上 同 上 同 上 知念村 試登18号 同 上 同 上 同 上  同 上 試登19号 同 上 同 上 同 上 知念村、玉城村 試登20号 同 上 同 上 同 上 玉城村 試登23号 1964.2.26 大見謝恒寿 竹 富 島 竹富町竹富 試登24号 同 上 同 上 同 上  同 上 試登25号 1965.6.29 稲 嶺 一 郎 沖 縄 本 島 美里村、具志川村 試登26号 同 上 同 上 同 上 具志川村塩屋、豊原、川田 試登27号 同 上 同 上 同 上 糸満町、豊見城村 試登28号 同 上 同 上 同 上 豊見城村座波名、名嘉地 試登29号 同 上 同 上 同 上 豊見城村与根、座波名 試登31号 1965.7.29 新 垣 安 助 同 上 西原町内間、兼久、中城村 試登32号 同 上 同 上 同 上 与那原町与那原、板良敷、当添、左敷村馬天 試登33号 同 上 同 上 同 上 中城村奥間、安里、屋宜、添石 試登34号 同 上 同 上 同 上 中城村伊集、北浜、安里、奥間、浜 出典)通商産業局商工部商工課編(1968)191-193頁より作成。

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【表3】1966年-1967年における石油の試掘権(登録分) 登録番号 登録年月日 鉱業権者 島  名 鉱 区 所 在 地 試登35号 1966.3.10 大見謝恒寿 石垣島 ・ 竹富島 石垣島竹富島間海域 試登36号 同 上 同 上 同 上     同 上 試登37号 同 上 同 上 石  垣  島 石垣市登野城および海域 試登38号 同 上 同 上 石垣島 ・ 竹富島 石垣島竹富島間海域 試登39号 同 上 同 上 同 上     同 上 試登40号 同 上 同 上 同 上     同 上 試登41号 同 上 同 上 石  垣  島 石垣市新川西方海域 試登42号 同 上 同 上 石垣島 ・ 竹富島 石垣島竹富島海域 試登43号 同 上 同 上 石  垣  島 石垣市新川、大川、石垣、登野城 試登44号 同 上 同 上 同 上 石垣市登野城、真栄里の南海域 試登45号 同 上 同 上 同 上 石垣市真栄里の南方海域 試登46号 同 上 同 上 竹  富  島 竹富町竹富の北方海域 試登47号 同 上 同 上 同 上 竹富町竹富の西方海域 試登48号 同 上 同 上 同 上 竹富町竹富の南西海域 試登49号 同 上 同 上 石  垣  島 石垣市新川および北方海域 試登50号 同 上 同 上 同 上 石垣市平得、登野城 試登51号 同 上 同 上 竹  富  島 竹富町竹富の北方海域 試登52号 1966.5.10 稲 嶺 一 郎 沖 縄 本 島 美里村北屋根、高原、与儀、北中城村渡口 試登53号 1966.7.23 同 上 同 上 南風原村兼城、本部、津嘉山、宮平 試登54号 同 上 同 上 同 上 南風原村津嘉山、喜屋武、山川、豊見城村金良 試登55号 1967.2.20 同 上 同 上 西原村、中城村 試登56号 同 上 同 上 同 上 中城村和宇慶、津波 試登57号 同 上 同 上 同 上 中城村安里、奥間、当間 試登58号 同 上 同 上 同 上 中城村伊舎堂、泊、屋宜、新垣 試登59号 1967.6.14 大見謝恒寿 石  垣  島 石垣市御神埼の北西方水域 試登60号 同 上 同 上 同 上     同 上 試登61号 同 上 同 上 同 上 石垣市大崎の南西方水域 試登62号 同 上 同 上 同 上 石垣市名蔵湾内 試登63号 同 上 同 上 同 上     同 上 試登64号 同 上 同 上 同 上     同 上 試登65号 同 上 同 上 同 上     同 上 試登66号 同 上 同 上 同 上     同 上 試登67号 同 上 同 上 同 上     同 上 試登68号 同 上 同 上 同 上 石垣市名蔵元名蔵 試登69号 同 上 同 上 同 上 石垣市名蔵、石垣、登野城 試登70号 同 上 同 上 同 上 石垣市名蔵 試登71号 同 上 同 上 同 上 石垣市新川、登野城 試登72号 同 上 同 上 同 上 石垣市新川 試登73号 同 上 同 上 同 上     同 上 試登74号 同 上 同 上 同 上 石垣市新川、石垣 試登75号 同 上 同 上 同 上 石垣市大川、石垣 試登76号 同 上 同 上 同 上 石垣市大川、登野城、平得 試登77号 同 上 同 上 同 上 石垣市大川、登野城、平得、真栄里 試登78号 同 上 同 上 同 上 石垣市大浜、真栄里、宮良 試登79号 同 上 同 上 同 上 石垣市大浜、宮良

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年三月二十日現在の試掘権申請中の「鉱業出願処理中」として、九十三 件が確認できる。このうちの何件が大見謝恒寿による申請かは判明しな いが、 試掘権が認められた上記小計五十五件 (二件+十七件+三十六件) 以外にも、九十三件の範囲内で存在したことが推察される。 さて、 ここで注目すべきは高橋庄五郎 (一九七九) でもロバート・D・ エルドリッヂ(二〇一五)でも重要な資料として利用されている、大見 謝恒寿 (一九七〇) との矛盾についてである。大見謝恒寿によると、 「油 田は男女列島から尖閣列島を経て、南西端の外縁は台湾の花蓮から与那 国 - 西表 - 石垣と連なる所謂 - 東支那海 - 台湾北部 - 琉球褶曲帯に現在 採 油 中 の 台 湾 の 新 竹 油 田 と 油 脈 を 同 じ く し て 広 範 囲 に 跨 って い る 大 油 田」 で あ る と 判 断 し て い た。 そ の た め に、 「一 九 六 三 年、 八 重 山 の 竹 富 島 を 皮 切 り に尖閣列島海域にまで及ぶ石油鉱業権 の 設 定 に 着 手 す る 事 に し た 」 と い う。 そ し て、 「設 定 区 域 が 広 域 に 跨 る の で 申 請作業を容易にするため、全体を五つ の区域に分け、手初めに沖縄の三カイ リ内の領海領域等(AB地区)へ鉱業 権を申請し、漸次その枠を領海外の大 陸棚地域(CDE)に拡大していく順 序 で 計 画 を 組 ん で み た 」 の だ と い う )11 ( 。 以上のような説明を述べた上で、大見 謝 恒 寿 は 表 4 の よ う な 区 分 を 提 示 し た。 さてこの鉱区への試掘権の申請につ 登録番号 登録年月日 鉱業権者 島  名 鉱 区 所 在 地 試登80号 同 上 同 上 同 上     同 上 試登81号 同 上 同 上 同 上 石垣市大浜、真栄里、平得 試登82号 同 上 同 上 同 上 石垣市大浜、宮良 試登83号 同 上 同 上 同 上 石垣市宮良、大浜、宮良湾内 試登84号 同 上 同 上 同 上 石垣市大浜の南水域 試登85号 同 上 同 上 同 上 石垣市大浜、宮良 試登86号 同 上 同 上 同 上 石垣市大里、宮良、白保 試登87号 同 上 同 上 同 上 石垣市白保 試登88号 同 上 同 上 同 上 石垣市白保、盛山 試登89号 同 上 同 上 同 上 石垣市宮良 試登90号 同 上 同 上 同 上 石垣市宮良、白保 試登91号 同 上 同 上 同 上 石垣市白保、盛山 試登92号 同 上 同 上 同 上 石垣市白保 試登93号 同 上 同 上 同 上 石垣市白保、宮良 試登94号 同 上 同 上 同 上 石垣市白保 試登95号 同 上 同 上 同 上 石垣市宮良、白保 試登96号 1967.9.29 神 山 芳 憲 久  米  島 具志川村の北西北方水域 試登97号 同 上 同 上 同 上 具志川村仲泊、西銘久間地の南方水域 試登98号 同 上 同 上 奥  武  島 仲里村奥武島の北方水域 試登99号 同 上 同 上 同 上     同 上 出典)通商産業局商工部商工課編(1968)193-196頁より作成。        【表4】大見謝恒寿が設定したという区域区分 区分 海       域 A 本島、宮古、八重山、西表、与那国等及びその領海域 B 尖閣列島及びその領海域 C アメリカの施政権の管轄地域内の同列島周辺領海域 D アメリカの施政権の管轄地域外の同列島北東海域 E アメリカの施政権の管轄地域外の同列島北西海域 出典)大見謝恒寿(1970)11頁より作成。

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いて大見謝恒寿は、地図を利用しながら次のように説明している。まず A地区として宮古島周辺 ・石垣島及び西表島周辺与那国島周辺を四角 で囲み、 「一九六三~六六年、 大見謝恒寿石油試掘権出願、 受理済、 一部 許 可」 と 記 入 し た。 続 け て B 地 区 と し て 尖 閣 諸 島 周 辺 を 四 角 で 囲 み、 「一 九 六 六 年、 同 人 石 油 試 掘 権 出 願、 受 理 済( 三 〇 九 件 )」 と 記 入 さ れ て い る )11 ( 。ロバート・D・エルドリッヂ(二〇一五)では図面自体が図版とし て 掲 載 さ れ て も い る 非 常 に 有 名 な も の で あ る )11 ( 。 大 見 謝 恒 寿( 一 九 七 〇 ) によれば、一九六六年の段階ですでに尖閣諸島周辺まで、大見謝恒寿に よる申請が行われて「受理済」だったというのである。 ところが、先述したように一九六七年までに大見謝恒寿に対して試掘 が許可されて登録された五十五の鉱区は、竹富島・石垣島およびその周 辺海域のみであった。そして、申請者不明であるが「処理中」の鉱区が 九 十 三 件 で あ った こ と も 注 目 さ れ る。 A 地 区 に 該 当 す る 宮 古 島、 西 表 島、 与那国島やその周辺海域が未だ残っているために、それら地区が九十三 件に含まれている蓋然性が高いのに加えて、九十三件という数値そのも のが重要である。大見謝恒寿(一九七〇)が記しているような、尖閣諸 島周辺の「受理済」の三〇九件の鉱区というものは、少なくとも琉球政 府 で は 件 数 が 多 過 ぎ て 手 続 き が 行 わ れ て お ら ず、 単 に 窓 口 へ と 書 類 を 「出 願 」 し た だ け の 件 数 だ っ た の で あ る。 そ の 証 拠 に、 当 時 の「 出 願 状 況 」 は「約一五〇〇件に達してい」たとの解説がなされてい る )11 ( 。琉球政府で は、 窓 口 へ の 出 願 → 受 理 → 処 理 手 続 き の 始 ま り → 処 理 中 → 許 可( 登 録 ) ま た は 不 許 可、 と い う 段 階 を 踏 ま え た 手 続 き を と って お り、 「出 願」 か ら 「処 理 中」 へ の 移 行 に 書 類 の 確 認 等 の 多 く の 時 間 を 要 し た た め で あ る。 こ の点を大見謝恒寿は、 「受理」と 「許可 (登録) または不許可」の二段階 であると錯誤しており、窓口へ書類を提出しただけで「受理」されて実 質的に「鉱業権者」になったと理解していたのである。 大見謝恒寿が一九六六(昭和四十一)年までに手続きを終えていた区 域は、 登録済、 「処理中」を合わせても、 宮古島から与那国島に至るA地 区であった可能性が非常に高い。一九七〇(昭和四十五)年の資料を作 成する際に、大見謝恒寿は、琉球政府の窓口へと出願すれば即座に受理 されたものであると錯誤してしまい、B地区として尖閣諸島周辺を記し たと考えるのが妥当であろう。 この一九七〇(昭和四十五)年の大見謝恒寿の報告書は、沖縄と日本 本土との対立を惹起する役割も果たした、なかなか罪作りな報告書であ る。そのような意味で、非常に重要な意味合いを持っている報告書なの であるが、このような報告書が作成されることとなった状況を次に確認 していくこととしよう。 四、海底油田への注目の高まりと鉱業法 さて、第三節の最初で確認をしたように一九六一(昭和三十六)年に は 新 野 弘 と ケ ネ ス・ O・ エ メ リ ー の 最 初 の 共 同 研 究 が 発 表 さ れ て い た。 そして、一九六三(昭和三十八)年三月のECAFE第二十一回総会の 決議に基づき、アジア地域における大陸棚の鉱物資源探査を促進する方 途を諮問するために、同年七月にはタイのバンコクで専門作業部会が開 催 さ れ た )1( ( 。 そ の 部 会 で、 「エ カ フ ェ域 内 各 国 の 政 府 代 表 な ら び に 専 門 家 か らなる常設の調査委員会のようなものの設立が望ましい」との内容を含 む勧告が採択された。この委員会は政府代表者を含める必要があり、一

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九六五(昭和四十)年十一月に東京で石油シンポジウムが開催された際 に政府代表者会議が開かれ た )11 ( 。会議では、 「エカフェ地域は広大であり、 発足当初から全域にわたる作業を行うことは困難であり、着実な活動を するため、韓国、台湾、フィリピンを含む海域を対象として出発するこ ととなった」とい う )11 ( 。CCOPの技術顧問となる地質調査所の早川正己 によると、 「海上物探は必ずしも石油だけを目標としたものではないが、 石 油 が 非 常 に 大 き な 要 素 を 占 め て い る こ と は 事 実 で あ」 っ た )11 ( 。 各 国 と も、 北 海 油 田 の よ う な 海 底 油 田 を 発 掘 す る た め に 血 眼 と な って い た の で あ る。 ECAFE内で委員会設立に旗を振ったのは、中国大陸出身で一九四 〇年代後半に台湾へと渡り、当時はECAFE産業天然資源部次長の職 にあったC・Y・リーである。一九六五(昭和四十)年頃から積極的に 動き始め、翌一九六六(昭和四十一)年にECAFE内にCCOP(ア ジ ア 沿 海 地 域 鉱 物 資 源 共 同 探 索 調 整 委 員 会、 Coor

dinating Committee for

Joint Pr ospecting of Offshor e Minerals ) が設立される立役者となったとい う。こうした経緯もあり、当時はまだ国連加盟国であった台湾(中華民 国)と韓国が率先して委員会へと参加した。これに日本とフィリピンが 加わって参加国は四ヶ国となり、アメリカ、イギリス、フランス、西ド イツが後にアドバイザーや協力国となっ た )11 ( 。 ただし、 CCOP設立当初における探査区域は、 台湾西部、 韓国近海、 フィリピン近海などに限られてい た )11 ( 。事態が急展開するのは、新野弘と ケネス・O・エメリーによって一九六七(昭和四十二)年に発表された 二つ目の論文によってであっ た )11 ( 。英語版は七月に、日本語版は九月に発 表されている。この論文で、東シナ海の尖閣諸島周辺域が「将来の海底 石 油・ガ ス 田 の も っと も 有 望 な 領 域」 で あ る こ と が 主 張 さ れ た の で あ る。 沖 縄 や 日 本 で も こ の 九 月 の 『日 本 の 科 学 と 技 術』 に 掲 載 さ れ た 論 文 に よ っ て、 世 間 の 強 い 関 心 が 集 る こ と と な っ た の で あ る )11 ( 。 第 二 節 で 紹 介 し た、 瀬長浩の講演会のわずか一ヶ月後のことであった。 こ の 発 表 を 受 け て ア メ リ カ は 翌 一 九 六 八( 昭 和 四 十 三 ) 年 六 月 か ら、 日 本 も 同 年 七 月 か ら 東 シ ナ 海 の 海 底 探 査 を 実 施 す る こ と と な った。 さ て、 こ の 七 月 七 日 か ら 始 ま った 高 岡 大 輔 率 い る 日 本 の 調 査 団 に つ い て は、 『尖 閣研究』のなかで復刻も行われておりよく知られている が )11 ( 、それと同時 並行で沖縄では重要な制度変更が行われていた。鉱業法の制定である。 一九六八(昭和四十三)年七月五日、琉球立法院第三十六回定例会に おいて鉱業法案が提出された。琉球立法院において経済工務委員長の盛 島 明 秀 が 説 明 し た と こ ろ に よ る と、 こ の 法 案 の「 発 議 理 由 」 と し て は、 「本土におきましては (中略) 合理的な開発を行う、 また鉱害の防止をは かつて保安の確保を期する」という目的で「昭和二十五年に新たな鉱業 法の制定を見て」いるために、鉱害対策などを重視する「本土法の改正 趣旨及び法律によつて本鉱業法案を発議することに」なったと説明され てい る )11 ( 。要するに法案の趣旨説明としては、単に日本本土に合わせただ けだというのである。 ところが、日本本土で法改正された一九五〇(昭和二十五)年から十 八年も経て、また琉球列島高等弁務官布令第三十三号が出された一九六 〇(昭和三十五)年から八年も経て、漸くと本土に合わせて作られた法 律である。この一九六八(昭和四十三)年の時点において、新たに法改 正しておく点があったと考える方が妥当であろう。それではその点は何 であったのであろうか。 「発議理由」に続く 「法案の要旨」では様々な改 正点が紹介されているが、本稿に関連して注目すべきは第二番目の「鉱

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業権の存続期間に関するもの」であっ た )1( ( 。 これは新鉱業法の第十八条および第十九条の部分に主として充当する ため、その条文を次に掲げておこう。 第十八条   試掘権の存続期間は、登録の日から二年とする。     2    前 項 の 期 間 は、 そ の 満 了 に 際 し、 試 掘 権 者 の 申 請 に よ り、 二回(石油を目的とする試掘権については三回)に限り延長 することができる。     3    前 項 の 既 定 に よ り 延 長 す る 期 間 は、 一 回 ご と に 二 年 と す る。     4    (省略) 第十九条    行 政 主 席 は、 前 条 第 二 項 の 申 請 が あ っ た 場 合 に お い て は、 試掘権者が次の各号に該当するときでなければ、延長の許可 をしてはならない。     一    誠実に探鉱をした事実が明らかであると認めるとき。     二    鉱床の状態を確認するため更に探鉱を継続する必要がある と認めると き )11 ( 。   つまりは、試掘権は二年間を期限とするとともに、仮に延長 ・再延長 をする場合にも試掘の実績を条件とするということが明示されたのであ る。これは明らかに、大量の試掘権の申請だけを行って、試掘をしない で 権 利 だ け を 保 持 す る と い う 状 態 を 禁 じ る た め の 条 項 で あ っ た と い え よ う 。 またこの鉱業法では、試掘権を設定するための琉球政府への納付金額 も改定がされている。法案の概要の説明では、 「本土法にならいまして、 ドル換算した額を端数整理した」という説明がなされてい る )11 ( 。その費用 は一件につき「八ドル三十セント」と定められ た )11 ( 。日本本土の円に換算 すると約三千円であった。さらには、鉱業法と同時に制定された鉱業法 施行法により、鉱業法以前の出願は鉱業法に基づく出願へと読み替えら れることとなったが、同時に鉱害対策などに関する書類を追加提出する ことが求められ た )11 ( 。従来の研究史では、この鉱業法による権利期間やそ の延長条件、登録手数料、追加書類のためのコストの発生などの存在を 全て看過してしまってきたために、当時者達の置かれていた状況を読み 誤ってしまってきたといえよう。当時者達にしてみれば、これは制度の 不利益変更であった。 この鉱業法の制定の影響を、直接的に受けることになったのは大見謝 恒寿らであった。前節でみたように三〇九件の出願が受理されて五十五 件が登録済であった大見謝恒寿は、残りの出願分に対しては鉱害対策の ための「予想される鉱害の範囲及び様態について記述する書面」を追加 で提出することが手続き処理を進める条件とされてしまった。しかもそ の権利は二年間しか続かない。多数の鉱区において探鉱を誠実に行わな ければ、延長も認められないものであったし、仮に延長が認められたと し て も そ の 都 度、 一 件 当 り 五 ド ル 六 〇 セ ン ト (約 二 千 円 = 約 六 七 〇 B 円 )11 ( )、 三〇九件ならば一、七三〇ドル四〇セント(約六十二万円=約二十一万 B円)の手数料を払う必要が発生したのである。沖縄の人々の平均年収 が約六十ドル(約二万円強=約七千二百B円)の時代のことであった。 このような手数料や権利期間などといった問題に直面させられた大見 謝恒寿に、更に大きな問題が湧き上がってしまった。先述した高岡大輔 を調査団長とする日本政府の調査団により、一九六八(昭和四十三)年 八月三十日より総理府特別会議室において尖閣列島調査報告会が開催さ

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れ た の で あ る )11 ( 。 そ こ で は、 「尖 閣 列 島 よ り 西 北 に 亘 る 広 大 な 東 支 那 海 大 陸 棚は世界的な油田開発地区になり、欧州における北海油田瓦斯田を凌駕 す る も の と な る で あ ろ う」 と い う 積 極 的 な 新 野 弘 の 見 解 と、 「今 直 ち に 石 油 資 源 の 開 発 に は 幾 多 の 技 術 的 困 難 性 は あ る が、 将 来 の 問 題 と し て も、 早急に国としての対処方針を固めねばならない」という消極的な佐藤光 之 助 地 質 調 査 所 長 の 見 解 が 提 示 さ れ た。 つ ま り 消 極 的 な 見 解 で あ って も、 技術的にすぐに採掘可能か否かはとにかく、豊富な石油資源の存在を保 証するものであっ た )11 ( 。それと共に、 「わが国 (日本本土の…引用者) 石油 企業がこの海域に本格的調査を計画した場合、調査にさきだち当然鉱区 の確保が必要であるが、現時点において、その鉱業権の受理、認可はど こで行われるのか」という点までもが日本政府内でも議論になっていた のであ る )11 ( 。 日本側による尖閣諸島沖の海底油田への触手を前にして、大見謝恒寿 は一九六九 (昭和四十四) 年二月一日に、 尖閣諸島北東部の海域へと五、 二一九件(全てに試掘権が認められると、約四万三千ドル=約一千五百 六十万円=約五百二十万B円の手数料の支払いが必要)にもおよぶ出願 を行ったのであ る )11 ( 。先述した鉱業法にかかる問題は一切解決されないま ま、日本本土の騒動と競う形で出願せざるを得なかったといえる。そし て日本側としても大見謝恒寿への対抗措置として、同年同月十一日には 石油開発公団が沖縄開発公団職員の古竪総光名義で、尖閣諸島の北西か ら 北 東 に か け て の 海 域( 一 部 は 大 見 謝 恒 寿 の 出 願 区 域 と 重 複 ) へ と 七、 六一一件もの出願を行ったのであ る )1( ( 。大見謝恒寿によって鉱区の出願が 着々と行われていくことに対して、日本本土側が横槍を入れることとな り、こうして尖閣諸島周辺の海底油田をめぐる権益争いの火蓋が切って 下ろされたのである。 五、    なぜ日本政府は沖縄の人々を怒らせたのか(1) 資源ナショナリズムの惹起 一九六九(昭和四十四)年に大見謝恒寿と古竪総光(沖縄開発公団職 員) の鉱区出願が行われて以降の情勢は、 秋山満宏 (二〇一二) やロバー ト・D・エルドリッヂ(二〇一五)第三章などに詳述されており、その 全 体 像 も お お よ そ 知 ら れ て い る。 県 益 と 国 益 と い う 対 立 構 図 が 出 来 上 が っ た こ と や、 沖 縄 内 部 で も 対 立 が み ら れ た こ と な ど も 先 行 研 究 に 詳 し い。 そこで本節では先行研究とは視角を変え、何故に日本政府がそこまで沖 縄の人々を怒らせてしまったのかという視点から、状況を整理すること としたい。 問題の発端は、前節で見た如く一九六八(昭和四十三)年の鉱業法で ある。この鉱業法は、尖閣諸島の沖合いに海底油田が存在していると脚 光が集っている最中、日本本土と法律を一体化するために作られた法律 であった。試掘権の期限を切り、延長の許可も試掘の実態があるものに 限り、手数料も日本本土と統一する。それは確かに合理的な法律の策定 であったであろう。しかしながらその意図が、大見謝恒寿が鉱区の出願 をして処理から登録を待っている状況(大見謝恒寿は「受理」されてい るから既に権利があると錯誤していたが)で、しかも更なる出願が見込 まれる状況で、大見謝恒寿を始めとする沖縄の人々による鉱区の仮押さ えを妨害する目的での不利益変更と判断されたのは当然である。祖国復 帰への期待感が高まっていた沖縄に対して、利権を前にした日本政府が

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行った仕打ちはこのように酷いものであった。 そして翌一九六九(昭和四十四)年二月の大見謝恒寿と石油開発公団 との出願合戦も、日本政府の圧力が明け透けに分かる状況下で行われて い る。 大 見 謝 恒 寿 は 直 後 の 同 年 三 月 十 五 日 ~十 九 日 に か け て 『琉 球 新 報』 紙 上 に「 先 島 列 島 の 石 油 調 査 報 告 」 と い う レ ポ ー ト を 掲 載 し て い る が、 そこでも「日本石油公団が出願する際に通産官僚の申し出を受けて私の 出願地域を日本石油公団に教えた琉球政府の責任は追及されねばならな い」と指摘されてい る )11 ( 。通商産業省の官僚は、沖縄の一民間人である大 見謝恒寿を軽視し、琉球政府へと圧力をかけて日本石油公団のために便 宜を図らせたのである。通産省の官僚は国益のために行動したのであろ うが、国益のためだからといって第三者が出願済の書類を参考に、日本 石油公団に便宜を図るのは明らかに不適切である。加えてそのような行 動が、琉球政府内の大見謝恒寿に同情した者により漏洩され露見してし まっていたのである。 こ の よ う な 日 本 本 土 の 官 僚 た ち の 行 動 は、 沖 縄 の 人 々 に「 ウ チ ナ ン チ ュー」 と 「ヤ マ ト ン チ ュー」 の 区 別 を 意 識 さ せ る に は 十 二 分 で あ った。 そして、この区別された意識は、県益と国益という対立軸以上の意識を 惹起させることとなったのである。先程の『琉球新報』の紙面にその問 題意識がよく表現されているため、少々長くなるがその部分を以下に抜 粋して掲げることとしよう。   最後に私が訴えたいのは、現在の日本石油公団の権益擁護の動きは まさに慶長十四年以後の内地的発想に基づく、日本の対琉球政策現代 版ともいうべき行為に対して、今や琉球同胞が立ち上がらねばならな いことである。日本石油公団の進出に私が抗議するのは、自分の権益 のためではない。 (中略)よみがえる琉球への夢と、 琉球一本立ちへの 使命感であることを敢えて断っておきたい。 (中略)   わが沖縄の権益獲得に外資である日本石油公団が乗り込んできたの だ。その態度と裏に隠された意図が分かっているので、同胞の理解を 得、さらに琉球の資源を死守すべく訴えているのである。 (中略)   次に、日本石油公団の池辺探鉱部長の談話に対して、二、三、分析 してみよう。池辺氏は「尖閣の開発は琉球開発公社を設立してやった 方が良い」と話しておられるが、しごくもっともなことである。琉球 の資源は、当然、琉球側が主体となって開発しなければならない。し かし、石油の場合、開発段階よりも鉱業権をどこが取得するかによっ て将来の利益に大きく影響する。 (中略) 仮に日本石油公団に鉱業権を 所有されると、琉球側が開発会社をつくっても所詮、日石公団の下請 け、労務程度のことしかやれないのだ。 (中略)   諸 外 国 で は 資 本 主 義、 社 会 主 義 を 問 わ ず 資 源 開 発 に は 国 家 政 策 的、 金 融 政 策 的 な 観 点 か ら 全 面 的 な バ ック ア ップ を し て い る な か で、 一 人、 琉球がちゅうちょしていると将来の琉球経済にとりかえしのつかない 結果が生じることを強調し調査報告の結びとする。   大見謝恒寿の叫びが伝わってくる文章であるが、ここで特に注目した い の は「 わ が 沖 縄 」 と「 外 資 で あ る 日 本 石 油 公 団 」 と い う 意 識 で あ る。 これは、一九六九(昭和四十四)年当時における世界的な資源ナショナ リズムの影響を強く受けている。周知のように、戦前から戦後にかけて 一国レベルでは存在していた資源ナショナリズム は )11 ( 、一九六〇(昭和三

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十五)年のOPEC結成や、一九六二(昭和三十七)年の国連総会にお ける「天然資源に対する恒久主権」の宣言によって世界的な潮流になり 始めてい た )11 ( 。この宣言は一九六六 (昭和四十一) 年に改訂され、 (1) 資 源の開発と販売は外国の手によらず資源所在国が自力で行うことが望ま しい。 (2)資源開発に従事する外資は、 受入れ国のコントロールに服さ な け れ ば な ら な い。 ( 3) 上 記( 1) の 早 期 実 現 の た め 外 資 は 労 働、 技 術、 経営の各分野で現地要員の訓練に当たらなければならない。 (4)資 源は本来所在国に帰するものであり、それゆえ資源所在国が資源開発に 従事する企業の経営、利益に対するシェアを増大することは当然の権利 である、などの内容となっていたのであ る )11 ( 。 さて、翻って日本と沖縄の関係を見てみるならば、当時の日本政府が 採った対応は純粋に中央集権主義に基づく官僚たちの行動であったであ ろ う。 日 本 本 土 が 沖 縄 を 支 配 す る な ど と い う 意 図 は な か った と い え よ う。 そ の 証 拠 に、 沖 縄 の 復 帰 を 日 本 本 土 側 で 準 備 し て き た 中 心 的 な 官 僚 は、 戦前の首里市で生まれ、沖縄一中から松江高等学校を経て東京帝大文学 部へと進み、戦後に総理府に採用されていた吉田嗣延であった。一九五 六(昭和三十一)年に衆議院議長室で開かれた自由民主党幹部会におい て、橋本龍伍から吉田嗣延に対して沖縄対策の組織作成についての質問 があり、 吉田嗣延の意見を受けて南方同胞援護会 (初代会長:渋沢敬三、 事務局長:吉田嗣延)が設立されてい る )11 ( 。 そして、一九六七(昭和四十二)年七月中旬に新野弘と高岡大輔の両 名が、南方同胞援護会の吉田嗣延のところへと「尖閣列島近海は、まれ に見る海底資源の宝庫で膨大な石油鉱脈があるものと推定される。将来 に備え何らかの施策を講ずべきだと思う」と持ちかけ、吉田嗣延が両名 を床次徳二総務長官へと面会させて、政府としての対応を迫っているの であ る )11 ( 。日本政府としても沖縄の事情を考慮するために、沖縄出身の吉 田嗣延を担当者に据えるという配慮を行っていたことは重要である。そ して、東京帝大文学部で学び官僚となっていた吉田嗣延は、日本が中央 集 権 体 制 に よ って 全 国 の 発 展 を 図 って い る こ と を よ く よ く 理 解 し て お り、 沖縄も全国にあまたある地域の一つとして、祖国復帰後に開発の波へと 乗せることを意図していたのである。 しかしながら、大見謝恒寿に代表される沖縄の側からしてみれば、そ れは「内地的発想に基づく、日本の対琉球政策現代版」という、支配= 被支配の関係に見えるものであった。日本の中央集権体制は、東京と地 方との支配=被支配の関係を要求するものであり、その地方が東海地方 であるのか、九州地方であるのか、関西地方であるのか、それとも沖縄 であるのかは関係がない。しかしながら沖縄の人々にしてみれば、この 支配=被支配の関係が沖縄にだけ適用されていると見えたのである。そ して、今もまた見えるのである。だからこそ、宗主国と植民地との関係 を念頭においた「天然資源に対する恒久主権」を望む論理が、県益とし て多くの沖縄の人々達の心に響いていくこととなったといえよう。 第二節で考察したように、祖国復帰後の沖縄経済は、日本本土の各県 と比べても著しく低くなることが指摘されていた。その乖離を一気に縮 める特効薬としての機能を、尖閣諸島沖の海底油田に期待していた沖縄 の人々にしてみれば、中央集権主義で事にあたる日本の官僚たちのスタ ンスは、到底理解できるものでは無かったといえよう。

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六、なぜ日本政府は沖縄の人々を怒らせたのか(2)混乱の拡大 これまで考察してきたような経緯を辿った尖閣諸島沖の海底油田をめ ぐ る 問 題 は、 大 見 謝 恒 寿 と 日 本 石 油 公 団 の 出 願 合 戦 が 行 わ れ た わ ず か 二 ヵ 月後の一九六九(昭和四十四)年四月に、新里景一が新たに出願合戦に 加わったり、台湾および中国が尖閣諸島の領有権を主張したりしてより 事態が混乱することとなっていった。一九六八(昭和四十三)年頃から 尖閣諸島沖の海底油田についての交渉をガルフ社とはじめた台湾 は )11 ( 、一 九七〇 (昭和四十五) 年七月にはガルフ社に対して石油探査権を許可し、 同 年 十 月 十 六 日 に は 尖 閣 諸 島 沖 の 大 陸 棚 の 海 底 資 源 の 領 有 を 宣 言 し た。 そしてこれを受け、同年十二月四日には中国の新華社報道が尖閣諸島の 中国領有を主張してい る )11 ( 。日 ・ ・ 中の対立は他の研究に譲り、ここで は日本本土側が開発を急いでいく中で、より沖縄との対立を深めていく 様子を明らかにしていくこととしよう。 台湾や中国が尖閣諸島の領有権を主張した後、 一九七〇 (昭和四十五) 年五月十五日には『尖閣油田の開発と真相

その二つの側面

』と 題 す る 文 章 が 作 成 さ れ た。 筆 者 と し て 「鉱 業 権 者   大 見 謝 恒 寿」 と 名 乗 っ ているが、この段階で大見謝恒寿に尖閣諸島沖の海底油田に関する試掘 権が認められていたかどうかは不明である。さて、この文章の中で大見 謝恒寿は、再び「幸いに尖閣油田の中枢部の鉱業権は、地元住民側に属 し て い る」 こ と を 強 調 し、 「こ の 権 益 の 地 元 側 に よ る 確 保 と、 利 権 協 定 に よる沖縄サイドの開発に起ち上るべきである」と述べた。そして「尖閣 油田の開発の態様如何が、復帰後の自立経済 県 ママ として沖縄の長き将来の 繁栄の命運を決する重大な鍵となる」と意気込んだのであ る )11 ( 。 この『尖閣油田の開発と真相

その二つの側面

』は、大見謝恒 寿によって各所へ送られたようである。これを受け取った一人である元 首 里 市 長 の 仲 吉 良 光 は、 同 年 九 月 八 日 - 九 日 の 『沖 縄 タ イ ム ス』 へ と 「尖 閣列島の大油田開発(上) (下) 」を寄稿した。仲吉良光は「私は、氏の 愛郷心に敬意を表し、相成るべくなら油田開発権は沖縄に保持、堅持さ せ た い」 旨 を 表 明 し、 「全 然 出 資 せ ず に 鉱 業 権 貸 し 付 け だ け で 七 五 パ ーセ ントの利益配当を得ている」イラン国営石油の事例を参考にする大見謝 案に賛成し た )1( ( 。また同年十月号の『法律時報』では、沖縄の金城睦弁護 士 に よ る 「沖 縄 か ら の 報 告」 と し て、 「日 本 の 産 業 界 が 自 国 領 内 の 油 田 に 色めき立ち、いかなる手段に訴えてでもこれを確保しようとする動機や 背景は、十分理解できるところではあるが、どうして地元鉱業権者の権 利を尊重したうえで、それとの協力のもとに開発を考えるのでなく、法 を犯してまで鉱業権そのものを取得(あえていえば奪取)しようとする の か」 と い う 疑 問 を 投 げ か け た 上 で、 「大 独 占 資 本 と 国 家 的・国 際 的 次 元 における処理が優先し、地元沖縄の権(県)益や個人の権利はないがし ろにされ危殆にひんしている」との訴えを全国の法曹関係者に向かって 行ってい る )11 ( 。 そして翌一九七一(昭和四十六)年一月には、沖縄経済開発研究所の 下 地 玄 栄 研 究 員 に よ って、 「沖 縄 側 が 敢 え て 県 を 主 体 と す る 開 発 を 強 く 主 張 す る 背 景 に は、 (中 略) 同 油 田 の 開 発 を 主 体 的 に 進 め る こ と に よ って 復 帰後の沖縄経済を支える主要な柱づくりにしたいという意図がある」と し、 「沖 縄 と し て は 同 油 田 開 発 に よ って 国 が 得 た 利 益 の 何 割 か を 政 治 的 な かけ引によって沖縄の地域開発に資するように利益誘導を考えることが 得 策」 で あ る と い う 主 張 が な さ れ て い る )11 ( 。 第 二 節 で み た 瀬 長 浩 の 分 析 と、

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第五節でみた大見謝恒寿の志しが、まさしく一直線上に連なっているの である。尖閣諸島沖の海底油田は、祖国復帰後の沖縄県経済を支える重 要な柱として、大きな期待感を抱きながら、当時の沖縄の人々たちに位 置付けられていたことがわかる。 このような沖縄側の尖閣諸島沖の海底油田に対する期待感は、当然の ごとく日本本土側にも強く伝わっていた。このため、南方同胞援護会主 催で尖閣諸島沖の海底油田についての座談会「開発を待つ尖閣列島の石 油資源」が開催されることとなった。座談会が開催されたのは一九七〇 (昭和四十五) 年十一月二十日のことであったが、 その内容が発表された のは翌一九七一(昭和四十六)年三月の『季刊沖縄』第五十六号が「特 集尖閣列島」というテーマで刊行された時のことであっ た )11 ( 。座談会の出 席者は、石油資源開発株式会社の池辺穣取締役、総理府沖縄北方対策庁 の櫻井 溥 )11 ( 、通商産業省鉱山石炭局の高橋達 直 )11 ( 、東海大学の星野通平教授 であり、司会を南方同胞援護会専務理事の吉田嗣延が務めている。 さて座談会では尖閣諸島沖の海底油田の有望性やプロジェクトの大規 模さ等が議論された後、司会の吉田嗣延が「沖縄現地では、尖閣のすご い油田が返還に際しての手土産になるとたいへん喜んで」いる様子を伝 え た 後、 「た だ 現 地 で は、 こ の 利 益 が 沖 縄 に 還 元 さ れ る か ど う か と い う こ とを懸念しております」と話を振っている。大見謝恒寿の奮闘努力によ り、沖縄の人々に尖閣諸島沖の油田の利益を沖縄へという県益意識が高 ま って い た た め で あ った。 こ れ に 対 し て 通 商 産 業 省 の 高 橋 達 直 は、 「沖 縄 の資源開発は沖縄に還元するような形をとらなければいかぬということ は、私ども十分留意して今後も進めていきたい」と表明した。 司 会 の 吉 田 嗣 延 が さ ら に 食 い 下 が って、 「原 則 は 分 か り ま す が、 (中 略) たとえば沖縄のほうがどういう点で利益になりますか」と直接的に尋ね る と、 石 油 資 源 開 発 公 団 の 池 辺 穣 は、 「日 本 グ ル ープ が 外 国 へ 行 って 仕 事 をすると同じような形で、沖縄県で作った会社と提携して、そこから権 利を五〇パーセントなら五〇パーセント譲受けることを条件に何十億円 という仕事」をすることを提案したため、吉田嗣延も「いまの話なら現 地 側 も 納 得 す る で し ょう」 と 返 答 し た。 池 辺 穣 は さ ら に、 「中 東 の 現 地 側 の国策会社と似たような立場」となることを強調して、イラン国営石油 の事例を出していた大見謝案に配慮した。沖縄の資源ナショナリズムに 配慮することが表明されたのである。 以上のようなやり取りを纏め上げる形で、司会の吉田嗣延は「県益と 国 益 が 一 本 に な る よ う な 形」 で あ り、 「県 益 な く し て 国 益 は な い し、 国 益 なくして県益もない。その辺の調和点をしっかりつくって、最終的には 国が協力するという形で企業を激励してやっていくということが、いま の日本の経済機構じゃないですか」と述べている。戦後の高度経済成長 期の日本における、中央集権体制の下で全国を発展させていった官僚た ちが抱えていた論理がそこには見事に表現されているのである。 ところが、司会の吉田嗣延が話をまとめたところで座談会は終わらな か っ た。 沖 縄 北 方 対 策 庁 の 櫻 井 溥 が そ こ に 反 対 意 見 を 投 じ た の で あ る。 非 常 に 重 要 な 点 で あ る の で、 そ の 際 の 櫻 井 溥 の 発 言 を 下 に 掲 げ て お こ う。 (櫻井溥) 本土と沖縄というように対峙した概念でやるのは、 石油に限 らず問題でしょうから、きわ立った形で常に前面に押し出していく必 要はないと思います。とりようによっては誤解を受けるかもしれませ んが、特にこういう大型プロジェクトの場合は、これは沖縄の資源で

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もあろうが、もっと大きく言えば人類の資産でもありますし、また日 本の国の資産でもあるわけです。ですから沖縄県民にどれくらい還元 されるだろうかという考え方ではなしに、当然この大型の事業が行わ れますと、地域住民に対する波及効果は十分あるわけですから、でき 上がった産物の五〇パーセントは必ず沖縄県民に還元する、という開 発方式は沖縄と本土を対峙した概念でとらえているような感じがしま すね。   県益と国益の折り合いを付けようと苦心していた沖縄出身の吉田嗣延 や、その意図をよく汲んだ池辺穣や高橋達直らとは違い、櫻井溥はここ で 国 益 が 県 益 よ り も 優 先 す る こ と を 明 確 に 宣 言 し て し ま っ た の で あ る。 しかも東海大学の星野通平教授が「いま桜井さんが波及効果と言ったの は、これは俗なことばですが、たとえば山の中に発電所をつくると飯場 が で き、 飲 み 屋 が で き て、 に ぎ や か な 町 に な る 」 と し て、 「 町 が 繁 栄 す る」という形での沖縄への還元を提案した。 確かに一般論としては、櫻井溥の述べていることは道理が通っている し、 星 野 通 平 の 話 も 座 談 会 の 戯 言 の 一 つ と し て は あ り 得 る 話 で あ ろ う。 しかしながら大見謝恒寿の檄文を受けて、沖縄の世論が資源ナショナリ ズムへと近くなっている中にあって、沖縄の状況を全く考慮しない櫻井 溥や星野通平の発言やスタンスが表明されたことは、結果として最悪な 状況を生み出していくこととなったのである。 一九七〇(昭和四十五)年から翌年にかけて、琉球政府側によって三 者の鉱業権を纏め上げて尖閣油田開発株式会社なり、沖縄石油資源開発 株 式 会 社 な り を 設 立 し よ う と い う 動 き が 存 在 し て い た。 し か し な が ら、 このような琉球政府の試みに対しても、大見謝恒寿の支援に加わった日 中友好協会 (正統) 沖縄県本部の大城昌男理事長は、 「その背後に県益な らぬ日米の独占資本が控えて居る」として強く反対を唱え た )11 ( 。日本本土 側が櫻井溥や星野通平のような発言を繰り返している中では、中国(中 華人民共和国)の関連機関が大見謝恒寿に協力を申し出ることは容易で あったろう。資源ナショナリズムの観点から鉱業権を捉えていた大見謝 恒寿を説得することはできなくなり、琉球政府の試みも全て頓挫してい くこととなるのであ る )11 ( 。日本の官僚が失言を行った隙を突いて、沖縄と 日本本土との間に楔が打たれてしまったのであった。 七、おわりに 佐藤栄作内閣の最大の功績となった沖縄の祖国復帰にあたって、沖縄 の人々は復帰後に米軍基地が無くなることにより、経済的に国内平均よ り も 遥 か に 下 回 って し ま う こ と を 懸 念 し て い た。 沖 縄 の 人 々か ら す れ ば、 尖 閣 諸 島 沖 の 海 底 油 田 は、 そ の よ う な 経 済 格 差 の 問 題 を 解 決 し て く れ る、 沖縄を日本経済のお荷物にしないための、祖国復帰の手土産であると考 えられていたのである。 戦後長らく沖縄の石油資源探索を行い、先島諸島から尖閣諸島にまで 試掘権を申請していた大見謝恒寿は、特に資源ナショナリズム的な考え 方を強めていくこととなり、沖縄の資源によって沖縄の人々が豊かにな る こ と を 強 く 望 ん だ。 そ し て 大 見 謝 恒 寿 の 強 い 資 源 ナ シ ョ ナ リ ズ ム は、 沖縄の多くの人々に共感を与えるとともに、祖国復帰後の沖縄経済の行 く末という点からも地元で好意的に受け入れられていたのである。

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