• 検索結果がありません。

Ł\Š€”ƒ.P65

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Ł\Š€”ƒ.P65"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

難民

難民

国際連合

難民高等弁務官

事務所

アフリカ

大湖地域

危機

悲劇はこうして起こった

UNHCR

1998

年第

3

号(通巻 110 号)

(2)

1 9 9 4年の虐殺に対する報復として殺された。 一方、援助機関は、あるフィールド職員の言葉を借 りれば「山のようなジレンマ」に、日々直面していた。 ジェノサイドの加担者であふれ、場合によっては彼 らに支配されているキャンプにも、人道援助機関は食 糧を与えつづけるべきなのか。フィールド職員たちは、 自分の命や、何万人もの難民を救う努力を危険にさら してでも、森のなかで起きた新たな大虐殺のことを世 界に伝えるべきなのか。このような極限状態のなかで、 「自発的帰還」の原則は現実的といえるのか、また実施 可能なのか。 ジェノサイドは、現在のルワンダ再建の努力にも影 を落としつづけている。また隣国ブルンジでも、同じ ような内乱が原因で、過去4年間に1 5万人もが命を落 としている。このことは、外の世界にほとんど知られ ていない。 ルワンダでは対立する両陣営に よる殺し合いが続いている。刑務 所は満員状態だし、ほとんどの収 監者はおそらく一度も公正な裁判 を受けていない。ルワンダ政府は、 生き残った無実の人々よりも、難 民流出や混乱のきっかけとなった 殺りくの当事者たちを国際社会が 優遇しているとして、世界に疑い の目を向けている。復興と再建はなかなかすすまず、 不吉なことに、新たな殺りくが拡大している。 オルブライト長官は、「ルワンダの人権問題には、 あきらかに改善の余地がある。けれども5 0万人もの国 民が殺された国にとって、ふたたび結束し和解するの は非常にむずかしいのだということを、私たちが理解 するのも大切だろう」と語った。 結束と和解。それには大変な時間がかかりそうだ。 これまでに計3 6人のU N H C Rフィールド職員とその 家族が、殺されたり、殉職したり、行方不明になって いる。他の人道機関にも同じような犠牲者が出ている。 本号は彼らの活動と思い出に捧げる(3 1ページ参照)。 ジェノサイド(民族大量虐殺)――。どんな言語に おきかえても、これほど寒気のする言葉はないだろう。 ふつうの人間では考えられない行為を意味するだけ に、日常的なおしゃべりのなかでも、ビジネスや政治 の場であっても、誰もがこの言葉を口にするのはため らうものだ。 1 9 9 4年、ルワンダの「キリング・フィールド(殺り くの原野)」では、数十万人が虐殺された。しかしそ の事実が広く認められるようになったのは、ごく最近 のことである。先日この地域を訪れたオルブライト米 国務長官は、これまでの公式見解を修正し、「われわれ 国際社会は、1 9 9 4年にルワンダでおきた残虐非道な行 為の初期に、もっと積極的な措置をとり、そこで起き ているのがジェノサイドであることを認めるべきだっ た」と語っている。 この虐殺事件では、おびただし い数の犠牲者が出たが、その後も 似たような事件があいつぎ、アフ リカ中部の大湖地域における危機 は、他の人道上の緊急事態とは大 きく異なるものになっていった。 大虐殺の後、ルワンダ人2 0 0万人 以上が国を逃げ出した。その背景 には旧指導者たちによる後押しや 無理強いがあったが、ほとんどの 人は誰かの後押しなどなくても、自分たちが目撃した 事件や報復への恐怖におののき故郷を後にした。 タンザニアやザイール東部におかれた難民キャンプ は、多くがぞっとするほど劣悪な状況にあり、大部分 のルワンダ難民が帰国したがっているのは明らかだっ た。しかしここでも、旧指導者たちが強い影響力をふ りかざして帰還を阻止しようとした。このため首都キ ガリの新政府が帰還民受け入れの姿勢を示したにもか かわらず、恐怖に脅えた難民たちは、ためらいもなく 国外にとどまる道を選んだのである。 内乱が急拡大するなか、1 9 9 6年にキブ・キャンプが 崩壊したときも、二、三十万人の難民が不安定な未来 が待つルワンダに帰るより、命を落とす危険をおかし てでもアフリカ中部の密林に逃げこむ道を選んだ。そ して、かぞえきれないほどの人々が無差別に、また

ジェノサイドとは

編集部から

ルワンダの大虐殺とその後の混乱で犠牲となっ た子ども

(3)

難民 1998年 第3号

編 集 者 : Ray Wilkinson 寄 稿 者 : Paul Stromberg

Fernando del Mundo Augustine Mahiga Craig Sanders Peter Kessler Vincent Parker 編集アシスタント : Sylvie Daillot Marina Ronday-Cao Virginia Zekrya 写 真 部 : Anneliese Hollmann Anne Lau-Hansen デ ザ イ ン : WB Associés-Paris 制   作 : Françoise Peyroux 総   務 : Anne-Marie Le Galliard 配本・発送 : John O'Connor Frédéric Tissot 日本版 翻 訳 協 力 : 藤原 朝子、今井洋子、 恵谷 由紀子、佐藤 綾子 編集・総務 : 日本・韓国地域事務所 広報室 『難民 R e f u g e e s』誌は 、 U N H C R (国連難民高等弁務官事務所)ジュ ネーブ本部・広報部と東京にある 地域事務所が発行する季刊誌で す。寄稿記事に表わされた意見は、 かならずしもU N H C Rの見解を示 すものではありません。また図示 された国境の表示は、各領土およ びその政府当局の法的立場に対す るU N H C Rの見解を表明してはおり ません。 掲載記事の編集権はU N H C Rに あります。掲載記事・写真のう ち、著作権©表示のないものの転 載・複写には許可が要りません 。 また©表示のない写真は、事前に 承諾を求めた出版の目的に限り使 用を認めます。 本誌の日本語版制作協力:(株) イソラコミュニケーションズ( 東 京) 、英語版および仏語版制作協 力:ATAR sa(スイス)。本誌の発 行部数は、英語、仏語、ドイツ語、イ タリア語、日本語、スペイン語、 アラビア語、ロシア語、中国語の 各国語版を合わせ20万6000部。 発行: UNHCR日本・韓国地域事務所 〒107-0052 東京都港区赤坂 8-4-14 TEL 03-3475-1615 FAX 03-3475-1647 郵便振替 口座番号 : 00130-4-59734 加入者名: UNHCR 業務時間: 月曜∼金曜日 9:30 ∼17:30 (昼休み12:30∼13:30) 日本語版発行:1998年6月 表紙: 1994年、ゴマに到着するルワンダ難民。 写真: UNHCR / J.STJERNEKLAR

3

4

アフリカ大湖地域で は、何万人もの難民が 命を落とした。しかしはる かに多くの人々が、けわし いジャングルを何百キロも 歩いて、かろうじて生き延 びた。

18

ほ と ん ど の 難 民 が 歩 い て ル ワ ン ダ に 戻るなか、幸運な者だけが 車に乗れた。

26

大規模な難民流入 で、アフリカ中部に 環境破壊が広がった。 1 9 9 8年 第3号(通巻1 10号)

2

編集部から

●1 9 9 4年にアフリカ大湖地域で起きた大量虐殺が、 その後の大混乱の引き金となった

4

特集

●大湖地域は、現代史上もっとも大規模で複雑な 人道危機のひとつだった−レイ・ウィルキンソン ●目撃証言:強烈な悪臭がただよう地獄のような 世界−キリアン・クラインシュミット ●年表:惨事はいかに進行したか ●賞賛されることなき英雄たち:援助活動に不可欠 の現地職員−ピーター・ケスラー ●目撃証言:最初に惨事をさがしあてた者−ダイ アン・スチュアート

1 4

タンザニア

●「寛容なタンザニア」の変化 −オーガスティン・マヒガ

1 6

危機

●地図と写真で見る難民の流出と帰還

1 8

ルワンダ

● 帰郷……不安定な未来を覚悟して −ポール・ストロンバーグ ● 子どもたち:幼い者が標的に

2 2

オピニオン

● 誰もが手詰まりに−デニス・マクナマラ

2 3

ブルンジ

● 世界に忘れられた危機−レイ・ウィルキンソン ● 現地N G Oのすばらしい活躍

2 6

環境

● 豊かな自然はどこに行ってしまったのか? −クレイグ・サンダース

3 0

メディア

● 報道はなぜまちがったのか −ニック・ゴウィング

3 1

危機の犠牲となったU N H C R職員

(4)
(5)

難民 1998年 第3号

5

|

C O V E R S T O R Y

|

|

C O V E R S T O R Y

|

ルワンダの大虐殺はこれまでにない 規模に達し、おびただしい数の難民が流 出しているといううわさが広まった。 そのころ、隣国タンザニアでは、モリー ン・コネリーをはじめとする援助職員 たちが、不安のなか、毎日のように国 境地帯の見回りに出かけていた。 しかし当初は、不吉なほどの静けさ につつまれていた。「なんの動きもなか ったし、なんの情報も入ってきません でした」とコネリー。「ジェノサイドは 避難民たちも飲み込んでしまったので しょうか。そもそも彼らは生きている のでしょうか。私たちは真空状態のな かで手がかりをさがしました。不気味 な感じでした。」 1 9 9 4年4月2 8日、コネリーの小さな偵 察チームは、いつものように国境にか かるルスモ橋に近づいた。「そこから見 あげると、ルワンダ領土内の丘が人で 埋めつくされていました。見わたす限 りのアフリカの大地が人々で覆われ、 波のようにこちらに押し寄せてきたの です。」 この越境地点だけでも、2 4時間でルワ ンダ人2 0万人以上がタンザニアに入っ てきた。それはフィールド職員たちが、 現代でもっとも急速で規模の大きい難 民流出だったと語る集団避難だった。 後に「アフリカ大湖地域難民危機」 と呼ばれるようになった事件は、数時 間のうちに国際的な一大難民問題へと 急発展し、その間接的な影響は現在もひ ろがり続けている。 1 9 9 4年、ルワンダから数十万人が四 方八方へと逃げ出した。大部分はルワ ンダ人だったが、なかには混乱に巻き 込まれたブルンジ人やザイール人もい た。7月にザイールに逃げ込んだ推定5 万人は、初期の混乱のなかでコレラな どの伝染病にかかって死んだ。約3年後 には、報復的な殺りくと病気が原因で、 数万人が密林のなかで命を落としたと みられている。 アフリカ中部の政治・軍事地図はす っかり変わってしまった。大虐殺とフ ツ系住民流出の後、ルワンダでは新政 府が樹立され、新しい地域・国際同盟 が形成され、アフリカで最も長く権力の 座についていたザイール(現コンゴ民主 共和国)のモブツ元大統領は、国家元首 の地位から引きずりおろされた。 人道機関は、かぞえきれないほど無実 の人の命を救ったが、そのなかで援助 活動員自身が命を落とすこともあった。 難民を支援するという単純なはずの計 画が、第二次大戦後に難民保護・援助体 制が構築されて以来、最大の混乱をきわ める泥沼にはまりこんで しまったのである。 援助機関は、次のよう な非常にむずかしいジレ ンマに陥った。①殺人犯 を支援することになると 知りながら、女性と子ど もへの食糧支援を続ける べきか。②まだ生きてい る難民を救う活動を危険 にさらしてでも、1 9 9 7年 に密林のなかでおきた残 虐行為を世界に伝えるべきか。③自発 的帰還という難民保護の大原則を見直 すべきか(さもなければ、人々はほぼ 確実に死ぬという状態だった)。 そこには簡単な答えなどなく、過去 ほぼ4年間にとられてきた決断は、依然 としてU N H C R、非政府組織(N G O)な どの人道機関、関係国政府、そして難 民たち自身を悩ませてきた。こうした 状況は、今後の危機への対応にも影響 を与えるだろう。 U N H C R幹部で、アフリカ中部におけ る活動で何か月も中心的な役割を果た してきたフィリッポ・グランディは、 「毎日がジレンマの連続でした」と語る。 「そして誰もが、永久に癒やされること のない傷を心に負いました。」 一連の危機の発端は、1 9 9 4年4月に大 量の難民がルスモ橋に押し寄せた時で はなく、ルワンダの隣国ブルンジ初の 民主選挙で選ばれたヌダダイエ大統領 (フツ出身)が、1 9 9 3年1 0月に反政府勢力 の兵士に暗殺された時とされる。これ をきっかけに地方部で報 復的な虐殺がおき、さら にその報復を恐れたフツ 系住民7 0万人が、ルワン ダ、タンザニア、ザイール に逃げ込んだ。 ブルンジ難民への対応 は、わずか数か月後にお きたルワンダ難民への対 応に大きな影響を与えた。 ルワンダ難民がタンザニ アに到着する頃には、大

それは現代史上もっとも大規模で、もっとも複雑な人道危機のひとつだった。数百万人を巻き込み、アフリカ中

部の政治地図を永久に変えた事件のなかで、何十万人もの人々が命を落とした。しかし助かった人の数は、はる

かに多い。

レイ・ウィルキンソン

暗黒のなかで

見あげると、

ルワンダ

の丘が人で埋めつく

されていました。

見わ

たす限りのアフリカ

の大地が人々で覆わ

れ、

波のようにこちら

に押し寄せてきたの

です。

特 集

(6)

このンガラをはじめとするキャンプで、タンザニアは数十万もの難民を受け入れた。

|

C O V E R S T O R Y

|

部分のブルンジ難民は帰還を果たして いたが、ブルンジ難民むけに整えられた インフラ(社会基盤)、不測事態対応計 画、食糧備蓄が、新たに到着したルワ ンダ難民の援助に役立ったのである。 U N H C R不測事態対応計画の責任者 で、後に緊急事態調整官となったコネ リーは、「とても運がよかったのです。 ほとんどの物資が適切な場所にありま した」という。備蓄にくわえて、「難民 援助に関しては定評のあるタンザニア 政府の協力がありました。現地には多 数の援助機関がいましたし、難民流出 の規模が大きかったので、すぐに国際的 な支援も集まりました。」 難民たちも、まとまりがよく健康で、 1年以内に5 0万人がタンザニア政府に援 助を求めた。 このため初期段階は、 この危機にも対応できる ように思われた。しかし すでに、その後のジレン マと悲劇を予感させる不 穏な事件が起きていた。 ベナコ・キャンプでは、 虐 殺 加 担 者 と 判 明 し て い る 人 物 を U N H C Rが追い出そうとしたところ、怒 った若者3 0 0 0人が暴徒化し(なかには薬 物を使っていたり、棒やナタを手にして いる者もいた)、小人数で丸腰の援助職 員を取り囲んだ。「タンザニアの警官2 0 人がやってきて、威嚇射撃をしてくれた おかげで、事態は収まり、外国人の命も 助かったのです」と、ベナコ・キャンプ の責任者ジャック・フランカンは語る。 そしてザイールの小さな湖畔の町ゴ マに、1 0 0万人以上が押し寄せてきた7月 半ば、危機はとうとう現場職員の手に負 えなくなった。 ベルギーの植民地時代、ゴマ、ブカブ、 ギセニといった町は田園風のおもむきを もつ別荘地で、湖畔には白塗りの豪邸と ヨーロッパの高級レストランが立ちなら んでいた。地平線には雄 大な活火山がそびえ、その 山腹にはマウンテンゴリ ラなどの珍しい動物が生 息していた。 モブツ政権時代の3 0年 間、この地域の繁栄は下 降線をたどったが、国境を示すたった ひとつの柵を越えて難民の波が押し寄 せてきたときは、落ちぶれたなかにも、 まだ魅力と優雅さを残していた。 そこにやってきた難民の母親たちは、 服に子供たちをしがみつかせ、両手い っぱいに家財道具をかかえていた。老 人たちは松葉杖をつき、手押し車に乗 せられていた。そして若い男たちは制 服や軍服に身をつつみ、あらゆる種類 の武器を手にしていた。武器の一部は 捨てられたが、それ以外はこっそりザ イールにもちこまれた。 難民キャンプは、武装解除され、(安 全保障上の理由から)不安定な国境地 帯から離れた場所に設置されているの が望ましい。しかしゴマ地区はすでに満 員状態だったため、ザイールの地元当局 は新たに到着した難民たちに対して、ゴ マを抜けて1 0キロあまり西にあるムグン ガ・キャンプか、北方のいくつかの場所 に行くよう指示した。 難民たちは主にフツ系だったため、 長くツチ系住民が多数派を占めてきた

一番ひどい時期に

は、

わずか1日で7 0 0 0

人以上が命を落と

した。

(7)

難民 1998年 第3号 キサンガニ:われわれは、想像を絶するかたち でこの町に飲み込まれ、信念とエネルギーを奪い 取られ、対応力の限界に達していた。まるでアド ベンチャー映画『インディ・ジョーンズ』のな かにいるようだった。ただし現実の世界は、映画 より恐ろしく、強烈な悪臭がただよい、不潔だっ た。まるで地獄だ。 われわれは、果てしないジャングルに迷い込ん だ1 0万人を探しまわった。 いた! そこで植民地時代の古い機関車「ジャ ングル・トレイン」で、密林のなかをすすんだ。 列車が数メートルも登れないほど湿度が高いと きは、線路に砂をまき、燃料をくべて、世界中の 人々とマスコミ、そして反政府勢力が注目するな か、人間の命の価値が失われつつある場所まで、 なんとか前進した。 とちゅう難民たちは列車を歓迎してくれたが、 それは恐怖に転落する前の楽しい瞬間だった。 さらに森の奥にすすむと、死臭がしてきた。 暗くもやのたちこめた森のなかに、目が大きく くぼみ、まったく反応のない生ける屍がみえてき た。3日前に沼に落ちたある女性は、なんとか命 はある。泣きつづける子どもたち。泥にまみれた 死体と瀕死の人々。元気な男たちもいたが、おそ らく(ルワンダでは)他の人々を追い立てていた 連中だ。しかし彼らも、いまや自分が追い立てら れる立場になった。死にそうな人々を前に、尋問 などできるはずがない。 悪魔の仕業のような雰囲気 カセセ・キャンプ(キサンガニの南):8万人が 約束の飛行機での帰還を待っている。しかしまだ 使用許可は出ない。毎朝2 0 0人ちかくが死に、医 者や栄養士たちは不可能な任務に直面していた。 彼らは死体を葬り、いくらかの食糧と医薬品を与 え、ビニールシートと毛布を配ると、安全を求め て町に姿を消して行く。 1週間がたった。戦闘は反政府軍、村人、難民 を巻き込んだ。誰もいない。みな姿を消してしま った。かつてコレラ患者でいっぱいだったセン ターは放棄され、担架はあるが、誰も乗せられて いない。何週間にもわたる活動のなかで常に感じ てきた死臭さえも消えた。悪魔にあやつられてい るような不気味な感じがする。難民たちは追い 立てられて散り散りになったが、一番の標的に なったのは、女性と子どもたちだ。何層にも重な った難民の死体が、大きな穴に投げ込まれ、焼 かれた。U N H C Rのビニールシートは、死体を焼 くのに理想的な役割を果たした。援助物質が、 そんなふうに使われることがあろうとは誰が想 像しただろう。 最終的に森を抜け出せたのは、一体何人だろ う。森は決して教えてくれない。 「恐怖列車」とトラックが、1日1 5 0 0∼2 0 0 0 人を運び出した。あるとき森にいた難民たちは、 これが最後の列車だと教えられた。最終列車! おびただしい数の人々が列車に殺到した。われ われはその列車を引き受けるために、スピード ボートでコンゴを横断した。すると誰かが私に こう言った。「列車内で死人が出ているぞ」 ふたつの車両には、死体と瀕死の人々が1メー トルの高さまで積み上げられていた。他の人々 は、この死体の山の上に立っていた。ある1 0歳 くらいの子供の死体は、汗と尿で1 0 0キロほど にふくれあがっていた。列車の片側が開けられ ると、死体も生存者も外に転がり落ちた。 保護や援助の基準は忘れられてしまった。一 人ひとりと面接する時間はなく、飛行機、列車、 トラックは定員オーバーになるまで難民たちが 詰め込まれた。ジャーナリストも、子どもたちに 食糧を与え、死体を運ぶのを手伝った。 キサンガニとザイール東部全域における援助 は、「不可能な任務」だった。多くの間違いもあ ったが、私は人道援助者として、また人間とし て、他にどうすべきだったかのか今も分からな い。ひとつだけ確かなのは、この任務は、私たち 全員にとって永遠に忘れられないものになった ということだ。あの森のあの光景、あの悪臭、 あの暗さを忘れ得ないだろう。

7

|

C O V E R S T O R Y

|

他の場所では歓迎されないだろう、とザ イール人たちは言った。この指摘はほ とんど重要視されなかったが、それが 真実をついていたことは後の出来事で はっきりした。 いまや難民たちは、いつ死ぬかわか らない危険な状況におちいっていた。 とくに北部に連れていかれた人々は、 死の瀬戸際に立たされた。水はすぐ近く の湖にあったが、それでも一番苦しい 状況にある人たちにとっては遠かった。 下痢やコレラなどの病気が、あらゆ る人々を襲った。死体は白い布かワラ のむしろに包まれ、道端に寄せられた。 その数はあまりに増え、フランス軍や ザイールのボーイスカウトを中心にす すめられた埋葬作業も追いつかないほ どだった。とくに周辺の黒い地盤はゴ ツゴツとした溶岩質で非常に固く、小 さな穴を掘るにもダイナマイトを使わ なくてはならなかった。 それは、1 0年前のエチオピア大飢饉 のときと同じくらい悲惨な光景だった が、多くの国際的なテレビ局が、恐怖 の全貌を世界に伝えることはなかった。 1 9 9 4年7月には、わずか1日で7 0 0 0人以上 が命を落とした日もあった。

世界の反応

「似たようなかたちのものをみると、

そこはまるで映画『インディ・ジョーンズ』の

世界だった。ただしもっと不潔で、強烈な悪臭が

ただよう、まるで地獄だ。

1 9 9 7年、恐怖にふるえる数万人の難民が、ザイールの町キサンガニを目ざして いた。キリアン・クラインシュミットは緊急フィールドチームを率いて、難民たちの 落ち着き先を準備し、死の淵から救った

(8)

|

C O V E R S T O R Y

|

かならず震えがきて、死体を思い出し ます」とフィリッポ・グランディは言 う。「ジュネーブにいても変わりません。 あの恐ろしいかたまり。何でもないワ ラのむしろにみえますが、あのかたま りは死体そのものよりも恐怖を呼び起 こすようになりました。」 最初の数週間で、死者の数は5万人に 達した。なかにはきわめて不可解な死 をとげた人もいる。一部の難民たちは、 湖近くにある火山性の深い洞窟に住み ついたが、黒い岩から染み出てくるガ スにやられてしまったようだ。 国際社会は、最近のボスニアなみの 大規模な対応をとった。数週間もする と、2 0 0ちかい援助機関がゴマにやって きた。いずれも援助が最大の目的だっ たが、多くの機関は、こうしたマスコ ミの注目する危機がもつ宣伝力と資金 調達のチャンスもねらっていた。一方、 各国政府は資金、専門技術、軍事力など の面で支援を行なった。 ボスニアでは、人道活動に軍の助力 を認めるかどうかをめぐり、人道機関 や関係者の間で大きく意見が割れた。 しかしアフリカ中部では、とりわけ手 に負えない圧倒的な状況下で短期間に おびただしい数の人々を救うには、十 分に組織された軍の資材補給能力(と くに空輸)を利用するしかないことが 強く認識された。 ゴマでの難民救援活動が始まってか ら2週間で、国際社会は推定2 0億ドル を投じた。この地域の長期的な経済的・ 社会的開発に同程度の金額が投資され ていれば、そもそも大惨劇は避けられた はずだ、と救援活動が終わった後になっ て分析する専門家は多い。しかし現実派 は、そうしたシナリオは理論的には正し いかもしれないが、主要拠出国の有権 者は平凡でありふれた長期的プロジェ クトに、それほどの大金を出したがるも のではない。胸を締めつけられるよう な危機に対してこそ反応をみせるのだ、 と指摘している。 死者が減ってくると、危機は果てし なく複雑な局面にはいった。それまで は、問題も比較的わかりやすいと思わ れていた。まず難民の流出に対応し、 人命救助活動をして、状況を安定化さ せたら、大規模な帰還計画を立てはじ める――。しかし物事はそう簡単に運 ばない。古い共同体や村の構造は国外 でもそのまま維持され、最初のジェノ サイドの先頭に立った旧政府高官と民 兵組織インテラハムウェが、新しいキ ャンプの支配権を握ったのだ。 敗走したルワンダ軍の兵士たちも、 依然として結束がかたく、多くの武器を もっており、民間人キャンプのすぐ外 側にテントをたてた。当時、各キャンプ の入り口では、サングラスにダークスー ツ姿で、これみよがしにルワンダのナ ンバープレートをつけた高級車メルセ デス・ベンツに乗った大勢の男たちが、 キャンプ内の若い殺し屋たちに現金の 束をわたす光景がよくみられた。 帰還に同意するなどの「ルール違反」 をしたり、旧指導層に反発した難民た ちは、殴られたり殺されたりした。食糧 の配給は事実上かつての護衛隊が管理 しており、結果的に、(とくにU N H C R は)大虐殺の犯人たちに食べ物を与え、 保護し、1 9 9 6∼9 7年に起きた事件のおぜ 1 9 9 3年1 0月2 1日 ブルンジ初の民主選挙で選ばれたヌダダイ エ大統領が、反政府勢力の兵士に殺される。 報復的殺りくが地方部を襲い、それを恐れ たフツ系住民7 0万人が、ルワンダ、タンザ ニア、ザイールへと逃げ込む。 1 9 9 4年4月6日 ルワンダとブルンジの両大統領の乗った飛 行機が、キガリの空港の近くで謎の墜落。 両大統領は死亡。ルワンダ兵と民兵集団イ ンテラハムウェは民家をしらみつぶしに捜 索し、5 0万∼1 0 0万人が殺される。 1 9 9 4年4月2 8日 2 4時間でルワンダ人約2 5万人が、ルスモ 橋をわたってタンザニアのンガラに流出。 この最初のフツ系難民の避難は、現代史で 最も大規模で急速な難民の流出となる。 1 9 9 4年7月1 4日 事態はさらに悪化。4日間でルワンダ人 1 0 0万人以上がザイール東部の町ゴマへ押 し寄せる。コレラが発生し、劣悪な衛生状 態のキャンプでは数週間で5万人が死亡。 大規模な国際援助がはじまり、最初の2週間 に2 0億ドルがつぎ込まれる。 1 9 9 4年8月 U N H C Rがゴマからの最初の帰還を組織。 翌日、帰還にむけて待機していた難民を過 激派が襲う。ザイールとタンザニアのキャ ンプでは、難民を政治的・軍事的に支配し 続けようとするインテラハムウェが日常的 に難民たちを襲い、殺害。 1 9 9 5年1月 U N H C Rは旧ルワンダ兵を純粋な難民から 引き離そうとするが、国際社会はこの呼び かけを無視。U N H C Rはザイール軍兵士 1 5 0 0人を雇って、ゴマ、ブカブ、ウビラの キャンプの治安維持にあたらせる。 1 9 9 6年7月 国際的な圧力の高まりで中止されるまでに、 ルワンダ難民1万5 0 0 0人が、ブルンジ北部 のキャンプから強制送還された。7月2 5日 にブルンジでクーデターが起きると、さら に6万5 0 0 0人がU N H C Rに帰還を申請し、 ブルンジでの活動は8月に終了。 1 9 9 6年1 0月1 3日 ザイール東部で反乱が起こった結果、難民 キャンプはすべて破壊され、モブツ政権が 倒れる。ウビラの北にあるルニンゴ・キャ ンプがまず襲撃され、ほかのキャンプも何 度となく襲われた。 1 9 9 6年1 1月1 5日 U N H C Rはザイールのゴマから一時退避し たが、難民がゴマ西方のムグンガ・キャン プから避難しはじめたため、援助に戻った。 その後数日間でルワンダ難民6 0万人が本国 へ帰還するが、旧ルワンダ兵とインテラハ ムウェは西方のザイール奥地へと向かう。1 か月後、タンザニアにいた難民5 0万人の第 1陣が、タンザニア軍の支援を受けて帰還。 1 9 9 7年3月1 7日 人道機関、ザイールの密林に逃げ込んだ難 民を追跡。難民6万2 0 0 0人の第1陣がティ ンギ・ティンギ・キャンプから飛行機で帰 還。約1 8万5 0 0 0人が同時期に空路と陸路 で帰還するが、何十万人もがアフリカ中部 で依然として行方不明となっている。

大湖地域年表

(9)

難民 1998年 第3号 私の任務では支援する義務があるの です。」 その後、少なくとも外部の世界か らは「忘れられた歳月」が訪れた。 テレビカメラは姿を消し、世界は関 心をもたなくなった。しかしアフリ カ中部に訪れた静けさは、うわべだ けだった。当時のU N H C Rゴマ事務 所のジョエル・ブトルー所長による と、膠着状態をやぶって難民たちを 故郷に帰還させる努力は徐々に緊 急性を増し、最終的には必死で取り 組まれるようになった。 ブトルー所長によると、おもだっ た関係者の間では、当初、難民たち を平和的に帰還させるのがなにより 最高の解決策である、との合意があ った。しかし、それに続く合意はほ とんどなかった。まだ傷あと深い国 への早期帰還はなされるべきなの か。1 0 0万人以上の帰還民を受け入れ る環境がルワンダ国内で整うまで、 帰還は遅らせるべきなのか。帰還さ せるなら、一斉帰還にすべきなのか、 段階的帰還にすべきなのか。 他の選択肢についても検討が重ね られた。どうすれば罪のない難民た ちを殺人犯たちから引きはなし、ど うすればキャンプを国境からもっと 内側の土地に動かせるか。最終的には、 ほとんど実現不可能な方法まで議論の 対象となり、難民の帰還を「奨励する」 ために援助を減らしたり、一斉帰還をス タートさせる試みとして限定的な強制 送還をやってみては、との案については 激論が交わされた。 しかしどれも実現にはいたらなかっ た。「(各国政府や機関などの)国際的な 行動主体間の利害の衝突、関心の低さ、 国内の反対などがあいまって、アフリカ 中部地域への国際社会の対応は情けな いものとなった」とブトルーは、当時の 出来事をまとめた最近の研究で結論づ けている。

9

ん立てをしてしまったことになる。 その一方で、先に紹介したベナコ・ キャンプの暴動では、組織的なギャン グや殺し屋に対して、非武装の援助活 動者たちがいかに無力か思い知らされ た。しかしU N H C Rのフィールド職員も 手をこまねいていたわけではなく、記 者会見や公式報告書で、民兵たちがキ ャンプを仕切っている状況を強く訴え、 国際的な支援を求めた。 緒方貞子・国連難民高等弁務官は、 最近のあるインタビューでこう語って いる。「私たちは各国政府に繰り返し支 援を求めています。ブトロス・ガリ国連 事務総長は、4 0∼5 0か国に国際休戦監 視員への協力を求めました。けれども 前向きな回答を得られたのは、わずか 一か国だけでした」。結局U N H C Rは、 ザイールのエリート部隊をやとい、表面 的には秩序を守らせた。理想的とはい えなかったが、活動を続けるために誰 もが歓迎した。 U N H C Rはキャンプから撤退してしま えばよかったのに、なぜそうしなかっ たのか、との質問に対して、緒方高等弁 務官はこう答えている。「キャンプには 罪のない難民もいました。その半分以上 が女性と子供です。『殺人に関係してい ましたね。あなたも有罪ですよ』と言う べきでしょうか。民間団体とちがって、 混乱の中の尊厳:キサンガニの難民。

(10)

|

C O V E R S T O R Y

|

援助活動者たちは段々 と孤立感を強め、国際社 会に見捨てられたような 気持ちになった。彼らの 活動はボスニアのときと 同じように、軍事的・政 治的行動を起こさないこ とへの言い訳になってし まったのである。 ブトルーは、U N H C R独自の役割も、 難民の「帰還に関する明確な方針を維 持できなかった」ため損なわれてしま ったと考えている。 緒方高等弁務官は、様々なジレンマ を説明するなかで、U N H C Rは当時、も っと強硬な態度をとれたはずだと述べ ている。「世論は私たちが板ばさみの状 況に陥っていることに、あまり関心を 示しませんでした。一部の援助機関が 撤退するとき、世界が(事態の深刻さに) 気づいてくれることを願っていました が、そうした事態も起きませんでした」 と言う。「おそらく私た ちは、政府に圧力をくわ えるために、もっと世論 を味方につけるべきだっ たのでしょう。当時の大 国の間に少しでも合意が あれば、政治的解決の 枠組みだけでもできたか もしれません。実際には そういったものは、まったく生まれませ んでした。」 難民問題に関して何らかの進展があ ったとすれば、政治的・軍事的な状況 の悪化だ。ルワンダへの奇襲攻撃が増 え、アフリカ中部では不穏な空気が広 がりはじめたのである。

終わりのはじまり

1 9 9 6年1 0月、当初は地域的なものと思 われた暴動がザイール東部の南キブ地 方で起きた。当時政権を握っていたモブ ツ大統領は、過去にも同じような抗争 を数多く乗り越えてきた。しかし今回 は、同大統領の勢いが失われつつあっ た時期なだけに致命的な打撃となっ た。反対勢力はまず、ザイール東部の山 腹にクモの巣状に広がっていた難民キ ャンプを標的にした。戦闘は、この地域 の人道活動の連絡拠点となっていたゴ マの町にも拡大したため、U N H C Rをは じめとする援助機関は職員を一時的に 退避させた。何十万人もの難民も散り 散りになった。この地域ではおぞまし い事態も日常茶飯事になっていたが、 さらに背筋の凍るような事件がおきる 条件が整いつつあったのである。 多くの難民は、ゴマの西にあるムグ ンガ・キャンプ周辺に無理やり連れて 行かれた。しかしその後、彼らの消息は 数週間も途絶えてしまった。ふたたび アフリカ中部に世界の注目が集まると、 西側諸国の政府高官のもとには、無数 の死体が大地を覆っているという情報 が伝わってきた。さらにイギリスの国

難民たちが最近経験

してきた苦難にくら

べれば、驚くほど良

好な状況にあること

がすぐにわかった。

シーザー・ツィロンボは以前にも戦争を体験し ている。しかし、危険な生活を経験していても、 1 9 9 6年に紛争がザイール東部全体に広がったと き、十分な心の準備があったわけではなかった。 「もう戦争を2度くぐりぬけていましたから、 恐怖は感じませんでした」とU N H C Rの無線技術 者として勤めていたゴマの陥落を思い出しながら、 ツィロンボは語った。「でも、子どもたちのことが 心配でした。それから、実際にもっと危険にさら されている人たち、たとえば運転手などが心配で した。」 反政府軍がゴマへ侵攻するなか、現地職員が確 実に給与の前払いを受けられるように、ツィロン ボは最後の瞬間まで働きつづけた。正午にあわて て家へ戻ると、すでに町には砲弾が降っていた。 人道機関の無線通信を聞いているうちに、外国人 職員が町から避難する準備をしていることがわか った。ツィロンボは苦悩に満ちた瞬間に直面した。 最近、国際組織の現地職員は、こうした場面をよ く経験するようになった──現地の治安が悪化し て外国人職員が撤退し、後に残された現地職員は 不安定な将来に放り出される。複雑な心境だった。 「外国人の撤退準備の通信を聞いていました」とツ ィロンボ。「彼らは特に標的にされていたのですか ら、撤退は当り前のことだったんですよ。」 危険にさらされる現地職員 現地職員は人道援助活動の支えだ。危険な状況 にあって、彼らは賞賛されることもあまりなく、 忘れられてしまうことさえある英雄たちだ。この 仕事にはたしかに魅力もある。給与は現地の水準 より高いし、人道援助活動は聞こえもよく、危機 にある地で得られる唯一の職であることも多い。 しかし職員は、しばしば命を落とす危険にさらさ れている。 1 9 9 6年の内乱中、外国人職員がゴマからケニ アへ向かって東へ逃げたとき、ツィロンボと妻の アイメランス、5人の子どもたちは戦いから逃れ ようと西へ4 0キロ進んだ。その途中、ツィロンボ

賞賛されることなき英雄たち

現地職員は、新たな危機に真っ先に飛び込んでいき、最後までとどまることが多い。 なくてはならない存在であり、命を危険にさらすことも頻繁にある。しかし、彼らの 活躍ぶりが賞賛されることはほとんどない。 ルイス・ムサフィリ(左)は、帰還難民の援助中 に事故で死亡した。

(11)

ゴマのムグンガ・キャンプでコレラ患者の手当てをする医師たち。

11

営放送B B Cは、秘密裏に大虐殺が行な われたと報じた。 国連加盟国は、難民救援のために多 国籍軍を派遣することで原則合意した が、この地域に関する多くの計画がそ うであったように、結局なにも実施さ れなかった。1 9 9 6年1 1月、反政府勢力が とうとうムグンガを制圧すると、数十 万人がルワンダに帰ろうと東部に移動 した。しかし大規模な死者は出ておら ず、難民たちは最近の苦難にくらべれ ば驚くほど良好な状況にあることがわ かった。 各国政府と援助機関は、当初これらの 難民のルワンダ帰還にあまり手を貸し ておらず、洪水のような勢いの人々の 流れを、ただ見つめているだけだった。 一方、大虐殺に加担した人々の大部 分と、その家族と支援者を含む数万人は、 大勢とは反対の西に向かい、アフリカの ジャングルの奥深くへと逃げ込んでい った。数週間にわたり、地球上でもっと も荒れ果てた場所のひとつで、フツ系住 民、撤退するザイール政府軍、反政府勢 力、援助機関が追跡劇を展開した。

大虐殺のはじまり

ムグンガ陥落とともに、大虐殺の傷あ とがみえてきた。ムグンガに入った援 助職員たちは、古ぼけた小屋のなかで 無数の死体の山をみつけた。それから 数週間、残虐行為の報告数はどんどん 増えていった。 援助職員たちは、苦労して丘を越え、 ジャングルを抜けて進んでいくなかで、 自分たちが意図せず残忍な殺人ゲーム の共犯者になってしまっているのに気 づくことも多かった。食糧をくれると いう約束を信じて森を出てきた難民た ちを、銃をもった男たちが連れ去って、 殺してしまうということもあった。 難民 1998年 第3号 が目にした暴力は、若い頃に目撃し、自分の家族 には決して経験させたくないと思ったようなもの だった。「サケという町で恐ろしい光景を見まし た 」とツィロンボ。「ですが、近くのムグンガ(難 民キャンプ)で見たのは、本当にひどかった」。 何千何万という難民が数週間ムグンガで足止め を食い、物理的にひどい状況におかれ、肉体的苦 痛をこうむった。1 9 9 6年終わり近くに、難民た ちは四方八方へ散らばっていった。 その後、ツィロンボや他の現地職員、戻ってき た外国人職員は、アフリカ中部の熱帯雨林を分け 入って何万人もの難民を追跡した。彼らは、何か 月ものあいだ、暴力と大勢の人間の苦しみととも に暮らし続けたのだ。 1 9 9 6年3月、U N H C Rの中心的な職員で人望 の篤かったルイ・ムサフィリは、車で近くの飛行 場まで難民の一団を連れていく途中、交通事故に あい、そのときの怪我が原因で命を落とした。「ル イは仕事を離れても友だちだったし、尊敬してい ました」とツィロンボは語る。「ルイには、ある資 質がありました。それは、人道機関で働く人々に 備わっていると私がいつも感じていたものです。」 ルイ・ムサフィリは、アフリカ大湖地域の危機 で殺されたり、殉職したり、行方不明になった3 6 人のU N H C R職員の一人だ。他にも多くの人々が 負傷したり、暴力を受けたり、脅迫された。 ツィロンボは今もU N H C Rの仕事を続け、コン ゴ民主共和国(旧ザイールの現在の名称)の首都 キンシャサにあるU N H C R事務所で働いている。 一方、彼の妻は、何百キロも離れたゴマで暮らし続 けている。外国人であれ現地人であれ、フィール ド職員の仕事は、いつも危険と隣り合わせだ。憂 うべきことだが、この傾向は、近年ますます顕著に なっている。大湖地域の危機では、こうした傾向が ますます助長された。外国人は極端に危険が高ま ったら国外に退避できるが、国連の規則には、その 場に家族がいたり、家があったり、生活の根がある 現地職員についての規定はほとんどない。 アフリカ中部での事件をきっかけに、人道援助 職員すべての安全確保が、今後の長期的な課題と なるだろう。 ピーター・ケスラー

(12)

|

C O V E R S T O R Y

|

大虐殺は、フィールド職員たちにもっ とも苦しいジレンマを突きつけた。見て きたことをすべて「公表する」か、援助 職員の安全と現在も生きている難民を 救う努力を無にしないために口を閉ざ すべきか――。 「私にとって、あれはまさに最悪のと きでした」と言うのは、ザイールのキサ ンガニ(ゴマにかわって援助活動の新 たな拠点になっていた)で活動してい たフィリッポ・グランディだ。「私たち は慎重に現実に対応しようとしました。 いま思えば、もう少し声を大にできた かもしれません。しかし当時は、本当に どうにもならなかったのです。」 キサンガニ周辺から数万人を避難さ せる計画が、U N H C Rを中心にすすめら れる一方で、生き残った難民と援助職 員のおかれた状況は、かつてのゴマや ブカブと同じくらい悲惨になっていた。 「私はジュネーブにいる高等弁 務官に直接電話しました。そんな ことをしたのは1 0年ぶりでした」 とグランディ。「難民と援助職員 は恐ろしい状況に置かれていま す。われわれは撤退すべきでしょ うか、と私は高等弁務官に尋ねま した。議論をかさねた結果、私た ちはとどまることで合意しまし た。撤退すれば(事態の深刻さを 世界に示す)大きなサインを送れ たかもしれません。しかし私たち が撤退すれば、もっと多くの人た ちを死に追いやることになったで しょう。」 U N H C R緊急チームのリーダー、 キリアン・クラインシュミット は、キサンガニは生き地獄だった と振り返る。映画『インディ・ジ ョーンズ』よりもっとひどい状況 で、虐殺と静けさが交互に訪れる、 妙に現実ばなれした悪夢のようだ ったという。しかしこの恐怖にも かかわらず、また、もう難民は残 っていないという複数政府の主張 にもかかわらず、1 9 9 7年には1 8万 5 0 0 0人以上のルワンダ難民がジャ ングルのなかで発見された。そし て推定6万2 0 0 0人が、アフリカで 史上最大規模の空輸作戦によって 故郷に帰った。しかしまだ大勢の 難民がいくつかの国に残っている し、計算に入れられていない難民 も数万人いるだろう。 ザイール東部にはじまりタンザニア に 飛 び 火 し た こ の 危 機 を 通 じ て 、 U N H C Rは根本的な問題に直面した。ど のような状況下でルワンダ難民を帰還 させればいいのか。帰還は「自発的」 であるのが原則だが、そのためにはあ る程度の法と秩序、そして庇護国の協 力が必要だ。 これらの要素はどれも、アフリカ中 部では暑さと混乱のなかで忘れ去られ 帰還するルワンダ難民。1996年、タンザニアから。

(13)

難民 1998年 第3号

13

|

C O V E R S T O R Y

|

てしまい、ほとんどの難民は究極の選 択に直面している。ジャングルのなか でほぼ間違いなく死んでいくか、不安 定な未来が待っているのは確実だが、 U N H C Rなど援助機関の支援を受けてや むなく帰還するか。 多くのフィールド職員は、帰還とい

病気と死の悪臭が私たちを包み込んだ

ダイアン・スチュワートは、難民たちが古い列車に乗って、キサンガニ近くの 熱帯雨林の恐怖から逃れる手伝いをした。 う言葉を使うことをきらい、より正確 な「避難」という言葉を好んで使う。 間違いを犯し、ジレンマと格闘して も、十分な解決がなされたことはほと んどなかった。数万人が命を落とした が、数十万人が助かった。アフリカ中 部の危機にたずさわった人々はみな、 傷を負った。それは「不可能な任務」 だったのだが、その援助努力について キリアン・クラインシュミットは、「人 道援助機関として、人間として、他に どうすることが出来たのか今でも分か りません」と語っている。 めていたのです。 毎日キャンプに車 で行くと、まず目に入 るのは、死体がつめら れた袋の山でした。赤 十字の作業班が、前の 晩に死んだ人たちを 朝早くから集めて、き ちんと積み上げてい るのです。この山の数 と大きさで、一日のム ードが決まりました。 私が担当していたの は、壊れかけた蒸気機 関で引っ張る家畜用 貨車「トレイン」です。 錆びたワイヤをよじ って、あちこちをつなぎとめてあり ました。5月に一度、満員列車の中 で1 0 0人以上の難民が窒息死したこ と が あ り ま す 。 そ れ 以 来 、 毎 回 U N H C Rと赤十字の職員が同乗する ようになりました。乗車する場所は キャンプの端で、そこにたどりつく のも一苦労でした。 道路は、周囲の森の中に入り込ん でいて、絶え間なくトラックが行き 来するのと雨とで、ほとんどぐしゃ ぐしゃになっていました。そこを通 ると堀っ立て小屋に詰め込まれて、 疲れ切って、傷つき、飢えで死にか けた難民たちの不幸と絶望が、ひし ひしと感じられました。 私たちは、その日避難させる人た ちを整列させて、すぐに仕事にとり かかりました。キサンガニから貨車 が何台くるのか、いつもわかりませ んでした。しかし、何台だろうと、 人々を列車から離れさせるのには、 いつも苦労しました。 みんなおびえていました。密林か ら離れたがっていたのです。そして、 ほとんど毎日のように、列車がいっ ぱいになった後も、誰かがお願いだ から最後に自分を乗せてくれと、ひ ざまずいてすがるのです。 難民たちは、やせ細って、皮膚は骨 に張られた紙のようにたるみ、足首 は森を抜けて逃亡してきたときに負 った刀傷で血がにじみ出ていたりし ました。こんな人たちを目の前にし て、どうすればいいのでしょう? 列車に人々を乗せるのは複雑な手 続きがあり、時間がかかりました。 大人の男性や女性を私一人で貨車に 乗せることもよくありました。まる で、羽毛のように軽かったんです。 キサンガニへの旅 キサンガニまでの道のりは、たま に、現地住民が石を投げつけるくら いで、たいてい何事もおこりません でした。 一度、列車から顔を出していた少 年がタケにぶつかり大ケガをしたこ とがあります。顔を縫い合せている あいだ、彼は、手首と唯一の所持品を 結んでいる細いヒモをずっとひっぱ っていました。それは、きれいに包ま れた聖書でした。こんな目にあって も、まだ何かを信じられるなんて、 私は驚きました。後で彼がトランジ ット・センターを出ていくのを見ま した。きちんと包帯で手当てされて いましたが、顔は無表情のままでし た。 彼は何を思っていたのでしょうね。 よく想像してみるんですよ。 私がキャンプにいるあいだに、お よそ1万7 0 0 0人の難民を列車で移 送しました。とても小さな赤ん坊が 一人死んで、二人誕生しました。最後 のほうには、難民、特に子どもたちに 歌を歌わせることができたんですが、 本当に奇妙な光景でした。不幸の列 車が森を走り抜けるなか、貨車から はとても美しいコーラスが流れてく るんですから。ルワンダの状況につ いて難民から質問されても、私には あまり答えられませんでした。でも、 ほとんどの人が故郷へ帰ることを受 け入れていました。 避難は終わりました。誰もいなく なってしまうと、ビアロは気味の悪 い場所でした。地元の村人が掃除を すると、たちまちもとのジャングル が場所を占領し始めました。すぐに、 墓石も覆われてしまい、この場所で おきた人間の悲しい歴史の跡は、ほ とんど消え去ってしまうでしょう。 難民の赤ちゃんを避難させるダイアン・スチュアート。 ビアロの悪臭 ビアロが見えるずっと前から、ま ず、その悪臭がただよってきました。 キサンガニからビアロのキャンプ までは3時間かかりました。老朽化し たフェリーで川を渡るのに1時間、 それから舗装されていないデコボコ 道を2時間です。 キャンプに向かう最後のカーブを 曲がる前に、何千もの調理用の火か らのぼる煙に混ざって、病気と死の 悪臭が私たちを包みこみました。う っそうとした熱帯雨林が、ビアロの 暑さと恐怖のなかに何もかも閉じ込

(14)

1 9 9 5年、銃をもった正体不明の男たち がブルンジ北部の難民キャンプを襲う と、恐怖に脅えた5万人のルワンダ難民 とブルンジの地元住民が、隣国タンザ ニアに逃げ出した。 そこで彼らは、これまでなら考えら れない対応を受けた。タンザニア政府 は軍を配備して国境を閉鎖し、難民た ちに事実上の「締め出し」を宣告したの である。タンザニアにはすでに5 0万人 以上の難民がおり、難民受け入れはも うたくさんだった。「庇護疲れ」を起こ していたのだ。 この動きに、人道活動の世界は慌てふ ためいた。それまでのタンザニアは、経 済的には世界有数の最貧国でも、抑圧 された人々への寛容さでは世界中の賞 賛を浴びていた。1 9 8 3年には当時のニ エレレ大統領が、タンザニアの素晴らし い功績によりU N H C Rのナンセン・メダ ルを受賞。授賞式では、半永久的に国 外での生活を強いられている難民すべ てに、タンザニアの市民権と土地を付 与すると発表した。その恩恵を受けた 人は、数万人にのぼる。 独立後のタンザニアの庇護政策は、 南アフリカの黒人解放運動支持、アフ リカ大陸の結束、ウジャマー村(ニエレ レ大統領が導入した共同体組織の村) や自助努力といったタンザニア独自の 政策など、国内外の要因に大きく影響 されてきた。こうしてタンザニアは、 純粋に人道的な理由からブルンジ難民 やルワンダ難民を受け入れる一方で、 解放闘争の戦乱を逃れてきた人々も、 政治的連帯への配慮から受け入れてき たのである。

寛容といらだち

アフリカ南部の解放闘争とモザンビ ークの内戦が終結すると、これらの地域 からきていた難民たちは帰還し、タン ザニアは自分たちの寛容な対応が報わ れたことを実感した。ところがルワン ダとブルンジの場合は内戦がなかなか 解決せず、新たな難民が次つぎとやっ てきた。その危機には終わりがないか のようにみえ、タンザニアは段々とい らだちをつのらせていった。 「ウジャマー村」も当初、難民たちに アフリカ古来からの寛容性をみせた。 タンザニアは難民たちに安全な避難場 所を与えただけでなく、人間としてふ さわしい生活環境を用意した。U N H C R の職員であるイェフィメ・ザルジェフ スキは、著書『Preserved Future』でウ ジャマー村のことを次のように書いて いる。「国の主要な富は、人民にあると いう信念が……難民受け入れにつなが り……国民に対するのと同じ努力を難 民にも注ぐようになった」。この政策は、 ニエレレのナンセン・メダル受賞によ って頂点をきわめた。 しかし1 9 9 0年代に入ると変化がみえ はじめた。複数政党制、市場経済、より 自由な報道が、ウジャマーと一党制に とってかわった。政治指導者たちと野 党グループは、タンザニアの開放的な難

|

T A N Z A N I A

|

「寛容なタンザニア」の変化

数十年にわたり、タンザニアはアフリカ全土から難民を暖かく迎えてき

た。しかしアフリカ大湖地域の危機は、タンザニア政府に庇護政策の見

直しを強いることになった。

初期のモザンビーク難民キャンプ。1968年。 オーガスティン・マヒガ タ ン ザ ニ ア

(15)

15

民政策にも批判の矛先 を向けるようになった のである。地価も高騰 した。 そうしたなかで、1 9 9 4 年、推定5 0万人のルワ ンダ難民が大虐殺を逃 れてタンザニア国境に 押し寄せてきたのであ る。その数にタンザニ アは圧倒された。難民のなかには、犯 罪者、殺人犯、元ルワンダ兵の疑いのあ る者がまぎれこんでいた。難民キャン プと周辺地域の法と秩序は、いちじる しく悪化していった。地元住民と難民 の割合は1対3になった。広大な森の大 部分、それに川や耕地が破壊されてい くにしたがい、地元住民の難民をみる 目は厳しくなっていった。 ルワンダ難民の到着と、政治、経済、 社会の変化が、タンザニアの庇護政策全 般を変える引き金となった。1 9 9 5年の国 境閉鎖は、この方針転換をもっともはっ きりと示す事件となった。 タンザニアのムワンブルクツ内務省 次官は、9 6年のスピーチで、新たな対応 策を明らかにした。「タンザニアのよう な国にとって、難民の庇護はこれまでに なく重荷となり、より大きな痛みを伴う ようになった。難民の保護と援助は、国 家安全保障に新たな危険をもたらし、 国家間の緊張を高め、環境に多大なダ メージを与えている……。」 同次官は、難民問題をめぐってタンザ ニア・ブルンジ間で緊張が高まってい るとし、タンザニア政府はザイール東部 のように、難民の存在により安全が脅か されてはならないと主張した。国内で は、難民が急増したため国民が落ち着 きを失っており、「怒った地元市民が難 民に敵意をいだき、地元への定着という 解決策に反対することもありうる」と語 った。 こうした政策声明では、タンザニアが あきらかに「庇護疲れ」に陥っている ことが示される一方で、 引き続き人道的な義務を 尊重することも強調され てきた。タンザニアは、 現在も約3 3万人の難民を 庇護している。これはア フリカ東部の国の難民受 け入れ数としては最大だ。 庇護を支え、難民庇護 によるダメージを回復す る資源が不足しているからといって、 国家の責任が軽くなるわけではない。 国際社会は難民が生まれる根本的な原 因を解決するにあたり、地域諸国にもっ と関わっていくべきだろう(それが国 内紛争の解決努力を含む場合でも、で ある)。 難民受け入れによってダメージを受 けた地域や人々に資源を提供するとい うU N H C Rの方針は、新たな難民流入が 始まった時点から、あらゆる援助計画の 重要部分となされるべきであろう。その ためにタンザニアに費やされた資金は、 計7 0 0万ドルにのぼった。U N H C Rはまた、 拡大する人道援助計画のために二国間 援助を奨励している。 人道原則が、しかるべき国益と一致し ているのを示すことは重要である。そ のためには、政府と人道機関が、資源 提供という問題を越えて定期的な協議 をもつことも必要となる。 タンザニアのような国の民主化は、 庇護も含めたあらゆる人権を制度化す るチャンスになるはずだ。しかし注意し なければいけないのは、ムワンブルクツ 次官が示した懸念は、大規模な難民を庇 護している開発途上国なら、どんな国 でもまったく同じ言葉で表明する可能 性があったことだろう。それは難民庇 護のルールが変わり、安易な選択肢は 残っていないことを示す国際社会への 警告なのである。 オーガスティン・マヒガ U N H C Rジュネーブ本部アフリカ大湖地域室次長

|

T A N Z A N I A

|

ルワンダ難民の流入は、

すでにタンザニアでおき

ていた新しい政治的潮流

と時を同じくして起こり

…タンザニアの庇護政策

全体に変化をもたらした。

難民 1998年 第3号

(16)

ムブジマイ

キクウィ

ボエンデ

ムバンダカ

インプフォンド

Kinshasa

バンギ

ンドジュンドゥ

ルコレーラ

ティンギ・ティンギ

カナンガ

カパンガ

キンドゥー

キサンガニ

©S. SALGADO

6

UNHCRはアフ リカ史で最大規 模の人道空輸作戦を 組織化した。密林か ら助け出された合計 18万5000人のうち、 6万人以上が飛行機 で帰還した。 UNHCR / R. CHALASANI

7

難民はすべて去った。ほんの数日前まで何十 万もの難民が暮らしていたムグンガ・キャン プ。 ム グ ン ガ UNHCR / H. J. DA VIES キ サ ン ガ ニ

5

熱帯雨林で命を落とした人の数はは かり知れない。ザイールのキサンガ ニ地域にたどり着けた者も瀕死の状態だ った。 ゴ マ

4

多くの子どもたち が、脱出時に親と はぐれた。ゴマ近郊の ムグンガ・キャンプで 将来への不安を抱える 保護者のいない子ど も。 UNHCR / M. BÜHRER

6

5

16

1 9 9 4 年 ∼ 9 7 年 の 危 機

ゴマ地域で起きた危機に、国際ゴ マ 社会は最初の数週間で20億ドル 以上を使った。 ■ル ワ ン ダ 集団虐殺の後、200万人以上がル ワンダから周辺諸国へ避難した。

中央アフリカ共和国

コンゴ民主共和国

(旧ザイール)

コンゴ

キ サ ン ガ ニ

(17)

ゴマ

キガリ

ブジュンブラ

シャブンダ

ブカブ

フィジ

ウビラ

カレミ

3

数か月後、100万 を超える人々が ザイールにあふれ、び っしりとテントが立 ち並ぶ巨大なキャン プに住み着いた。ザ イール南部のキブ地 方、ブカブ近郊にある 典型的なテント村。

17

凡例

主な町と難民センター 9697年の主な難民の動き 9697年の空路によるルワンダ難民の帰還 国境

2

タンザニアでは、一夜のうちに大規模な 難民キャンプが出現した。ンガラのベナ コ・キャンプで、食糧倉庫を建てる援助職員。 タ ン ザ ニ ア タ ン ザ ニ ア

1

アフリカ現代史上最も大規模で急速な脱出。1994 年はじめに、ルワンダ難民の第一陣約50万人がタ ンザニアに到着した。最終的には、200万人以上が殺り くを逃れて周辺諸国へ避難した。 UNHCR / P . MOUMTZIS UNHCR / B. PRESS UNHCR / M. BÜHRER

1

2

3

4

7

■ゴ マ 初期だけで少なくとも5万人以上 がコレラなどの病気で死亡した。 ■ザ イ ー ル 1996年11月、何十万人もがまず ザイールから、次にタンザニアか らルワンダへ帰還した。 ■ザ イ ー ル 多くの人々がアフリカ中部の密林の奥深 くへ向かったが、数え切れない人々が殺 されたり、病気で命を落とした。 ■ル ワ ン ダ 約18万5000人が森から助け出さ れ、その多くが大規模な人道空輸作 戦で帰還した。

スーダン

ウガンダ

ルワンダ

ブルンジ

タンザニア

ザ イ ー ル

(18)

難民数十万人が帰還し、ルワンダでは再建に向けた作業が始まる。

|

R W A N D A

|

帰郷……不安定な未来を覚悟して

ルワンダ難民の大規模な帰還がはじまると、難民流出のときと同じくらいの混乱がおきた。

参照

関連したドキュメント

ピンクシャツの男性も、 「一人暮らしがしたい」 「海 外旅行に行きたい」という話が出てきたときに、

キャンパスの軸線とな るよう設計した。時計台 は永きにわたり図書館 として使 用され、学 生 の勉学の場となってい たが、9 7 年の新 大

❸今年も『エコノフォーラム 21』第 23 号が発行されました。つまり 23 年 間の長きにわって、みなさん方の多く

人間は科学技術を発達させ、より大きな力を獲得してきました。しかし、現代の科学技術によっても、自然の世界は人間にとって未知なことが

 ・ ナンバープレートを破損、紛失したとき   ・ 住所、氏名、定置場等に変更があったとき  ・

年間寄付額は 1844 万円になった(前期 1231 万円) 。今期は災害等の臨時の寄付が多かった。本体への寄付よりとち コミへの寄付が 360

 講義後の時点において、性感染症に対する知識をもっと早く習得しておきたかったと思うか、その場

 2014年夏にあったイスラエルによるガザへの軍事侵